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最低限の生活と最大限の生
ども、杉野です。 僕らが生きていくには最低限の水と食料、着るもの、住むところ及びそれらを手に入れるためのお金が必要です。 この最低限の条件が満たせれば、僕らは取り敢えず生活することができます。 今の日本でこの最低限の生活を維持するには、住んでいる地域にもよりますが、多分月6~7万円程度のお金は必要でしょう。 家賃が月3万円の四畳半の安アパートに住み、光熱費は月3000円に抑え、すべて自炊して食費は月2万円、年金は免除してもらい健康保険に1万円ぐらい使って、残りは雑費。 本当に最低限の生活です。 この家賃で住めるアパートがあることを考慮すると、地域の時給相場は700円ぐらいがいいところでしょう。 時給700円で月6万円稼ぐには約85時間働く必要があります。1日8時間働くとしたら、大体月に11日働けば余裕ですね。 仮に家にインターネットを引いていて、月々6千円多めに費用がかかったとしても、働く日数が1日増える程度。 この労働時間は日本人なら誰もが羨むヨーロッパ諸国の労働基準より少ないです。 これだけ労働が少なければ、休みの日に好きなだけ好きなことができます。 図書館に行って本を読んだり、自転車に乗ってサイクリングしたり、散歩して花や鳥を観察したり、一人でボーっと思索にふけったり、友人と一緒にご飯を食べたり、インターネットに熱中したり・・・。 ショッピングや外食やドライブや旅行などお金のかかる遊びはほぼ出来ませんが、大よそそれ以外の欲求は満たすことができます。 1ヶ月を30日とすると、そのうち18日、いや、働いているのも1日8時間ですから、働く時間帯によってはほぼ毎日をこうやって暮らすことができるワケですが、この最低限の暮らしは苦しい生活なのでしょうか? 確かに生活費と収入のバランスは普通の感覚からすればカツカツかもしれません。 この状況で病気になったりしたら、生活はかなりヤバイことになるでしょう。 ですが、もしこの生活が3ヶ月限定だったら、ということを考えてみて下さい。 3ヶ月だけこういった生活をして、その3ヶ月のあり余る時間を使って新たな収入源を得たとしたら、どうでしょう? この自由な生活で3ヶ月間健康を維持するのは、それほど苦しいことでしょうか? 3ヶ月が無茶なら1ヶ月でも構いません。 たった1ヶ月この生活を続けて、その間に月に1万円稼げる何かを見つけたとしたら、次の月にはその分だけ楽ができます。 その1万円を何かに投資すれば、次の月には倍以上になって返ってくる可能性もあるし、生活費に充てれば労働時間を更に省くこともできる。 ずっと家賃3万円のアパートでカツカツの生活をすると考えると苦しいかもしれませんが、こう考えるとそんなにキツイことじゃないような気がしてきませんか? もしかしたら「そうは言っても、1ヶ月間や3ヶ月間で新しい収入源が見つかる可能性は低いと思う」という意見もあるかもしれません。 しかし、それは話の本質からズレています。 確かに新たな収入源が見つかる可能性は低いのかもしれませんが、それは二の次というか、そう考えたら楽ですよね?と言っているだけであって、この話で重要なのは最低限これで生きることができる、ということです。 もっと言えば、生きるって何なのか、働くって何なのかってことです。   ■働くために働く 生きるためには働いてお金を稼がなくてはならない。 資本主義の仕組みには従うしかないですから、それは仕方ないと思います。 ただ、本当に生きるだけなら、普通の人が思っているほどの収入は必要ありません。 じゃあ普通の人はなぜ必要以上のお金を稼ぐために好きでもない仕事を愚痴を言いながら続けるのか。 それはほとんどの場合、日頃の憂さを晴らすためです。 (それは違う、という意見もあるかもしれませんが、取り敢えず読み進めて下さい) 日頃の仕事や人間関係で溜まったストレスを休日の趣味や飲み会で解消するために最低限の生活費以上のお金が必要なのです。 カフェで一杯400円のコーヒーを飲んだり、ファミレスで800円のハンバーグを食べたり、遊園地で1日5000円のフリーパスを買ったり、そんなの本当に必要ですか? そんなもののために嫌なことを我慢して、したくもない仕事をしているのでしょうか? 家族がいれば子供の養育費や食費云々の話もあるかもしれませんが、それだって必要なら親が勉強して自分で子供に教えればいいだけだし、食費も自炊すればたかが知れています。 勉強する時間がないのも、教える時間がないのも、自炊する時間がないのも、そもそも親が働き過ぎだからじゃないでしょうか? 