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Tag archives for 関係性

レポート「ブランディングの生態学」
  このたび、半年ほど前に行ったセミナー 「ブランディングの生態学」 のレポートを作ってみました。 なんで?と聞かれると少し困るんですが、 まあ単純に言えば、いろんな人に知って欲しいと 思ったからです。 万人向けに作ったものなので、セミナーよりも内容が ややマイルドになっています。 鋭い内容がお好みなら、ぜひ次回は直接セミナーに ご参加下さいませ(笑) レポート「ブランディングの生態学」 ではでは。 ありがとうございました。 ペス 追記:2011年12月21日 レポートはリンクから削除しました。ご了承下さい。 ...more»
セミナー「ブランディングの生態学」
  久々にセミナーをやることになりました。 その名も【ブランディングの生態学】。 今回もタイトルを読んだだけではなんだかよく分からないと 思いますが、詳しいことはレターに書きましたので、 もし興味があればそちらをご覧ください。 ちなみに、読むだけでもそれなりに勉強になると思います。 セミナーの詳細はこちら で、セミナーに申し込みたくなっちゃった場合は このフォーム(SSL暗号化対応) から申し込んで下さいませー。 今回はこれだけでございます。 ではでは。 ありがとうございました! 追記 レターのリンク切れ指摘があったので直しました。 ...more»
名前論(後編)
ども、ペスです。 いよいよ(?)名前論も最後の回となりました。 ダラダラと無駄に長い前置きを書いてやろうかと 思ったのですが、まったく面白い文章が思い浮かばないので、 さっさと本編に入っちゃいます。 えー、予告通り、今回は前回書いた素朴な疑問の前者を 考えていきます。 その疑問というのは 世の中には「ジョン」という名前の人間が複数いるにも関わらず、 僕らはどうやってそれらを使い分けているのでしょうか? 僕のハンドルネームは【ペス】ですが、リップスライムにも ペスという人がいるし、ネット上には僕以外にもハンドルネーム としてペスを名乗っている人はたくさんいます。 にも拘らず、このブログを読んでいるあなたは意識するまでもなく 【ペス】が僕を指すことを知っている。 これは一体なぜなんでしょう? というもの。 もはや当たり前過ぎて考える気にすらならないかもしれませんが、 こんな高度なことを当たり前に出来る凄さというのを今一度 確認してみて欲しいんです。 だってよく考えてみて下さい。 コンピュータにこれと同じことをさせようと思ったら、 どれだけプログラムが複雑になることか。 顔写真とか声とか指紋とか特定の情報があればコンピュータも 一瞬で個人を判別できますが、ある文章に書かれている「ペス」が どこの「ペス」なのかを判別するのは、僕らが思っている以上に 複雑な処理を必要とします。 例えば、「ジェフ」と呼ばれたら動く、ある賢いロボットが 複数台いたとします。 少し前に流行った(?)アイボとかがそーゆーやつですが、 この手のロボットは「ジェフ」という名前には反応できても その「ジェフ」が自分に言われているのか自分以外に 言われているのかが判断できません。 もしかしたら顔の向きで判断できる更に賢いロボットも いるのかもしれませんが、それでも後ろ向きで「ジェフ」と 呼ばれれば、自分のことかどうかは分からない。 つまり、そのロボット達は前後の会話の流れ等から 「ジェフ」という名前に対する文脈を読むことが 出来ないのです。 これが人間であれば、さっき発した「ジェフ」と 今発した「ジェフ」が違うということを当たり前のように 区別することが出来ます。 (もちろん人間も時には間違います) 要するに、そんな複雑な処理を僕らはどうやって当たり前に 行っているのか、ということをここでは考えていきたいワケです。 ではまず、一休さんの話を例に考えてみましょう。 「このはし、わたるべからず」 一休さんはこの張り紙を見て橋の真ん中を堂々と渡った、 という話は有名だと思いますが、ここに今回の疑問を 考える大切なヒントが隠されています。 ご存知のように、日本語で【はし】と言えば、 【橋】と【箸】と【端】の3つが代表的です。 しかしながら、この3つは発音では区別されません。 つまり、漢字で表されていなければ、文脈からしか 意味を捉えることが出来ない、ということです。 「【はし】でご飯を食べる」 と書かれていれば、文脈上この【はし】は【箸】 だということが分かりそうに思いますが、 果たしてそれは本当に【箸】なんでしょうか? 