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誰でも芸術の凄さが実感できるようになる感性の磨き方
  「芸術のことはよく分からない」 ブログに芸術に関する記事を書いていることもあってか、 僕はたまに読者の方からこういうことを言われます。 これは彼らなりの「分かってみたい」という希望なのだと 僕は捉えていますが、その希望に対して、僕はこれまで 「こうすれば分かるようになるよ」という具体的な道を 示すことができませんでした。 ある人には「哲学を学んでいれば分かるようになる」と 言った記憶がありますが、それも間違いではないとは言え、 納得のいく答えには程遠いと言わざるを得ません。 なぜ哲学を学ぶと芸術が分かるようになるのか。 その理屈が抜け落ちているからです。 ご存知のように、芸術の価値や素晴らしさは言葉では 説明できません。 無理やり言葉で説明しようとしている評論はたくさん ありますが、それらはどれも野暮ったく、言葉にすれば するほど胡散臭い言葉が並ぶことになります。 だからこれまで僕も芸術を(言葉で)理解してもらうことは 諦めていました。 しかし最近、僕はあることに気が付きました。 それは、直接僕があーだこーだ言って芸術を分かって もらうことはできなくても、芸術を捉える感性を磨いて もらうことによって、間接的に芸術を分かってもらうことは 可能なのではないかということです。 つまり、感性の磨き方を教えることで、「芸術が分かる人」に なってもらうことはできるということに気が付いたのです。   感性は主に2つのことを意識することで鍛えることができます。 その2つとは 1.比較 2.丁寧さ です。 比較は感性の幅、丁寧さは感性の深さだと思ってもらえば、 分かりやすいかもしれません。 比較が欠けても、丁寧さが欠けても、感性は粗雑なものに なります。 今から1つずつ説明していきますので、どちらもしっかりと 意識していくようにしましょう。   まずは比較についてです。 人は差異にしか反応できない、というのは有名な話ですが、 これは感性でも同じで、われわれはいいものと悪いものを 比較することではじめて、いいものがどれぐらいいいもの なのかが分かります。 僕がこれを強く実感したのは、米の味の違いを知ったときです。 それまで家で食べている米が美味しいなんて思ったことが なかったのに、某牛丼チェーン店で不味い米を食わされて 普段食べている米がどれだけ美味しいかを実感しました(笑) 米の味ってこんなに違うのか、と。 そのときにはじめて僕は家の米の有り難さを知ったワケです。 この話はそのまま芸術にも当てはまります。 われわれが美術館で見る作品というのは、おおよそどれもが 一級品です。 ピカソやムンク、モネ、ルノワール、ゴッホなどなど、 有名な作品はどれも比べようのないものばかりですから、 それしか見たことのない人は、家の美味しい米しか食べたことが なかった僕のように、それらの凄さが分からないのです。 しかし、画廊や県展(県が公募作品を集めて展示する展覧会)で 展示されている、素人に毛が生えた程度の作品群を見れば、 誰でもゴッホやピカソの凄さが実感できるようになります。 何がどう凄いのかということは分からなくても、あの作品より この作品の方が優れているという判断は誰にでもできる。 つまり、比較する対象を増やすこと、松竹梅ジャンルを問わず あらゆるレベルのものに触れることが感性を磨く第一歩なのです。   続いて丁寧さ。 丁寧さは、今言った「何がどう凄いのか」が分かるように なるために必要なものです。 AとBを比べて、Aの方が凄いということは分かった。 じゃあ一体AはBに比べて何がどう凄いのか。 これが分かるようになるには、何度も何度もAとBを細かく 比べてみるしかありません。 米の味であれば、何度も何度も食べ比べて、米の甘さや食感、 風味、水分量などを調べていくという感じになります。 絵ならば、絵具の質感や全体のバランス、使われている技法、 時代性などを見ていく。 丁寧さとは言い換えれば、より具体的な比較に必要なものです。 今までは「米」や「絵」というザックリした単位でしか比較して いなかったものも、「米の甘さ」や「絵の色使い」で比較して いくことによって、より深い次元の感性が磨かれます。 対象を丁寧に見るからこそ、より精密に「何がどう凄いか」まで 比較して知ることができるのです。   以上の2つ 1.比較 2.丁寧さ を普段から意識して生活してもらえれば、われわれの感性は 自然と磨かれていきます。 ただ誤解しないでほしいのは、ここで言う感性は別に芸術に 対する感性に限定しているワケではないということです。 今はたまたま芸術のことがメインになっているだけで、 ここで言っている感性とは、われわれが知っている 最も広い意味での感性を意味します。 だから例えばファッションセンスも、この方法で磨いて いくことが可能です。 