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素晴らしさの可能性
ども、ペスです。 僕は美術を「実存的に」鑑賞するためには、ある4つの問いを持っておくことが 不可欠だと考えています。 このことを意識しているのは極少数の人だけだと思いますが、この4つのうち 2つについては無意識的ではあれ、誰もが念頭に置いて作品を見ているはずです。 その2つというのは 1.何を見るのか 2.どう見るのか という問いです。 われわれが特定の展覧会を「選ぶ」のは、1の「何を見るのか」という問いが自分の 中にあるからです。 これは無意識的な問いですから、誰も自覚していないと思いますし、もちろん僕も 問うていること自体は自覚していません。 ただ、この問いがなければ「選ぶ」という行為が生まれ得ない以上、われわれの中に こういう前提的な問いがあることは間違いありません。 厳密に言えば、われわれが特定の展覧会を見たいと思うのは「何を見るのか」という 問いと「それを見るか(見たいか)否か」という問いの末に導かれる結論です。 美術の展覧会に興味のない人は「何を見るのか」という問いを持ち合わせておらず、 それ故に彼らには展覧会に足を運ぶということが有り得ないのです。   2の「どう見るのか」は展覧会を見ているときにわれわれが持っている問いです。 みんな自分なりの見方で作品を見ていると思いますが、その「自分なりの見方で見る」 という答えは「どう見るか」という問いから導かれたものです。 これも当然自覚はないと思います。 自覚していたら誰だって美術の正しい見方を心得ているでしょうからね。 多くの人が作品を見て「上手い」や「キレイ」という感想しか持てないのは、 この問いに対する答えがそれだけ単調で乏しいということなのです。   冒頭で言ったように、ここまでは誰もが持っている問いです。 あと2つの問いについてはこれから説明しますが、ここで分かっておいてほしいのは、 それを持っているという事実が重要なのではなく、持っていることを自覚しておくことが 重要だということです。 この問いを自覚することによって、われわれは自分の判断の危うさ、自分の大衆性 (凡人性)を知ることができます。 例えば「何を見るのか」という問いは、多くの人にとって「どれを見るのか」という 問いになっています。 展覧会や美術館の数が限られている以上、それはある意味では仕方のないことでも あるのですが、問題はそこではなく、彼らは勝手に自分でその選択肢をしぼっている ということです。 10個の展覧会があったとしら、その10個のうちから選ぶのではなく、大衆はそれを 「恣意的に」3つぐらいにしぼった上で選びます。 その3つというのは大体、有名だとか、車内広告で見たとか、そういう理由で しぼられていて、彼らはその中からしか答えを出そうとしないのです。 これは夢を諦める人間の思考とまったく同じです。 彼らはやってもいないことを勝手に出来ないと決めつけ、自分から人生の選択肢を しぼっています。 その夢が叶うかどうかはやってみなければ分からないのに、その展覧会が面白いか どうかは行ってみなければ分からないのに、勝手に「出来ない」「面白くない」と 決めつけるのです。 これによって彼らの可能性が著しく狭まっていることは、言うまでもありません。 しかし彼らはそれを自覚していないし、気付こうともしません。 権威主義的な(ミーハーな)展覧会に集まる人間とは、こういう人間なのです。   さて、寄り道はこれぐらいにして、話を前に進めましょう。 われわれが持つべき3つ目の問いは 3.なぜ見るのか です。 なぜ自分はその展覧会を見るのか。 なぜ自分はこの作品を見るのか。 これには明確な答えは必要なく、問うことそのものに意味があります。 というのは、ガダマーが言うように 問いの本質は、可能性を開き、開いたまま保持することにある からです。 可能性を開いたまま保持するということは、その展覧会と、またはその作品と、 常に関係を持ち続けるということです。 それは必ずしも意識的に関係を持ち続けなければならないという意味ではありません。 心に残る作品や展覧会とは、すべて、事ある度にわれわれに「なぜ見るのか」という 問いを生起させるものだからです。 つまり「なぜ見るのか」という問いは、自分から意識的に持つようなものではなく、 あちら側から投げかけてくるものなのです。 それを上手く受け取れるかどうかは、あなたの人間としての器にかかっています。 