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サザンオールスターズ「栄光の男」の歌詞の意味
ども、杉野です。 「栄光の男」の歌詞全文を個人的に解釈してみたので、参考までにブログにアップしておきます(あくまでも参考までに)。 まず全体の概要を述べておくと、この曲は 1.時代の現状 2.今すべきこと 3.今すべきでないこと の3つについて歌っています。 「昔はAで、あの頃はBと言ってたけど、今はCという状況」 「だから今はDなんてやってないで、Eをやろうぜ」 ザックリした内容としては、こんな感じです。 詩的な構造が巧みなため、サラッと読んだだけでは分かり難いですが、100回ぐらい読むと、じんわりと意味が心に染み込んできます。   ■1番のメロ ハンカチを振り振り あの人がさるのを 立ち食いそば屋の テレビが映してた しらけた人生で 生まれて初めて 割り箸を持つ手が震えてた 「永遠に不滅」と 彼は叫んだけど 信じたモノはみな メッキが剥がれてく   主にメロが「昔はAで、あの頃はBと言ってたけど、今はCという状況」の部分です。 説明するまでもないと思いますが、ここでの長嶋さんは単なる間接的なメタファーでしかありません。 確かに「永遠に不滅(です)」と叫んだのは彼ですが、サザンは時代のシンボルとして彼の宣言を取り上げているに過ぎない、ということです。 実際、あの時代は政治家も科学者も社会常識も、彼と同じようなことを言っていました。 政治家は「年金制度があるから老後は絶対に安心です」と言い、科学者は「これからは科学が進歩して、今よりもっといい生活できる」と言い、社会常識は「とにかくいい大学を出て、とにかく大企業に入って、とにかく嫌なことがあっても懸命に働けば、年功序列に従って徐々に生活はよくなる」と言っていたワケです。 しかし、蓋をあけてみれば、それらは一時的な体裁を保ったいたメッキであって、決して永遠に不滅と言えるようなものではありませんでした。 あの頃は「割り箸を持つ手が震え」るほどに感動し、興奮し、希望に満ちたけど、それはメッキに踊らされていただけなのです。   ■1番のサビ I will never cry この世に 何を求めて生きている 叶わない夢など 追いかけるほど野暮じゃない 悲しくて泣いたら 幸せが逃げていっちまう ひとり寂しい夜 涙こらえてネンネしな   サビの部分で「だから今はDなんてやってないで、Eをやろうぜ」が語られます。 前も書きましたが、「叶わない夢」というのは、政治家や科学者や社会常識があの頃に言ったことを指しています。 年功序列や終身雇用は当然として、より抽象的には安定や安心、明るい未来や継続的な経済成長(バブルは終わらない)などです。 そんなものを求めて生きるのは、もはや完全に時代遅れ。恐らくそれを悟ったのでしょう。この歌の主人公は「I will never cry」と言い切ります。 そして、もうそんなメッキに付き合うほど「野暮じゃない」と言うワケです。 最後の2行では、1行目で今すべきでないこと、次の行で今すべきことが語られます。 今すべきでないことは、悲しくて泣くこと、つまり 感情的になること です。 メッキが剥がれたからといって、感情的になっては幸せは逃げていくばかりで、何もいいことなんてありません。 だから今は、何も信じられるものがなくても「涙こらえてネンネ」すべきなのです。 まずは冷静になって、体や頭をゆっくり休ませるべきなのです。   ■2番のメロ ビルは天にそびえ 線路は地下をめぐり 現代(今)この時代(とき)こそ 「未来」と呼ぶのだろう 季節の流れに 俺は立ちくらみ 浮かれたあの頃を思い出す もう一度あの日に 帰りたいあの娘(こ)の 若葉が萌えている いろづいた水辺よ   ここでは現状を冷静に捉えた主人公が、それにもかかわらず過去への執着にとらわれます。 今すべきことは分かったはずなのに、それでもやっぱり人間というのは厳しい現実を目の前にすると、あの頃はよかったと思ってしまう。 そういう弱い生き物なのです。 未だにバブルのことが忘れられず、バブルの頃を基準にして物事を語る人がいかに多いことか。 誰かさんは「日本を取り戻す」と必死に叫んでいましたが、あーゆーのがいい例だと思います。 過去を既に終わったものとして踏み台にするのではなく、目指すものとしてずっとしがみつく。 そんな後ろ向きな思考で、政治が上手くいくはずがありません。 「あの娘の若葉が萌えている色づいた水辺」とは、帰るところではなく、振り切って乗り越えるべきところなのです。   ■2番のサビ 生まれ変わってみても 栄光の男にゃなれない 鬼が行き交う世間 渡り切るのが精一杯 老いてゆく肉体(からだ)は 愛も知らずに満足かい? 喜びを誰かと 分かち合うのが人生さ   ここでまた主人公は少し冷静さを取り戻します。 過去がどれだけ良い時代だったとしても、自分は自分でしかないんだから、結局そこでも栄光の男になんてなれやしない。 そんなのは今の自分を見れば明らかじゃないか。バブルだろうが何だろうが、現実はいつでも厳しい。 どんな時代であれ、俺には生きていくのが精一杯なんだよ。 これが彼の心の声です。そして彼は自分に語りかけます。 今のままでいいのか。一人寂しい夜に涙をこらえてネンネするだけで何か解決するのか。そんなはずはない。 栄光の男にはなれないかもしれないけど、誰かを愛したり、喜びを分かち合ったり、それだって楽しい人生じゃないか。 だったら俺だって・・・。   ■3番のメロ 優しさをありがとう キミに惚れちゃったよ 立場があるから 口に出せないけど 居酒屋の小部屋で 酔ったフリしてさ 足が触れたのは故意(わざ)とだよ 満月が都会の ビルの谷間から 「このオッチョコチョイ」と 俺を睨んでいた   ここで主人公は不器用ながらも自分の人生を変えるために(愛を知るために)行動を起こします。 立場的に露骨なことはできないけれども、惚れた女性に酔ったフリして近づき、さり気なく(?)スキンシップ。 「立場なんて気にせずにアタックしなよ、このオッチョコチョイ!」 これは満月を通して彼に伝えられた、彼自身の後悔なのです。   ■3番のサビ I will never cry この世は 弱い者には冷たいね 終わりなき旅路よ 明日天気にしておくれ 恋人に出逢えたら 陽の当たる場所へ連れ出そう 命預けるように 可愛いあの娘とネンネしな   もう一度、彼は誓います。 「I will never cry」 それでも強くなりきれない彼は、ちょっぴり弱気に「明日天気にしておくれ」と神頼み。 抜群のリアリティと人間臭さです。われわれは、日々こういう矛盾と戦って生きています。 自分で決めたことすら、自分で達成できない。それが人間なのです。 でも、そこでキッパリ諦めるかというと、そうでもない。 方向は変わるかもしれないけれども、どこかでまた前に進もうとします。 人間らしさとは、こういうものなんじゃないでしょうか。 次に出てくる「恋人」というのは、恐らくメタファーです。 恋人のように好きになれる人や気の合う人に出会えたら、というのが実際の意味だと思います。 この曲はどう見ても恋愛ソングじゃないですからね。対象を恋人に限定する必然性は特にありません。 だとすると「陽の当たる場所」は、理想を叶えられる場所です。 あなたが仲の良い家族や友達や仲間を連れて行きたいと思うところはどこですか? それはあなたが素晴らしいと思うところ、あなたやあなたの大切な人が楽しくなるところではないでしょうか? われわれが遊園地や映画館、美術館や登山に大切な人を連れ出すのは、それによって自分たちが楽しめると思うからです。 楽しくなることが目的であり、理想だからです。 ということは、大切な人を連れ出すべきは、理想を叶えられる場所と考えるのが妥当でしょう。 そして最後の一行。 「命預けるように可愛いあの娘とネンネしな」 これはもう説明するまでもないですね。 大切な人と一緒に過ごすなら(これからは)命賭けろよ、ってことです。 逆に言った方がいいかな。 命を賭けなければ、(これからの時代は)大切な人と一緒に過ごすことができない。 そういうことです。 この言葉は心に刻んでおきましょう。   ■まとめ 僕の解釈は以上です。 この曲から学べることは、まだまだたくさんあると思います。 僕の解釈を鵜呑みにすることなく、あなた自身でじっくり歌詞に向き合ってください。 分からないことを恐れず、苦痛に感じることなく、分からないことを楽しんでください。 なぜサザンオールスターズ(桑田さん)は、わざわざこんなに分かり難い詞を書いたのか? その問いの答えは、そこにあります。 彼ら(彼?)は、ただイタズラに難しい詞を書いたんじゃないと思いますよ。 サザンが好きなら、そういう部分も理解してあげましょう。 ありがとうございました。     ...more»
器の大きい人間になりたいなら解釈の幅を広げろ
