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最強の組織の作り方
今回は最強の組織(主に会社)を作る方法をお話しします。 まずは定義の確認から。 最強の組織とは、意志決定が素早く的確で、結果を出せる 組織のことです。 そういう組織を作るには 1.少数精鋭であること 2.優れたリーダーがいること の2つの条件を満たす必要があります(が、逆に言えば たったこれだけで最強の組織が作れてしまいます)。 まず少数精鋭であることの利点は、社内における情報格差が ほぼゼロになることと、個々の意見が部署の考え方などに 影響されずに言えることです。 人数が増えるとどうしても、Aさんは知ってるけど Bさんは知らない、といった情報格差が広がっていきますが、 3人から5人程度の会社であれば、各人の情報格差が 会社の命取りになるので、自然と情報共有は密になるし、 早急に共有されます。 3人しかいない会社で、Aさんしか知らないことが 山ほどあったりしたら、シャレにならないですからね。 また人数の多い会社では総務や営業などの部署があるのが 普通ですが、部署ができてしまうと個人の意見ではなく、 「総務部としての意見」や「営業としての意見」に意見が 偏ってしまいかちです。 自分は個人的にAをした方がいいとは思ってるんだけど、 総務部全体の利益を考えるとBと言っておいた方がいい、 みたいなことが起こるようになるワケです。 そうなると、社員の多くが自分にウソをつくことになり、 それが積もり積もって・・・。 さらに派閥なんかができちゃうと、派閥の意見にも 従いながら働かないといけなくなるので、多くの人は 会社のための意見を言うのではなく、保身のための意見を 言うようになっていきます。 そうやって組織は内部崩壊していくワケです。   実は今言ったことは200年以上前にルソーが指摘しています。 彼の言葉を『社会契約論』から引用してみましょう。 「人民が十分に情報をもって審議するとき、もし市民がお互いに 意志を少しも伝え合わないなら(徒党を組むことがなければ)、 わずかの相違がたくさん集まって、つねに一般意志が結果し、 その決議は良いものであるだろう」 ほら、 (1).人民が十分に情報をもっていること (2).徒党を組まないこと っていう条件がちゃんと出てきてるでしょ? 彼の場合は国という巨大組織(集団)の運営を考えていましたが、 大きかろうが小さかろうが必要なことは同じなのです。 ただ上で言ったように、大きな組織でこの2つの条件を 満たすというのは非現実的だと思います。 だって考えてみてください。 社員が千人いる会社で部署を作らないとか、情報共有を 完璧にするとか無理でしょ、どう考えても。 そんだけいれば派閥だってきっと自然に出来ちゃうでしょうし、 情報の格差も開いてしまうと思います。 彼の言っている条件を満たそうとすると、どうしても少人数に せざるを得ないのです。   ただ少人数にしたからと言って、そこで行われた意志決定が 必ずしも結果に結びつくとは限りません。 社員全員が「企画Aをやろう!」と一丸となったとしても、 企画Aが当たらなければその会社はヤバイことになります。 つまり、当たり前ですが、その決定が会社の実績に、 社員の幸福に繋がっているのかどうかをちゃんと判断できる 優れたリーダーが必要なのです。 優れたリーダーになるために何をどうすればいいのかは これまで散々語ってきているので割愛しますが、参考までに ルソーが何と言っているかを見ておきましょう。 ルソーはこんなことを言っています。 「諸々の国民に適する、社会についての最上の規則を 見つけるためには、優れた知性が必要である。その知性は、 人間のすべての情熱をよく知っていて、しかもそのいずれにも 動かされず、われわれの性質を知り抜いていながら、 それと何らつながりを持たず、みずからの幸福がわれわれから 独立したものでありながら、それにもかかわらず、われわれの 幸福のために喜んで心をくだき、最後の時代の進歩のかなたに 栄光を用意しながらも、ひとつの世紀において働き、 後の世紀において楽しむことができる、そういう知性で なければなるまい。人々に法を与えるには、神々が必要である」 まあ要するにリーダー(彼の場合は立法者ですが)は 神のように完璧じゃないといけない、ってことです(笑)   そんなワケで、もし最強の組織を作りたいなら 1.少数精鋭であること  (1).人民が十分に情報をもっていること  (2).徒党を組まないこと 2.優れたリーダーがいること の2つの条件を頑張って満たしましょう、ってことでした。 ちなみに大きめの会社に属している場合は、(1)と(2)の 視点で職場を眺めてみると面白いと思います。 会社が上手くいってないとすれば2以前に多分(1)(2)が 問題だと思いますので。 あ、2のリーダーがいないから(1)(2)に気付かないのか。 まあどっちでもいいや(笑) ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック ...more»
