UA-32556480-1
top-image

Tag archives for 行動経済学

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに答えられない理由
ども、杉野です。 先日メルマガで以下のようなクイズを出しました。   あなたに自分の子供がいたとして、その子から「ねえねえパパ(ママ)、なんで人を殺しちゃいけないの?」という質問をされたとしましょう。 この質問に対してどう対応するのがベストだと思いますか? 今回は少しだけヒントを出しておきましょう。「真正面から答えたら負け」。これがヒントです。   これについての解説が、今回転載する記事です。 読むだけでも勉強になることは約束しますが、自分なりに上記の問いを考えてから読むと、もっと勉強になります。 というワケで、できれば考えてみてから読んでくださいませ。 【関連記事】「なぜ人を殺してはいけないのか」に哲学的に答えよう   ■3つの一般的な答えに対する反論 「なぜ人を殺してはいけないのか」 僕が考えうるかぎり、この問いに対する一般的な回答は主に 1.法律で禁止されているから 2.誰かが悲しむから 3.自分が殺されたくないから の3つです。 これらはどれも間違いではないのですが、回答としては不十分と言わざるを得ません。 まず1の「法律で禁止されているから」に対しては「じゃあ法律で禁止されていなければ殺してもいいの?」という反論が可能です。 戦場では他国の人間(軍人)を殺しても法律違反にならないワケですが、そういう場合は人を殺してもいいのでしょうか。 国家が起こした天安門事件のような殺戮は正当化されうることなのでしょうか。 この辺を考え出すと1の回答の正当性はどんどん怪しくなっていきます。 2の「誰かが悲しむから」に対しても1と同じように「じゃあ誰も悲しまなければ殺してもいいの?」という反論が可能です。 身うちのいない、近所付き合いも一切ない一人ぐらしの老人を殺すことは、許されうることなのでしょうか。 孤独なホームレスを集団リンチで殺すことは、何も問題がないのでしょうか。こういう点でこの回答も不十分と言わざるを得ません。 3の「自分が殺されたくないから」にも当然「じゃあ自分が殺されなければ殺してもいいの?」という反論ができてしまいます。 自分が殺されるリスクを負うことなく相手を殺す手段として、われわれは死刑を挙げることができます。 死刑は国家が行うことなので、それが執行されたからといって自分が死の危険にさらされることはありません。 もちろん自分が死刑になる可能性はゼロにはなりませんが、少なくとも誰かが死刑になったということを理由に殺されたりすることはないワケです。 多くの人を殺した大量殺人鬼であっても、殺してはいけないのか。これもまだまだ考える余地がありそうです。   ■場合によっては人を殺してもいい? こうして考えると、今回の問いの深さや難しさが見えてきます。 素朴な感覚として、われわれには 「人を殺していいときもあるんじゃないか」 という考えが浮かんできてしまうのです。 しかし、それは決して悪いことではありません。 実際、われわれはそのときの状況によって、平気で人を殺せてしまうし、殺すことが(法的に)正しいことすらあるのですから。 動物愛護団体の人たちだって、自分が野犬に囲まれて死にそうな状況になったら、さすがにその中の1匹や2匹は殺すと思うんです。 それでも殺さないというのは、ある意味でホンモノだと思いますが、べつの意味では自分の命を軽んじる誤った主義であるとも思います。 この茨の道を進むかぎり、われわれが最終的に行き着くのは 「場合による」 という答えです。 言われてみれば当たり前なんだけれども、恐らくほとんどの人はこの答えにすら辿り着かないと思います。なぜなら、そこまで深く考えないからです。 さっき挙げたような戦争や死刑や天安門事件のような例を含めて考えていけば、「場合による」としか答えられないことは誰にだって分かります。 だって「殺してもいい場合」と「殺してはいけない場合」の両方が現実にはあるんだから。 彼らは問いの前提を見抜くことができないため「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いが「正しい問い」だと勝手に思い込んでいます。 しかしわれわれが知っておかなければならないのは、世の中には問いそのものが間違いであったり、無意味であったり、不完全であったりすることが往々にしてあるということです。   ■間違った問い 「なぜ人を殺してはいけないのか」は不完全な問いです。 