  あれは今から5年ぐらい前のことだったでしょうか。 僕が仕事帰りの電車で座っていると、隣に座っていた酔っ払いの 中年男性が居眠りをはじめました。 最初はコクリコクリとしていた彼も、やがて熟睡モードに入り、 段々とこちらの肩に体重がかかってきます。 そして最終的に僕の肩に頭をもたれかけてくるという電車内で よく見かける光景になったワケですが、普通であれば僕側の人は 誰もが嫌な気分になると思います。 僕も機嫌によっては 「んだよ、このオッサン・・・(イライラ)」 となっていたでしょう。 しかし、そのときの僕は違っていました。 まったく嫌な気分にならなかったと言えばウソになりますが、 「なんだよ、このオッサン」と思うほどには嫌悪しなかった。 それは僕がちょっぴりゲイに目覚めたとかではなく(笑)、 その男性の可能性を考えることができたからなのです。   以前にも話したように、われわれはある出来事に出くわすと、 そこに自分にとって最も一般的な文脈を自動的にあてはめます。 酔っ払って電車の席で眠っている男性を見れば、大抵の人は 「飲み会で自分が制御できなくなるほどお酒を飲んだダメな人」 というようなレッテルを貼りつけるはずです。 なぜなら、それが一番よくある例だから。 ドラマやマンガの中でもそういう場面はよくありますから、 われわれにとって酔っ払って眠っている男性はダメな人間の 代表のように映るワケです。 そんな男性にもたれかかられようものなら、誰だって嫌な気分に なるでしょう。 しかし、今挙げたのはあくまで「一般的な文脈」です。 彼がお酒を飲んだことは事実だと思いますが、もしかしたら彼は 上司に嫌々飲まされたのかもしれません。 会社の仕事や家族関係が上手くいかず、酒に溺れるしかなかったの かもしれません。 はたまた、何十年ぶりに親友と再会し、ついつい飲み過ぎてしまった だけかもしれない。 こういう可能性を考えると、もたれかかられることによって生まれる 嫌な気分がどこかへ行ってしまうんですね。 決して嬉しいことになったりはしないけれども、感情的にならず、 あくまでフラットに状況を捉えられるようになります。 つまり、1つの出来事に対する解釈の幅が広がることによって われわれは寛容になれる、ということです。   世の中には失敗を恐がる人がたくさんいます。 恐がる理由は色々あると思いますが、一言で言ってしまえば、 (広い意味で)損をする可能性があるからです。 株を買うにしても、起業するにしても、それによって今までの 安定した生活を失ったり、株や起業に費やしたお金や時間を損する 可能性があります。 そうやっていろんなものを失うことが、みんな恐いワケです。 しかし、これらもすべて一般的な文脈から考えられている ということに、われわれは気付かなければなりません。 「株を買ったり起業したりするのは、お金のためである」とか 「株を買ったり起業したりするのは、生活のためである」とか 「安定した生活は素晴らしいものである」という文脈が勝手に 設定されているということです。 これが偏った捉え方であることは、今のあなたなら容易に分かる でしょう。 例えば起業を「人間性を鍛える」という文脈で考えるならば、 思うようにお金が稼げない(上手くいかない)期間というのは 非常に重要です。 その苦しい期間をいかに過ごすか。 いかに取り乱さず、冷静に、事態に対処するか。 そういう態度が人間性の成長に大きく影響します。 「どうして上手くいかないんだよ!」と絶望するだけなのか、 それとも「この苦難の中でも平然としていられるだけの人間性を 身につけなければならない」と思うのかでは、同じ結果であっても 全然意味が違うワケです。 後者的な解釈ができれば、思うようにお金が稼げないことはむしろ 自分を成長させることに大きく貢献します。 有り難いとまではなかなか思わないでしょうが、それを自分に 課せられた試練として捉えることはできる。 「ちょっと思うように稼げなかったぐらいで取り乱すような人間に お金を稼ぐ資格なんてない」という考え方ができるということです。 その意味で、失敗はわれわれの器を試していると言えます。 失敗して絶望しているような人間は、そもそも成功する器では ありません。 いかにトラブルを上手く乗り越えるか。 いかに失敗を失敗で終わらせないか。 いかに失敗を失敗以外の文脈で解釈するか。 ここに本当の意味での実力が、人間の器が、問われるのです。   以上の話からも分かるように、一般的な文脈に囚われないこと、 つまり解釈の幅を広げておくことは、われわれが生きていく上で 最上級レベルで重要なことです。 なぜなら、われわれは自分の解釈の中でしか現実を生きることが できないからです。 前回の話を思い出してください。 われわれはつねに世界からの刺激をインプットしています。 われわれはそのうちの必要なものだけを解釈して自分の中に 取り入れているワケですから、われわれが見たり聞いたり触れたり するものは、すべてわれわれが解釈したものだということです。 