ども、杉野です。

先日メルマガで以下のようなクイズを出しました。

 

あなたに自分の子供がいたとして、その子から「ねえねえパパ(ママ)、なんで人を殺しちゃいけないの?」という質問をされたとしましょう。

この質問に対してどう対応するのがベストだと思いますか?

今回は少しだけヒントを出しておきましょう。「真正面から答えたら負け」。これがヒントです。

 

これについての解説が、今回転載する記事です。

読むだけでも勉強になることは約束しますが、自分なりに上記の問いを考えてから読むと、もっと勉強になります。

というワケで、できれば考えてみてから読んでくださいませ。

【関連記事】「なぜ人を殺してはいけないのか」に哲学的に答えよう

 

■3つの一般的な答えに対する反論

「なぜ人を殺してはいけないのか」

僕が考えうるかぎり、この問いに対する一般的な回答は主に

1.法律で禁止されているから
2.誰かが悲しむから
3.自分が殺されたくないから

の3つです。

これらはどれも間違いではないのですが、回答としては不十分と言わざるを得ません。

まず1の「法律で禁止されているから」に対しては「じゃあ法律で禁止されていなければ殺してもいいの?」という反論が可能です。

戦場では他国の人間(軍人)を殺しても法律違反にならないワケですが、そういう場合は人を殺してもいいのでしょうか。

国家が起こした天安門事件のような殺戮は正当化されうることなのでしょうか。

この辺を考え出すと1の回答の正当性はどんどん怪しくなっていきます。

2の「誰かが悲しむから」に対しても1と同じように「じゃあ誰も悲しまなければ殺してもいいの?」という反論が可能です。

身うちのいない、近所付き合いも一切ない一人ぐらしの老人を殺すことは、許されうることなのでしょうか。

孤独なホームレスを集団リンチで殺すことは、何も問題がないのでしょうか。こういう点でこの回答も不十分と言わざるを得ません。

3の「自分が殺されたくないから」にも当然「じゃあ自分が殺されなければ殺してもいいの?」という反論ができてしまいます。

自分が殺されるリスクを負うことなく相手を殺す手段として、われわれは死刑を挙げることができます。

死刑は国家が行うことなので、それが執行されたからといって自分が死の危険にさらされることはありません。

もちろん自分が死刑になる可能性はゼロにはなりませんが、少なくとも誰かが死刑になったということを理由に殺されたりすることはないワケです。

多くの人を殺した大量殺人鬼であっても、殺してはいけないのか。これもまだまだ考える余地がありそうです。

 

■場合によっては人を殺してもいい?

こうして考えると、今回の問いの深さや難しさが見えてきます。

素朴な感覚として、われわれには

「人を殺していいときもあるんじゃないか」

という考えが浮かんできてしまうのです。

しかし、それは決して悪いことではありません。

実際、われわれはそのときの状況によって、平気で人を殺せてしまうし、殺すことが(法的に)正しいことすらあるのですから。

動物愛護団体の人たちだって、自分が野犬に囲まれて死にそうな状況になったら、さすがにその中の1匹や2匹は殺すと思うんです。

それでも殺さないというのは、ある意味でホンモノだと思いますが、べつの意味では自分の命を軽んじる誤った主義であるとも思います。

この茨の道を進むかぎり、われわれが最終的に行き着くのは

「場合による」

という答えです。

言われてみれば当たり前なんだけれども、恐らくほとんどの人はこの答えにすら辿り着かないと思います。なぜなら、そこまで深く考えないからです。

さっき挙げたような戦争や死刑や天安門事件のような例を含めて考えていけば、「場合による」としか答えられないことは誰にだって分かります。

だって「殺してもいい場合」と「殺してはいけない場合」の両方が現実にはあるんだから。

彼らは問いの前提を見抜くことができないため「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いが「正しい問い」だと勝手に思い込んでいます。

しかしわれわれが知っておかなければならないのは、世の中には問いそのものが間違いであったり、無意味であったり、不完全であったりすることが往々にしてあるということです。

 

■間違った問い

「なぜ人を殺してはいけないのか」は不完全な問いです。

現実には殺してもいい、もしくは殺さなければならない場合もあるということを、この問いはカバーしていません。

だから僕は

「真正面から答えたら負け」

というヒントを出したのです。

この問いを真面目に考えたところで、そこから導き出される答えはすべて不完全です。

問いそのものが不完全なんだから当然ですよね。けれども、このことに気付ける人はほとんどいません。

それは彼らがバカだからではなく、われわれは昔からそういう教育を受けてきているということです。

学校で出題される問題を見て「先生、僕らがこの問題を解かなければならない根拠を教えてください」と質問する生徒は1%もいないと思います。

われわれは誰もが問いを解くことだけを教えられますから、問いそのものの意味を考えることなんて普通はできないのです。

だって考えてみてください。自分が出す問題にいちいち「この問いを解くことに何の意味があるんですか?」なんて聞かれたら、正直かなりウザイですよね?