例えば教室の端でご飯を食べるのが好きな人がいて その人が【端】でご飯を食べている、なんてことも ありえない話ではないですよね? はたまた【橋】(の上)でご飯を食べている人も いないとは言い切れない。 むしろ「【箸】でご飯を食べる」なんていう 自明なことをわざわざ言葉に出す人が現実にいるのか、 という逆説的なことも考えられます。 ということは「【はし】でご飯を食べる」という文章だけでは その【はし】が何を示すのか文脈が十分に読み取れない、 ということです。 じゃあ、そもそも文脈とは何なのか。 それは、発言者(発信者)の【イマ・ココ】である、 と僕は考えています。 【イマ・ココ】とは、この言葉の通り「その時その場所」 という意味です。 これは別に難しいことを言っているワケではありません。 僕が言っているのはめちゃくちゃ当たり前のことで 「【はし】でご飯を食べる」という文脈は 「【はし】でご飯を食べる」と言った本人が 置かれた状況、その時その場所によってしか判断出来ない、 ってことを言っているだけです。 本人は「いつ」「どこで」「何を考えて」それを言ったのか。 それによって【はし】は【端】にも【箸】にも【箸】にも 成り得るし、【ペス】は僕にも僕以外にも成り得ます。 ってことはですよ? 【はし】1つ判断するのにも、その発言者の【イマ・ココ】、 つまり心理や歴史(背景)、環境、時間、そういった目に見えない 数多くの情報を処理しないといけないワケです。 そこには時系列的な前後の関係性も関わってくるし、 その場にいる人との関係性、その人の自己内における関係性、 という複雑な情報も関わってきます。 これを俗に【察する】というワケですが、これがどれだけ 凄いことなのかは、最初に出した例を参考に考えてみて 下さいませ。 さて。 今頃は、なんだか分かったような分からないような 変な気持ちでいることと思います。 急に【イマ・ココ】なんていう変な言葉を持ち出されも ワケが分からないだろうし、そもそもこの記事自体が 何を言いたいのか分からない、という非常事態も 起こっていることでしょう(笑) まあそれも無理はありません。 存在論と関係性、正確にはハイデガーとソシュールと ベイトソンとギブソンの議論を絡めて話しているんだから そうなるのも当然のことです。 ご心配なさらずに(笑) ただ、1つだけちゃんと分かっておいて欲しいのは 僕らが当たり前に使っている名前1つ取っても、 背景はこれだけ複雑に入り組んでいるんだということです。 単純で自明に見えるものほど、実際は酷く疑わしく、 複雑で難解に見えるものほど、実際は一義的で なんでもないことだったりするのです。 「【当たり前】とは何か」 もし時間があれば、そんなことを考えてみるのも 面白いかもしれません。 長い文章にお付き合い頂き、ありがとうございました。 また次も読んでね。 ではでは。 追伸 書いてから気付きましたが、今回はほとんど 「名前」について触れてませんでしたね(苦笑) ま、たまにはそーゆーこともあります。 気にしない気にしない、一休み一休み。(おい・笑) ...more»
コミュニケーションの3つの論理
  若干更新の頻度が落ちつつある今日この頃、 いかがお過ごしでしょうか? 予告した通り、今回は前回の記事と非常に関連の深い 内容になります。 コミュニケーション力が一番大事と言われて久しい昨今。 本屋には平積みで「雑談を続ける方法」みたいなものまで 売り出され、人はお金をかけてまでコミュニケーションを 習わないといけない時代になってしまったワケですが、 そんな時代にタダでコミュニケーションの本質を 垂れ流してしまおうという、この太っ腹さ(笑) 読まなきゃ損、どころの話じゃありません(笑) そんなにハードル上げちゃって大丈夫なの? と思うかもしれませんが、それぐらいやっても 十分に超えられちゃうレベルで今回の話は面白いと 個人的には思ってます。 無論、いつものように抽象度はそれなりに高い話なので 実践に活かせるかどうかはあなた次第ですけどね。 さあ、それでは本題へ入っていきましょう。   コミュニケーション。 えー、いきなりですが、まずは自分なりに コミュニケーションとは何か、みたいなのを 簡単でいいので思い浮かべて下さい。 以心伝心、相互理解、共感共苦、意思疎通・・・ 別に四文字熟語である必要はありませんよ(笑) 色々浮かんだでしょうか? じゃあ今度はコミュニケーションが取れている場面を 想像してみて下さい。 友達と楽しく会話、クライアントから褒められた、 職場が楽しく仕事がはかどる・・・ で。 