ショボイ服からエレガントな服まで一通り着てみれば それらの違いは分かるし、それらの組み合わせの良し悪しを 丁寧に見ていけば、コーディネートのセンスも磨かれる。 すなわち、応用の幅は無限大なのです。   感性を磨けば、日常に対して感じることも変化します。 今まで凄いと思わなかったものも凄いと思えるようになり、 今まで美味しいと思わなかったものも美味しいと思える ようになる。 凄さを感じたければ、ショボイものや凄いものにたくさん 触れてください。 美味しさを感じたければ、美味しいものから不味いものまで いろんなものを食べてください。 それだけで僕らの感性は磨かれていきます。 好き嫌いをしないこと。 未体験ゾーンに足を踏み入れ続けること。 これこそが感性を磨く道です。 こういう当たり前のことを、当たり前にやっていって くださいね。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
国立西洋美術館「ラファエロ展」にて ~芸術が死ぬとき~
ども、ペスです。 平日の、しかも雨の日に行ったにもかかわらず、ラファエロ展は人で溢れていました。 春休み終了間近だったこともあり、家族連れや若いカップルなども多く、予想以上の盛況ぶり。 運営者側からすれば、大いに喜ばしいことだと思います。 しかし同時に、僕はこのことに絶望したということを告白しなければなりません。 偉大な芸術は自らの役目を果たし、すでに死を遂げていたのです。   彼の作品は確かによく出来ていました。 あの時代の材料であそこまで精緻な作品を作ったということ、そのこと自体は今でも評価されるべきだと思います。 けれども、それはあくまで作品だけを対象として評価した場合の話です。 以前どこかで話したように、芸術とは見る人と作品の関係によって生まれます。 見る側と見られる側、双方の正常な関係が芸術を芸術たらしめているのです。 この関係が失われたときに、芸術は死にます。   芸術における正常な関係は、鑑賞者が偉大な芸術と対等に渡り合おうと努力するときにのみ生まれます。 クラシック音楽の演奏会に、クラシックを理解しようとしない、いや、クラシックを聴くに相応しい人間であろうとしない人間が大勢やってきたとしたら、その演奏会は大きく価値を損なうことでしょう。 それに伴い、そういった演奏会に行くことに「憧れる」人間も減っていくはずです。 なぜなら、それを評価する人間の質が、その芸術の価値を決めているからです。   多くの人がラファエロを見に行くのは、ラファエロを評価する人間が、一定以上の権威を持っているからに過ぎません。 各国の文化人が一目置くようなラファエロだからこそ、ラファエロの作品は(大衆にとって)価値があるのです。 もし僕が売れっ子の芸能人で、芸能界でも大きな影響力を持つ存在だったならば、僕が評価する作品は大衆にとって一定以上の価値を持つことになります。 キムタクが月9のドラマでかけていたサングラスがほしい、みたいな感覚と同じです。 ですから、そのサングラスを何の影響力もない、それどころか怠惰で傲慢で自己中な凡人が大勢かけていたら、そのサングラスの価値はなくなります。 それと同じ理屈で、怠惰で傲慢で自己中な凡人ばかりが見に来るラファエロの作品には、もはや何の魅力もないということです。   高級フレンチの店に、スウェットやジャージ姿の喋り声がうるさくて態度のでかい人間ばかりが来店していたとして、あなたはそんな店に好き好んで行きたいと思いますか? 仮にそこの料理がどれだけ美味しかったとしても、誰もそんなところには行きたいと思わないと思うのです。 僕にとってのラファエロ展は、そんな感じでした。 ラファエロの絵がどれだけ素晴らしくても、それを見に来る人間の質があまりに悪く、作品そのものの品質まで下がってしまっている。 僕もその中の一人なのかもしれませんが、それを考慮したとしても、そういう質の悪い僕ですら、嫌悪してしまうほどの雰囲気だったワケです。 あれでは彼の作品は死んだも同然だと思います。 料理の味を壊すのは、いつだって周りの雰囲気であり、そのときの気分なのです。   誤解のないように言っておきますが、美術館の中が実際にがやがやと話し声でうるさかったワケではありません。 展覧会の会場ではみんな静かに見ていたし、走り回る子供もいませんでした。 ただそれでも、雰囲気が、空気が、悪いのです。 分かるでしょうか、この感覚。 比較的マイナーな展覧会に行き慣れている僕にとって、この雰囲気の悪さはどうにも耐えがたく、展覧会の質そのものをも下げてしまうのです。   この体験から、僕は当初見に行こうと思っていた京都市立美術館のゴッホ展に行くのを取り止めました。 またしばらくは、よほど気になるものでない限り、美術館に行くこと自体を自粛しようと思っています。 それは美術に魅力を感じなくなったということではなく、もっとそれに相応しい人間になることを優先しようと思ったからです。 