中途半端を極めろ
いつからか、僕は具体的な夢や目標を持たなくなりました。 少し前は「村を作りたい」みたいなことも言っていましたが、 今はそれすらなくなり、夢や目標と呼べるようなものは もはや何もありません。 ただ面白いのは、それと反比例するかのように僕の興味が 広がり続けているということです。 普通われわれは、具体的な夢や目標を持ち、それに向けて 仕事や勉強を頑張ることが素晴らしいことだと 思い込んでいますが、これは言い換えると、夢や目標に 関係無さそうなことは無価値・無駄だと見なしていることを 意味します。 例えばマンガ家になりたい人は、いろんなマンガを読んだり、 絵の技法や学んだり、先輩マンガ家のインタビューを真剣に 読んだりはすると思いますが、多分ヨガや錬金術や農業は 学ばないと思います。 なぜなら、それらは自分とは関係ない(ように見える)し、 そんなことを学んでも「無駄」だからです。 同じように、ダンサーになりたい人が電子工学やJAVA言語や 考古学を学ぶことは稀でしょうし、コピーライターに なりたい人が、物理学や生物学や禅を学ぶことも稀でしょう。 こうして具体的な夢や目標を持っている人たちは、 夢や目標を「一直線に」叶えようとするワケです。 しかし、ダンサーがダンスを練習するなんてのは誰でも 思いつくことであり、誰でもやっていることだということを 彼らは忘れています。 誰でもやっていることをやってトップに立てるのは、 才能のあるヤツだけです。 当たり前ですが、みんなが同じことをやれば、それを一番 効率よくやれる才能のあるヤツが勝つに決まっています。 自分の才能に自信があるとか、勝ち負けはどうでもいいと 思っているなら別ですが、他の人とは一線を画した評価される マンガ家やダンサーやコピーライターになりたいなら、 誰もがやるようなことを誰もがやるようにやっていては 話にならないのです。   さて、ここで少し考えてみましょう。 日本で15位の実力のあるダンサーと、日本で59位の 実力しかないけど、歌と面白いトークができて、 占いと脳科学にやたら詳しいダンサーだったら、 どっちが世間から評価されると思いますか? 日本で31位の実力のあるコピーライターと、 日本で101位の実力しかないけど、哲学とマンガと 昆虫と音楽にやたら詳しいコピーライターだったら、 どっちが面白がられるでしょう? 答えは言うまでもないと思います。 ダンスでトップに立ちたい人にとって、脳科学の知識は はっきり言って無駄でしょう。 しかしダンスでトップに立つことが、その人にとって 必ずしも幸せだとは限りません。 そういう人は自分で勝手にそう決めつけてしまっていて、 自分が幸せになれる可能性を自分で排除してしまって いるのです。 もしかしたら脳科学の知識によって新しい自分だけの カテゴリーが生まれたかもしれないし、そこでは一番に なれたかもしれないのに、その可能性をダンスに 固執することで、つまりダンス以外を無駄だと思うことで 無自覚に捨ててしまっているワケです。 夢や目標を持つことは悪いことではないですし、 それを目指すプロセス自体を楽しめているなら 何の文句もありませんが、「夢を叶えなきゃいけない」とか 「目標は達成しなきゃ意味がない」とか、そういう風に 固執してしまうぐらいなら、僕はない方がいいと思います。   僕が夢や目標を持たなくなったのは、自分で自分の可能性に 制限をかけるのをやめたからです。 僕が小説家になる可能性も、脳科学者になる可能性も、 ダンサーになる可能性も、プログラマーになる可能性も、 天文学者になる可能性も全部残しておきたい。 そう考えたら、夢や目標は邪魔になってしまったのです(笑) 別に目指すものを1つに絞る必要はないでしょ、って。 そんときの自分がなりたいと思ったものを目指して、 興味がなくなったらやめて他を目指して・・・みたいな 中途半端な生き方も、それはそれで可能性に溢れていて 魅力的だと思うんですよね。 僕は自分に才能があるなんて微塵も思わないし、 既存のカテゴリーで争って何かで一番になれる自信も ありません。 だからいろんなことを勉強して、それらを組み合わせて 「僕だけのカテゴリー」を作って、そこで一番になれば いいじゃないか、っていう発想で生きています。 多分99%の人は僕と同じで、既存のカテゴリーでは 一番になれない中途半端な人たちだと思います。 だったら。 中途半端を極めませんか? マラソンとかダンスとか将棋とか、そんなの一本じゃ 勝てないんだから、それら全部を中途半端に極めて、 「マラソン・ダンス・将棋」っていう新しいカテゴリーを、 「あなた」っていうカテゴリーを作りましょうよ。 そこがわれわれ中途半端な人間に唯一残された楽園だと 思います。   無駄を避けるとは、中途半端を避けるということです。 じゃあ中途半端なヤツが無駄を避けたらどうなるでしょう? この答えは自身でじっくり考えてみてください。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック ...more»