現実には殺してもいい、もしくは殺さなければならない場合もあるということを、この問いはカバーしていません。 だから僕は 「真正面から答えたら負け」 というヒントを出したのです。 この問いを真面目に考えたところで、そこから導き出される答えはすべて不完全です。 問いそのものが不完全なんだから当然ですよね。けれども、このことに気付ける人はほとんどいません。 それは彼らがバカだからではなく、われわれは昔からそういう教育を受けてきているということです。 学校で出題される問題を見て「先生、僕らがこの問題を解かなければならない根拠を教えてください」と質問する生徒は1%もいないと思います。 われわれは誰もが問いを解くことだけを教えられますから、問いそのものの意味を考えることなんて普通はできないのです。 だって考えてみてください。自分が出す問題にいちいち「この問いを解くことに何の意味があるんですか?」なんて聞かれたら、正直かなりウザイですよね? 国だって、文科省だって、教育委員会だって、そういう国民が増えるとウザイんですよ、当然。 だから彼らは、彼らが出した問題を素直に解いてくれる国民を作ろうとしているワケです。 その教育をわれわれは十何年も無批判に受けて続けているワケですから、そりゃ誰だって問いを疑う能力なんて身につきません。 愚民化政策というのは、こうやってこっそり行われているのです。   ■自動的な思い込み われわれは「正しい問い」と「どうでもいい問い」を見分ける力を身につけなければなりません。 そのためには、自分が問いをどう認識をしているかを自覚しておく必要があります。 「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを出された際、われわれは無意識的に自分の中で最も一般的な文脈をその問いにあてはめます。 テレビのニュースでは児童虐待や強盗殺人などがよく報道されていますが、多くの人にとってはそれが殺人における一般的な文脈です。 だから「人を殺す」という言葉を聞くと、われわれは無意識的にそれを犯罪という文脈と結び付けて、悪いことだと判断してしまうのです。 これは行動経済学の実験でも証明されています。 例えばある男性が走っていったあとに警官が彼を追っていったとしましょう。あなたはこれをどう思いますか? 普通、この場面を見たら、先に走っていった男性が何か悪いことをしたのではないかと思うはずです。 しかし、それは本当でしょうか?警官に追われることが、必ずしも悪いことをしたという証拠にはなりません。 もしかしたら彼は警官を事件の現場に先導していたのかもしれないし、彼はその警官の上司で、上司のうしろを警官が走ってついていっただけかもしれません。 にもかかわらず、われわれは男性が警官に追われている場面を見ると、自動的に「あの男性は何か悪いことをしたに違いない」と決めつけてしまうのです。 さっきの話もこれと同じです。 「人を殺す」という言葉だけでは何も判断できないはずなのに、そこに自動的に一般的な文脈があてはめられるから、悪いこととして判断されてしまう。 つまり、この「自動」をなんとかできれば、問いを見分けることができるようになるということす。   ■インプットと解釈の区別 「自動」は、それを自覚しさえすれば「手動」に切り替えることができます。難しいのは、それを自覚することです。 われわれは長年のしょぼい教育でその能力をことごとく失ってしまっていますから、それを取り戻すには相応の努力が必要になります。 何十年もサボったツケはそれなりに大きいワケです。 とはいえ、訓練そのものはシンプルです。インプットと解釈を別々に行う。これを繰り返すだけです。 今言った「自動」というのは、このインプットと解釈が自動的に同時に行われているということを意味します。 男性が警官に追われているという事実(インプット)と、男性が何か悪いことをしたに違いないという判断(解釈)が同時に起こっている。 これを別々に行う訓練をしてください。 詳しい方法というのは特にありません。最初は事実を事実として認識し、意味はあとで考える。ホントにこれだけです。 以前話した精読はこの訓練に最適ですので、読書のついでにやってみてもいいかもしれません。 最初はかなり意識しないと難しいですが、慣れれば自動的にできるようになります。 いい機会ですので、ぜひ訓練しておいてください。   ■文脈を見抜く ちなみに、これができないと本も読めないし、それどころか人の話もまともに理解できません。 なぜなら、本の文脈や会話の文脈も「自動」で設定されてしまっているからです。 