子供のため、家族のためと言いながら、働く以外の努力をしている親はあまりいないような気がします。 子供を塾に通わせる親はいても、自分で勉強して子供を教育しようという親はまずいません。 遊園地には連れて行ってくれるのに、勉強は自分でしろ、と言う。 それで「家族のために金が必要なんだ」とか言われても、説得力がないと思いませんか? 子供を塾に通わせるためにお金が必要で、そのお金を稼ぐために仕事が必要で、仕事をするために子供との時間を犠牲にして、その犠牲にした分を遊園地で補い、遊園地と塾で使ったお金をまた仕事で稼ぎ、そして子供との時間が失われていく。 他にも色々要因はあると思いますが、ザックリ言えばこんな感じのことを世の中のほとんどのサラリーマンがやっています。 要するに、多くのサラリーマンは生きるために働いていると思い込みながら、実際には “働くために働いている” のです。   ■浪費=人生 何度も言いますが、生きるだけなら、2日に8時間程度働けば十分やっていけます。 にもかかわらず、それだけでは物足りないような気がするのは、その人の「生」が委縮してしまっているからです。 厳密に言えば、資本主義的な生き方以外の生き方を忘れてしまっているからです。 自分が小さかった頃を思い出してみて下さい。1日中楽しく遊ぶのに、お金なんて必要でしたか? 木に登ったり、虫を捕まえたり、山を探検したり、川で泳いだり、公園や学校で鬼ごっこしたり、それだけで1日なんてあっという間じゃなかったでしょうか? 都会で育ったとしても、テレビゲームの無い頃は何かしらお金のかからない遊びをしていたはずです。 それが年を経るにつれてテレビゲームをするようになり、カラオケに行くようになり、カフェでお茶するようになり、居酒屋に飲みに行くようになって、お金が無い頃の生活を忘れてしまった。 今やわれわれはこの消費、いや、浪費活動を「生きること」と思い込んでいるのです。   ■本当に効率化したもの 生きるとは、究極的には息をして食べて排泄して寝て子供を産んで育てることです。 人間の場合はそれをするために最低限のお金が必要だというだけであって、その他は動物と何ら変わりません。 人間もかつては物々交換によって最低限の生を維持していましたが、それではあまりにも非効率というか、種の繁栄速度が遅れるので、それを解決するために物と物を仲介するお金(資本)が生まれたワケです。 このお金の登場によって、人間は分業が可能になりました。 Aは魚を釣り、Bは野菜を育て、Cは牛を飼い、Dは家を建てる。 ABCDそれぞれが1つの偏った仕事をしても、その労働をお金に換えることによって、各々が魚を食べたり野菜を食べたり牛乳を飲んだり家を建ててもらったりできます。 そうして人間は住んでいる地域や自分の技能に適した「自分ができること」だけをやって暮らしていけるようになりました。 海辺に住んでいながら、わざわざ山菜を採りに行く必要はないし、家の建て方しか知らないのに、無理して魚を釣る必要もない。 だから取り敢えずそこで自分のできることをやってお金を稼げばよかったワケです。 またお金は物と違って腐らないので、貯めることが可能です。 これによって、今までは余剰だった農作物や魚を漬物にしたり干物にしたりして無理に保存する必要がなくなり、お金に換えて貯蓄しておくことが出来るようになりました。 人間なら病気や怪我もするし、農作物が不作だったり、魚が思うように釣れなかったりすることもあります。 そんな時に貯蓄があれば、安心して仕事を休める。毎日働かなければ生きていけない時代においては、これが貯蓄の最初の目的だったと思います。 こうして資本主義は分業と貯蓄という2大発明を生み出したと同時に、人間の寿命を延ばしたワケです。 この時点では“まだ”みんな生きるために働いていたと言えます。 しかし時代が進むにつれて、分業はより細分化されて、あらゆる分野が専門化し、貯蓄は保険ではなく労働の目的となります。 キャベツだけを作る人、ニンジンだけを作る人、カキだけをとる人、ウニだけをとる人、窓だけを作る人、瓦だけを作る人などなど、生産はより効率化、つまり得意な人に得意なことをさせるために1人の人間が1つのことに特化するようになりました。 その結果、より高度な技術が生まれ、生活が効率化したのは確かです。洗濯機や掃除機などのお陰で、人々の余分な労働は減りました。 携帯電話やパソコンのお陰で場所や時間に捕らわれなくなったことも事実でしょう。 ですが、本当に効率化されたのは、われわれの生活ではなく、資本主義そのものなのです。 