われわれの周りにいるのは「好きな人」と「嫌いな人」と その他大勢の「どうでもいい人」だけです。 これらにはすべて「好き」「嫌い」「どうでもいい」という 価値づけが行われています。 その価値づけは当然、自分の解釈によるものです。 ということは、あなたの周りにウザイ人がたくさんいたとしたら、 あなた自身が彼らに「ウザイ」というレッテルを貼りまくっている ということです。 周りにウザイ人がいるのではなく、あなたが彼らをウザイ人として 解釈しているのです。 だとしたら、その解釈の幅の狭さからして、あなた自身も相当に しょーもない人間だと言えるでしょう。 相手の良い面を見てあげられない、相手の良い面を見ようとしない。 あなたもそれぐらい器の小さな人間だということです。 誰だって生きていればイライラすることの100や200はあると 思います。 電車の中でデカイ声で電話をしている人に出くわしたなら、 大抵の人はイライラするはずです。 「うっせーな」とか「マナー守れよ」と思うのが普通でしょう。 でもね、そのイライラは全部自分の解釈が作ってるんですよ。 だって考えようによっては、その電話の内容から面白いアイデアを 思いついたり、時代性が読み取れたりする可能性もあるんだから。 「うっせーな」と思うのは、その人の電話を雑音や騒音として 解釈しているからであって、内容に耳を傾ければ案外面白い話を しているかもしれません。 マナーが悪いことには違いありませんが、そんな風に解釈しても、 そこから得られるものは何もないですよね? それにイライラしたところで、どんどん不快な気持ちになるだけで、 何もいいことはありません。 だったら。 自分に有益になるようにすべてを解釈すればいいんじゃない でしょうか? そういう解釈の幅を身につければいいんじゃないでしょうか?   解釈の幅は、人間としての器の大きさを表しています。 器の大きい人というのは、まず怒りません。 相手が失礼なことを言ったり、罵声を浴びせてきたりしても、 彼らの可能性に目を向けて 「正しい教育を受けられなかったのかもしれない」 「親や教師に恵まれなかったのかもしれない」 「嫌なことがあってイライラしていただけかもしれない」 という風に解釈できるからです。 また器の大きい人は(僕と違って・笑)いつも謙虚です。 決して自分の功績や実績を自慢したりしないし、自分から何かを 積極的にアピールしたりもしない。 間違っても「素晴らしい記事が書けた」とかは言いません(笑) それは彼らが幅広い解釈をもっているからです。 自分としては素晴らしいものであっても、周りがどう思うかは 分からない。 そう考えられるから、彼らは何事にも控え目でいられるのです。 さらに、器の大きい人は寛容です。 どんな人に対しても対等に接し、優劣をつけません。 それも彼らの解釈の幅が広いからです。 彼らはその人自身をあらゆる角度からフラットに捉えることが できます。 相手のウザイ面も、優れた面も、弱い面も、強い面も、同時に 捉えることができる。 それによって、相手と対等に向き合うことができるのです。 最後に、器の大きい人は知的です。 彼らは1つの知識に対して、あらゆる角度からアプローチを とれるため、1つのことから10のことを学ぶことができます。 先程の例で言えば、マナーの悪い人間を見てそこから自分の 態度を見直したり、周りの反応を見たり、その内容に注目したり、 話し方や言葉遣いに注目したりすることによって、凡人には まったく見えていない様々なことを学ぶことができるワケです。 他にも特徴を挙げていけばいくらでもありますが、ここで言いた かったのは、   器の大きさと解釈の幅はぴったり一致する   ということです。 多様な解釈ができる人ほど物事を冷静に、謙虚に、寛容に、知的に 捉えることができる。 そういう人は最も成功に近い人、凡人から脱している人だと言えます。 つまり脱凡人として、ホンモノとして、リーダーとしてわれわれが 努力すべきは、解釈の幅を広げ、人間の器を大きくすることなのです。   人生には素晴らしい面もあれば、悲しい面も、醜い面もあります。 それらの面が明確に見えてさえいれば、われわれは自分の意志で 見るべき面を選ぶことができます。 「思うようにお金が稼げない」という事実を失敗という面からしか 見れない人にとっては、それは失敗にしかなりえません。 けれども、試練という面を見ることができれば、われわれはそちらを 選ぶことができるのです。 われわれには見えない面を選ぶことはできません。 だからこそわれわれは解釈の幅を広げ、できるかぎり多くの面を 見られるようにしておく必要があるのです。 