国だって、文科省だって、教育委員会だって、そういう国民が増えるとウザイんですよ、当然。

だから彼らは、彼らが出した問題を素直に解いてくれる国民を作ろうとしているワケです。

その教育をわれわれは十何年も無批判に受けて続けているワケですから、そりゃ誰だって問いを疑う能力なんて身につきません。

愚民化政策というのは、こうやってこっそり行われているのです。

 

■自動的な思い込み

われわれは「正しい問い」と「どうでもいい問い」を見分ける力を身につけなければなりません。

そのためには、自分が問いをどう認識をしているかを自覚しておく必要があります。

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを出された際、われわれは無意識的に自分の中で最も一般的な文脈をその問いにあてはめます。

テレビのニュースでは児童虐待や強盗殺人などがよく報道されていますが、多くの人にとってはそれが殺人における一般的な文脈です。

だから「人を殺す」という言葉を聞くと、われわれは無意識的にそれを犯罪という文脈と結び付けて、悪いことだと判断してしまうのです。

これは行動経済学の実験でも証明されています。

例えばある男性が走っていったあとに警官が彼を追っていったとしましょう。あなたはこれをどう思いますか?

普通、この場面を見たら、先に走っていった男性が何か悪いことをしたのではないかと思うはずです。

しかし、それは本当でしょうか?警官に追われることが、必ずしも悪いことをしたという証拠にはなりません。

もしかしたら彼は警官を事件の現場に先導していたのかもしれないし、彼はその警官の上司で、上司のうしろを警官が走ってついていっただけかもしれません。

にもかかわらず、われわれは男性が警官に追われている場面を見ると、自動的に「あの男性は何か悪いことをしたに違いない」と決めつけてしまうのです。

さっきの話もこれと同じです。

「人を殺す」という言葉だけでは何も判断できないはずなのに、そこに自動的に一般的な文脈があてはめられるから、悪いこととして判断されてしまう。

つまり、この「自動」をなんとかできれば、問いを見分けることができるようになるということす。

 

■インプットと解釈の区別

「自動」は、それを自覚しさえすれば「手動」に切り替えることができます。難しいのは、それを自覚することです。

われわれは長年のしょぼい教育でその能力をことごとく失ってしまっていますから、それを取り戻すには相応の努力が必要になります。

何十年もサボったツケはそれなりに大きいワケです。

とはいえ、訓練そのものはシンプルです。インプットと解釈を別々に行うこれを繰り返すだけです。

今言った「自動」というのは、このインプットと解釈が自動的に同時に行われているということを意味します。

男性が警官に追われているという事実(インプット)と、男性が何か悪いことをしたに違いないという判断(解釈)が同時に起こっている。

これを別々に行う訓練をしてください。

詳しい方法というのは特にありません。最初は事実を事実として認識し、意味はあとで考える。ホントにこれだけです。

以前話した精読はこの訓練に最適ですので、読書のついでにやってみてもいいかもしれません。

最初はかなり意識しないと難しいですが、慣れれば自動的にできるようになります。

いい機会ですので、ぜひ訓練しておいてください。

 

■文脈を見抜く

ちなみに、これができないと本も読めないし、それどころか人の話もまともに理解できません。

なぜなら、本の文脈や会話の文脈も「自動」で設定されてしまっているからです。

相手が意図した文脈とは違う文脈で相手の言葉を解釈してしまうと、当然それは相手の意図とは違う意味で自分に伝わります。

相手の心からの「ありがとう」という言葉さえ、場合によっては自分は皮肉だと受け取ってしまうかもしれません。

「そんなつもりで言ったんじゃない」ということが起こるのは、まさしくお互いにこの能力が欠如していることが原因なのです。

コミュニケーションや文脈については、以前に告知した企画でより深く掘り下げる予定なので、こういうことに興味があるなら参加してもらえればと思いますが、それはともかくとして、この記事で大事なのは問いの前提を、つまり問いの文脈を見抜くということです。

「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問自体は不完全ですが、恐らくその質問をした本人は、その問いに何かしらの文脈を設定しています。

何の脈絡もなしに「なぜ人を殺してはいけないのか」と質問してきたとは考えにくい。

例えば戦争映画を見て、そういう問いが浮かんだとは考えられないでしょうか。

だとしたら、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いはその文脈にあてはめて答えることができます。

つまり「戦争中であっても、人を殺してはいけないのだろうか」という問いに置き換えることができる、ということです。

これなら答える余地があると思いませんか?

価値観によって意見が対立することはあるでしょうが、少なくとも自分なりの意見は提示できる。

このことが問いにおいては何よりも重要なのです。

 

文脈のない問いは、意見すら提示できません。その意見が正しいか間違いか以前に、まともに答えることすらできないのです。

そんな問いに向き合うことほど、バカらしいことはありません。

「じゃあなんでそんなことをさせたんだ」と思うかもしれませんが、その反論は誤りです。

僕が前回のクイズに何と書いたか、もう一度読み直してください。

僕は「なんで人を殺しちゃいけないの?」という質問に答えろとは一言も言っていません。

その質問に対してベストな対応を考えてください、と言ったのです。

ですから、そこには答えないという選択も含まれます。答えてもいいし、答えなくてもいい。

僕がそう言っているにもかかわらず、それを勝手に答えなければならないと解釈してしまうのは、先程話したインプットと解釈を分ける能力が欠けているからです。

僕の書いた文章が読めていないからです。

まずはそのことを自覚しましょう。

われわれはこんなところで立ち止まっている場合ではないのですから。

ありがとうございました。

 

※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。

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