われわれは家事が楽になった分、余分に働くようになり、その余分に働いて得たお金で生活を効率化させるものを買い、そしてまた余った時間で余分に働き、余分なものを買う。 これを繰り返しているだけです。 貯蓄ができてしまったばかりに、労働効率が上がってしまったばかりに、人は “余分なことを余分のために” するようになってしまったのです。   ■生きるとは何かを見失ってはいけない ここで言いたいのは余分(余剰)が悪いということではありません。 そうではなく、生きることが余剰を生み出すことにすり替わっていることに気付いて欲しいのです。 さっきも言ったように、元々お金を貯めるのは最悪の事態を防ぐためだったはずです。 病気や怪我で働けなくなったらヤバイ。 だから余った分をお金にして貯めておこう、というのが最初の貯蓄の目的だったと思います。 ですが今は、お金を貯めることが働く目的になってないですか?お金を稼いで新しい携帯やゲームを買うことが目的になってないですか? それだけならまだしも、その本来とは違う目的のために自身の「生」を犠牲にしてないでしょうか? 仕事が原因で体を壊して、その体を治すためにお金が必要で、そのお金を稼ぐために体を壊すような仕事をする。 仕事が原因で子供と遊べなくて、子供と遊ぶためにお金が必要で、そのお金を稼ぐために子供と遊べなくなる。 仕事が原因でストレスが溜まって、ストレス解消のためにお金を使って、そのお金を稼ぐためにストレスの溜まる仕事をする。 僕のメルマガを読んでいる人にはいないかもしれませんが、こんな人が日本には結構います。 僕はある時、毎度辛い顔をして仕事をしている既婚の女性に「仕事を辞めても(旦那の収入だけで)生活できるんでしょ?」と聞いたことがあるのですが、その時彼女は「贅沢しなければ暮らせるけど・・・」と言っていました。 僕にはこの答えはあまりに矛盾しているように聞こえたのですが、どうやら彼女はまったくそう考えていなかったようです。 むしろ彼女は「ある程度贅沢をしなければ死ぬ」と考えているようでした。 これが資本主義的な生き方の典型例です。   ■贅沢とは何か 生きるために働いているならば、生きるのに必要な分以上に働く必要はないはずです。 家族を養うために働いているならば、家族を養える分以上に働く必要はないはずです。 これがキレイ事なのは分かっています。 しかし、それをキレイ事と言う人に限って、最高に贅沢だと思っているのは 「仕事をしないこと」 なのではないでしょうか? 有給を使って海外旅行をするより、豪華なレストランで食事するより、生活は質素ながらも月の半分が休日で家族とのんびり暮らせることの方が贅沢に見えるんじゃないでしょうか? 僕はこれが唯一の贅沢だとは思いませんが、少なくとも生きるためや家族を養うために働いている人ならば、こう感じるのが自然だと思います。 実際、みんなが憧れているヨーロッパ人はそういう生活をしてますからね(苦笑) 彼らを羨ましいと思うならば、彼らと同じようにすれば済む話です。 それを日本の労働基準や労働時間に文句を言いつつも実行できないのは単に僕らの意志が弱過ぎて、資本主義的な生き方を脱却できないだけ。 もっと単純に言えば、貧乏をしたくないというか、貧乏を悪いことだと思っているワケです、みんな。 それこそまさに資本主義に毒されいると思いませんか? 日本には清貧という言葉もあるワケですから、貧乏が悪いなんてことは有り得ないし、慎ましくも逞しく生きているという意味では、むしろそれは誇るべきことですらありました。 また禅の「シンプルが一番」という考え方からも分かるように、どちらかと言えば、余計なものを持ったり、余計なことをしたりすることの方が、日本では悪いこととされていたのです。 つまり最低限の生活こそが、最善の生き方だったということです。 だとするならば、現代人の「生を犠牲にして余分なものを蓄える」という生き方は、日本人として文化的に最も卑しい生き方なのではないでしょうか。   ■まとめ 僕も一般人ですから、物やお金が欲しくなる気持ちは分かります。ですが、そういう時は一度立ち止まって考えてみて下さい。 「自分はこんなもののために人生を犠牲にしているのか?」と。 缶コーヒーを買うとき、服を買うとき、カラオケに入るとき、ドライブをするとき・・・。 その分だけ、あなたの生は削られているのだということを。 ありがとうございました。   追伸:メルマガ登録はこちらからどうぞ。     ...more»
理解されたい欲求