相手が意図した文脈とは違う文脈で相手の言葉を解釈してしまうと、当然それは相手の意図とは違う意味で自分に伝わります。 相手の心からの「ありがとう」という言葉さえ、場合によっては自分は皮肉だと受け取ってしまうかもしれません。 「そんなつもりで言ったんじゃない」ということが起こるのは、まさしくお互いにこの能力が欠如していることが原因なのです。 コミュニケーションや文脈については、以前に告知した企画でより深く掘り下げる予定なので、こういうことに興味があるなら参加してもらえればと思いますが、それはともかくとして、この記事で大事なのは問いの前提を、つまり問いの文脈を見抜くということです。 「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問自体は不完全ですが、恐らくその質問をした本人は、その問いに何かしらの文脈を設定しています。 何の脈絡もなしに「なぜ人を殺してはいけないのか」と質問してきたとは考えにくい。 例えば戦争映画を見て、そういう問いが浮かんだとは考えられないでしょうか。 だとしたら、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いはその文脈にあてはめて答えることができます。 つまり「戦争中であっても、人を殺してはいけないのだろうか」という問いに置き換えることができる、ということです。 これなら答える余地があると思いませんか? 価値観によって意見が対立することはあるでしょうが、少なくとも自分なりの意見は提示できる。 このことが問いにおいては何よりも重要なのです。   文脈のない問いは、意見すら提示できません。その意見が正しいか間違いか以前に、まともに答えることすらできないのです。 そんな問いに向き合うことほど、バカらしいことはありません。 「じゃあなんでそんなことをさせたんだ」と思うかもしれませんが、その反論は誤りです。 僕が前回のクイズに何と書いたか、もう一度読み直してください。 僕は「なんで人を殺しちゃいけないの?」という質問に答えろとは一言も言っていません。 その質問に対してベストな対応を考えてください、と言ったのです。 ですから、そこには答えないという選択も含まれます。答えてもいいし、答えなくてもいい。 僕がそう言っているにもかかわらず、それを勝手に答えなければならないと解釈してしまうのは、先程話したインプットと解釈を分ける能力が欠けているからです。 僕の書いた文章が読めていないからです。 まずはそのことを自覚しましょう。 われわれはこんなところで立ち止まっている場合ではないのですから。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックしてメルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック     ...more»
京都市立美術館「須田国太郎展」にて ~美術鑑賞の行動経済学~
ども、ペスです。 以前、京都市美術館で日展を見た際に「須田国太郎展」も一緒に見てきました。 本当はこっちがメインだったんですが、これといって話すことが思いつかなかったので、 今まで延び延びになっていた、という感じです。 たまにはそーゆーこともありますよ、人間だもの。 そういえば今年の春は京都市美術館でゴッホとリヒテンシュタインを同時開催する ようですね。 これについては色々言いたいことがあるんですが、それはともかく、定評のある作家の 作品を一気に見るには良い機会だと思います。 気になったら行ってみるといいかもしれません。   さて、須田国太郎展の話です。 失礼な話なのですが、僕は須田国太郎という人物をまったく知りません。 この展覧会を知るまで名前も聞いたことがなかったし、彼の絵を見たあとも特に何も 調べていません。 調べていないのは僕の単なる怠慢なのですが、そんな情報は無くても作品の 良し悪しは分かります。 以前から言っているように、作品の良し悪しを判断するには自分の感覚に頼るしか ありません。 作家の活動歴や人物像を知るのはもちろん大事ですが、その情報が作品に 反映されているということを“感じ取る”には、やはりそれを捉える感覚が 必要なのです。 こう言うと大体の人は 「感覚って言われても・・・」 みたいな感想を持つと思います。 言いたいことは分からないでもないけど、どうすりゃいいのよ、と。 これについては今までいろんな解説をしてきましたが、今回はこれまでと違った視点、 行動経済学という視点を導入して、 美術の良し悪しを判断することはいかにして可能か ということを出来る限り科学的に解説してみようと思います。 