既知なる可能性から未知なる可能性へ
2年ほど前にやった『Move on』というセミナーで 「情熱の火種は興味です」という話をしたことが あります。 興味のすべてが情熱になるワケではないけれども、 たくさんのことに興味を持てれば情熱が生まれる 可能性は高くなる。 たしかそんな話をしたような記憶があるのですが、 そのときの僕は興味についてそれ以上の話が できませんでした。 そもそも興味を持つとはどういうことなのか。 どうやったら興味を持てるのか。 そこの話ができず、今から思えば中途半端なことを してしまっなぁ、と反省しています。 その反省ついでと言ってはアレなんですが、 僕もそこから成長し、今ではその辺のことも 答えられるようになったので、今回はあらためて 興味についての話をしてみようと思います。   興味を持つとは、ある対象に対して自発的に問いを 発するということです。 自転車に興味を持つ、昆虫に興味を持つ、将棋に、 ファッションに、先生に、宇宙に、隣の席の人に 興味を持つなど、どんな対象であれ、われわれが 興味を持つときは「この対象はどんなものだろ?」 という問いが同時に、自発的に生まれています。 つまりたくさんのことに興味を持つには、 たくさんのことに自発的に問いを発するように すればいいワケですが、お分かりのように この「自発的」というのがまた難しい。 自発的とは、自分の衝動もしくは意志によって 何かを為すということです。 衝動は起こそうと思って起こせるものではない ですから、ここで考えるべきは意志の方になります。 以前話したように、意志は消耗品なので、 これを問うこと以外の面で消耗してしまうと 問いを発する方へ、つまり興味に使えたはずの 意志が残りません。 多くの人はどうでもいいこと、例えば会社の 理不尽な言いつけを守るとか、周りの空気に自分を 合わせるとか、妻の愚痴を聞くとか、夫の加齢臭を 我慢するとか、ダイエットで甘いものを我慢するとか、 楽しくもない資格試験の勉強をするとか、 そういうことに意志を使ってしまっているために 興味として使うべき自発性が残されていないのです。 だから興味が持てないし、情熱も持てない。 つまり興味のないこと、やりたくないこと、 嫌いなことをやればやるほど、興味のあること、 やりたいこと、好きなことが見つかり難くなって しまうのです。   以上のことから言えるのは、たくさんのことに 興味を持ち、情熱を持ちたければ、たくさんの 興味のないこと、やりたくないこと、嫌いなことを できるだけ避けて生きましょう、ということです。 これが今の僕から言える「たくさんのことに 興味を持つ方法」です。 その意味で無駄を嫌う人というのは、実際には 無駄なこと(興味のないこと、やりたくないこと、 嫌いなこと)ばかりしている人ではないかと思います。 無駄なこと(意志を消耗すること)をしているから、 彼らは無駄なこと(自分と直接関係のないこと)に 興味を持てないのです。 逆に言うと、たくさんの無駄なことに興味を持ち、 無駄を許容できる人ほど本質的には無駄なことを ほとんどやっていないことになります。 なぜなら、それだけ意志が余っているからです。 たくさん興味が持てればそれだけ情熱が生まれる 可能性も上がって、そのどれかが情熱になれば あとは意志を使うまでもなく「衝動」が自発的に 問いを発してくれます。 ステップ化すると 1.興味のないことをやめる 2.意志が余る 3.自発的に問う(興味を持つ) 4.興味から情熱が生まれる 5.情熱の対象を衝動的に問う 6.余った意志でまた自発的に問う(興味を持つ) 7.興味からまた別の情熱が生まれる 以下繰り返し、という感じになるワケです。 興味には広さと深さがありますから、人によっては 1つのことを深く掘り下げることもあるでしょうし、 たくさんのことに広く興味を持つこともあるでしょう。 僕はどちらかというと後者のタイプなので、 メルマガやセミナーは話が縦横無尽に飛びまくって いますよね?(笑) 何の話をしているのかとても一言では言い表せない、 そうやって幅広いジャンルを結びつけて話すことで、 僕はあなたにいろんなことに興味を持って もらおうとしています。 