デュシャンが男性用小便器を「泉」という芸術作品として 発表できたのは、便器という物体の芸術的側面が彼には 見えていたからです。 他の人では絶対に見ることができないような面を、彼は見ることが できた。 それはまさに彼の異常なまでの解釈の広さによるものだと言える でしょう。 ラーメンズも、安倍公房も、ハイデガーも、宮藤官九朗も、 ジョブズも、フルトヴェングラーも、ベートーヴェンも、 桂文枝(もと三枝)も、立川談志も、ジョイスも、ゴダールも、 黒沢明も、その人にしか生み出せないものを表現している人は みんな共通して独自の解釈を持っています。 その奇特な解釈によって捉えた世界を表現すること。 それが芸術であり哲学でありビジネスなのです。   あなたにはあなたの解釈があり、僕には僕の解釈があります。 本来これらは一致することはありません。 なぜなら、僕とあなたはどちらも唯一無二の存在だからです。 しかし、われわれはメディアや学校教育などの操作によって、 万人が同じような解釈しかできないようにさせられています。 「このとき主人公は何を考えていたと思いますか?」という 現代文の問題に「答え」があるのは、そのためです。 それをどう思うかなんてのは人それぞれです。 主人公と直接会って話をしたのならまだしも、物語の中に出てくる 人の気持ちなんて、読み手の解釈次第で何とでも言えます。 にもかかわらず、テストでは予め想定された特定の「答え」を 書かなければ、その解釈は間違いになる。 こうした何気ない日常を通して、われわれの解釈の幅は無理やり 狭められているのです。   あなたにはあなたの解釈があります。 あなたにしかできない解釈が必ずあります。 その解釈こそが、この世に価値を生むのです。 誰ともかぶらない、あなた独自の解釈を見つけてください。 あなたの言葉を、あなたの世界を見つけてください。 素晴らしい人生は、そこにあります。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック     ...more»
インプット・解釈・アウトプット ~メタ学習のすすめ~
  学ぶとはどういうことか。 まじまじとこの問いを考えたことのある人はかなり少ないのでは ないかと思います。 われわれは最低でも小学校・中学校の9年間で様々な教科を学ぶ ワケですが、学ぶこと自体の意味を教わることはまずありません。 国語や数学、英語、理科、社会などはどれも「何を学ぶべきか」 という問いに答えるもので、「学ぶとはどういうことか」ないし 「学ぶとは何か」という問いには答えてくれません。 不思議なことに、われわれは学ぶことの意味を知らずに国語や 数学を学んできたワケです。 学ぶことの意味が分からないということは、例えばその人にとって 「私は国語を学ぶ」は「私は国語を???する」という風に 認識されているということです。 でも「???する」って何ですか? この「???する」が何か分からないのに、どうしてわれわれは 「国語を学んだ」とか「国語を学んでいる」と言うことができるの でしょう? われわれが気付かないだけで、こういうところにも濃い霧が かかっているのです。 自分は「学ぶ」の意味を知らない。 この自覚(無知の知)からしか、われわれは何かを知ることは できません。 われわれは、自分が何を知らないのかを知ったときにはじめて、 それを知るという一歩を踏み出すことができるのです。   僕の考えでは、「学ぶ」とは、 1.インプット 2.解釈 3.アウトプット という3つの段階を経るプロセスを指します。 広い意味での情報をインプットし、解釈し、アウトプットすること。 それが学ぶことの意味です。 ですから「国語を学ぶ」とは「国語の情報をインプットし、解釈し、 アウトプットすること」ということになります。 普通の感覚からするとアウトプットが学ぶことに含まれているのは 不思議な感じがするかもしれませんが、その点についてはあとから ちゃんと例を挙げて解説しますので、それまでは「ふーん」と思って おいてください。 それでは、1つ1つ丁寧に見ていくことにしましょう。   1.インプット インプットとは、われわれが世界から受ける刺激のことです。 われわれは生きているかぎり、身の回りのあらゆるものから 刺激を受けています。 起きている場合には目や耳や鼻や肌にはずっと何かしらの刺激が インプットされ続けているし、寝ている場合にも耳や鼻や肌には 刺激がインプットされ続けている。 インプットを意識するしないにかかわらず、われわれは世界から 絶えずいろんな刺激を受け取っているということです。 