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国立西洋美術館「ラファエロ展」にて ~芸術が死ぬとき~
ども、ペスです。 平日の、しかも雨の日に行ったにもかかわらず、ラファエロ展は人で溢れていました。 春休み終了間近だったこともあり、家族連れや若いカップルなども多く、予想以上の盛況ぶり。 運営者側からすれば、大いに喜ばしいことだと思います。 しかし同時に、僕はこのことに絶望したということを告白しなければなりません。 偉大な芸術は自らの役目を果たし、すでに死を遂げていたのです。   彼の作品は確かによく出来ていました。 あの時代の材料であそこまで精緻な作品を作ったということ、そのこと自体は今でも評価されるべきだと思います。 けれども、それはあくまで作品だけを対象として評価した場合の話です。 以前どこかで話したように、芸術とは見る人と作品の関係によって生まれます。 見る側と見られる側、双方の正常な関係が芸術を芸術たらしめているのです。 この関係が失われたときに、芸術は死にます。   芸術における正常な関係は、鑑賞者が偉大な芸術と対等に渡り合おうと努力するときにのみ生まれます。 クラシック音楽の演奏会に、クラシックを理解しようとしない、いや、クラシックを聴くに相応しい人間であろうとしない人間が大勢やってきたとしたら、その演奏会は大きく価値を損なうことでしょう。 それに伴い、そういった演奏会に行くことに「憧れる」人間も減っていくはずです。 なぜなら、それを評価する人間の質が、その芸術の価値を決めているからです。   多くの人がラファエロを見に行くのは、ラファエロを評価する人間が、一定以上の権威を持っているからに過ぎません。 各国の文化人が一目置くようなラファエロだからこそ、ラファエロの作品は(大衆にとって)価値があるのです。 もし僕が売れっ子の芸能人で、芸能界でも大きな影響力を持つ存在だったならば、僕が評価する作品は大衆にとって一定以上の価値を持つことになります。 キムタクが月9のドラマでかけていたサングラスがほしい、みたいな感覚と同じです。 ですから、そのサングラスを何の影響力もない、それどころか怠惰で傲慢で自己中な凡人が大勢かけていたら、そのサングラスの価値はなくなります。 それと同じ理屈で、怠惰で傲慢で自己中な凡人ばかりが見に来るラファエロの作品には、もはや何の魅力もないということです。   高級フレンチの店に、スウェットやジャージ姿の喋り声がうるさくて態度のでかい人間ばかりが来店していたとして、あなたはそんな店に好き好んで行きたいと思いますか? 仮にそこの料理がどれだけ美味しかったとしても、誰もそんなところには行きたいと思わないと思うのです。 僕にとってのラファエロ展は、そんな感じでした。 ラファエロの絵がどれだけ素晴らしくても、それを見に来る人間の質があまりに悪く、作品そのものの品質まで下がってしまっている。 僕もその中の一人なのかもしれませんが、それを考慮したとしても、そういう質の悪い僕ですら、嫌悪してしまうほどの雰囲気だったワケです。 あれでは彼の作品は死んだも同然だと思います。 料理の味を壊すのは、いつだって周りの雰囲気であり、そのときの気分なのです。   誤解のないように言っておきますが、美術館の中が実際にがやがやと話し声でうるさかったワケではありません。 展覧会の会場ではみんな静かに見ていたし、走り回る子供もいませんでした。 ただそれでも、雰囲気が、空気が、悪いのです。 分かるでしょうか、この感覚。 比較的マイナーな展覧会に行き慣れている僕にとって、この雰囲気の悪さはどうにも耐えがたく、展覧会の質そのものをも下げてしまうのです。   この体験から、僕は当初見に行こうと思っていた京都市立美術館のゴッホ展に行くのを取り止めました。 またしばらくは、よほど気になるものでない限り、美術館に行くこと自体を自粛しようと思っています。 それは美術に魅力を感じなくなったということではなく、もっとそれに相応しい人間になることを優先しようと思ったからです。 「他人のふり見て我がふり直せ」ではありませんが、今回の件で少なからず自分も芸術の寿命を縮めるような人間だったのではないかと自覚するにいたりました。 