  「理解されたい」 これは恐らく人間なら誰もが持っている比較的大きな 欲求だと思います。 それゆえに相手に理解されてないと感じるときは 「なんで分かってくれないの」という不満を抱くし、 分かってくれてると感じたときは言葉では表せない ような喜びを感じる。 だからこそ自分を理解してくれている人、例えば 友人や恋人なんかと一緒にいるだけで一定の幸せを 感じることが出来るワケですね。 たまに「別に誰にも理解されなくてもいい」 みたいなことを言っている人もいますが、それは 多くの場合単なる強がりです。 なぜそう言い切れるのかというと、自覚しているか 無自覚かの差はありますが、現代人は本質的に 人間的理解を求めている生き物だからです。 この背景を詳細に説明するのは実は相当骨が 折れます。 ポキポキと。 なので、とりあえず今回の記事では大筋だけを 残して、あとはザックリと説明していくことします。 それでは少しばかり歴史の授業にお付き合いください。   時代は中世以前に遡ります。 この時代の人間というのは文化というシステムの 部品として存在していました。 まず文化という枠があって、そこに人間がそれぞれ 役割ごとにはめこまれる。 そんなイメージです。 貴族の子は貴族、農民の子は農民、職人の子は職人 という風に生まれた時から自分の役割が決まっている 代わりに、それに従ってさえいれば文化という安定した “関係”の中に留まることが出来ました。 この“関係”は文化によって支えられていたため、 文化が崩壊しない限りは無条件で保障され、 お金のあるなしにかかわらず、自分の身分や役割を 維持することが出来たワケです。 しかし資本主義が登場したことによって、 この文化(価値観)は壊されます。 資本主義は「生まれた家柄」ではなく「いくらお金を 持っているか」によって身分や役割を決めました。 これはよく言えば自分で自分の身分をコントロール できるようになったと言えますが、悪く言えばお金が 無ければ身分すら安定しなくなったということです。 やがてそれは「資本を持つ者こそが自由であり 権力者である」という価値観を浸透させていきます。 産業革命の時代を勉強したことがあれば分かると 思いますが、この時代の労働者というのは奴隷と 変わりません。 特に産業革命が起こってすぐというのは、 まだまともな法律も出来てなかったので、 雇い主はやりたい放題。 小学生ぐらいの子供が埃だらけの工場で 18時間働きっぱなし、なんて状況もあったそうです。 当然そんなことを繰り返していれば平均寿命も 縮まるワケで、死亡率、それも10代の若者の 死亡率は跳ね上がります。 そこでやっと「このままじゃヤバイんじゃね?」 ということになり労働基準法みたいな法律が 出来てきたワケです。 まあ「搾取」なんて言葉があるぐらいですからね。 よっぽど酷い労働環境・労働条件だったんだと 思います。 マルクスは資本主義のこういう状況に憤って 社会主義を打ち立てるに至るワケですが、 それはともかく、こうやって人間をただの道具 (労働力)としてしか見ないような人間が トップに立ち、その価値観を先導していくように なったのです。 資本主義の価値観は一言で言うと「お金が一番大事」。 つまり、資本主義以前は「最初に文化ありき」 だったためまず身分があった上で収入が決まる という流れでしたが、資本主義の世界ではまず 最初にお金があって、その上で人間の身分や役割が 決まるようになったということです。 そうやってお金の無い人はまともな身分すら 与えられない状況に追いやられていきます。 今までは生まれた時から身分が決まっていたので、 それ以上に裕福になることはなくても、それ以上 苦しい生活を強いられることもありませんでした。 しかしそんな時代はもう終わったのです。 お金がなければ社会との関係を保つどころか、 生きることすらままならない。 地獄の沙汰も金次第。 それが資本主義です。   この価値観が推し進められ、日本に輸入され、 受け継がれ生まれてきたのが僕ら現代人です。 自覚はないと思いますが、僕らも資本主義の国に 暮らす人間ですから、当然さっき書いたような人間と 同じような性質を持っています。 それは相手や自分を道具(労働力)としてしか 見れないような性質。 もう少し言うと、僕らは自分や相手の“機能”や “役割”にばかり目がいっていて、相手そのものや 自分そのものを見ることができなくなっている ということです。 婚活なんてのはその典型です。 婚活では女性は職業や給料で男性を選び、 男性も職業や見た目だけで女性を選びます (そうじゃない人もいると信じてますが)。 そうやって相互利益があるようならカップル成立。 