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実存の危機における美術館の可能性
ども、ペスです。 昨今の政府や地方自治体の事業仕分けに伴い、これまで公に守られてきた 日本の芸術文化は急速に衰退の道を歩んでいます。 交響楽団の活動停止や美術館の閉鎖、若手芸術家の育成不足、 そしてお金にならない活動に対する民衆の無理解。 他にもたくさんあると思いますが、こういったことが日に日に 悪い方向に進み続けていることには違いありません。 民間からは以前紹介したソーシャルファンディングと呼ばれる ビジネスモデルが少しずつメジャーになり始めたとはいえ、 それでもほとんどの人が芸術分野に対しては共感を 示していないのが現状です。 音楽や絵画、彫刻、演劇、映画・・・芸術にも色々ありますが、 今はこの中の本当に極一部にしか光が当たらず、 他はすべて無いものかのように一般には扱われているワケです。 その一例として、日本の美術館が行う展覧会のほとんどは 「印象派の画家」展であることが挙げられます。 これは美術館側から言えば「印象派の展覧会が一番集客しやすい」 という事情があるワケですが、これを繰り返すことによって 日本人の芸術観とも呼ぶべき感覚が狭められてしまっており、 その結果として現代美術や印象派以外の美術が多くの人から 軽視されるようになったことは悲しむべきことだと思います。 そして唯一、現代美術が堂々と輝ける場所としてあるべき 各現代美術館も、経営を重視するあまりマンガやアニメを頻繁に 取り上げるようになってしまっているのです。 マンガやアニメは芸術か否かという点はともかくとして、美術館は本来、 われわれの見識を広めるものでなければならない、と僕は思っています。 もう少し言えば、民衆を啓蒙する役割が美術館にはあるのではないか、 ということです。 たとえ経営が危ういとしても、その理念まで捨ててしまっては そもそも美術館が存続する意味がありません。 ときには印象派を紹介することも必要でしょうし、 ときにはマンガやアニメを紹介することも必要でしょう。 しかし、今やそれらはメジャー中のメジャーであり、 美術館がわざわざやらなくとも他の商業施設や百貨店などが 勝手にやってくれるのですから、取り敢えずそっちは他に 任せておけばいいのです。 美術館が今考えるべきは、無難で保守的な利益確定型の展覧会を やることではなく、儲からなさそうなマイナーで地味な展覧会で いかに集客するか、美術館が本来あるべき在り方で存続するためには どうすればいいか、ということなのです。 そこでやっと本題に入っていきます。 ブログやメルマガにも書いたように、現代人は実存の危機という状態に 陥っています。 だからこそパワースポットなんてものがブームになったり、 アーユルヴェーダやヨガや座禅や写経や瞑想やマラソンが 流行ったりするワケですが、これらの現象を抽象化すると、 人々は論理的なものではなく感覚的なものを重視し始めた、と 考えることができます。 もちろん今言ったそれぞれには固有の論理があり、すべてが感覚的なものだとは 言えないのですが、一般に言う論理、つまり科学とはまったく違うものばかりです。 だとしたら、この中に芸術が含まれていても何ら不思議ではないと思いませんか? 実際、これだけ音楽が売れなくなった現代でも、ライブコンサートの動員数は 右肩上がりだと言います。 家で動画を見てればお金のかからないニコニコ動画も、幕張で行われた 有料イベントであるニコニコ超会議は10万人を集めました。 こういうところに美術館は注目すべきだと思うのです。 個人的には美術館は建物自体が素晴らしいことが多いので、 聖なる空間として機能させることは十分に可能だと思いますし、 実際に人によっては既に聖なる空間と感じている人もいると思います。 美術館に行くとなぜか分からないけど落ち着く。 そういう人も少なくないはずです。 だったら、そういう人をもっと増やせないかどうかを考えてみては どうでしょうか。 また瞑想などとコラボして、曼荼羅の展覧会をやっているその中で瞑想を 実際に体験してもらう、というのもアリかもしれません。 贅沢を言えば、美術の体験の仕方を分かりやすく指導した上で、 美術を鑑賞してもらうのが一番理に適っていると言えます。 美術は音楽や動画と違って時間軸がほとんど無いため、聖なる時間、 聖なる体験になり難いという点があります。 ですから、そこをどう補っていけるかが起死回生のカギになるでしょう。 音声ガイドもその1つの試みではあると思いますが、あれを借りる人は ほとんどいないという現実があるワケですから、その現実をしっかり受け止めて 別の案を模索しなければなりません。 単なるモノとの出会いを、いかにして体験に変えるか。 これが今の美術館に求められている技術ではないでしょうか。   ...more»