そして何より、今の自分のレベルで理解できるものの限界が見えました。 そんなワケで、しばらくは自分を磨き上げることに専念したいと思います。   なんだかブログ自体が終わってしまいそうな雰囲気ですが、ブログはやめませんから 安心してください(笑) ただ今後は美術への接し方云々ではなく、いかに美術の、芸術の権威を高められる人間になるか、ということが記事のテーマになってくると思います。 つまり、広い意味で「人間学」的な記事になるということです。 それはすなわち哲学を意味します。 僕にとってはどの記事も哲学だったのですが、前面に出ていたのが美術だったので あまりそういう風に感じていなかった人も多いようですね。 まあともかく。 これからも楽しく色々学んでいきましょう(笑)   ...more»
東京国立近代美術館「フランシス・ベーコン展」にて
ども、ペスです。 行ってきました、ベーコン展。 フランシス・ベーコンと言えば、僕は今まで哲学者の方しか知らなかったんですが、何やらこの彼はその同姓同名の哲学者の血を引いているとか何とか。 誕生日が僕と一緒だったり、ちょうど僕がハイデガー(実存主義)を勉強しているタイミングで彼の展覧会が行われていたり、なんだか彼とは運命を感じます(笑) 気持ち悪いとか言わないでね。   彼の作品は「上手い」や「キレイ」という次元を超越しています。 それは「実存的」としか言い表しようがなく、他に彼の作品を形容する適切な言葉が 見当たりません。 偉大な芸術は、人間の置かれている状況がいかに脆いかを思い出させてくれる という彼の言葉どおり、そこに表現されているのはイマココという状況の脆さや移ろいやすさです。 誰もが当たり前のこととして認識しているイマココの状況は、実は非常に脆いもので、次の瞬間にはもう消えて無くなっている。 「その奇跡をもっと感じろよ」と言ったのはハイデガーですが、ベーコンの作品からもそれと同じような印象を受けます。   彼はある動画の中で 下書きをしたあとは、チャンスが来るのを待っている そのチャンスが来ると、意識することなしに作品が完成する というようなことを言っていたのですが、彼はその「直観」によって現実(イマココ)を 切り取ることに成功した稀有な画家と言えるでしょう。 直観とは、理性の先にある閃きのようなものです。 感覚としては、以前話した帰納的飛躍という言葉に近いと思います。 考えて考えて考え抜いた末に出てくる、突拍子もない何か。 今風に言えばイノベーションということになるでしょうか。 その閃きを閃きのままに描写すると、あんな感じになるんだと思います。   このことから分かるのは、偉大な芸術家は偉大な哲学者である、つまり理性的に考えを突き詰めた上で作品を作っている、ということです。 多くの画家が「言葉にできないから絵で表現するんだ」と言うとき、ほとんどの場合 それは単なる語彙力不足です。 彼らは自分のボキャブラリーの乏しさを言い訳にして、絵を描くことに逃げている。 理性を突きつめるどころか、理性を中途半端なまま放り出して、響きだけが美しい 感性という柱にしがみついて生きているのです。 しかしベーコンは違います。 彼はギリギリのところまで言葉での記述を追求し、その先にある言葉以上ものを絵として表現しようとしました。 「言葉で表現できないもの」のような漠然としたものではなく、「言葉を超えたもの」を 表現したのです。 それは彼の どうやったら理性的でないやり方で機能を作ることができるのだろう 見た目だけでイメージを作り直すのではなくて、私たち自身が把握しているあらゆる 感覚の領域を作り変えたいんだ という言葉からも明らかだと思います。 すなわち、芸術家と哲学者、芸術と哲学を分け隔てることは、芸術への裏切りであり、 哲学への反逆なのです。   哲学を理解できなければ芸術も理解できない。 ここまでの話で、なんとなくこういう理屈が見えてきたと思います。 もちろんこの「哲学を理解する」とは、ハイデガーやカントやヘーゲルの哲学を 知ることではありません。 そんなものは気になった人だけが知ればいいだけのことで、彼らの著書を読もうが 読むまいがどっちでも構いません。 