「他人のふり見て我がふり直せ」ではありませんが、今回の件で少なからず自分も芸術の寿命を縮めるような人間だったのではないかと自覚するにいたりました。 そして何より、今の自分のレベルで理解できるものの限界が見えました。 そんなワケで、しばらくは自分を磨き上げることに専念したいと思います。   なんだかブログ自体が終わってしまいそうな雰囲気ですが、ブログはやめませんから 安心してください(笑) ただ今後は美術への接し方云々ではなく、いかに美術の、芸術の権威を高められる人間になるか、ということが記事のテーマになってくると思います。 つまり、広い意味で「人間学」的な記事になるということです。 それはすなわち哲学を意味します。 僕にとってはどの記事も哲学だったのですが、前面に出ていたのが美術だったので あまりそういう風に感じていなかった人も多いようですね。 まあともかく。 これからも楽しく色々学んでいきましょう(笑)   ...more»
東京国立近代美術館「フランシス・ベーコン展」にて
ども、ペスです。 行ってきました、ベーコン展。 フランシス・ベーコンと言えば、僕は今まで哲学者の方しか知らなかったんですが、何やらこの彼はその同姓同名の哲学者の血を引いているとか何とか。 誕生日が僕と一緒だったり、ちょうど僕がハイデガー(実存主義)を勉強しているタイミングで彼の展覧会が行われていたり、なんだか彼とは運命を感じます(笑) 気持ち悪いとか言わないでね。   彼の作品は「上手い」や「キレイ」という次元を超越しています。 それは「実存的」としか言い表しようがなく、他に彼の作品を形容する適切な言葉が 見当たりません。 偉大な芸術は、人間の置かれている状況がいかに脆いかを思い出させてくれる という彼の言葉どおり、そこに表現されているのはイマココという状況の脆さや移ろいやすさです。 誰もが当たり前のこととして認識しているイマココの状況は、実は非常に脆いもので、次の瞬間にはもう消えて無くなっている。 「その奇跡をもっと感じろよ」と言ったのはハイデガーですが、ベーコンの作品からもそれと同じような印象を受けます。   彼はある動画の中で 下書きをしたあとは、チャンスが来るのを待っている そのチャンスが来ると、意識することなしに作品が完成する というようなことを言っていたのですが、彼はその「直観」によって現実(イマココ)を 切り取ることに成功した稀有な画家と言えるでしょう。 直観とは、理性の先にある閃きのようなものです。 感覚としては、以前話した帰納的飛躍という言葉に近いと思います。 考えて考えて考え抜いた末に出てくる、突拍子もない何か。 今風に言えばイノベーションということになるでしょうか。 その閃きを閃きのままに描写すると、あんな感じになるんだと思います。   このことから分かるのは、偉大な芸術家は偉大な哲学者である、つまり理性的に考えを突き詰めた上で作品を作っている、ということです。 多くの画家が「言葉にできないから絵で表現するんだ」と言うとき、ほとんどの場合 それは単なる語彙力不足です。 彼らは自分のボキャブラリーの乏しさを言い訳にして、絵を描くことに逃げている。 理性を突きつめるどころか、理性を中途半端なまま放り出して、響きだけが美しい 感性という柱にしがみついて生きているのです。 しかしベーコンは違います。 彼はギリギリのところまで言葉での記述を追求し、その先にある言葉以上ものを絵として表現しようとしました。 「言葉で表現できないもの」のような漠然としたものではなく、「言葉を超えたもの」を 表現したのです。 それは彼の どうやったら理性的でないやり方で機能を作ることができるのだろう 見た目だけでイメージを作り直すのではなくて、私たち自身が把握しているあらゆる 感覚の領域を作り変えたいんだ という言葉からも明らかだと思います。 すなわち、芸術家と哲学者、芸術と哲学を分け隔てることは、芸術への裏切りであり、 哲学への反逆なのです。   哲学を理解できなければ芸術も理解できない。 ここまでの話で、なんとなくこういう理屈が見えてきたと思います。 もちろんこの「哲学を理解する」とは、ハイデガーやカントやヘーゲルの哲学を 知ることではありません。 そんなものは気になった人だけが知ればいいだけのことで、彼らの著書を読もうが 読むまいがどっちでも構いません。 そうではなく、ここで言う「哲学」とは、「哲学する」ということであり、 もっと分かりやすく言えば、自分が生きるとはどういうことかを探求し続ける 態度のことです。 そういう態度で生きていれば、芸術は自然とその意味を語りかけてくれます。 その意味はあなたにとっての意味でしかありませんが、それで十分なのです。 客観的な芸術とは、本質的にはもはや芸術ではないのですから。   哲学は本質的に反時代的である。 なぜなら、哲学は、いつも自分自身の時代のうちに直接の影響をけっして見出しえない、また、けっして見出してはならない、という運命をもつ、かの稀な事柄に属するからである。 