この時点では意味が分からないと思いますが、期待してもらって構いません。 あなたの美術鑑賞、いや、生き方は今日から変わりますよ。   まずは行動経済学の基本概念を学んでおきましょう。 今からお話する内容で最も重要な概念はシステム1とシステム2と呼ばれるものです。 システム1とは、直感や感情、衝動、感覚、価値判断といった自分では意識的に 制御できないものを指します。 例えば誰かを好きになった場合、その「好き」という感情はわれわれには絶対に 制御できません。 たまたま変な場面に遭遇してその人を嫌いになることはあっても、意識的に感情を コントロールして「好き」を「嫌い」に変えることは出来ないはずです。 もちろんその逆も然りですし、他にも「美しい」と思ったものを無理やり「醜い」と 感じるように感情を操作することは出来ません。 表面的に「醜い」と言い張ることは可能ですが、それでも自分の心は「美しい」と 感じ続けています。 そういう無意識的に生まれてくる自分でも操作不可能な直感や感覚などのことを システム1と言うワケです。   われわれは日常生活のほとんどをシステム1に委ねています。 それは自分の行動を思い返してもらえれば分かるはずですが、 今あなたがこのブログを読んでいるのだって、恐らくシステム1の仕業です。 その証拠に、あなたはブログを見にきた理由を自分でも知らないはずです。 「更新されたから」とか「面白いから」とか、そういう理由はあるかもしれませんが、 その理由がそもそもシステム1ですよね? 更新されたから、なんとなく見にきた。 面白いから、なんとなく見にきた。 そこに明確な目的や意図、もしくは見なければならない理由などは無いと思います。 要は感覚的に、感情的に、衝動的に、なんとなく見たいから、あなたはこのブログを 見にきているワケです。 あなたのシステム1は間違いなく優秀です(笑) ちなみに今の話は良いとか悪いとかはまったく関係ありません。 こんな感じでわれわれは日常のほとんどをシステム1の判断(感覚)に任せて 生きているということを言いたかっただけですので、単なる事実として 捉えておいて下さい。   システム2とは、論理的思考や選択、行動などの自分で意識的にコントロールできる (と思っている)ものを指します。 この記事を読んだり読まなかったりすることは誰でも自由にできます。 また極端に難しいことでなければ、字を書いたり、計算したり、数を数えたり、 投票したり、買いたい商品を選んだり、一定の条件で商品を振り分けたり、 といったこともできるでしょう。 それらはすべてシステム2に属するものです。 このシステム2はシステム1を自覚し、それを自分が望む方向に矯正していくことが できます。 「好き」という感情を生み出すのはシステム1ですが、それが「好き」であると 自覚するのはシステム2の役割です。 システム2はシステム1の生んだ「好き」という感情を抑えつけるために、その相手と 顔を合わさないようにしたり、メールアドレスを変更したり、遠くに引っ越したりする ことができます。 システム2は「好き」を直接「嫌い」に書き換えることはできなくても、「好き」という 感情が減衰するような対応を取ることが出来るワケです。 しかしシステム2は基本的に怠け者で、それを働かせるためには努力(注意力)が 必要です。 普段多くの人が自分の感情や価値判断(システム1)に何の疑問も持たない (自覚していない)ことからも明らかなように、システム2は意識的に注意しなければ 働きません。 例えば「自分はなぜその商品が欲しくなったのか」なんてことは余程ビジネスに関心が ある場合にしか考えないはずです。 考えない理由は大体「面倒臭い」とか「考える意味がない」とか「考えるという発想すら 無かった」とか、そういうものだと思います。 そんな感じでシステム2というのは意識しておかないと楽なことばかりを選ぶのです。 まったく、誰に似たんだか。 システム2に関してはこんなところです。   なんとなくシステム1とシステム2については分かってもらえましたか? まあ分かってなくても進んじゃうんですけどね。   もうお気づきかと思いますが、美術鑑賞というのはシステム1の仕事です。 われわれが作品を見たときにわれわれのシステム1がそれを「美しい」と感じたり、 「この作品には価値がある」という価値判断を行ったりするワケです。 それは先に言った「感覚で捉える」という言葉からも明らかでしょう。 しかし重要なのはここからです。 