そうではなく、ここで言う「哲学」とは、「哲学する」ということであり、 もっと分かりやすく言えば、自分が生きるとはどういうことかを探求し続ける 態度のことです。 そういう態度で生きていれば、芸術は自然とその意味を語りかけてくれます。 その意味はあなたにとっての意味でしかありませんが、それで十分なのです。 客観的な芸術とは、本質的にはもはや芸術ではないのですから。   哲学は本質的に反時代的である。 なぜなら、哲学は、いつも自分自身の時代のうちに直接の影響をけっして見出しえない、また、けっして見出してはならない、という運命をもつ、かの稀な事柄に属するからである。 直接の影響が起きているように見えるとき、哲学が流行になるときには、本当の哲学は 存在しないか、あるいは、哲学は誤解されて、なにか哲学とは異質の意図にしたがって、日常の要求のために悪用されているのである。 ハイデガーのこの言葉は、そっくりそのまま芸術に当てはめることできます。 つまり、芸術は本質的に反時代的である、ということです。 時代の価値観を超えている、流行に流されないという意味で、それは時代とは縁のないものなのです。 だから必然的に大衆からは支持されない。 ベーコン展は客層がかなり限られており、なおかつ、客数自体が少なかったという点で、まだまだ芸術としての役割を果たしていると言えます。 一方、ダ・ヴィンチやラファエロはもう芸術としては死んでいると言っていいでしょう。 あれらはもはや芸術のシンボルでしかなく、真の意味での芸術ではなくなって しまったのです。 この話は次回のラファエロ展についての記事で詳しく書こうと思います。   最後に一言。 この規模でのフランシス・ベーコン展は、今後2度と見られないかもしれません。 それぐらい手間暇のかかった貴重な展覧会です。 ラファエロ展よりこっちの方が断然見に行く価値があると思います。 上級者向きではありますが、この手の展覧会にはどういうお客さんが来るのかを 見ておくのも1つの勉強です。 もし少しでも気になっているなら、見ておいて下さいな。   ...more»
上野の森美術館「VOCA展2013」のチケットを1名の方に譲ります
ども、ペスです。 ある方から今年のVOCA展のチケットをいただいたのですが、 予定が合わずに行けなくなってしまいました。 というワケで、チケットいりませんか? 日程は3/15(金)~ 3/30(土)で、もう始まっています。 場所は上野の森美術館です。 展覧会の詳細はこちらをクリック。 お譲りするチケットは1枚です。 日程などの関係から、20日で募集は締め切ります。 欲しい場合は件名を「VOCA希望」として、名前、郵便番号、住所、その他 僕がチケットをあげたくなるようなブログの感想などを書いた上で(笑) info●philosophia-style.com (●は@へ変換) までメールを送ってください。 発表は発送をもって、かえさせて頂きます。 (3月23日ぐらいには届くように発送します) 今回は以上です。 ではでは。 ...more»
東京オペラシティー・アートギャラリー「自然の表現 わが山河 Part4」「阿部未奈子展」にて
ども、ペスです。 前に東京に行った際、東京オペラシティーのアートギャラリーにも足を運びました。 ここは新宿の大地主が建てた芸術の複合施設として有名ですね。 詳しい内情は知りませんが、ここの所蔵品は、やり手の画廊がセレクトしているらしく、 マイナーでありつつも優れた作品が数多く揃っています。 このときに見た企画展「新井淳一の布伝統と創生」の方は僕には評価できないのですが、少なくとも常設展が素晴らしいことは間違いありません。 中でも個人的に面白いと思ったのは、川村悦子という作家の『道』という風景画。 一見すると普通の風景画なのに、絵を見ながら横に歩いて見る角度を変えていくと、 それに合わせるかのように絵が動きます。 どう動くのかを言葉で表現するのは恐ろしく難しいのですが、無理やりその動きを 言葉にするならば 「うにょうにょ」 という感じです(笑) うにょうにょと風景全体が動きます(笑) 語れば語るほどドツボにはまっている気がしますが、残念ながら僕のボキャブラリーではこれが限界です(苦笑) もし興味があれば、自分の目で確かめてみて下さい。   