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見えないものを見る力
  人智学を創ったことで有名な、ルドルフ・シュタイナーという 神秘学者がいます。 彼はかつて、一般の人には認識することのできない霊や魂、 すなわちスピリチュアルの世界を科学のルールに則って 伝えようとしました。 正しい修行を正しく積めば、霊や魂は誰にでも認識できる (超感覚には再現性や客観性がある)。 それがシュタイナーの立場です。 スピリチュアルと言うと、一般には何か特殊な才能がないと 認識できないものだと思われていますが、彼は自身の著書で それを繰り返し否定しています。 それどころか 「人間が可視的な世界の中で認識する事柄は、不可視な世界について 知ることのできる事柄によって、補充されなければならない。(中略) 可視的なものを認識するには、繰り返して不可視なものの中へ沈潜し、 認識能力を進化させなければならない。超感覚的なものについての 科学こそが、可視的な世界についての知識を可能にする」 とまで言っています。 彼の言う不可視な世界とは、スピリチュアルの世界のことです。 つまり彼は、不可視な世界を認識できなければ、可視的な世界の 事柄を「本当に」知ることはできない、と言っているワケです。   前回僕は「見えないものの結果が見えるものだ」と言いました。 そしてシュタイナーは、「思考と感情と意志は、外界を体験するとき、 その開示された現象(見えるもの)を開示されざる作用 (不可視な世界=見えないもの)の表現であることを認めないかぎり、 互いに理解し合えぬままにとどまるであろう」と言っています。 これらはどちらも「見えないもの」が「見えるもの」を支えている、 ないし定義づけていると言っている点で共通しています。 「見えないもの」を認識できたときに、「見えるもの」の本当の 意味が分かるということです。 例えばニュース。 巷のメディアではエボラ出血熱のような世界規模のニュースが 流れたかと思えば、次の瞬間には幼児虐待や強盗殺人のような ローカルなニュースが流れてくるワケですが、これらのニュースが 個々バラバラに見えているとすれば、まだ「見えないもの」を 認識できていないと思ってください。 別にメディアはそのニュースが大事だから伝えているワケでは ありません。 その他に山ほど伝えるべきことがあるにもかかわらず、 それらのニュースを「敢えて」選んで取り上げているのには、 それなりの理由があるのです。 その理由(メディアの意図)が分からなければ、そのニュースが 本当に意味することは分かりません。 これが僕の言う「見えないものの結果が見えるものだ」の一例です。 シュタイナーが言っていることはもっと深くて、例えば彼は 手造りの物と機械で作った物とでは、見た目や素材が同じでも 得られるものがまったく異なると言っています。 もう少し極端な例を挙げると、同じ野菜を育てるのでも、 それを育てている人の人格次第で野菜に含まれるものが異なる ということも言っている。 これ以上突っ込むといらぬ誤解を招きかねないので、これぐらいに しておきますが、われわれが普段接する物の意味、つまりその物が 「実際には」われわれに何を与えているのかは、「見えないもの」を 認識できなければ分からないということです。   以上のことから、「見えないもの」には大きく分けて2つの種類が あるということが分かります。 1つは僕の言う意味での「見えないもの」、つまり推論によって 見えるようになるもの、もう1つはシュタイナーの言う意味での 「見えないもの」、つまり超感覚、スピリチュアルな感覚を 磨くことによって見えるようになるものです。 後者については、僕はほとんど語る資格がありません。 シュタイナーの言わんとすることは理解できるし、それを噛み砕いて 説明することはできますが、彼と同じように、あっちの世界を 認識することは(少なくとも現時点では)できないからです。 魂も霊もエーテル体もアストラル体も僕には認識できません。 それを無理に語ることは、やはり無責任と言えるでしょう。 僕が語れるのは前者だけです。 じゃあなんでわざわざシュタイナーの話を出したんだ、と思うかも しれませんが、その理由は後で分かります。 「今の」われわれにとって重要なのは、理性を超えた能力ではなく、 理性的能力の方なのです。   どのような能力があれば推論によって「見えないもの」を見ることが できるのか。 この問いを考えたときに僕の頭には4つの能力が浮かびました。 その4つとは 1.問う力 2.根気 3.論理的思考力 4.関連づける力 です。 まず問う力がなければ、推論は「始まり」ません。 われわれは「なぜだろう?」と思うから考え始めるのであって、 そもそもその「なぜ」が浮かばなければ、思考力云々以前に 考え始めることすらできないということです。 