多分なんですが、今コミュニケーションが取れている状況を 想像したときに、 「相手と円滑に何かを通じ合い伝え合えてる」 みたいなイメージが頭に浮かびませんでした? 浮かんでなかったらごめんなさい(苦笑) でもここは強引にまとめます(笑) 要はコミュニケーションというのは、自分の伝えたいことを 正確に伝え、相手の伝えたいことを正確に受け取る、 その繰り返しで成り立っている、ということなんです。 じゃあ「正確に伝わる」「正確に受け取る」って 何なんでしょう? これを解くには、3つの論理という視点が非常に 重要になってきます。 ここはあっさり書いてしまいますが、 1.形式論理 2.コンテクスト(文脈)の論理 3.関係性の論理 がコミュニケーションにおける3つの論理と 言われているものです。 「言われているもの」と言っても世間一般には こんな話は出回ってないと思いますが、 極一部のマニアックな集団内では、常識として 通じる話になっています。 それはともかく。 1つずつ説明していきます。 1.形式論理 これは言葉そのものの定義、もしくは辞書的な意味のことです。 前回の記事に絡めて言うなら 「お前が好き」 を形式論理で理解すると 「あなたに心惹かれています」 となります。 ここには【「お前」が誰なのか】【どこで好きと言ったのか】 【なぜ好きと言ったのか】【何かがあって好きと言ったのか】 などの情報は一切含まれません。 文脈や関係性を無視した論理、とも言えます。 2.コンテクスト(文脈)の論理 これはその「場」における論理のことです。 冗談っぽく「好き」と言ったのか、真剣に「好き」と言ったのか、 はたまた告白の練習で相手がいない状態で「好き」と言ったのか、 などなど。 「場」は「シチュエーション」とか「雰囲気」、「空気」と 言い換えてもいいかもしれません。 前回も書いたように、この論理が読めない人のことを KYと呼ぶワケです。 3.関係性の論理 これは名前の通り、相手と自分がどのような関係にあるのか、 ということです。 家族関係、師弟関係、恋愛関係、兄弟関係、友達関係・・・など。 自分の親に「好き」と言えば家族愛になりますが、 恋人に「好き」と言えば恋愛になります。 また同じ友達関係でも、知り合って何年経つのか、 異性か同姓か、どういった経験を共にしたのか、 といった情報も関係してくるので、一概に 「友達関係だから・・・」なんていう定義付けはできません。 以上の3つがコミュニケーションの論理と呼ばれているものに なります。 さて、これを踏まえて先ほどの「正確に伝える」「正確に受け取る」 という話を思い出してみましょう。 何がどうなれば「正確」なのか。 それは、上記3つの論理を正しく判断できれいれば 「正確」だということです。 日本においては形式論理はほぼ無視しても問題ありませんが、 コンテクストの論理と関係性の論理は重要な地位を占めています。 日本人は昔から「察する」「言わなくても分かる」 という技術(文化?)を大切にしてきました。 それは言うまでもなく、2と3の論理を読むことで 成り立っています。 上司のコップが空いたら、言われなくてもビールを注ぐ。 師匠が作業を始めたら、言われなくても自分はそれを見て学習する。 友達が泣いていたら、そっとしておいてあげる。 場合によっては優しくなぐさめてあげる。 電車でお年寄りが乗ってきたら、席を譲る。 これがコンテクストの論理と関係性の論理を正確に判断する、 ということです。 つまり、発せられた言葉そのものではなく、 その場がどういう状況で、その相手が誰なのか、 そこを正確に捉えて行動していくことが コミュニケーションの原点なのです。 「嫌よ嫌よも好きのうち」 なんて言葉がありますが、その場と相手によっては 「嫌」という言葉さえ「好き」という意味になります。 これは形式論理が最低限の役割、いや、何の役割も 果たしていない証拠ではないでしょうか。 もちろん形式論理が必要ないとまでは言いませんが、 今回紹介した3つの論理を意識して生活していると いかに形式論理が軽視され、コンテクストと関係性が 重要視されているかが分かると思います。 これを語弊を恐れずに言ってしまえば、表面に見えているものなんて 本当はちっぽけなものでしかない、ってことです。 コミュニケーションにおいて大切なのは「見えない部分」、 「見せない部分」なのです。 喉が渇いた、でも言わない。 腹が立った、でも言わない。 バカだと思った、でも言わない。 それらはお互いに感じ取らないといけないのです。 何かの参考になれば。 ではでは。 ...more»
アナタがいるから私がいる