キルケゴールを読んでみようとか、 白鵬のインタビュー記事を読んでみようとか、 将棋の電王戦のことを調べてみようとか、 死刑制度や執行人のことを調べてみようとか、 要する僕は独学というものの、自分で気付き 発見することの楽しさを伝えたいのです。   僕のメルマガやセミナーは、いつも興味のキッカケを 意識して作っています。 だから正直、「痩せる方法教えます」とか「稼ぐ方法 教えます」とか、そういう具体的で直接的なことは 凄く言いにくい。 そもそもその手のメッセージで参加するということは、 痩せることや稼ぐことに「既に」興味があるってこと ですから、それはもはや僕の仕事ではないワケです。 そうではなく、僕は 「そんな世界もあるのかぁ」 「その分野、ちょっと面白そう」 「もっとそれについて知りたい」 「やべっ、ハマっちゃうかも」 そういう衝動を引き出し、意志を消耗した人でも 「新しい」興味を持ってもらえるようにすることを セミナーの目的にしています。 なぜなら、それが殻を破るということだからです。 シュールレアリズムに興味のない人がシュールレアリズムに 目覚めたり、哲学に興味のない人が哲学に目覚めたり、 運動に興味のない人が運動に目覚めたりすれば、 そりゃ今までとは別の自分になってますよね? 痩せたい人が痩せるとか、稼ぎたい人が稼ぐというのも それはそれで別人にはなりますが、それはその人の 「想定内」の自分になるに過ぎません。 僕はそのしょーもない自分が考えたしょーもない想定すら 超えていきたいし、あなたにも超えてほしいのです。   そのためには自分が何とも思わないこと、つまり「無駄」を 取り入れなければなりません。 既知なる可能性はこれまでの経験の中にありますが、 未知なる可能性は未知なるものの中にしかありません。 そして無駄とは、往々にして無駄だと決めつけているだけの 未知なるものです。 数学を学ぶことが無駄かどうかは、数学を徹底的に学んだ 人にしか分からないはずなのですが、世間の中学生や 高校生というのは自分の都合でそれを無駄だと決めつけます。 同様にして僕がよく話す政治や哲学、宗教、芸術などの 分野についても、それをかじった程度の人が無駄だと 決めつけている。 試しに自分が無駄だと思っていることについて、 どれだけのことを知っているか考えてみてください。 多分驚くほど何も知らないと思います。 知らないのに無駄だと決めつける。 知らないのに興味を持たない。 そういう偏狭な人間が前書きに書いた在特会のような人に、 普通の人に、凡人になるのです。 われわれが無駄だと思っていることの中に、 われわれの未知なる可能性は眠っています。 そのあなたの眠れる獅子を呼び覚ますこと。 それが僕の仕事です。 次にやろうと思っている講座も興味をかき立てるもの、 もっと学びたくなるもの、自然と自分の殻を破って しまうようなものを考えています。 いつもなら「興味があれば受講してね」と言うところですが、 今回はぜひとも自発的に興味を持って受講していただければ 嬉しいです。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック ...more»
正常と異常のコペルニクス的転回
ご存知のように、僕のメルマガやセミナーというのは、 僕の「気まぐれ」で行われています。 メルマガは書きたいことを書きたいときに書いているだけだし、 セミナーもやりたいことをやりたい時にしかやりません。 これは仕事に限ったことではなく、僕は誰かと居酒屋に 行ったときでも、お腹が空いていたら最初からお茶漬けとかを 頼んでしまうような人間です。 「はじめの一杯は生中で」みたいなのがどうしてもイヤで、 自分を押し殺して周りに合わせるのが苦手をはるかに超えて 苦痛で仕方がないのです。 こういう僕のような人間は一般に社会不適合者と呼ばれ、 場合によっては統合失調症などという病名で呼ばれることも あります。 空気を読むことができなかったり、周り(のルール)に 合わせることができなかったりすることは、程度の差こそあれ、 現代においては病気で、異常で、狂っているということです。 例えば、会社の上司に対して「今日は気分が乗らないので 欠勤します」なんてことを真顔で言おうものなら、 社会人失格だと言われると思います。 そこまでは言われなくとも、真っ当な社会人としては 見てもらえないだろうし、そんなことが続けばいずれは クビになるでしょう。 つまり一般には、気分が乗らなくても働くのが社会の常識 (守るべきルール)であり、正常な人ということになっている ワケです。   ところで、社会不適合者や統合失調症というのは、 「社会」が正しいということを前提にした言葉です。 