聖なる空間 ~日常の中のスピリチュアル~
  朝早くに駅前なんかを歩いていると、たまにボランティアか何かで ゴミ拾いをしている人がいます。 僕はそれを見るたびに「偉い人がいるもんだ」と感心するんですが、 それと同時に「でも掃除する人がいるから捨てる奴がいるんだよな」 という虚しさをおぼえます。 「どうせ汚されるなら掃除するだけ無駄なんじゃないか」とすら 思ってしまうほどです。 実際、ゴミを捨てる人が減らない限り、いくら掃除をしても 街はキレイにならないワケですから、表面的に見れば無駄です。 それを続けるぐらいならシンガポールのようにポイ捨てする人に 罰金を科すことの方が、街をキレイにする効果は高い。 しかし、です。 だったらなぜわれわれは自分の部屋を掃除するのでしょうか? 何度掃除しても汚れることは分かっているのに、どうしてそんな 無駄なことを繰り返すのでしょうか? 「いや、自分の部屋と街とでは話が別でしょ」 そう思うのが普通だと思いますが、では何が別なのでしょう? 自分の部屋と街の違いなんて精々お金を払ってるか払ってないか、 私的空間であるかないか、広いか狭いか、それぐらいしかありません。 それぐらいしかありませんが、われわれにとってはそれが大事なのです。 素朴な感覚として、自分の部屋がピカピカになったら、誰でも嬉しいと 思います。 それは自分の住んでいる街がキレイになることよりも嬉しいはずです。 どちらも現象としては同じことなのに、なぜこれだけの感覚の差が 生まれるのかというと、自分の部屋には他の空間とは違う特別な何かを 感じているからです。 会社にひとりでいるのと、自分の部屋にひとりでいるのとでは同じ 状態のはずなのに、自分の部屋の方が落ち着くのはなぜなのか。 仮に仕事のない休日だったとしても、会社にいるのと自分の部屋に いるのとでは落ち着き具合がまったく違うと思います。 ベッドやソファーが無かったり、部屋の広さが違ったり、環境的な差も それなりにあるとは思いますが、それにしたって休日にやることは 大体毎回同じなんだから、必要最低限のものが揃っていれば同じように 生活できても不思議はありません。 けれども、やってみれば分かりますが、まったく体の回復の度合いや 精神的安定の度合いが違うのです。 この感覚の違いはどこから生まれてくるのでしょうか。   ・・・ところで。 旅行から帰った後って、なぜか分からないけど、すごい疲れた感じが しませんか? もしかしたらそれは僕があまり旅行好きじゃないからかもしれませんが、 それにしたって個人的にあの疲れ具合は尋常ではないように思うのです。 僕の場合、一泊二日で東京に行っただけで、帰ってきた次の日の 午前中ぐらいまで疲れをひきずっています。 特に遊びまわったワケでもなく、歩き回ったワケでもなく、ちゃんと 睡眠をとったにもかかわらずこんな感じです。 とにかく疲れるんです、家から出ると。 老けたのかしら。 だからといってまったく出ないワケにはいかないので、それなりに 意識して出掛けるようにはしてますが、基本的には(特にここ最近は) あまり出掛けるのは好きではありません。 だから「やっぱり自宅が一番ですよね」という話がしたいワケではなく、 そんな疲れが出るにもかかわらず、どうして多くの人は大金を払ってまで 旅行に行きたがるのか、ということを考えたいワケです。 まあシンプルに考えれば、疲れ以上に得るものが多いからというのが 一番真っ当な理由になると思います。 旅行に行けば身近な場所にはない特別な体験ができる。 大金を出して旅行に行く価値はそこにあるんだ。 恐らく多くの人はこう答えるでしょうし、これを否定する気はまったく ありません。 ただ失礼かもしれませんが、そういった特別な体験をした人たちが おしなべて普通の人である現実を見ると、僕にはその発言が真実を 語っているようには思えないのです。 旅行の理由をもう少し抽象的な言葉にするならば、彼らは日常から 離れた「非日常」を体験するために旅行していると言えます。 家でじっとしていたのでは面白くもなんともない。 だから外に何か目新しいものを、日常には無いものを求めて旅立つ ワケです。 外に出れば何か面白いものが見つかるはずだ、という期待を抱いて。 