それと同じく常設展の有元容子という作家の作品も素晴らしいです。 この方の作品にも、上記の作品とは違った意味で動きがあります。 川村氏の作品は「鑑賞者側の動き」を要求するものでしたが、有元氏の作品には 「作品そのものの動き」が閉じ込められています。 じっと見ていると、絵の中の風景がモヤモヤっと渦を巻くように動きはじめる。 さっきから擬音ばっかりで申し訳ないんですが、僕には文学的な才能が皆無なので、 どうかお許しください(笑) 彼女の作品は計3つ展示されていますが、そのすべてに同じような動きが見られます。 この辺の安定感は凄まじいとしか言い様がありません。 若い作家にありがちな「たまたま凄いの描けちゃいました」ではないというのが、 よく分かります。 そして何より、こういう素晴らしい作品を見つけてきて、ちゃんと美術館に買わせる 画廊の素晴らしさには敬服です。 彼女の作品は常設展を入ってすぐのところにありますので、こちらも是非見てみて くださいませ。   最後に若手作家の展示についても少し書いておきます。 ここでは阿部未奈子という作家の作品がいくつか展示されていましたが、彼女の作品は良くも悪くもまだ成長過程です。 失礼を承知で言いますが、今の彼女の作品に上手さを求めるのは正当だとしても、 素晴らしさを求めるのは時期尚早と言えるでしょう。 ただ、彼女の 「ルールを作って、それを続けるからこそ飛び出してくるものがある」 という考え方は間違いではないと思います。 重要なのは、そのルールをどこまで厳密に突き詰められるかです。 突き詰めて、突き詰めて、突き詰めて行った先に、そのルールからまったく逸脱した 稀有で魅力的なものが生まれてくる。 これを少し難しい言葉で「帰納的飛躍」と言うのですが、この飛躍が起こるように なってくれば、文字通り彼女も彼女の作品も飛躍することでしょう。 5年後10年後が楽しみですね。   記事は短めですが今回はこの辺で。 ではではー。   ...more»
損保ジャパン東郷青児美術館「第一回損保ジャパン美術賞展」にて ~調和・バランス・適切さ~
ども、ペスです。 用事で東京に行ったついでに、新宿の損保ジャパン東郷青児美術館に 寄ってきました。 ここはゴッホの『ひまわり』を持っている美術館として非常に有名ですね。 画家の友人が入選したということで、本当は損保ジャパン美術賞展をメインに 見に行ったのですが、僕の心はすっかり『ひまわり』に奪われてしまいました。 そんなワケで、今回は展覧会の作品と『ひまわり』を比べながら、つれづれなるままに 感想などを話してみようと思います。   ゴッホの『ひまわり』はシンプルで何の目新しさも派手さもない作品です。 描き方にそれほど特徴があるワケでもなく、下手ではないですが、決して上手い 作品とも言えません。 上手さだけを評価するならば、『ひまわり』よりも上の作品は山ほどあります。 しかし、それらの上手い作品は「上手いだけ」の作品であることがほとんどです。 職人技と言えば響きはいいですが、それは売り物としての価値を高めることには 繋がっても、芸術としての価値には繋がりません。 損保ジャパン美術賞展にも上手い作品はいくつかありました。 僕が見に行ったときは山田千冬という作家の『モッコウバラの木の下で』という 技巧的な作品におばさん2人がやたらと感心していましたが、この作品も技巧的には 確実に『ひまわり』より上です。 非常に細かい表現で、だれがどう見ても上手い。 ただ、この作品もやはり「上手いだけ」なのです。 だったら下手な絵がいいのかというと、そういう意味ではありません。 僕が言いたいのは 何事もバランスが大事である ということです。   『ひまわり』の素晴らしさは、絶妙なバランスにあると言って間違いないと思います。 各ひまわりの向き、ひまわりの大きさ、色の選択、描き方、技術など、それぞれが 調和している。 なにをもって調和しているかは定義できません。 というか、それが定義できるなら、誰だって『ひまわり』が描けます。 調和とは結果論です。 ベートーベン然り、モーツァルト然り、ダ・ヴィンチ然り、ラファエロ然り、 結果として素晴らしい作品はすべて調和しています。 調和を別の言葉で言い換えるなら、 適切なところに、適切なだけ、適切な仕方で、適切なことが詰め込まれている という感じでしょうか。 