「正しい社会」に適合できないから異常(病気)だ、と。 そう言っているワケですが、もし仮にこの前提となっている 「社会」が誤ったもの、正しくないものだったとしたら、 そんなものに適合している人間こそ異常だということにならない でしょうか? というか、何を根拠に多くの人は「社会」を正しいと思い込んで いるのでしょう? さっきの例で考えると、なぜ気分が乗らないのに働かないと いけないのか、というのが考えるべき問いになります。 この問いに納得のいく答えが出せる人はまずいないでしょう。 なんでって言われても・・・会社がそう決めてるんだから 仕方ないでしょ。 普通はそんな感じになると思います。 じゃあ、なぜ会社はそう決めているのか。 それは多分、 1.それが常識だから(そうしないと仕事が回らないから) 2.今までそうしてきたから 3.周りの会社もみんなそうやっているから の3つのうちどれかです。 仮にこれが正しかったとして、じゃあ自分の人間性(気分)を 否定してでもやらなきゃいけない仕事なんてこの世にあるの でしょうか? まあ「ある」って答えるんでしょうね、彼らは。 つまりわれわれの「社会」は人間性の否定を是としていて、 人間らしく生きることよりも仕事を優先する社会である、 ということなのです。   こういう人間性を否定する「社会」に適合することが正常で、 適合できないのが異常だとしたら、僕はずっと異常でいいし、 そんな「狂った正常」にはなりたくありません。 自分の気分や感性、閃き、衝動、そして実存を否定してまで、 僕は正常であろうとは思わない。 疲れてるのに休んじゃダメとか、気分が乗らないのに働けとか、 楽しくもないのに飲み会に強制参加とか、そんなんで生産性が 上がるワケないですよね。 価値を生み出すために人は働いているはずなのに、 「社会」が押しつけてくるのは価値を下げることばかり なのです。 そりゃ死にたくもなりますよ。 結果を出せなくさせている構造の中で「結果を出せ!」って 言われ続けてるんだから。 僕から言わせれば、そんな「社会」に適合して普通に生きて いられる人の方が頭がオカシイんじゃないかと思います。 こんなことを言ったら怒られそうだけど、真実なんだから 仕方がない。   今異常だと言われているもの、病気だと言われるものを改めて 考えてみてください。 その異常や病気は、そうでないものが正常や健康である前提で 定義されています。 認知症は本当に病気なのか、異常気象は本当に異常なのか、 より抽象化して 「その問題は本当に問題なのか」 を問う価値はおおいにあると思います。 われわれが問題だと思っていることは、それを問題として 認識していること自体が問題である可能性があるのです。 提起された問題そのものすらも疑ってかかること。 これが「異常な人」に求められる知的態度です。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
愛こそすべて
武井壮が最近までやっていた「シューカツの王」という ラジオ番組があります。 この番組のゲストで、ラグビー日本代表の田中史郎選手が 呼ばれて来たことがあったのですが、そこで以下のような やりとりがありました。 武「これまでの日本代表に一番欠けていたのは何ですか?」 田「コミュニケーションですね」 武「なるほどぉ、そこに対して田中選手はどういうことを やっていったんですか?」 田「みんなが言わないことを言う、ってことですね」 田中選手いわく、これまでのラグビー日本代表は、 練習でケガをしそうになるとお互いが100%の力を 出さないようにする(手を抜く)、という暗黙の了解の ようなものがあったそうです。 そして選手たちはミーティングでもそのことに一切触れず、 なぁなぁになっていた。 そのみんなが触れてほしくないところをグサグサ指摘する 嫌われ役を、田中選手はみずから買って出たワケです。 チームメイトからは「史郎の言うことは言われたときには 腹が立つけど、後から考えれば全部正しかった」と言われた、 と語っていました。   田中選手の話はラグビーに限ったことではなく、 われわれ日本人の欠点を象徴していると思います。 一言で言うと、それが仮に言うべきことであっても、 言い難いことは言わずに済ませてしまう、ということです。 その場の空気や相手を傷つけないことを優先するがゆえに、 言うべきことまで黙ってしまう。 これってよくありますよね。 会社でのミーティング中に「このミーティングは無意味だ」 みたいな発言をすれば、普通その場の空気は凍りつきます。 自己満足ミーティングを主催している役員から白い目で 見られることもあるでしょう。 しかし本当にその会社のことを思うのなら、言わなければ なりません。 