だったら、どうして特定の人にだけ「この作品は素晴らしい」という感覚や 価値判断が引き起こされ、それ以外の人には起こらないのか、ということです。 これは考えればすぐに分かることなのですが、人それぞれシステム1の能力に差が あるからです。 システム1の能力は人によって違います。 優れたシステム1を持っている人は、体操選手のように考えなくても感覚でくるくる 回れたり、ボクシング選手のように条件反射的にパンチをかわせたり、サカナくんの ように「ぎょぎょっ!」とか言いながらお魚と話しができたり、そういうことができます。 ホントなら凄いよね、サカナくん。 ぎょぎょっ。 それらはすべて、最初はシステム2で意識的に繰り返されていたことです。 例えばあなたも最初からパソコンのキーボードをすらすら打てたワケではないと 思います。 最初はシステム2で基本ポジションみたいなものを習って、キーボードの文字の位置を 確認して、1つずつ文字を意識しながら打っていたはずです。 それが何ヶ月か続けているうちに体に染み込み、システム1として特に意識することなく できるようになった。 システム1とシステム2にはこういう関係があるワケです。   しかし、それは今紹介したような技能や特技に限った話ではありません。 われわれが日々の生活の中でなんとなく繰り返していることは、知らない間にすべて システム1に組み込まれて、それを強化していきます。 ここが今回の最重要ポイントです。 自分の日常を振り返ってみれば分かると思いますが、何か明確な意図や目的をもって 意識的に行動することはかなり稀なはずです。 なんとなくフェイスブックを見て、なんとなくニュースサイトを見て、なんとなく テレビを見て、なんとなく安い物を買って、なんとなくお菓子を食べて、なんとなく ゴミを捨てて、なんとなく働いて、なんとなく食器を洗う。 ほとんどの人はこういう生活をしていると思います。 この何の意図も目的もない「なんとなく」というしょーもない生活の繰り返しが、 しょーもないシステム1の“しょーもなさ”を強化しているのです。   システム1が美術鑑賞の質を左右するのならば、多くの人に美術の良し悪しが 判断できないのは、しょーもないシステム1しか持っていないからです。 残念ですが、しょーもない人間のしょーもないシステム1には作品は何も応えて くれません。 そういう人はシステム2で「きれい・汚い」や「上手い・下手」といったこと捉えるのが 精一杯でしょう。 確かにそれも必要なことですが、それは感覚で捉えることとは別の話。 作品を感覚で捉えられるようになるには、その作品を見るに相応しい“生活”をする 必要があるのです。 それは「大豪邸に住まなければならない」とか「お金持ちでなければならない」という 一般人が考えるような下品な意味ではまったくありません。 むしろそんなのは邪魔です。 大事なのは毎日を“丁寧に生きる”こと。 それだけです。 たったそれだけで歴史に残る美術から誰よりも多くのことを得られるようになるの ですから、安いもんですよね。 お金も一切かかりません。 そうだと分かれば、あとはやることをやるのみ。 今年の抱負は「丁寧に生きる」にしましょう。 結果は僕が保証します。   追伸1: あ、そうそう。 「丁寧に生きる」の意味が分からなくても僕に聞かないで下さいね。 そうやって人に聞けばいいと思って甘ったれてるから、ダメなんですよ。 今のままでは仮に僕が答えを教えたとしても、あなたには丁寧に生きることなんて できません。 断言できます、絶対に無理です。 「丁寧に生きる」とは何なのか。 まずはそれを考えることからやって下さい。 それが丁寧に生きることの第一歩です、いや、マジでね。 ヒントは記事の中にありますから、それこそ“丁寧に”読めば分かります。 もし答えを知りたいなら、自分なりに答えを考えてから 「私は・・・だと思うんですが、どうでしょうか?」 という感じでコメントするか、僕に直接メールを出して下さい。 別に出し惜しみしているワケではないので、やることさえやってくれれば、いくらでも お教えします。 あとはご勝手にどうぞ。   追伸2: 「須田国太郎と何も関係ないじゃないか!」というツッコミは受け付けません。 いつものことじゃないですか(笑) 気にしない、気にしない。 ひとやすみ、ひとやすみ。   追伸3: 今回のような行動経済学の話に興味があれば ダニエル・カーネマン著『ファスト&スロー』(早川書房) という本を読んでください。 ご存知のように、僕は普段あまりオススメの書籍を紹介したりはしないのですが (それには明確な理由があるのですが今は割愛)、この著書と『大衆の反逆』に限り、 万人に必読だという理由でオススメします。 上下巻合わせても、たかだか4千円程度です。 新年会を1回削って買う価値は十分にあります。 ぜひ買って読んで下さい。 人によっては、人生が変わるほどのものが得られると思いますよ。     ...more»