インプットについてわれわれが関与できることは一切ありません。 どれだけインプットしまいとしても、われわれの知らないところで 今この瞬間もインプットは常に行われています。 しかし、インプットの中には、われわれにとって不要なものが 多量に含まれています。 僕がこのメルマガを書いているときには、近くに置いてある 携帯電話の色や、自分が座っている椅子の形なんてのは、 どうでもいいことです。 メルマガを書いているときに、そんな情報がいちいち頭に 入ってきたのでは邪魔でしょうがない。 だからその刺激をより分けたり、排除したりする処理、つまり 「解釈」が必要なのです。   2.解釈 解釈とは、インプットによる刺激を情報化(価値や意味を付加)して 処理することです。 ここでは非常に複雑なことが行われています。 いくつか例を挙げておくと ・情報の選択(より分け) ・情報の格納(記憶) ・情報の最適化(運用) ・情報の価値判断(順位付け) などなどです。 これらはさらに細かく分類することもできますが、ここでは概要を 優先したいので、今は割愛することにします。 僕が考えるに、解釈において重要なことは3つあります。 1つ目は、ここで99%以上のインプットの刺激がカットされている ということです。 パソコンで動画を見ているとき、自分の座っているソファーや マウスの形が気になることはないと思います。 同様に、部屋の広さも、床の質感も、肌に触れている服の感触も、 キーボードの大きさも、パソコンで作業を行っているときには 気にならないはずです。 つまり、その瞬間においては、パソコンの作業に必要となる 刺激以外はカットされているのです。 2つ目は、インプットの価値を判断するということです。 これによって、そのときに価値がないと判断された刺激はカット されます。 パソコンで動画を見ているときには、服の感触やキーボードの 大きさなんてものには価値がないワケです。 その価値判断に従って、われわれはインプットをより分けている ということです。 これは自覚的な場合もありますが、ほとんどは無自覚的で 1つのことに意識を向ければ、その他のインプットは勝手に カットされます。 聴覚で言うところのカクテルパーティー効果です。 われわれ人間は、聞こうと思った声だけを聞くことができる。 これをカクテルパーティー効果と言うのですが、そういうことが 解釈でも行われているということです。 世界の煩雑なインプットの中で、自分に必要な刺激だけを処理して 認識することができる。 人間というのは凄い生き物だと思います。 3つ目は、解釈は変えることができる、ということです。 インプットの処理は、そのときのわれわれの態度に応じて様々に 変化します。 パソコンの動画をまた例にしますが、われわれが動画でアニメを 見ている場合、そこから物語の本質を見出そうと思って見るのか、 ただの娯楽として楽しく見るのかでは、同じものを見たとしても 得られるものがまったく違います。 同様に、人間関係で悩んでいるときにアニメを見るのか、世界に 絶望しているときにアニメを見るのか、食糧問題の解決の糸口を 探しているときにアニメを見るのか、現代の時代性を探るために アニメを見るのかでも、得られるものは当然違ってきます。 これが態度に応じて解釈が変わるということです。 われわれは小さい頃から勉強することだけを叩きこまれていて、 勉強するときの「態度」については一切教わりません。 やる気があるときに勉強するのと、やる気がないときに 勉強するのとでは、得られる量も質もまったく違うということは 誰でも実感していることだと思います。 凡人の親や教師だってそれぐらいは知っているはずです。 にもかかわらず、彼らはその態度を考慮せず「とにかく勉強しろ」 ということだけを言うのです。 そりゃ日本の学生がバカになるのも当然ですよね。 国語や数学や英語などの教科は、単なるインプットに過ぎません。 重要なのは、われわれがそれをどう解釈し処理するか、つまり どういう態度で勉強に臨むかなのです。 ですから、もしあなたがだらけた態度でこの記事を読んでいるなら、 読むだけ時間の無駄です。 もちろん暇つぶしとして読んでもらうことは構いませんが、 「暇がある」ということ自体が、あなたが凡人である証拠ですから そのことは自覚しておいてください。 ともかく ・99%のインプットをカットする ・インプットの価値判断を行う ・解釈はそのときの態度によって変わる の3つが解釈の重要な役割や特徴だということです。 これらの精度によって「学ぶ」の効率や効果は大きく変化するので、 何かを学ぶ場合には気をつけておいた方がいいと思います。   