ども、ペスです。

県展に行ったついでに常設展も見てきたので、その辺のことも少し話そうと思います。

ここの常設展は以前「夏休みこども美術館」という企画を僕が大きく評価したことで
記憶にあるかもしれませんが、今回もなかなか見ごたえのある展示でした。

「物質への挑戦」というタイトルからもなんとなく想像がつくように、絵画や彫刻という
よりも、物質(モノ)そのものの在り方に焦点を当てた展示になっており、「もの派」で
お馴染みのリー・ウーファンや「具体」でお馴染みの白髪一雄や元永定正なんかの
作品も展示されています。

その中の1つに西村陽平という現代陶芸家の「時間と記憶」という作品があります。

これは解説を読んで驚いたのですが、雑誌や本を窯で焼き、その後に残った灰
(厳密には灰ではないらしいですが)を瓶につめて展示しているとのこと。

なんというか、ぶっ飛んでますよね、発想が。

瓶には「anan」とか「少年マガジン」とか各雑誌の名前が書かれていて、どの雑誌が
どの灰なのかが分かるようになっています。

出品作品リストの解説には

「知識を伝達する書籍と言えども実はただの物質に過ぎないのだと我々に
再認識させるという、哲学的でコンセプチュアル・アート的な表現を試みています」

と、いかにも崇高な表現かのように書かれていますが、そもそもその「再認識」が
重要かどうかが怪しいところです。

この解説が正しいとすれば、広辞苑は漬物石の代わりになる、
本は薪の代わりになる、というぐらいの意味しかないように思います。

この作品のコンセプト自体は面白いですが、哲学的と言ってしまうのは
どうなのかな、と。

そんなことを感じました。

 

ところで「時間と記憶」というタイトルをあなたはどう思うでしょうか?

意味深だと思いますか?

それとも格好をつけているだけだと思いますか?

「作品を見ていないから分からない」

そう思ったかもしれませんが、ここで考えたいのはそのことについてなのです。

作品とタイトル。

今回はこの2つの関係を考えていきます。

 

一般に、名前には必然性がありません。

例えば僕のハンドルネームは「ペス」ですが、これが仮に「ポチ」とか「タマ」とか
「セバスチャン」だったとしても何も問題はないと思います。

それはその名前が僕を表す記号もしくは目印に過ぎないからです。

大事なのは名前そのものではなく、その名前が何(誰)を指し示しているのか、です。

僕が「ポチ」に改名することに問題はありませんが、僕とはまったく関係のない「ポチ」が
このブログを書くことには大きな問題があります。

このように、同じ「ポチ」でもその名前が何を指し示しているかが大事なワケです。

だとしたら、同じ作品を指し示す限り「時間と記憶」は「ケセラセラ」や「チンパンジー」
という名前でも問題ないということになります。

 

・・・本当にそうでしょうか?

ここでわれわれは大事なことに気付かなければなりません。

名前には「指し示すもの」の他に「込められた意味」があるということです。

僕の「ペス」というハンドルネームには特に意味はありません。

だからこそ「ポチ」や「セバスチャン」に改名しても問題ないワケですが、僕の本名は
親やら親戚やらがそれなりに思い(意味)や願いを込めて付けてくれていますから、
仮に法的に許されたとしても、おいそれと簡単に変えるワケにはいきません。

同様に「時間と記憶」というタイトルにも作家の思い(意味)や願望が込められていると
考えるのが自然です。

「時間と記憶を表現したい!」

「この作品には時間と記憶というタイトルが相応しい!」

こういう気持ちがあったかどうかは知りませんが、タイトルに気持ちが
込められている以上そのタイトルは「ケセラセラ」や「チンパンジー」では
ダメなのです。

この「込められた意味」があって初めて名前やタイトルには必然性が生まれます。

もし「ペス」が凄く可愛がっていた犬の名前で、僕がその思いを込めて「ペス」と
名乗っていたならば、「ポチ」に改名することは許されません。

なぜならその「ペス」は単なる記号ではなく、1つの意味を持った単語だからです。

しかしながら、世の中に名前負けしている人間が大勢いるように、込められた意味と
指し示すものが客観的に一致することはほとんどありません。

「大輝」という人間が必ず大きく輝くワケでもなければ、「翔」という人間が必ずしも
羽ばたくとは限らないワケです。

なんか夢も希望もなくなりそうな悲しいことを言ってしまいましたが、これは事実なので
仕方がありません(笑)

作品もこれと同じです。

作家がタイトルに込めた思いと、実際に作品が表現しているものは、ほとんどの場合、
一致しないのです。

 

「人の名前と違って、作品タイトルは完成後に付けることもあるから、その場合は
一致するんじゃないか」

この疑問は非常にいいところを突いています。

走りの速くなった子に後から「俊也」と名付ければピッタリじゃないか、という発想です。

しかし完成後に考えられたタイトルは、その作品に対する作家的な解釈でしか
ありません。

「この作品に合うタイトルは何だろうか」

そういう思考の結果に得られたものがこの場合のタイトルですから、そのタイトルが
作品が表現しているものと一致していることは無いと考えていいでしょう。

つまり、基本的に作家が付けたタイトルは作品に対して不完全なのです。

 

これを違った視点で考えてみましょう。

タイトルが作家の解釈や願望であるならば、それは作品ではなく、むしろ作家と関係が
深いものだということにならないでしょうか。

われわれはつい作品とタイトルを無意識的に結び付けて考える傾向があります。

「時間と記憶」というタイトルがついていると、その作品のどこかに時間と
記憶の言葉が意味するような要素が盛り込まれているのではないかと思ってしまう。

しかしそれは誤りです。

タイトルは作品に対する作家の解釈や願望なのですから、それは作家の見方や
考え方を端的に表しているにすぎません。

要するに、タイトルを見て分かるのは作品のことではなく、作家のことなのです。

 

「大輝」という名前から親から子への気持ちが読み取れるように、
「時間と記憶」というタイトルからは作家から作品への気持ちが読み取れる。

こう考えると、なんだか少しだけロマンチックな気持ちになりませんか?

仮にタイトルが作品のことを明確に表せていなくても、そんなのは問題では
ありません。

名付けることは、名付けられた方ではなく、名付ける方に意味があるのです。

 

追伸:

この常設展で個人的に気になったのは、マグダレーダ・アパカノヴィッチという人の
「群衆Ⅳ」という作品です。

麻布を固めて作った顔と腕のない人形を30体並べた不気味な作品で、この空間だけが
異様な雰囲気を漂わせています。

楽しさや面白さみたいなものはありませんが、虚無感や恐怖感が心に残る作品でした。