ここで重要なのは「本当にその会社のことを思うのなら」 という部分です。 これは言い換えれば、自分が所属している会社のことを さほど気に留めていないのであれば、別に無理してまで 言う必要はない、ということです。 そして実際に、ほとんどの人はそうしていると思います。 要するに、われわれが言い難いことを言わずに済まして しまうのは、会社や相手やコミュニティのことを実は 「どうでもいい」と思っているからであり、そんなものよりも 自分の方が何倍も大事だからなのです。   もしあなたが本気で僕や僕のコミュニティのことを 思ってくれているとしたら、僕が傷ついたり怒ったり するようなことでも、勇気を出して言ってくれるはずです。 実際、以前のアンケートではそういうコメントをいくつか もらいました。 もらったときは傷ついたり腹が立ったりするんだけども、 冷静になりさえすれば、それらは正直な気持ちであり、 僕のために言ってくれたんだと分かります。 だってそうですよね。 自分が嫌われるかもしれないことを、言わなければそれで 済んだことを、敢えてメールで送ってくれてるんだから。 以前紹介したニットクリエイターの栂瀬さんがメールを くれるときも、結構グサッと刺さるようなことが 書いてあったりします(滅多にメールは来ないけど)。 でもそれが愛なんですよ。 愛があるから、相手のことを第一に思っているから、 自分が嫌われるようなことでも平気で言えるのです。 親が子を叱るのだって、そうですよね? 「子供に嫌われたくない」と思って子供を叱れない親って、 どう思いますか? 嫌われようが恨まれようが、子供のためなら言うべきことは 言わなきゃダメだし、それが子を愛するってことでしょ。 言うべきことを言えない人というのは、裏を返せば 「誰も愛せない人」でもあるのです。   日本代表チームを愛せない日本代表が勝てるワケないですよね? 家族を愛せない子や親が幸せになれるワケないですよね? 会社を愛せない役員が、会社を愛せない社員ばかり集めて、 いい会社になるワケないですよね? 日本を愛せない日本人が、いい国を作れるワケがないですよね? そういうことです。 言いたいことも言えないこんな世の中じゃポイズンですよ、 マジで。 日本人が調和を重んじるというのは、もはや単なる言い訳です。 それは調和を重んじてるんじゃなくて、(調和へ至るための) 一時的な不調和というリスクを避けているだけですから。 エリアーデが言ってましたよ。 「世界はこれまで続いてきたというただそれだけの理由で 干からびて、新鮮さ、純粋さ、本来の創造力を失う。 誰も世界を<修復>することはできない。 再創造するためには滅ぼさなければならないのである」 って。   言うべきことを、言い難いことを言うとは、それまであった 何かを破壊し、滅ぼすということです。 そこから「世界」の再創造が始まります。 愛するということは本来、(シュンペーターじゃないけど) 創造的破壊とも言うべき創造的な営みなのです。 愛こそすべて。 この言葉は案外、真理なのかもしれません。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
構造主義的な生き方
僕がフォローしている人たちの影響もあると思いますが、 フェイスブックを見ているとかなりの割合で ・ブログのアクセスを増やす方法 ・必勝コピーライティングテクニック ・フェイスブックで集客する方法 ・メルマガで売上アップするノウハウ ・コンサルタントになって成功する方法 などの広告や投稿が流れてきます。 これらの情報がよいか悪いかは今は触れませんが、 それらはどれもが部分最適に特化したものです。 部分最適とは、ブログのアクセスを増やす方法で言うと、 ある人の人生から「ブログ」という部分を切り取って、 そのまた「アクセス」という部分を切り取った上で それを最適化(最大化)する、という発想のことです。 その人がどんな人生を歩みたいのか、つまり全体のことを 考慮することなく、ブログのアクセスという部分だけを 伸ばしていく。 これを部分最適と言うワケですが、その結果、多くの人が 残念なことになっていくということに、教える側の人は 気付いていません。 相手(クライアント)はブログのアクセスを増やしたいと 思っていて、それを達成すれば幸福になれると思っている ワケですから、その方法を教えてブログのアクセスが 増えれば、当然喜ばれます。 「ありがとうございました、お陰でブログのアクセス数が 2.5倍にアップしました!」 そうやって笑顔で言ってもらえることがほとんどでしょう。 しかし、われわれ人間は、自分が望むべきでないものを 望んで手に入れようとすることが、往々にしてあるのです。   「人民は放っておいても、常に幸福を欲する。 