直接の影響が起きているように見えるとき、哲学が流行になるときには、本当の哲学は 存在しないか、あるいは、哲学は誤解されて、なにか哲学とは異質の意図にしたがって、日常の要求のために悪用されているのである。 ハイデガーのこの言葉は、そっくりそのまま芸術に当てはめることできます。 つまり、芸術は本質的に反時代的である、ということです。 時代の価値観を超えている、流行に流されないという意味で、それは時代とは縁のないものなのです。 だから必然的に大衆からは支持されない。 ベーコン展は客層がかなり限られており、なおかつ、客数自体が少なかったという点で、まだまだ芸術としての役割を果たしていると言えます。 一方、ダ・ヴィンチやラファエロはもう芸術としては死んでいると言っていいでしょう。 あれらはもはや芸術のシンボルでしかなく、真の意味での芸術ではなくなって しまったのです。 この話は次回のラファエロ展についての記事で詳しく書こうと思います。   最後に一言。 この規模でのフランシス・ベーコン展は、今後2度と見られないかもしれません。 それぐらい手間暇のかかった貴重な展覧会です。 ラファエロ展よりこっちの方が断然見に行く価値があると思います。 上級者向きではありますが、この手の展覧会にはどういうお客さんが来るのかを 見ておくのも1つの勉強です。 もし少しでも気になっているなら、見ておいて下さいな。   ...more»
京都市立美術館「第44回日展」にて ~伝わる作品とは何か~
ども、ペスです。 京都市立美術館で12月15日から始まった日展を見てきました。 日展を見たのは今回が初めてでしたが、ぶっちゃけ、もう行かないと思います(苦笑) 同じ団体展でも先日見た「行動展」とは違い、感じることは何もありませんでした。 俗に言う「キレイな作品」や「上手い作品」はたくさんあったし、技術的にはどれも 優れていると思います。 普通に見れば、何の問題もない作品ばかりに見えるでしょう。 しかし、それは問題もない代わりに突出したものもない、ということを意味しています。 保守的で、無難で、殻に閉じこもったものばかり。 それが僕の目から見た日展の作品群なのです。 工芸部門の作品からは多少新しいものも感じましたが、絵や彫刻はガチガチに枠に はまっており、ほとんどそこから抜け出せていません。 だから日展の会場には年配の方ばかりが集まるのでしょうね。 演歌や落語と同じ理屈です。 歳をとるほど見慣れたものや聞慣れたものにしか近寄らなくなる、つまり保守的に なっていくのです。   美術にはいろんな作品があっていいと思います。 定番のものもあれば、斬新なものもある。 それは大事なことです。 ただ、古いか新しいかにかかわらず、作品を作る以上その態度は 積極的であるべきです。 もう少し分かりやすく言えば、 「この作品を作らずにはいられない!」 「なにがなんでも作りたい!」 という気持ちがなければならない、ということです。 その気持ちがあって、初めて「キレイな作品」でも「上手い作品」でもない 「伝わる作品」 が生まれます。 脳みそが何年も冬眠し続けている人には分からないでしょうが、伝わる作品と 伝わらない作品というのは、見る人が見れば分かるのです。 参考までに、見分けるコツを紹介しておきましょう。 作品を見る際に、すべての思考を停止して、極力見ることにだけ集中すること。 絵を見ているという感覚にだけ意識を向けること。 これをやってみて下さい。 どのレベルで出来るかにもよりますが、少なくとも下手な解釈をするよりかはよほど 素直に作品を見ることができるはずです。 よく「感覚を研ぎ澄ます」なんて言葉が使われたりしますが、それに近いものだと思って もらえればいいと思います。 例えばどこでもいいので目を閉じて歩いてみて下さい。 今まで感じなかった微細な感覚を足の裏に感じませんか? 理屈としてはそれと同じです。 感覚とは、特定の感覚を鍛えることによって伸ばすのではなく、他の不必要な部分を 閉じることによって浮き出てくるものなのです。   以上のことから、「伝わる作品」とは、われわれの余計な感覚を刺激しないような 作品である、ということが分かります。 作品の方からわれわれを見ることに集中させるように仕向けてくる。 つまり、われわれが見ることに集中せざるを得ない作品こそが「伝わる作品」なのです。 その意味では、今回の日展で展示されているような伝わらない作品には、雑念が多く 含まれていると言えます。 作品はキレイでも、表現されているものが雑なのです。 気持ちがぼやけていると言えば、なんとなくでも伝わるでしょうか。 なぜか見ていても気がそれてしまう。 これは文章も同じで、読んでいて気持ちが他に気移りしてしまうようなものは、 「伝わる文章」ではありません。 先を読みたくて仕方がない。 この作品から目が話せない。 そういう鑑賞者や読者を魅了する物語性が「伝わるもの」には含まれています。 だからこそ、そこに込められた気持ちは伝わらざるを得ないのです。   「伝わるもの」は見る側と見られる側の良好な関係があってはじめて生まれてきます。 