小さなグローブでは、真正面にきた素晴らしいストレートのボールでも取り損ねて しまうのです。   最後の4つ目の問いは 4.見るとはどういうことか です。 これが「見るとは何か」という問いでないことに注意してください。 「見るとはどういうことか」という問いは、われわれにとって見るということが 何を意味するのか、ということを問うているのです。 難しい話になりますが、見るとは、われわれの存在の仕方の1つです。 われわれが何かを見ているとき、それはわれわれが見るという仕方で存在していると 言い表すことができます。 つまりこの問いは、哲学的に言えば それを了解しつつ見るという認識を可能にしているア・プリオリな諸条件とは何か ということであり、簡単に言えば 自分のことをもっと探求してね ということです(笑) 自分を探求することについて詳しく話し出すと立派な論文ぐらいの量になってしまうので 今は割愛させてもらいますが、1つだけヒントを出すと 常日頃から自分を自覚しておくこと を意識するといいと思います。 認知科学的な言い方をすれば、メタ認知(メタ思考)能力を鍛える、という感じになる でしょうか。 このことが「見るとはどういうことか」にどう繋がるのかは、やれば分かります。 気になったら、やってみてくださいな。   長くなったので最後にまとめておきましょう。 われわれが美術を「実存的に」鑑賞するために持つべき問いとは   1.何を見るのか 2.どう見るのか 3.なぜ見るのか 4.見るとはどういうことなのか   の4つです。 これらがすべて揃ったとき、われわれの前に「素晴らしさ」が現れます。 これは逆に言った方が実感しやすいかもしれません。 われわれが素晴らしさを感じているときには、無意識的にこういう問いを自分の中で 投げかけているのです。 それらの問いの総合的な答えが素晴らしさであり、実存です。 今はこれを理解できなくても構いません。 ただ、頭の片隅には置いておいてください。 ちゃんと努力を続けていれば、そのうち意味は「実感」できますから。   追伸1:所感など。 僕が『脱凡人のすすめ』という奇怪なタイトルのメルマガを出しているのは既に ご存知かと思いますが、そこでテーマにしてる「凡人から脱する」ことが美術を 「正しく」鑑賞することや美術を理解することに繋がっているということに 気付いている人は極わずかしかいません。 当たり前の話ですが、凡人に美術は理解できません。 だってそういう人間のことを、われわれは「凡人」って呼ぶんだから。 哲学も分かろうとしない、芸術も分かろうとしない、難しいことは何も分かろうと しない。 それが凡人です。 これは凡人をバカにしているのではなく、凡人の定義を述べているに過ぎません。 そうやって怠惰に生きることを何とも思わない人間のことを、われわれは凡人と 呼んでいるということです。 ちなみに、無知であることと凡人であることとは関係ありません。 誰だって初めてのことに関しては無知なのですから、そんなのは仕方のないことです。 そうではなく、自分が無知であることを知りながら、それを克服しようとしない人間が 凡人だと言っているのです。 「美術が分からない」と自覚していながら、その分からない状態をそのまま 放置しておく人間ってどうなのよ、と。 あんたそれでも人間として恥ずかしくないのかよ、と そんなんでよく自分の子供に、勉強しろ、なんて言えるな、と。 僕が言いたいのは、そういうことです。   ここまで言えば僕が普段から抱いている気持ちは分かって頂けたと思います。 僕もバカの類ですから、バカをバカにするような自虐行為はしません。 ただ、自分がバカだってことを知ってるなら、そのバカという短所は克服しようぜ、と 言っているのです。 「脱凡人」とは、人間としてまともに生きよう、ということです。 凡人のように怠惰に生きるのではなく、そこから脱して、人間らしく向上心を持って 生きよう。 そういう思いを込めています。 それはメルマガに限った話ではありません。 このブログも、もう1つのブログも、いつも気持ちは同じです。 僕がプロフィールに「教養主義」と書いているのは、こういうところに由来しています。 僕の教養主義は、自分がバカだと自覚しているからこその教養主義だということを、 分かってもらえると嬉しいです。 ありがとうございました。   追伸2:哲学。 この記事にはハイデガーとコリングウッドの哲学を織り込みました。 美術に負けず劣らず、哲学も楽しいですよ。     ...more»
美術と人間性