もちろん「適切な」というのも結果論でしかありません。 つまり、試行錯誤を繰り返してバランスを取り続けることでしか調和は生み出せない ということです。 この際に頼りになるのは自身の感覚のみです。 自分が「これが適切である」と判断したものが、すべての結果を生むワケですから、 本人があらゆる意味で適切な人間(バランスの整った人間)でなければならないのは 当然です。 バランスの崩れた生き方をしている偏った人間には、偏った作品しか生み出せない。 僕はそういう当たり前のことを言っているにすぎません。   多くの作家はこの点をおろそかにしています。 コンビニの弁当やカップラーメンばっかり食って、マンガばっかり読んで、 世間のことに関心をむけることなく、ただひたすら作品だけを良くしようとする。 そんなのはどだい無理な話です。 作品は自己を投影します。 どれだけ見た目を上手くみつくろっても、絶対にバレます。 「絵を描いてるだけだから勉強しなくていい」なんて思っていたら大間違いです。 下らない人間が描いた絵は、どうあがいても下らないのです。   今回の第一回損保ジャパン美術賞には1200以上の応募があったそうです。 そのうち入選したのは数十作品。 そしてその中で僕が「そこそこいいな」と思ったのは4つ程度で、それ以外はボツ。 これだけ作家がいながら、これだけ競争が激しいにもかかわらず、その程度の 作品しか生まれてこない現実が、ここで僕が言ったことを物語っています。 偉大な絵を描きたければ、偉大な人間にならなければならなりません。 これは画家に限った話ではなく、誰にでも当てはまることです。 偉大な結果を出したければ、偉大な人間になるのが先です。 このことは絶対に忘れないでください。   追伸1:『ひまわり』について。 もしあなたがまだ『ひまわり』を見たことがないなら、ぜひ東京まで行って この絵を見てほしいと思います。 あなたの感性が死んでいなければ、きっと大きな感動を得られるはずです。 あのひまわりは生きています。 これは比喩ではありません。 僕にはひまわりの脈拍が見え、鼓動が聞こえました。 偉大な人間になるためにも、偉大なものを知っておきましょう。   追伸2:第一回損保ジャパン美術賞展について。 参考までに、僕が「そこそこいいな」と思った作品を2つほど挙げておきます。 1つは優秀賞に選ばれていた永原トモヒロ『無題 12-02』、もう1つは ムカイヤマ達也『retort』という作品です。 評価基準は色々あると思いますが、僕の基準はその絵に動きが見えるかどうかです。   ...more»
京都市立美術館「京都市立芸術大学作品展」にて ~ギャップの作り方~
ども、ペスです。 誰も僕の誘いにのってくれなかったので、今回も一人で見に行ってきました。 たまには同じ趣味を持った人と話したいなー、と思ってたんですけどね。 どうやら僕は嫌われているようです(笑) まあそれはともかく。 この作品展は行ってよかったと思います。 学生の作品とは思えないようなレベルの高い作品もいくつかあったし、普段見慣れない プロダクトデザインなんかの作品が見れるのも、こういう展覧会のいいところです。 僕は去年、大阪成蹊大学芸術学部の卒業制作展を見に行ったのですが、そのときから この時期におこなわれる大学の作品展や卒業制作展のファンになりました。 この手の展覧会は、作品の良し悪し云々よりも、純粋に面白いのです。 京都市美術館では今後ゴッホやリヒテンシュタインのベタな展覧会が控えていますが、 面白さという点では確実にこっちの方が上です。 千円以上もお金を払って価値の分からない作品を見るよりも、タダで面白い展覧会を 見る方がよっぽど価値があると僕は思います。   世界的に権威のある素晴らしい作品を集めた展覧会が、必ずしも素晴らしい展覧会とは 限りません。 逆に、無名の作家や作品ばかりを集めた展覧会が、必ず下らない展覧会なのか というと、そうでもありません。 展覧会の面白さというのは普通のビジネスと同じで、ギャップから生まれます。 学生の作品展では、 「学生なのにこんな作品が作れるのか!」 というギャップが、面白さを生み出しているのです。 