けれども、その結果なにが得られるかというと、大体の場合は 「旅行は旅行で確かに楽しかったけど、やっぱり我が家が一番だな」 という感想なのです。 つまり、みんな非日常を通して日常の大事さを再確認しているだけ なのです。   これはこれで重要であることには違いありませんが、当初本人たちが 求めていたものとはまったく逆のものが手に入っているというのは なかなか興味深い結果ではないでしょうか。 非日常を求めて外へ出たはずなのに、手に入ったのは非日常以上の 日常だった。 『青い鳥』を極力抽象化して論理的に解説すると、こんな感じになる かもしれません。 まあ青い鳥はどうでもいいんですが、ここであらためて考えたいのは 「どうして我が家は一番なのか」 ということです。 掃除の行きとどいたホテルに泊まって、美味しいもの食べて、 綺麗な景色を見ているはずの旅行先よりも、表面上は明らかに 劣っている我が家を一番だと感じるのはなぜなのか。 実はこういう素朴な感覚の中にわれわれのスピリチュアルが潜んで いるのです。   われわれが生きている空間には大きく分けて特別な何かを感じる空間と 何も感じない空間という2種類の空間があります。 この特別な何かを感じる空間のことをミルチャ・エリアーデという 宗教学者の言葉で 「聖なる空間」 と言います。 癒し、安心、安定、暖か味、落ち着き、パワー、オーラ、エネルギー、 そういったものを感じる空間はすべて「聖なる空間」です。 典型的なのは自分の実家や部屋ですが、そこに癒しを感じるのは、 そこが自分にとって「聖なる空間」だからです。 素朴な感覚として、外から自分の部屋に帰ってくると、なんとなく ほっとしますよね? なぜだか分からないけれども、今まで張りつめていたものが、 ふっと解消されたような気がする。 それが「聖なる空間」です。 自分の部屋以外では例えば神社の鳥居をくぐったり、山に登ったり、 洞窟に入ったりしたときにも、何か特別な感じを受けると思います。 それも「聖なる空間」の一種で、要は「聖なる空間」には自分にしか 分からない純粋に主観的なものと、他人とも共有できる客観的なものが あるということです。 同様に、特別な何かを感じる時間のことをエリアーデの言葉で 「聖なる時間」 と言います。 これは友達と遊んでいるときの時間とか映画を見ているときの時間とか、 そういう普段とは違う早さを感じる時間のことです。 友達と楽しく話してるときって、時間が経つのが早いでしょ? その時間を「聖なる時間」と言うワケです。 便宜上、更につけ足して特別な何かを感じるモノ、思い出の品や 思い入れのあるモノをここでは勝手に「聖なるモノ」と呼ぶことに しましょう。 それに対して何も感じない空間のことをエリアーデの言葉で 「俗なる空間」 と言います。 これは言い換えてしまえば、単純に「聖なる空間」以外の空間 ということです。 これも人によって違うので断定はできませんが、例えば学校とか 会社とか公園とか電車の中とか駅とか、そういうのが典型だと 思います。 そこにいるからといって何か特別なものを感じることはない。 そういう空間が「俗なる空間」です。 「聖なる空間」と同じように、何も感じない時間を「俗なる時間」 といい、何も感じないモノをまた勝手に「俗なるモノ」と呼ぶことに しましょう。   一通り説明が終わったところで話を進めていきますが、 エリアーデはこれら聖なるものと俗なるもののバランスが 崩れたときに人は「実存の危機」に陥ると言っています。 実存の危機とは 「なんとなく生きている心地がしない」 「毎日がどこか虚しい」 「生きがいを感じない」 「毎日が平凡すぎてつまらない」 「いつも将来のことを不安に感じる」 「死んだ方が楽な気がする」 そういう状態のことです。 こんな状態になってしまうのは聖と俗のバランスが崩れているからだ とエリアーデは言っているワケです。 このバランスというのは、人によって異なります。 例えば聖なるものばかりを追いかけていくと、自分の部屋から 一歩も出ずに動画サイトやゲームばかりを見て、自分の好きなもの ばかり食べて暮らしているような状態になります。 世間で言うところの引きこもりです。 この人を周りから見れば、無駄なことばかりに時間や労力を費やして 世間との接点を一切持とうとしない非常識な人、という感じに見える でしょう。 が、本人にとってはそれが正常なバランスなのかもしれません。 毎日ゲームをやってないと死んでしまう。 1回でも見たいアニメを見逃したら死んでしまう。 あくまでも予想の範囲ですが、多分そういう人もいると思うのです。 