なぜ継続は難しいのか
  最近僕は周りの人からよく 「なんでそんなに継続できるんですか?」 と聞かれます。 僕は何も意識せずにただ好きなことをやってるだけなんですが、 その長さ(?)が普通の人とはちょっと違うようです。 とは言っても、もちろん僕だって3日坊主的なことは 沢山あります。 ゲーデル関係の本は読んで3秒で諦めたし(笑) 言語学の勉強も2日ぐらいで挫折しました。 「んんー、意味分からん」って。 ただ、続くものは結構長く続いているものも多く、 それが他の人から見たときに「よく続くなぁ」 という風に見えるのかなー、と。 例えば哲学。 かれこれハマり出して3年ぐらい経ちますが 未だに飽きずにずーっと続けてます。 例えば勉強(哲学と勉強は区別しときます)。 これも好きになってから飽きることなく続けてて 最近では宇宙論とか細胞学にも手を出す始末。 飽きるどころか加速してます。 例えば筋トレ。 かれこれ筋トレも1年ぐらい続けてますが、 全然やめたくならないし、むしろやらないと 不安になる状態です。 例えば体型維持(ダイエット?)。 高校時代から全然体型は変わってないし、 変わらないようにするための努力(?)も サボったことはありません。 でも、ここで間違って欲しくないのは、 【僕は決して努力家ではない】 ってことです。 こうやって書くと謙遜だと思うかもしれませんが、 これは謙遜でも何でもありません。 マジです。 僕はいつでも気の向くままに動いてるだけなんで。 「じゃあどれも好きだから続けられるんでしょ?」 というのも少し違います。 だって体型維持は別に好きでやってるワケじゃないですから。 いくら食っても太らないなら僕は多分食い続けます(笑) だったらどうして僕はいろんなことを自然に継続できるのか。 それは 【やらないと不安だから】 です。 さて、ここで少し心理学の話にお付き合い下さい。 人間はどういうときに行動するのか。 この答えは既に出ていて、人間は【苦痛を減らすため】か 【快楽を増やすため】という理由でしか行動しません。 これは行動心理学の最も基本となる考えで、 実際僕らはそうやって毎日を過ごしてます。 歯を磨いたり学校に行ったりパンを食べたりするのも、 全部【苦痛を減らす】か【快楽を増やす】のいずれかの 目的のために行っていることなんですね。 歯を磨くのは虫歯という苦痛を避けるため。 学校に行くのは「友達に会える」という快楽を増やし、 「勉強が遅れる」という苦痛を減らすため。 パンを食べるのは空腹という苦痛を避けるため。 全部こうやって説明できるワケです。 またこれとは別に、ダニエル・カーネマンという ノーベル経済学賞を受賞した行動経済学者がいるんですが、 彼が発見したことに 【人間は得る利益よりも、失うリスクの方を重く捉える】 というものがあります。 これは例えば、 「100万円が50%の確率で手に入るクジ」 「50万円が100%手に入るクジ」 の2択があったとすると、どちらも期待値は同じなのに ほとんどの人は後者の確実に50万円得られる方を選ぶ というもの。 「成功者は成功を望み、凡人は失敗を怖れる」 っていうどっかの格言にも似てます。 つまり、ほとんどの人は「何かを得ること」よりも 「何かを失うこと」をより重大だと感じている、 ということを彼は発見したのです。 じゃあこれらの心理学的知識を踏まえて話を戻します。 僕はなぜいろんなことを継続できるのか。 それは 一度得たものを失いたくないから (失うことが不安だから) なのです。 哲学が継続できるのは、哲学によって得たものを 哲学をやめることによって失いたくないからです。 勉強が継続できるのは、勉強によって得たものを 勉強をやめることによって失いたくないからです。 筋トレが継続できるのは、筋トレによって得た筋肉を 筋トレをやめることによって失いたくないからです。 体型維持が継続できるのは、体型維持によって 着れるようになっている服が着れなくなるのが イヤだからです。 そして何より、失うことへの不安を常に【敏感】に 感じ取っているから途中でサボったりしない、いや、 サボったりできないのです。 まとめると、継続に必要な条件は2つしかありません。 1.何かを得るまで続ける 2.得たものを失う不安に対して敏感になる これだけです。 