以前、僕が「もの派」の作品に衝撃を受けたという話をしましたが、あれも僕の中に 大きなギャップがあったからです。 「どうせ下らないんだろうな」と思って見に行った作品が、なぜか強烈に僕の心を ゆさぶったことによって、その常設展は僕にとって忘れられないものとなりました。 つまり、良い意味で期待を裏切ってくれる展覧会こそが、素晴らしい展覧会なのでは ないだろうか、ということです。   聞けば当たり前のことなのですが、この当たり前のことをやっている展覧会は驚くほど 少ないです。 ギャップというのは、人それぞれにポイントが異なるものですから、万人にとっての 素晴らしい展覧会を作ることは不可能だと思います。 ただ、来館者の半分、いや、3分の1ぐらいの人にギャップを感じさせるような 展覧会であれば、ある程度意図的に作ることができます。 ギャップの作り方はいたってシンプルです。 「ゴッホなのに・・・」 「ピカソなのに・・・」 「デュシャンなのに・・・」 そういうものを考えるということです。 ゴッホの展覧会でゴッホの作品をそのまま展示するなんてのは、普通過ぎて何の 面白みもありません。 だったら例えばゴッホのような歴史的価値の高い作品を横向きや逆さに展示して 違った作品に見えるようにしてみるとか、裏向きに展示して絵を裏から見せるとか、 あえて照明を暗くして作品を印象を変えるとか、手が届かないぐらい上に展示して 子供の視点を体験させるとか(これは実際やっている美術館があります) そういうことをやってみてほしいのです。 これは一部の関係者からは反感をかうでしょうが、僕なら絶対に見に行きます。 だって面白そうじゃないですか、単純に。 たったこれだけのことで、面白さは生み出せるのです。   しかし、たったこれだけがなんとも難しい。 美術館のような公共の持ち物を管理している人たちは、だいたい頭の固い人ですから、 そう容易には奇抜なことはさせてくれません。 というか、そういう人に限らず、凡人はみんな保守的でリスクばっかりを気にして いますから、なんやかんや理由をつけて、新しいことには反対するのです。 美術の権威が下がるとか、ファンから苦情が来るとか言って。 けれども、そんなのはやってみなけりゃ分かりません。 今のまま平凡な展覧会を繰り返しても、どうせ来館者は減っていくばかり なのですから、やるだけやってみればいいのです。 失敗するかもしれませんが、失敗すればそこからまた別のアイデアが浮かびます。 それは現状維持よりも、はるかに価値のあることです。 僕の知るかぎり、まだどこの美術館もこんな新しいことはやってませんから、 今からやればパイオニアになれます。 そんなチャンスは今しかないのです。 だったら、もうやるしかないですよね。   ゴッホやピカソや印象派などのネームバリューで客を集められるのは今だけです。 みんなバカじゃないんだから、何回か行けば、そんな展覧会が面白くも なんともないことぐらいは分かります。 また、素晴らしい作品を展示するのは美術館であれば当たり前のことです。 そんなのは単なる前提であって、そこを満たしたからといって何ら自慢やウリには なりません。 だからこそ、そこから一歩進んだギャップが必要なのです。 「何を見せるか」ではなく「どう見せるか」。 「何を展示するか」ではなく「どう展示するか」。 それが今の時代に求められていることなのではないでしょうか。   ...more»
美術鑑賞のお誘い
ども、ペスです 突然ですが、僕と一緒に京都市立芸術大学の作品展を見に行きませんか? たまには誰かと見に行くのも面白いかなー、と思いまして。 作品展の日程は2月13日(水)から2月17日(日)まで。 見に行く日はそちらに合わせます。 気が向いたら info●philosophia-style.com (●は@へ変換) かブログ上部の問い合わせからメールを送ってくださいませ。 詳細はその後に決めましょう。 ちなみに、申し込みがなくても一人で行ってきます(笑) 今回はそんだけ。 日程が迫っているので、行く場合は早めにご連絡くださいませ。 ではではー。     ...more»
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