しかし放っておいても、常に幸福が分かるとは限らない」 ルソーは『社会契約論』の中でこんなことを言っています。 この本で言われている「人民」は厳密には個人のことでは ないのですが、今は細かいことは置いておきましょう。 要はルソーは、ある人が欲するものを手に入れたとしても、 それがその人にとって幸福であるとはかぎらない、と 言っているワケです。 これは宝くじに当たった人なんかが、典型的じゃない でしょうか。 彼らは大金を手に入れれば幸福になれると思っているからこそ、 それを手に入れるために宝くじを買うワケですが、 いざ手に入れてみたら、あぶく銭に飲み込まれてむしろ不幸に なってしまった、みたいな話が世界には溢れているワケです。 宝くじの例はやや極端ですが、われわれも日々 こういう自虐的なことを無意識に行っています。 「ブログのアクセスを増やしたい」というのは、 その1つの例です。 ブログのアクセスを増やすために必死になってキーワードを 検索して、タイトルは派手な言葉を使って煽り気味にして、 記事もテンプレート通りに書いて、内容もノウハウに特化する。 確かにそれをやればブログのアクセスは上がるかもしれません。 でも、そんなしょーもないことに神経を削る人生って、 楽しいんですかね? それがその人の望む人生なら何も言うことはないのですが、 どうせブログを書くならアクセスとかキーワードとか、 そんなのを気にせずに自分がとにかく書きたい・書くべきだと 思うことを思う存分書く方が、僕は楽しいと思うんですよね。 その楽しんでいることが自然と結果に繋がっていくことを、 われわれは「成功」と呼ぶんじゃないんでしょうか。   お分かりだと思いますが、こんなことを偉そうに言っている 僕も、一時期、この「部分最適の罠」にハマっていました。 やっと治りかけてきた傷口を自分でえぐるのはちょっと 勘弁してほしいので、あえて具体的なことは言いませんが、 全体を見失って部分最適に走ると、あんな感じになります。 一言で言うと、欲望を満たすために楽しさや自分らしさ、 生きがいなどを犠牲にしてしまう、ということです。 しかし、何かが犠牲になっている時点で、それはもう 理想の人生ではありません。 だって人生というのは、自分のすべてなんだから。 お金のためであれ、家族のためであれ、平和のためであれ、 何かが犠牲になっているなら、それは何かが間違っています。 アルマゲドンよろしく、1人の人間の犠牲の上に成り立つ 人類の存続は、実際には何も素晴らしいことではないのです。   何かを犠牲にして、何かを成し遂げる。 それはまさに合理主義の発想であり、民主主義の、 もっと言えば全体主義の発想です。 自分の人生を犠牲にして家族のために働く親たちは、 自分もその家族の一員だということを忘れています。 家族を幸せにしたいならば、自分を含めた家族「全員」を 幸せにしなければなりません。 子供という部分だけを最適化しようとして自分を排除するから、 家族という全体が歪むのです。 大事なのは全体の調和であり、構造主義的な視点です。 われわれは近代的な価値観に乗っかって生きているので、 家族や会社や国などの社会を「個人が集まってできたもの」と 考えがちですが、その発想がそもそも間違っています。 フランシス・フクヤマが言っているように、人類史上、 人間が「個人」で存在していた時代など一度もないのです。 一度もないのに、民主主義というのはその「個人」を 前提として成り立っているし、われわれは個人が集まって 関係を作ることで社会になると思い込まされている。 それが部分最適などという、いびつな発想が生まれてくる 根本原因なのです。   ブログのアクセスを増やすという部分は、人生という全体に 調和してこそ意義あるものになります。 逆に言えば、その全体が見えていないのに、いくらブログや フェイスブックの使い方を学んでも明後日の方向に向いている 可能性があるし、コンサルタントとして成功しても人生は 失敗する、なんてことが普通にあり得るということです。 だからわれわれには黙ることが、「仏の親切」が 要求されるのです。 相手が理想とする全体なんてものは、簡単に分かるものでは ありません。 それが分からないまま相手にあーだこーだアドバイスしても、 それは部分最適の罠にハメることになりかねないワケです。 これが理解できれば、相手のことを深く真剣に考えるほど、 具体的なことが何も言えなくなっていくことが分かるでしょう。 でもそれこそが、本当の優しさだと、僕は思います。   何も言えないけど、何も言わないワケにはいかない。 この矛盾にもがき苦しみながら、今日もがんばって 生きましょう(笑) ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック ...more»