  今回はちょっと変な方向に話を進めてみます。 タイトルを読んでもらえればお分かりのように 今までと雰囲気が違いますよね? スピリチュアルっぽいというか、なんというか・・・。 一般に女性に好かれそうなタイトル(笑) 一見するとそんな感じなんですが、僕の書く文章が そんなものになるはずもなく(笑)メインの内容は 社会心理学的な話になります。 残念(笑) 僕も決してあっち系が嫌いなワケじゃないんですけどねー。 スピリチュアルとかオカルトとか錬金術とかって 深く勉強すると実は結構面白いんで。 ただ、現段階ではまだ触れられない、というのが 僕の立場です。 なので、そのうちそーゆー話も出てくるかもしれません。 さてさて。 今回の話はジョージ・ハーバード・ミードって人の 【I】と【Me】という概念がメインになります。 ってかそれしか書きません(笑) 【I】と【Me】については後で詳しく説明しますが、 要は「自分って何なの?」みたいな話です。 現在、【やりたいことが分からない】という悩みと ほぼ同じぐらい多くの人が悩んでいることに 【自分が何なのかが分からない】 というのがあります。 「自分探しの旅」や「自分探し病」などの言葉に 代表されるように、みんな何かしら自分というモノを 見つけようとしている。 これにも相対主義が影響しているのはもはや言うまでも ありませんが、そんなことを知っている人は 迷わないワケで、知らないからみんな右往左往して しまっているワケです。 今から紹介するミードが相対主義に対する問題意識を 持っていたかどうかは僕が不勉強なせいで分かりません。 でも、彼の思想は僕に相対主義「解明」の大きなヒントを 与えてくれました。 (あくまでも「解明」であって「解決」ではない) 彼が提唱した概念で有名なのは、上に書きましたが 【I】と【Me】という概念です。 【I】とは個人的自己のことを指します。 これは何ていうか「これが自分だ!」みたいな 自分像みたいなものです。 アイデンティティと言えば伝わるかな。 【Me】とは社会的自己、つまり自我のこと。 これは周りから見た自分、もしくは、周りに 見せている自分がそれです。 客観的自己と言い換えてもいいかもしれません。 通常、この個人的自己と社会的自己は個別に存在すると 考えられています。 特に日本人は「本音と建て前」という言葉があるように、 個人的自己は内に秘め、社会的自己を外に出す、 というのが通例、というか文化です。 つまり【I】と【Me】は完全な別物として捉えられている。 しかしミードが言ったのは、これとは発想が違うんですね。 彼が【I】と【Me】の概念の中で言っているのは 【Me】から【I】が形成され、その【I】がまた【Me】に 反映される、という循環の繰り返しで【私】は作られて いるんだ と。 より簡単に言えば、 【見られる自分】がいなければ【見る自分】は存在しないし、 【見る自分】と【見られる自分】は相互に影響を与えながら 【私】を作り出している ということです。 全然簡単になってなかったらごめんなさい(苦笑) ところで。 「人間は一人じゃ生きていけない」 なんてことが巷ではよくささやかれたりしていますが、 これの意味って分かります? あ、いや、これは別にバカにしてるんじゃなくって 純粋に聞いてます。 これって、よく言われるのは 「必ず誰かの作った道具を使ってるから」とか 「完全な自給自足は不可能だから」みたいな 物理的な問題だけですよね。 確かにその答えも間違いじゃないと思うんですが、 今回のミードの考え方を踏まえれば、それが本質的な 答えではないことがよく分かると思います。 人間が一人で生きていけないのは 「何かしらの物理的な問題が生じるから」 ではありません。 【アナタ】がいなければ、そもそも【私】が 存在し得ないからなのです。 つまり 【私(個人的自己)】には【アナタ】が必要 なのです。 【人間】って本当によく出来た言葉だなー、と 僕は最近になってようやく気が付いたんですけど、 なんで【人間】は「人」の「間」って書くんだと 思います? 【人の間】ってことは、最低でも2人以上の「人」が 必要だってことなんですよ。 つまり、「アナタ」と「私」が必要なんです、 【人間】であるためには。 しかも【間】ってことは、そこには関係性がないといけない。 それは親子かもしれないし親戚かもしれないし 師弟かもしれないし友人関係かもしれない。 とにかく何でもいいから2人以上の人が存在し、 そこに何かしらの関係性が存在しないと 人は【人間】でいられない、ってことなんです。 