残念なことに、ほとんどの人はこの時点でつまづいています。 何に対して何を問えばいいのか分からない。 いつ何を考えるべきなのか分からない。 そんな状態です。 これは言い換えると、それだけ世界に対して無関心だということです。 だって関心があれば自然と考えますよね? 例えばダイエットに関心がある人なら、自然と「どうやったら 痩せるのか」とか「なぜあの人は食べても太らないのか」とか 考えるでしょ。 ニュースを見ていても、そこに何の疑問も浮かないならば、 そのニュースには関心がないということです。 仮にそこで「なぜこんな事件が起こるのか」という疑問が湧いても、 多くの人は深く考える前に、考えるのをやめてしまいます。 もしくは「そういう時代だから」とか「政治家はバカだから」とか 「最近の若者は何を考えているのか分からない」と、安易に自分で 答えを決めてしまう。 これは、彼らに疑問を考え続けるだけの根気がないからです。 せっかく重い扉を自力で開いたのに、彼らはそこに足を踏み入れず、 簡易のガイドマップだけを見て満足して帰ってしまうのです。 彼らにとって重要なのは答えであって、問いではありません。 しかも彼らが求めているのは正しい(論理的に考えて妥当性の高い) 答えではなく、(感情的に)納得のいく答えです。 このことから、彼らがいかに理性的能力から遠い存在であるかが 分かります。 ただ、問う力と根気があったとしても、論理的思考力がなければ そこから考えを深めていくことはできません。 重い扉を自力で開いて、そこに足を踏み入れたのはいいものの、 そこから何を基準にして先へ進んだらいいのか分からない。 簡易のガイドマップはあくまで「簡易」のため、ほとんどあてに なりません。 未踏の大地で一歩一歩、歩を進めていくためには、 方位磁石のようなある種の絶対的な基準が必要になるワケです。 そして上記3つの力が揃っていても、関連づける力がなければ 途中で立ち往生してしまうかもしれません。 関連づける力は、論理的思考力の相棒のようなものだと思って ください。 論理的思考力があれば基本的に先へは進めるのですが、 この能力だけではどうしても行き詰ってしまうことがあります。 それはアイデアと呼ばれるものが、しばしば論理的飛躍 (帰納的飛躍)から生まれることを考えれば、なんとなく想像は つくのではないでしょうか。 問いの答えは純粋に論理的に導けることもあれば、 突飛なアイデアからしか導けないこともあります。 歴史的な発見なんかはむしろ、論理的に見つかったというよりも、 今まで全く関係ないと思っていたもの同士が結び付いた瞬間に 起こることがほとんどです。 つまり大抵の場合、ゴールへ辿り着くにはどこかで関連づける力が 必要になってくるのです。   ちょっと長くなりましたが、以上の4つ 1.問う力 2.根気 3.論理的思考力 4.関連づける力 が、僕の考える推論に必要な能力です。 この4つを身につければ、推論によって「見えないもの」が 見えるようになります。 もちろんこれには度合いがありますから、その度合いによって 見える範囲や種類は異なりますが、その度合いを高めれば 見える範囲や種類は増えていくということです。 そしてさらに重要なのは、この理性的能力を身につけることが、 理性を超えた能力を獲得するための前提条件だということです。 これは理性を「超えた」能力という言葉を正しく理解していれば 分かると思います。 理性を超えた能力とは、理性とは別の能力ではありません。 それは理性を「超えている」のですから、言葉の定義として、 理性的能力を「踏まえて」いなければおかしいワケです。 例えばオリンピック選手は常人の能力を超えた能力を持っています。 けれども、それは常人とは別の能力を持っていることを意味する ワケではなく、常人並の運動能力があるのは当然として、それ以上の 能力を彼らが持っていることを意味するワケです。 だとすれば、理性を超えた能力が、理性的能力を踏まえていなければ ならないのは当然でしょう。 シュタイナーを代表とする、あっち系の人たちは非常に勉強熱心です。 彼らは僕なんか比較にならないぐらい勉強しています。 その上で、霊的な修行(瞑想)も行っている。 だからこそ、彼らは理性を超えて物事を見ることができるのです。 極稀に「オーラが見えるようになっちゃいました」的な人がいますが、 彼らは例外です。 その証拠に、彼らはどうやればオーラが見えるようになるのかを 説明できません。 理性的能力を踏まえていないと、どうしてもあーゆーふわふわした 感じになります。 それがいいか悪いかはここでは議論しませんが、そういうことも 稀にあるということです。   あなたが「見えないもの」を見たいかどうかはともかく、 僕は見るべきだと思います。 それは初めの方でも言ったように、見えないものを見なければ、 見えているものの本当の意味が分からないからです。 