この例が分かり難いなら、携帯電話のことを考えてみて下さい。 今の時代、携帯が無くなっただけでヒステリーを起こすような人は 案外多いと思います。 毎日暇があれば携帯の画面ばかりを眺め、特に用事もないのに タッチパネルをずっと触っている。 そういう人はまさしくその携帯が「聖なるモノ」であり、それを 触っている時間を「聖なる時間」として過ごしているのです。 それを行儀が悪いとか校則違反だとかいう理由で禁止すると、 その人の聖と俗のバランスが崩れ、毎日の生活が虚しいものに 変わってしまうかもしれません。 逆に、携帯やゲームがあることによって「俗なる時間」が減り過ぎて、 人によってはバランスが保てなくなるということもあります。 この場合は、浮世離れしていく、という感じでしょうか。 ネットゲームにハマり過ぎて廃人になってしまった人なんかが その典型です。 このバランスというのは、あくまでも個人が感じるバランスなので、 聖と俗が50:50でつり合っていることが必ずしもバランスが 取れている状態とは言えません。 つまり「実存の危機」に陥らないためには、何が自分にとって ベストバランスなのかを常に監視し、どちらか一方に偏り過ぎないよう、 自分の生活をコントロールしてやる必要があるのです。   そこで話を戻します。 なぜ多くの人は旅行をするのか。 その理由は自らの聖と俗のバランスを保とうとしているからなのです。 本当は自分の部屋だけで、携帯電話だけで、テレビドラマだけで、 十分に聖なるものを体験しているはずなのに、それがあまりにも 当たり前になり過ぎて、そこに何も感じなくなってしまった。 だからみんな外にそれを求め始めたワケです。 最近、凄い勢いでパワースポットなるものが人気を得ていますが、 あの人気もまさに今が「実存の危機」だからだと言えます。 富士山や熊野古道や伊勢大社というのは、どこもずっと昔から 存在していたところばかりですから、本来であれば別に今更 パワースポットだなんだかんだと騒ぐようなものではありません。 確かにそこに行けば何か癒されたような感じを受けることも あるでしょうし、だからこそ誰もがそこに癒しを求めて出掛ける のだと思います。 けれども、そういうところにお金を払ってまで行くということは、 現状の自分が、普段の生活が、病んでいるという証なのです。 念のために言っておきますが、僕はパワースポットに行くことが バカげていると言っているワケではないし、パワースポットに 行くなと言っているワケでもありません。 そうではなく、行くなら行くで、なぜ自分はパワースポットに 惹かれるのかを考えて欲しいのです。 なぜわざわざ癒しを求めて出掛ける必要があるのかを考えて 欲しいのです。 それを考えれば、おのずと今自分が置かれている立場が分かり、 パワースポットに行くような一時的な措置ではない、根本的な 措置を自分自身でとれるようになります。 癒しを求めて出掛けるのも結構ですが、そもそも病んでなければ 癒される必要はないのですから、その病みの原因をつきとめて 解決してやるのが本当の意味での癒しなのではないかな、と。 個人的にはそう思います。   われわれはいつだって小さな「実存の危機」を抱えています。 その危機を補正するために、われわれは人と話したり、働いたり、 ゲームをしたり、旅行をしたりするのです。 何を俗なるものと感じ、聖なるものと感じるかは人それぞれです。 はたから見れば意味の無いことを繰り返しているような人も、 もしかしたらその人にとって、それをやっている時間は大切な 聖なる時間なのかもしれません。 通勤時間に電車の中でゲームをやることによって、かろうじて 仕事ばかりの俗なる毎日とのバランスを取っている人もいるかも しれません。 それは単なる現実逃避だと批判する人もいると思いますが、それが 本当に現実逃避なのかどうかは、本人にしか分からないのです。 この話は深掘りすれば、もっともっと個人的な領域に突っ込んで いくことができます。 僕はそこまで詳しくはないので、これ以上のスピリチュアルを 語ることはできませんが、興味があるならヒエロファニーや ヒーリング、サイティカル体、アファメーションなどを調べてみるのも 面白いかもしれません。 最終的に行きつく先は親鸞や道元、孔子や老子あたりのような 気がしますが、それは色々やってみて自分で判断して下さい。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
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