仮にその場に2人の人がいたとしても、その2人の関係が 完全な他人であれば【間】に何も存在しません。 だって「他人」っていうのは関係じゃないですからね。 自分とは何の関係もない人を「他人」って呼ぶワケですから そこに何か関係があればこの言葉自体が矛盾してしまいます。 要は、【アナタ】は他人ではダメだ、ってことです。 少なくとも「道を聞いてきた人」とか「ハンカチを 拾ってくれた人」とかそーゆー関係がないと 【アナタ】にはなり得ないのです。 ここまで話せば、なんとなく 【アナタ】がいるから【私】がいる っていうのは分かってもらえました? そこで。 この話を発展させるために、また相対主義の話を 思い出してみましょう。 もう聞き飽きたと思いますが、相対主義は他者に無関心な人を 生み出し、「アナタはアナタ、私は私」という価値観を われわれに植え付けました。 そこから導き出されるのは、他者との関係を失った孤独な【私】。 誰からも邪魔されず自由である反面、誰からも関心(関係)を 持ってもらえない孤独な存在が現代の【私】です。 ってことは、現代の【私】は段々と【見られる自分】を 作る機会が減ってきているワケですよ。 だって関心(関係)のない相手に対して「見られること」を 意識する必要はないですからね。 職場ではテキトーな服装だけど恋人に会うときは 特別な服を着る、なんていうのはその典型。 同様に、電車の中で化粧ができちゃうのも「周りから見られる」 という周りへの関心(関係)を失ってしまっているからです。 そこには【見られる自分(Me)】が存在しない。 つまり、電車の中で化粧をしている【私】は 誰でもない【私】なのです。 (それは【人間】ではなく【人】なのです) 伝わったかなー・・・(苦笑) これが分かれば、なぜ自分を探す人が増えているのか、 という疑問も簡単に理解することが出来ます。 一言で言えば、それは みんながみんなに関心(関係)を持たなくなったから です。 より大きく言うと、相対主義という悪魔によって われわれの関係性が希薄になってしまったから。 【人間】が【人】になろうとしているからなのです。 【アナタ】がいるから【私】がいる 何度も書いてますが、今回の話はホントにこれだけです。 自分という存在は他者との関係によって保証されている。 これは今の時代の重要なキーワードなので 忘れないで欲しいと思います。 ではでは。 ...more»
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Fatal error: Uncaught Error: Call to undefined function ereg_replace() in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code:1 Stack trace: #0 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1): eval() #1 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(688): require_once('/home/philosoph...') #2 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(647): load_template('/home/philosoph...', true) #3 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/general-template.php(76): locate_template(Array, true) #4 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/archive.php(151): get_footer() #5 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template-loader.php(74): include('/home/philosoph...') #6 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-blog-header.php(19): require_once('/home/ph in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code on line 1