私たちが正しい場所に花は咲かない
  あれは3年ほど前のことだったでしょうか。 身体の悪い母親をなんとか元気にさせるために、 必死になっていた時期がありました。 あるときは健康に良さそうな食べ物を食べさせてみたり、 またあるときは鍼灸院に通わせてみたりして、 あれやこれや僕なりに考えてやっていたワケですが、 そのときは母親と喧嘩をすることが多く、僕はいつも 「こんなに頑張ってるのに、どうしてこっちの気持ちを 分かってくれないんだ」とイライラしていました。 自分の言う通りにしてくれれば、今よりも元気に なれるのに! 元気になればもっと楽しく自由に生きられて幸せに なれるのに! 当時の僕はこれを信じて疑わなかったワケです。 しかし僕の気持ちとは反対に、母親を元気にさせるために 僕が頑張るほど、母親との関係は悪くなっていきます。 あれをしろ、これはダメなどと僕が言い続けているうちに、 お互いのイライラは積もっていきました。 やがてその気持ちが爆発し、「もう勝手にしろ」と思った そのときのことです。 勝手にしろ、と思った瞬間は感情的になっていて 気付かなかったのですが、ふと我に返った瞬間に、 僕はある重大なことに気がつきました。 僕の考えていた母親の理想と、母親が考えていた理想は 違ったんじゃないか。 母親は別に無理してまで元気になりたいだなんて 思ってなかったんじゃないか。 そう思ったのです。 僕は身体の悪い母親を見て、「勝手に」母親の理想を 決めつけていました。 直接「どうなりたいの?」と聞いたワケでもないのに、 勝手に頑張って、勝手に押しつけて、勝手にイライラして、 そうやって関係を悪くすることで、むしろ母親を不幸に していたワケです。 このことに気付いてからは無駄に母親と喧嘩することも なくなりました。 身体は悪いままだけど、今はもう「そういうものだから 仕方がない」と思っています。 生まれつきの障害だと思えば、なんともありません。 これは単なる僕の一例に過ぎませんが、人間関係のもつれや コミュニケーションの齟齬というのは、自分の勝手な思い込み、 つまり自分の前提と相手の前提の違いに気付けないことによって 起こるのです。   昨日話した思考の解像度は、このことにも関係しています。 恋愛関係であれ親子関係であれ人とモノとの関係であれ、 関係と名のつくものにはすべてお互いの前提があり、 その前提が噛みあうことでその関係が成り立っています。 仕事ができない人や常識はずれな人と関わって イライラするのは、その人の思考の解像度が低いからに 他なりません。 一人一人、前提は違って当たり前なのに、彼にとっては 万人が自分の前提と同じじゃないと嫌だし、僕が母親に 理想を押しつけたように、その前提こそが正しいと 思い込んでいるワケです。 これがいくところまでいくとイスラム国やナチスのように なります。 彼らは極端に思考の解像度が低く、世界をイスラム国的に、 またはナチス的にしか見られなくなっています。 だからそうじゃないものはすべて自分たちの「正義」を 邪魔する「悪」に見えるのです。 個人の小さな喧嘩から国家間の大きな戦争まで、 すべてはコミュニケーションの齟齬、前提の無理解、 思考の解像度の低さによって生まれてきます。 尖閣諸島や竹島の問題だって、悪いのは中国や韓国では ありません(それらの問題を「作った」国があります)。 でも、ほとんどの日本人は中国や韓国を憎んだり 蔑んだりしているし、それを正しいと思っている。 「私たちが正しい場所に花は咲かない」という有名な言葉が ありますが、思考の解像度が低いままだと、その「正しさ」が 量産されてしまうということです。 それによって世界がどうなるかは言うまでもないでしょう。 恋愛のように、自分が失恋して悲しむだけで済むなら いくらでもそのままでいればいいと思いますが、 その解像度の低さは周りにとっても大きな迷惑であり、 自分だけの問題で済まされるようなことではないのです。   無理に難しい本を読めとは言いません。 言いませんが、われわれは今のままでは有害な生き物なのだ ということを忘れないでください。 どんなやり方であれ、思考の解像度を上げる「責任」が われわれにはあるということです。 われわれは自分のためではなく、世界のために成長しなければ なりません。 世界のために自分らしく生き、自分の才能を開花させなければ なりません。 その自覚だけが、真の成功や幸福を約束してくれるのだと 僕は思います。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
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