見る側の受け取りたいという気持ち。 見られる側の伝えたいという気持ち。 この両方が揃わなければ「伝わるもの」は生まれないのです。 両者の関係は可能な限り対等でなければなりません。 良好な関係というのは、どちらかに偏ったり依存したりしないものだからです。 お互いに同じぐらい尊敬し合っている。 お互いに同じぐらい愛し合っている。 お互いに同じぐらい思い合っている。 それが僕の思う良好な関係です。 この関係があって、はじめてお互いに気持ちが通じ合います。 作品と鑑賞者の関係もこれと同じ。 伝えたい気持ちと受け取りたい気持ちが均衡する場所にだけ、「伝わる作品」は 現れるのです。   ところで、気持ちって何なんでしょうね(笑)   ...more»
滋賀県立近代美術館「常設展 ~物質(モノ)への挑戦~」にて ~作品とタイトル~
ども、ペスです。 県展に行ったついでに常設展も見てきたので、その辺のことも少し話そうと思います。 ここの常設展は以前「夏休みこども美術館」という企画を僕が大きく評価したことで 記憶にあるかもしれませんが、今回もなかなか見ごたえのある展示でした。 「物質への挑戦」というタイトルからもなんとなく想像がつくように、絵画や彫刻という よりも、物質(モノ)そのものの在り方に焦点を当てた展示になっており、「もの派」で お馴染みのリー・ウーファンや「具体」でお馴染みの白髪一雄や元永定正なんかの 作品も展示されています。 その中の1つに西村陽平という現代陶芸家の「時間と記憶」という作品があります。 これは解説を読んで驚いたのですが、雑誌や本を窯で焼き、その後に残った灰 (厳密には灰ではないらしいですが)を瓶につめて展示しているとのこと。 なんというか、ぶっ飛んでますよね、発想が。 瓶には「anan」とか「少年マガジン」とか各雑誌の名前が書かれていて、どの雑誌が どの灰なのかが分かるようになっています。 出品作品リストの解説には 「知識を伝達する書籍と言えども実はただの物質に過ぎないのだと我々に 再認識させるという、哲学的でコンセプチュアル・アート的な表現を試みています」 と、いかにも崇高な表現かのように書かれていますが、そもそもその「再認識」が 重要かどうかが怪しいところです。 この解説が正しいとすれば、広辞苑は漬物石の代わりになる、 本は薪の代わりになる、というぐらいの意味しかないように思います。 この作品のコンセプト自体は面白いですが、哲学的と言ってしまうのは どうなのかな、と。 そんなことを感じました。   ところで「時間と記憶」というタイトルをあなたはどう思うでしょうか? 意味深だと思いますか? それとも格好をつけているだけだと思いますか? 「作品を見ていないから分からない」 そう思ったかもしれませんが、ここで考えたいのはそのことについてなのです。 作品とタイトル。 今回はこの2つの関係を考えていきます。   一般に、名前には必然性がありません。 例えば僕のハンドルネームは「ペス」ですが、これが仮に「ポチ」とか「タマ」とか 「セバスチャン」だったとしても何も問題はないと思います。 それはその名前が僕を表す記号もしくは目印に過ぎないからです。 大事なのは名前そのものではなく、その名前が何(誰)を指し示しているのか、です。 僕が「ポチ」に改名することに問題はありませんが、僕とはまったく関係のない「ポチ」が このブログを書くことには大きな問題があります。 このように、同じ「ポチ」でもその名前が何を指し示しているかが大事なワケです。 だとしたら、同じ作品を指し示す限り「時間と記憶」は「ケセラセラ」や「チンパンジー」 という名前でも問題ないということになります。   ・・・本当にそうでしょうか? ここでわれわれは大事なことに気付かなければなりません。 名前には「指し示すもの」の他に「込められた意味」があるということです。 僕の「ペス」というハンドルネームには特に意味はありません。 だからこそ「ポチ」や「セバスチャン」に改名しても問題ないワケですが、僕の本名は 親やら親戚やらがそれなりに思い(意味)や願いを込めて付けてくれていますから、 仮に法的に許されたとしても、おいそれと簡単に変えるワケにはいきません。 同様に「時間と記憶」というタイトルにも作家の思い(意味)や願望が込められていると 考えるのが自然です。 「時間と記憶を表現したい!」 「この作品には時間と記憶というタイトルが相応しい!」 こういう気持ちがあったかどうかは知りませんが、タイトルに気持ちが 込められている以上そのタイトルは「ケセラセラ」や「チンパンジー」では ダメなのです。 この「込められた意味」があって初めて名前やタイトルには必然性が生まれます。 もし「ペス」が凄く可愛がっていた犬の名前で、僕がその思いを込めて「ペス」と 名乗っていたならば、「ポチ」に改名することは許されません。 なぜならその「ペス」は単なる記号ではなく、1つの意味を持った単語だからです。 