極端な話、見えないものが見えなければ、今あなたが読んでいる このメルマガの意味も本当には分からないということです。 もちろん僕のメルマガは自分の読みたいように読んでもらえば それで構わないのですが、それだけではちょっともったいないと 思いませんか? どうせ同じ時間を使って読むなら、浅くしか理解できないよりも、 深く理解できる方がいいと思うんです。 だって、同じ時間で得られるものが何倍も違ってくるんだから。 それは言い換えると、同じ時間で凡人から脱せる度合いが何倍も 違ってくる、実力の度合いが何倍も違ってくるということです。 だったら、もうやるしかないですよね? 次回からは今挙げた4つの力を1つ1つ解説していく予定です。 (※多分ブログには転載しません) それを読むだけで「見えないもの」が見えるようになるとは 言いませんが、読まないことに比べればかなりの近道にはなると 思います。 本来であれば、次回の記事が送られてくるまでに今回の 「見えないもの」を自力で見つける、つまり問う力とは何か、 根気とは何かなどを自分で考えてみるというのが一番の訓練に なるのですが、いきなりそこまでやれとは言いません。 言いませんので、せめていろんなものに興味・関心を持つように してください。 それが推論の、「見えないもの」を見るための第一歩です。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
続・見えるものと見えないものの関係
  古事記の冒頭に、五柱の別天津神(ことあまつがみ)が 高天原(たかまのはら)に現れて姿を隠してしまう話があります。 別天津神のうち天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と 宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)、 そして天之常立神(あめのとこたちのかみ)についてはそれ以降 何の記述もなく、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)も 思金神(おもいかねのかみ)という娘が少し出てくるのみで、 唯一本人(本神?)について記述があるのは神産巣日神 (かむむすひのかみ)だけです。 しかし神産巣日神にしても植物の種を作った(?)というような 短い一文があるに過ぎません。 彼らが取るに足らないような、窓際族的な神様たちだったなら 記述が少ないのも分かるのですが、古事記の冒頭に登場する ということは、彼らの位置づけは間違いなく創造神です。 そんな重要な神様の記述がここまで少ないのはなぜなのか。 重要な神様のことであれば、もっと詳しく書くべきではないのか。 職業柄なのか、どうもそういうことが気になるのです。   別天津神のことは日本書紀でも存在が明らかになっているのみで、 何の神なのか、何のために高天原に現れたのかなどは分かりません。 古事記や日本書紀の著者・編者が書きそびれたという可能性も なくはないですが、そう解釈するのはあまりに失礼というか、 当時日本で指折りの賢者だった彼らを侮辱し過ぎだと思います。 あの時代に漢字が読み書きできるというのは、今で喩えるなら 恐らく20ヶ国語が自由に読み書きできるぐらいのレベルです。 なんせ日本人のほとんどは字が読めないどころか、日本語すら まだ文字として存在していなかった時代ですからね。 そう考えると、論理的に妥当なのは、やはり著者・編者が 「意図的」に別天津神の詳細を記述しなかった、という解釈に なるでしょう。 さて、ここでまた疑問が浮かびます。 仮に彼らが意図的に別天津神の詳細を記述しなかったとすれば、 それはなぜなのでしょうか。 敢えて書かなかったからには、当然そうするだけの理由が あったはずです。 その理由とは何なのでしょう。 これには色々意見があるでしょうが、僕は裏方にまわること、 つまり神々が「見えないもの」として存在することの重要性を 彼らが理解していたからだと思います。 別天津神について何も書かれていないのは、書かれていない方が、 われわれの神々に対する畏怖や畏敬の念が湧いてくるからです。 もし神社にいる神様が「見えるもの」として目の前に現れたら、 なんだか有り難さも威厳も無くなってしまうと思いませんか? ましてや貧乏神や福の神のように具体的に何をやっている神様か 分かってしまったら、「この神様は別に拝まなくてもいいや」とか 「この神様は拝んでおこう」という発想になってしまうと思うのです。 実際、学問の神様や恋愛の神様は、そういうある種の欲望の対象に 成り下がっています。 これでは神様の威厳も何も、あったものではありません。 つまり、偉大な神様であればあるほど、謎に包んでおいた方が 何かと都合がいいのです。   分からないことの良さ、見えないことの良さをわれわれはもっと 理解しなければなりません。 