至高の台無しメディア

4.『デカルトからベイトソンへ』と信心深い仲間たち

『デカルトからベイトソンへ』と信心深い仲間たち

ここはとある山奥にある不思議な学校『ぐーすか』。

『ぐーすか』では愉快な先生たちと生徒たちがいろんなことを学んでいます。

今日は何やら教養のお勉強をするようです。

少しのぞいてみましょう。

 

お前ら殺す

第一声がパワハラ

おはよー、先生!今日もスリムだね♪

お前ってポジティブだな

まだ殺される気分じゃなかったから来てみた

くまー

そこの茶色いヤツ、ちゃんと喋れ、殺すぞ

くまくま

ジョニーはこれしか喋れないんだよ

じゃあお前を殺す

誰でもいいのかよ

 

日本人はなぜ初詣に行くのか

お前ら、今年の初詣は行ったか

なに急に、行ってないけど

ウチは行ったよー!

くまくまー

僕も行った、ジョニーも行ったって言ってる

そろそろ中国株は売り時かな・・・

なんで初詣に行ったか答えろ、豚はなんで行かなかったか答えろ

なんでって言われても・・・行く理由がなかったから
行ったって別に何か得するワケじゃないし

そうか、なんで他のヤツらは何の得もしないのに初詣に行ったんだと思う

さぁ、そういう習慣があるからじゃないの

お前らは今のを聞いてどう思う

間違ってはないけどねー
なんかしっくりこない

くまぁ

豚に真珠、豚には価値が分からないんだよ、うふふ♪

うふふ、じゃねぇ

チッ

 

殺す殺す殺す殺す殺す・・・

 

なに、この気持ち悪い音

 

殺す殺す殺す殺す殺す・・・ ピッ

 

俺の目覚ましだ

どんだけー

今日はこれで終わる

え、またこれで終わり?

もう帰っちゃうのー?さーみーしーいぃー!

ちょっと面白くなりそうかも

くまっ!

次も来い、殺す

セニョール、先生が次殺してくれるって!!
おいしいビーフにしてもらおうね♪

俺は豚だ!

つづく(多分)

 

『デカルトからベイトソンへ』序章より

科学的意識とは、自己を世界から疎外する意識である。(中略)主体と客体とがつねに対立し、自分が自分の経験の外側に置かれる結果、まわりの世界から「私」というものが締め出される。(中略)世界は私の行為とは無関係に成り立ち、私のことなど気にもかけずにめぐり続ける。

モリス・バーマン著『デカルトからベイトソンへ』序章(P13-14)

 

日本人はなぜ初詣に行くのか。

伝統だから?文化だから?風習だから?

そういったものに僕らが感じる「大切さ」とは何なのでしょう?

「私」を締め出した世界とは、「私」を迎え入れる世界でもあるのです。

 

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