しかしながら、世の中に名前負けしている人間が大勢いるように、込められた意味と 指し示すものが客観的に一致することはほとんどありません。 「大輝」という人間が必ず大きく輝くワケでもなければ、「翔」という人間が必ずしも 羽ばたくとは限らないワケです。 なんか夢も希望もなくなりそうな悲しいことを言ってしまいましたが、これは事実なので 仕方がありません(笑) 作品もこれと同じです。 作家がタイトルに込めた思いと、実際に作品が表現しているものは、ほとんどの場合、 一致しないのです。   「人の名前と違って、作品タイトルは完成後に付けることもあるから、その場合は 一致するんじゃないか」 この疑問は非常にいいところを突いています。 走りの速くなった子に後から「俊也」と名付ければピッタリじゃないか、という発想です。 しかし完成後に考えられたタイトルは、その作品に対する作家的な解釈でしか ありません。 「この作品に合うタイトルは何だろうか」 そういう思考の結果に得られたものがこの場合のタイトルですから、そのタイトルが 作品が表現しているものと一致していることは無いと考えていいでしょう。 つまり、基本的に作家が付けたタイトルは作品に対して不完全なのです。   これを違った視点で考えてみましょう。 タイトルが作家の解釈や願望であるならば、それは作品ではなく、むしろ作家と関係が 深いものだということにならないでしょうか。 われわれはつい作品とタイトルを無意識的に結び付けて考える傾向があります。 「時間と記憶」というタイトルがついていると、その作品のどこかに時間と 記憶の言葉が意味するような要素が盛り込まれているのではないかと思ってしまう。 しかしそれは誤りです。 タイトルは作品に対する作家の解釈や願望なのですから、それは作家の見方や 考え方を端的に表しているにすぎません。 要するに、タイトルを見て分かるのは作品のことではなく、作家のことなのです。   「大輝」という名前から親から子への気持ちが読み取れるように、 「時間と記憶」というタイトルからは作家から作品への気持ちが読み取れる。 こう考えると、なんだか少しだけロマンチックな気持ちになりませんか? 仮にタイトルが作品のことを明確に表せていなくても、そんなのは問題では ありません。 名付けることは、名付けられた方ではなく、名付ける方に意味があるのです。   追伸: この常設展で個人的に気になったのは、マグダレーダ・アパカノヴィッチという人の 「群衆Ⅳ」という作品です。 麻布を固めて作った顔と腕のない人形を30体並べた不気味な作品で、この空間だけが 異様な雰囲気を漂わせています。 楽しさや面白さみたいなものはありませんが、虚無感や恐怖感が心に残る作品でした。   ...more»
滋賀県立近代美術館「第66回滋賀県美術展覧会」にて ~基準を持つということ~
ども、ペスです。 久々に滋賀県立近代美術館に足を運んでみました。 県展というのはその県内在住者から作品を公募し、応募してきた中から 入選作品を選び、それらを展示公開する展覧会です。 素人からプロまでと言うと少し聞こえが悪いですが、特定の条件を満たしていれば 誰でも応募することができます。 絵画教室の生徒であろうが、団体展所属者であろうが、自己流で作品を 作っている人であろうが、実力さえあれば美術館に作品を展示してもらえ、 あわよくば賞金までもらえる。 もっと言えば、画廊の人や学芸員なんかもこういう展覧会を回っていたりしますから、 そういう人の目に留まって大きく飛躍できるチャンスもあるワケです。 鑑賞する側としては、思ってもみなかった素晴らしい作品(作家)に出会える 可能性があるという点で、企画展とは違う面白さがあります。   この展覧会を見てきた感想は 「思った通りピンキリだな」 という感じでしょうか。 いい作品もあれば、そうでない(と感じる)ものもある。 こんなことは当たり前のことなのですが、これが何気に重要だということを指摘している 人は少ないように思います。 通常、われわれが美術館で見る作品は主観的な評価は抜きにして「いい作品」 ばかりです。 常設展で展示されている作品はその美術館が買った、もしくは寄贈作品の中から 選ばれた作品ですから、プロの目が通っており、少なくとも素人が選ぶものよりかは 確かな作品が展示されています。 企画展も新聞社が企画を持ち込んでいるとは言え、ルーブル美術館展や エルミタージュ美術館展のように、確かな美術館が持っている確かな作品を 展示する以上、それも「いい作品」に分類されると言えます。 このように、われわれは普段、誰かが選んだ「いい作品」にばかり触れているのです。 県展にしても、審査員がいる以上そういう面はあるのですが、県展の審査基準は 送られてきた作品群のレベルに依存しますから、その年度によって、送られてくる 作品によって、展示される作品の質が決まります。 しかも、入選作品というのはかなりの数の作品を選ばなければなりません。 今回見に行った県展では、絵画だけでも228の応募作品のうち、123もの作品が 入選しています。 