3.アウトプット アウトプットとは、解釈によって得た情報を確認することです。 この確認なくして「学び」とは言えません。 例えばあなたが何らかの数学の公式を覚えたとしましょう。 この時点でインプットと解釈は終わっています。 しかし、その公式を使って問題を解くことができなかったとしたら、 あなたは公式を「学んだ」と言えるでしょうか? それは公式を「覚えた」だけであって、「学んだ」ワケではないと 思うのです。 「学ぶ」とは、しかるべき文脈において、その知識や経験などを 活かすことができる、ということです。 だとすれば、そこにアウトプットが含まれるのは当然だと言える でしょう。 なぜなら、実際に活かす(応用する)ことができるか否かは、 アウトプットをやってみて、はじめて分かるからです。 学ぶことの目的は何なのかを考えてください。 人によって目的は色々だと思いますが、大きくまとめてしまえば 「成長するため」ですよね? じゃあどうすれば成長したと判断できるのか。 それはアウトプットをしたときなのです。 以前より上手くなった、以前は出来なかったことが出来るように なった。 そういうアウトプットによる実感があったときに、われわれは 成長したと感じます。 どれだけ料理のことを勉強しても、実際に料理をしてみなければ、 料理が上手くなったのかどうかは分かりません。 どれだけ国語や数学を勉強しても、その知識を使ってみなければ、 本当に使えるようになったのかは分かりません。 こうした成長を確認するために、アウトプットが必要なのです。 自分がどれだけ成長したかが分かれば、迷わず次のステップに 進むことができます。 しかし、今の自分の立ち位置が分からなければ、次に自分が何を やるべきかも分かりません。 「どこから手をつければいいのか分からない」という悩みは、 このアウトプット不足から来るものなのです。 逆説的に見えるかもしれませんが、もしあなたが何から勉強を すべきか悩んでいたとしたら、まずは自分の知っていることを アウトプットすることから始めてください。 自分がどこまで知っているかを知れば、自ずと学ぶべきことは 見えてきます。 思考にかかる霧は、「知っていること」と「知らないこと」の 間にかかっていて、その境界を曖昧にしています。 その霧を払いのけるには、アウトプットによる確認が必要です。 脱凡人に楽な道はありません。 面倒臭いと思うでしょうが、それをやった人だけが着実に前進して 行けるのです。   お分かりのように、われわれが意識すべきは 1.インプット 2.解釈 3.アウトプット のうちの、2(解釈)と3(アウトプット)です。 ただし、この3つの段階は一連のプロセスですから、本来は切り離して 考えることはできません。 インプット・解釈・アウトプットしたものは、またインプットを経て、 解釈を経て、アウトプットされるということです。 われわれが学び続けるかぎり、この循環(ループ)は無限に続きます。 そして、この循環に飛び込むことこそが「成長」であり「成功」 なのです。 インプットと解釈で、循環を止めてはいけません。 循環を止めた瞬間に、われわれは凡人になります。 凡人とは、いつも自己満足(インプットと解釈)で物事を終わらせる 生き物なのです。 インプットはアウトプットのために。 アウトプットはインプットのために。 すべては自分のためであると同時に、世界の(周りの)ためである という意識を持って学んでください。 あなたが自分のために学ぶべきこととは、あなたが世界のために 学ぶべきことなのです。   ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック     ...more»
解釈からの逃走 ~スーザン・ソンタグ著『反解釈』を手引きに~
ども、ペスです。 最近僕は現代美術に対して以前とは違う感情を抱くようになってきました。 以前(と言っても、つい1ヶ月程前までですが)は現代美術の展示には学芸員などの 美術に理解のある人の補助が必要だと言っていたし、実際そう思っていたのですが、 それは少し違うような気がしてきたのです。 その考えは最初、キュビズム以後を現代美術と呼ぶのが妥当と言えるのではない だろうか、という発想から始まりました。 キュビズムを現代美術の起源とする場合、それ以前とそれ以後の美術作品には明確な 違いが見られます。 キュビズム以前の美術は理解度の差はあれど誰が見ても“容易に”楽しめるもの だったのに対して、キュビズム以降の美術は人々の理解からどんどん遠ざかっている、 ということです。 