言葉にすれば非常にシンプル。 にも関わらず「継続は難しい」と世間でよく言われるのは、 みんな2の能力が圧倒的に乏しいからだと思います。 いくらダイエットが難しいって言ったって 1キロ痩せるぐらいなら誰でもできるワケですよ、 実際のところは。 でも、その1キロを失う苦痛よりも、 食べたいものを食べる快楽の方が大幅に 上回ってしまうために継続ができない。 これは1キロという数字が【失うことの不安】を 引き起こすには小さ過ぎることもありますが、 何より1キロ痩せるために使った自分の労力に対して 感覚が鈍過ぎるんです。 だから平気で自分の努力(結果)を裏切れる。 つまり 自分が衰え弱る姿をまるで他人事かのように眺めている ってことです。 せっかく痩せたのにそれを元に戻してしまうということは、 痩せる努力をした自分を裏切り、太っていく自分を自分のことでは ないかのように眺めていられる、ということですから。 シュライエルマッハーという哲学者が 唾棄すべきは、あたかも他人が他人を眺めているような風に、 自分自身を眺めている人である という言葉を残してますが、僕もこの言葉には同感です。 みんなもっと自分に敏感になろうよ、と。 自分の変化を、自分の衰弱を感じようよ、と。 ホントにそう思います。 「継続できない」「三日坊主だ」と嘆いているなら 自分で自分を裏切ることに慣れてしまっていないか、 確認してみてください。 案外、継続できない原因はそこかもしれませんよ。 ではでは。 追伸1 念のために書いておきますが、今回書いたことは 「継続」という事象の1つの側面であって、 僕の書いたことが全てというワケではありません。 前々から書いているように、物事には2つ以上の側面が 必ずありますから、安易に僕の言うことだけを 鵜呑みにしないように気をつけて下さい。 情報はよく噛んでから飲み込むこと。 これは鉄則です。 追伸2 今回は「好きこそものの上手なれ」的なことは 敢えて書きませんでした。 なぜなら、そんなことは今更僕が書くまでもなく 誰もが書いたり言ってたりしているから。 ただ、これは「好きこそものの上手なれ」的なことが 間違いだと言っているワケではなく、そういった 偏った見方しかできないのが危ないよ、と言いたかったんですね。 最初は難しいかもしれませんが、徐々にでいいので 物事を違う角度から見る癖をつけて下さいませ。 理解を深める、っていうのはそーゆーことなのです。 ...more»
bottom-img

Fatal error: Uncaught Error: Call to undefined function ereg_replace() in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code:1 Stack trace: #0 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1): eval() #1 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(688): require_once('/home/philosoph...') #2 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(647): load_template('/home/philosoph...', true) #3 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/general-template.php(76): locate_template(Array, true) #4 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/archive.php(151): get_footer() #5 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template-loader.php(74): include('/home/philosoph...') #6 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-blog-header.php(19): require_once('/home/ph in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code on line 1