実に応募作品の半分以上が入選しているワケですが、ここまで競争率が低くなると、 上位の2,3作品はともかく、それ以下の作品の質が怪しくなるのは必然です。 賞を取った作品だけが展示されるのであれば、美術館の作品といい勝負をする 可能性もありますが、そう何十個も素晴らしい作品が送られてくるとは考えにくい。 つまり、県展(公募展)は良くも悪くも必然的にピンキリの展示になるのです。   で、ピンキリの何が重要なのか。 それは、優秀な作品がどれぐらい優秀なのかが分かる、「いい作品」と そうでない作品をその場で見比べられるという点で重要です。 普通われわれが見る展覧会では、その世界で一定以上の評価を得た 「いい作品」ばかりが展示されます。 例えば印象派の展覧会をする場合、そこに展示されるのは印象派の中でも 優秀な(有名な)作家の「いい作品」だけで、特別そういう主旨の展覧会でなかぎり 二流の(もしくは無名の)作家に光が当たることはありません。 「無名の作家展」というのがあれば僕はぜひ見に行きたいですが、それはまた別の話。 要は通常の展覧会では、「いい作品」がどれぐらい優秀なのかを判断する材料がない ということです。 もちろん今までたくさんの作品を見てきた人ならば、過去に見た作品と比較して 目の前の作品の良し悪しを判断することもできるでしょう。 それが審査員や学芸員や評論家や画廊のオーナーの仕事なのですから、 できて当然です。 けれども、誰もがそんな経験を積んでいるワケではありません。 僕だって美術を学びはじめて3年も経ってませんから、まだまだ経験は浅い。 そういう人にとって県展というのはピンキリの作品をその場で見比べられる という意味で魅力的な場所のように思います。 たくさんある作品を見比べながら、なぜあの作品に賞が与えられたのかを じっくり考えることができる。 何が「いい作品で」、何がそうでないのかを客観的に見られる。 これほど初心者(訓練)向きの展覧会もないのではないでしょうか。   僕もようやく分かってきたのですが、最初の第一歩としては、自分なりの基準が 持てると美術を見るのが楽しくなってきます。 この作品は素晴らしい。 この作品はイマイチ。 そうやって評価を分ける基準が自分の中にあると、「色々見たな―」という満足感が 得られます。 これが万人に当てはまる保証はありませんが、少なくとも僕の実感としては そうなので、参考にしてみて下さい。 ちなみに、自分の中に基準を作るのはそんなに難しいことではありません。 1.一流・二流、有名・無名を問わず、とにかく数を見ること。 2.作品を見る際に今まで見た作品と(なんとなく)比べてみること。 この2つを繰り返していれば勝手に基準はできます。 金銭的な事情でそんなに展覧会を回れないのなら、いろんな画廊に通えばいいと 思います。 時間がないならネットでいろんな作家の作品を眺めるだけでもいいでしょう (可能な限り実物を見るべきだと思いますが)。 今はグーグルミュージアムなんてのもありますから、ある程度は補えるはずです。 そんなことをしているうちに勝手に基準はできますから、あんまり焦らずに気ままに やってみて下さいませ。   追伸: 「いい作品」とは、ある程度客観的に評価できる作品を指します。 本来であれば、ものの良し悪しは一人一人の価値観に依存しますから、 美術館に収蔵された作品を絶対視することはよくありません。 特に現代美術のような、まだ評価の定まっていない作品については、 必ずしも学芸員の目が正しいとは言えませんので、余計に注意して下さい。 何事も自分の責任において自分の判断基準で選び考えることが大事なのです。     ...more»
「OSAKA ART COMPLEX vol.5」と「大阪ベストコレクション」にて
ども、ペスです。 ここのところ、少しずつですがブログにコメントがつくようになってきました。 今はまだ「大エルミタージュ美術館展」の記事だけですが、それでもやっぱり 反応があるというのは嬉しいもんです。 気が向いたらで構いませんので、もしよければ時間のあるときにでも コメントしていって下さいね。 ちなみに、このブログはテンプレートの関係上、コメントの記入欄に メールアドレスを記入しなければならないようになっていますが、 そのアドレスがブログ上で公開されることはありません。 また僕から(無断で)そのアドレスにメールを送るようなこともありませんので、 その点はご心配なさらずに。 ではでは、本編に入ります。   大阪の5つの画廊が連携して行っている「OSAKA ART COMPLEX」というイベントを、 HUBchariという自転車貸出サービスを利用して、ぐるっと回ってきました。 イベントと言っても、特定のイベント日以外はそれぞれの画廊が普通に 開いているだけで、これといって何があるというワケではありません。 行ってきたのはYOD Gallery、TEZUKAYAMA Gallery、Yoshimi Arts、展現舎の4つ。 