昔の人は現代人なんかより想像力に優れ、感性も鋭く、頭の回転も 早かったのだと思います。 なにより「見えないもの」を見えないままにしておくことで、 そこから無限の可能性が湧き出てくることをよく理解していました。 心の豊かさは「見えないもの」に宿ります。 見えないからこそ幽霊は怖いし、神様には逆らえないのです。 これを持たない人間は持つ人間と比べて倫理観が圧倒的に劣ります。 人の見ていないところなら何をやってもいい。 バレなければ大丈夫。 そう考えるようになります。 昨今の日本でモラルの崩壊が頻繁に起っているのは、 元々あった「見えないもの」、宗教学で言うところのアニミズムを われわれが失ってきているからです。 お寺や神社を拝まなくなり、お地蔵さんも、家の神棚も、お墓も 拝まなくなったからです。 時代の流れからすれば、失われた本質は次に必ず求められます。 モラルがなくなればモラルが求められるようになるのは 当然の流れです。 温故知新。 こんな時代だからこそ、われわれはもっと昔の人たちを見習うべき ではないでしょうか。   閑話休題。   前回の記事で僕は「見えないものの結果が見えるものだ」という 言葉を引用しました。 「見えないものの結果が見えるものだ」ということは、 われわれはいつも結果しか見ていない(見えていない)、 ということです。 結果とはプロセスの終わりを意味しますから、われわれが見ている 「見えるもの」とは、いつも「終わったあとのもの」です。 例えばニュース。 われわれは大体ニュースを見てから騒ぐことが多いワケですが、 それは既にすべてが終わったあと、換言すれば、その時点で 何もかも手遅れだということです。 尖閣諸島問題や原発問題など、あらゆる問題は顕在化した時点で、 もう結果は出てしまっています。 当たり前だと思うでしょうが、この「終わったあとのもの」を見て 騒ぐことの愚かさを多くの人は理解していません。 悪いのは顕在化するまでそのことに気付かなかった、 関心を持とうとしなかった自分たちなのに、それを棚に上げて 一方的に関係者を批判する。 これを愚かと言わず、なんと言うのでしょう。 TPP反対や原発反対と言っている人たちを観察してみてください。 彼らは揃いも揃って、TPPや原発を無くせばすべて解決する、 という幻想を抱いています。 でも問題はそこじゃないんですよ。 確かにTPPや原発は反対運動で無くせるかもしれませんが、 そういう無責任で無反省な人間が存在し続けるかぎり、何度でも、 いくらでも、危うい問題は起こり続けるのです。   本当に問題を解決したければ、問題が顕在化(問題化)する前に 警告や運動をしなければなりません。 それはまだ顕在化していないワケですから、現時点では当然 「見えないもの」です。 そのため世間からは寒い目で見られることが多いと思います。 実際、環境問題を研究している世界的な研究機関であっても、 温暖化や環境破壊の警告は各国から寒い目で見られています。 本腰を入れて環境問題に取り組む先進国はいまだに存在せず、 彼らの警告は警告としての意味を為していません。 僕がこれまで何度か言ってきたハイパーインフレなどについても、 それがまだ「見えないもの」である以上は、寒く感じられている ことでしょう。 金融の実情を知れば、疑う余地はまったくないと言っても いいぐらいなのですが、それもまた「見えないもの」であるため、 「見えないもの」が「見えないもの」をより見えなくしている、 というのが現状です。 世間の人たちに見えているのは精々、なんだか分からないけど 円安が進んだことぐらいだと思います。 あれは別にアメリカの景気が回復しているからではないし、 前にも言ったと思いますが、そもそもお金を刷り続けている国の 通貨価値が上がるというのは、まったく正常ではありません。 僕がこういうことを言っても伝わるのは極一部だということは 理解していますが、それでも諦めずに伝える努力を続けるのが、 われわれ脱凡人たろう者の仕事なのです。   思いがけず続編まで書いてしまった「見えるものと 見えないものの関係」は、現実のいたるところに存在します。 もうお気付きでしょうが、「見えるものと見えないものの関係」 それ自体もまた「見えないもの」です。 関係なんてものは誰の目にも見えません。 しかし、それは確かに存在します。 見えないのに、なぜか存在すると断言できてしまう。 これもまた人間の不思議なところです。 これをキッカケに存在の深淵へ落ちていくのも面白いかもしれません。 身の周りにある「見えるものと見えないものの関係」を探してみて ください。 そこからはきっと、存在の奇跡が溢れ出ているはずです。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
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