まさに道具同士のカップルです。 そこから仲が深まって人間同士のカップルに なることもあるのでしょうが、婚活という言葉自体が 既に 「自分たちのために結婚がある」 という本来の在り方ではなく 「結婚のために自分たちがある」 という本末転倒の在り方になってしまっていますから、 よっぽどのことがない限り、人間同士の仲になることは 難しいと思います。 僕は婚活パーティーに出たことはないですが、 ネット上に溢れている情報を読む限りでは、 男性は主に職業をアピールの道具として使うことが 多いようです。 これは自分を“機能”という面でしか評価出来て いないことの裏返しと捉えることはできないでしょうか? 本当に自分の人間性そのものを評価しているのであれば、 そんな肩書を表に出す必要もないと思うし、というか むしろ婚活パーティには出ないと思うんですね。 だってそんなところに行っても自分は道具としてしか 見てもらえないんだから。 わざわざ自分が惨めになるところには 行かないでしょ、普通。 逆に、そういうところに行きたがる人は自分を 最高の道具として評価してもらいたい、もしくは 最高の道具だという評価を得て自分の価値を 確信したいから行くのです。 「美人である」「お金持ちである」「弁護士である」 そのことでどれぐらいの評価が得られるのかを 知りたいのです。 そしてあわよくば自分の評価をより高めてくれる人と 出会いたいと思っている。 個人的には婚活はそういう人間の集まりだと 分析しています。 ただ、これはあくまでも「個人的に」なので、 この見方には僕の偏見が大いに含まれているということを 忘れないで下さい。 あと、最近の就活なんかも分かりやすいですね。 就活塾なんてものが業績を伸ばしていることからも 明らかなように、今の学生たちは 「自分のための仕事」 を見つけるのではなく 「仕事のための自分」 になろうとしている傾向が伺えます。 これもまさに自分を道具的にしか評価できていないと 言えそうです。 時代が時代なので仕方ないという見方もあるかも しれませんが、それだけ時代が道具的人間の傾向を 促進している、という風に僕は捉えています。 つまり僕らは相手だけでなく自分自身をも道具としてしか 捉えられなくなってきているのです。   そうなってくると、その反動として「人間的に 見てもらいたい」とか「私そのものを評価してほしい」 という欲求が生まれるのは自然の流れ。 なぜなら、そっちの欲求を満たすものが圧倒的に 足りないからです。 人間には自分の技術を評価されたいという欲求も ありますから「最優秀新人賞」みたいな道具的評価も 必要です。 でもそっちをいくら満たしても人間的欲求は 満たされません。 それで満たされるのは「作家としては優秀ですよ」 とか「技術者としては優秀ですよ」という肩書にだけ ですからね。 「もっと私という人間を見てよ!」という欲求には 応えてくれないワケです。 ここでやっと冒頭の話に戻ってきます。 冒頭で僕は「現代人は本質的に人間的理解を求めている 生き物」だと書きましたが、その根拠はココ 『現代には道具的な人間ばかりが氾濫しているから』 というところにあったのです。   「理解されたい」 そう強く思ってしまうのは僕ら現代人の性質ですから 仕方ありません。 しかしその欲を押しつける前に 「自分は相手を理解しようとしているか?」 「自分は相手を道具的に見てはいかないか?」 と問いかけるのを忘れないで下さい。 セミナー音声で話していたアフォーダンスって言葉、 覚えてますか? 机というのは、四角い四本足の物体に対して僕らが 机という道具的な見方をするから「机」になる、 という話でしたね。 これは人間も同じで、相手に対して「役に立つ道具」 という見方をしている限り、相手は自分にとって 相手そのものではなく「役に立つ道具」になって しまうのです。 ビジネスで言うならば、お客さんに対して 『商品を買ってくれる人』(お店の利益になる人) という(道具的な)見方をしていてはダメだ ということです。 だって相手はお客さんである前に人間なんだから。 それも「理解されたい」という欲求を強く持っている 人間であるということを踏まえれば、大体どういう 接客をすればいいか分かってきますよね? 相手を理解しようとする、人間的に接するというのは そういうことなのです。 ぜひ覚えておいて下さい。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
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