僕はよくYOD Galleryに出没するのですが、今回もそこで自転車を借りて出発しました。 最初に行ったのは大阪の堀江にあるTEZUKAYAMA Galleryという画廊。 ここでは上原浩子という方の作品を見たのですが、彼女の作品を見て1つ感じたことが あります。 それは、ここ最近、動的なものを表現した作品が増えてきている、ということです。 国立国際の「宮永愛子氏」の作品や兵庫県立美術館の「現代絵画のいま」の作品、 「アブストラと12人の芸術家」の作品を振り返ってみると、どうもそういう気配を 感じます。 例えば宮永愛子氏の作品は実際に作品が徐々に昇華していくという意味で動的だし、 「現代絵画のいま」の作家の方々が言っていた不確定や曖昧という言葉は、定まらない という意味で動的です。 「アブストラと12人の芸術家」には電気を使った作品があったし、上原浩子氏の作品は 今にも動き出しそうな雰囲気が作品から出ています。 そういった見方をしていくと、動画という直接的な方法以外にも、違う角度から動きを 表現している作品が増えてきているように思えるのです。   動的とは、つねに変化し続けているということです。 それはわれわれの生きる世界では当たり前のことであり、すべてのことに 当てはまります。 こうして立ち止まっている間にも地球はまわり、日々細胞は生まれ変わり、 心臓は血液を送り続けています。 それだけではなく、目の前にあるパソコンも今座っている椅子も、 目には見えないかもしれませんが、小さく変化し続けている。 この世に変化しないものなんて何1つありません。 だったらどうしてそんな当たり前のことが芸術で表現されなければ ならなかったのか。 それはその現実とは反対に、われわれの目には世界が静止したものとして 写っているからです。   親も会社も国も、ずっとこのまま存在し続ける。 そういう感覚が僕らにはあります。 しかし、それらは決して永遠ではありません。 一定の条件を満たせば国ですらも簡単に破綻する。 それが歴史的に何度も証明されてきた事実なのです。 ましてや親や自分はいつ死ぬか分からないし、 会社だって今は安泰だったとしても急にリーマンショックのようなことが 起これば一夜にして倒産することもあり得ます。 われわれはこういった現実を知っているようで、実際には右から左へ 聞き流しており、それを自分のこととして受け入れていないのです。 あれだけ大きな経営破綻があっても、あれだけ大きな震災があっても、 ヨーロッパが消えてなくなるぐらいの債務危機があっても、 何の対策も立てていない人間がほとんどであるということが、 何よりもそれを証明しています。 芸術家自身がこういったことを考えているかどうかはともかく、 彼らの作品はわれわれのそういった静止した態度に対する 問いかけなのではないでしょうか。 世界はつねに動いている。 今目の前にあるものも、いつ消えるか分からない。 われわれが分かっているようでまったく受け入れていない、 そういう当たり前のことを作品として表現することによって、 今の時代に欠けた感覚を刺激しようとしているのが 彼らなんだと思います。   「OSAKA ART COMPLEX」の話からは大きく脱線しましたが、 実はこのイベントについてはこれ以上話すことがありません(苦笑) つまりそれぐらい「アレだった」ということなのですが、 自転車を借りたついでに寄った「大阪ベストコレクション」の展示は よかったです。 個人的にはルネ・マグリッド「レディ・メイドの花束」と アルベルト・ジャコメッティ「鼻」がなんとなく気に入りました。 ただ前者はともかく、後者はなんで気に入ったのか自分でもよく分かりません。 その作品を見ながらずっと 「なんでこんなに鼻を長くしたんだろ?」 ということを考えていたら、初恋の始まりのような感覚になっていました(笑) なんだか分からないけど気になるあの人、的な(笑) まあそんなアホな話はどうでもいいんですが、さすがコレクション (自腹を切った)作品というだけあって、いいものが揃っています。 一般投票一位の佐伯祐三や小磯良平、靉光、福岡道雄、横尾忠則、森村泰昌、 草間彌生、田中敦子、ゲルハルト・リヒター、サルバドール・ダリ、 アメデオ・モディリアーニなど、あるのは美術館に常設展示されているような 作品ばかりです。 個人的にサルバドール・ダリ「幽霊と幻影」はダリの作品の中では イマイチのような気がしますが、あまり細かいことは気にしないで おきましょう。 残念ながら先週末でこの展示は終わってしまったのですが、大阪は他にも 色々面白い作品を持っているようなので、また機会があれば足を運んでみて 下さいませ。 追伸: 大阪で現代美術を見たいなら、YOD GalleryとTEZUKAYAMA Galleryをオススメして おきます。   ...more»
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