古典主義やマニエリスム、浪漫主義、印象派などの巨匠が生み出した人物画や風景画は 万人を魅了し、今もその効力を失っていません。 彼らの作品は今でも人気があり、展覧会を開けば比較的多くの人が美術館に集います。 一方で、キュビズム以降のフォーヴィズムやシュールレアリズム、ミニマリズムといった 美術作品は人々の注目を集めるどころか、名前さえ知られていないのが現状です。 それらを見に来るのは極一部のマニアックな人だけであり、今の時代の「ぶっ飛んだ」 美術作品においては、彼らすらも敬遠する傾向にある。 こうした現実を見ると、現代美術は(人々の)解釈から逃げているように見えてきます。 解釈から身をかわすために、芸術はパロディになることもあろう。 あるいは、抽象的になることもあろう。 あるいはまた装飾的になることもあろう。 さらにまた、解釈に完全な空振りをくらわせるために、芸術は非芸術になることも ありうる。 スーザン・ソンタグは『反解釈』の中でそう言っていますが、われわれが現代美術と 呼ぶものは、まさしく彼女の言葉そのままではないでしょうか。 ただ石を床に並べてみたり、ただハンカチを重ねてみたり、ただ身の回りのものを 箱の中に入れてみたり、ただキャンバスを黒く塗ってみたり・・・。 これらの美術作品には解釈の余地がありません。 もちろん、これらを“無理やり意味付けて”語ることは可能だし、そういうことを している人はネット上にもたくさんいますが、それは正しい芸術との接し方ではない、 むしろそれは芸術を安易なものにおとしめていると彼女は言います。 現代における解釈は、つきつめてみると、たいていの場合、芸術作品をあるがままに 放っておきたがらない俗物根性にすぎないことが分かる。 本物の芸術はわれわれの神経を不安にする力を持っている。 だから、芸術作品をその内容に切りつめた上で、それを解釈することによって、人は 芸術作品を飼いならす。 解釈は芸術を手におえるもの、気安いものにする。 そもそも知的態度で芸術と接すること自体が間違いである。 彼女はそう言うワケです。 では、われわれは現代美術(芸術)とどう接すればいいのか、という話になるワケですが、 それについては彼女のこんな発言が参考になるかもしれません。 いま重要なのは、われわれの感覚を取り戻すことだ。 われわれはもっと多くを見、もっと多くを聞き、もっと多くを感じるようにならなければ ならない。 われわれの仕事は、芸術作品のなかに最大限の内容を見つけ出すことではない。 ましてすでにそこにある以上の内容を作品からしぼり出すことではない。 われわれがなすべきことは、「もの」を見ることができるように、内容を切りつめること である。 芸術についてのあらゆる解説と議論は、芸術作品を――そしてひろげて言えば、われわれ 自身の経験を――われわれにとってもっと実在感のあるものとすることを目指すべき である。 これは簡単に言えば、芸術体験を大切にしなさい、ということです。 石が置いてあろうが、ハンカチが重ねてあろうが、ガラクタが並べてあろうが、 それを見て感じたものを知識ではなく経験として積み重ねなさい。 そして芸術に関わる者は、その経験を補助、つまり余計な解釈が起らないよう、 鑑賞者に働きかけなさない。 僕には彼女がこう言っているように思えます。 すなわち芸術、特に現代美術に対する補助とは「分かろうとしないこと」を鑑賞者に 教えてあげることであり、感性を理性の支配下に置かないことを警告してあげること なのです。 知識同様、経験も積み重ねなければ、その本来の効力を発揮しません。 一度美術作品を見ただけでは、その醍醐味は味わえないのです。 釣りだって、サッカーだって、読書だって、ゲームだって、続けているからこそ 見えてくる魅力があると思います。 続けなければ身に付かない技術もあるだろうし、続けているからこそ分かる感覚、 分かる嬉しさ、分かる悔しさなどがあるはずです。 1回目は何も分からなかったけど、3回目ぐらいからコツがつかめて、10回目に なる頃には人に教えられるぐらいになっている。 経験とはそういうものです。 だとしたら、彼女は単純なことしか言っていません。 いっぱい経験すれば体が勝手に覚える、そして経験は別のものへ昇華する。 それだけです。 芸術とはいっぱい体験するためのものであって、いっぱい学ぶためのものではない。 そして現代美術とは、今までにない新しい体験をするためのものである。 僕には彼女のそんな囁きが聞こえます。 ...more»
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