ども、ペスです。 僕が本格的に美術館の展覧会に通い出して、かれこれ4年程が経ちます。 最初はデュシャンやリヒターやウォーホルの名前すら知らなかった僕が、 今ではこうして展覧会の記事なんかを書いたりしているのですから、 面白いもんです。 しかし、この約4年の間に僕は美術における、ある重大な問題を 目の当たりにしました。 それは、多くの人は美術を理解する気がないらしい、ということです。 美術館へ行くと、みんな分かったかのような顔をして美術作品を 鑑賞しているのですが、彼らが見ているのは作品の表面的な綺麗さや 上手さだけです。 「ここが細かい」とか「写真のようで凄い」とか「色使いが綺麗」とか そういうところにばかり目が向いていて、それ以外の部分は何も見えて いない、もしくは見ようとしていない。 それは彼らの美術館での会話や、話題の展覧会にしか見に行かない性質を 見ていれば誰でも分かります。 いつも言うように、僕はそういう鑑賞が悪いと言いたいのではありません。 お金を払っているのは本人ですから、好きなように見ればいいとは 思います。 ただ僕は 「それに何の意味があるの?」 と言いたいのです。   僕が見るかぎり、彼らは自分の虚栄心を満たすために美術を鑑賞している ような気がします。 「私は美術鑑賞を趣味にしている素敵な人間です」 そういうことを周りに見せたいがために彼らは美術館に行くのではないか、 ということです。 これは特にミーハーな展覧会に来るお年寄りの鑑賞者から感じます。 というか、話題の展覧会ほど、テレビCMや車内広告をやっている 展覧会ほど、ホントにお年寄りが多い。 僕みたいにメジャーな展覧会からマイナーな展覧会まで色々通っていれば 分かりますが、展覧会の話題性によってまったく客層が異なります。 前に東京国立近代美術館でやっていた「岡本太郎展」なんかは、さすがに 若者が多かったですが、そういう若者に人気の作家でない限りは、話題の 展覧会はお年寄り比率が格段に高いです。 若者は若者で、岡本太郎や草間彌生のようにミーハーなんだけども、 それを見ることがファッションとしてカッコイイものに集まります。 だからエルミタージュ美術館展みたいな古典作品の展覧会にはあまり こなくて、リヒターやポロックやピカソのような比較的インパクトの 強い作家の展覧会に足を運ぶことが多いです。 どちらにも共通するのは、最初に言った虚栄心を満たすために美術を 見ているということ。 以上をまとめると、彼らは主に 1.話題のものを知っておきたい 2.ファッションとして美術を楽しみたい という2つの理由で美術館に来るのではないか、ということです。 これは僕の主観的なデータに基づくものなので、必ずしも正しいとは 言い切れませんが、そこまで大きく的をはずいていることもないと 思います。   さてさて。 上記で「虚栄心を満たす」という話が出ましたが、虚栄心というのは 文字通り「虚の栄える心」ですから、満たせば満たすほどにその人の心は 虚しくなっていきます。 本人はそれに気付かない振りをしていますが、実際には心のどこかで 気付いているはずです。 美術を分かった気になったって、自分は何も変わらない、って。 僕はこの虚しさを学生時代に体験しました。 当時の僕は周りから一目置かれるぐらいのファッション狂だったのですが、 それは自分の弱さを覆い隠すためにやっていたことです。 何もできない人間だからこそ、人はそれを隠すために、ごまかすために、 悟られないために、自分以外の何かに頼るのです。   本当にファッションを愛する人は、そのファッションに相応しい人間に なることを考えます。 下品な人間のファッションほど、ファッションをけがすものはないと 知っているからです。 美術もこれと同じで、本当に美術を愛する人は、その美術に相応しい 人間になることを考えます。 下品な人間の見る美術は、「下品な人が見ている」というただそれだけの 理由で軽蔑されることを知っているからです。 ファッションも美術も、最終的な作品の価値はそれを身につける人や 見る人のレベルで決まります。 素敵な人の着ている服はたとえ安物だったとしても素敵に見えるし、 素敵な人が持っている絵はたとえ無名の作家が作ったものだったとしても 素敵に見える。 僕はそういう当たり前のことを言っているだけです。   世の中に美術好きを豪語する人は多いですが、彼らは自分が美術の価値を 下げていることに気付いていません。 彼らは「美術を見ている自分が」好きなのであって、本当には美術のことなど 何も考えていないのです。 僕はいつも「自分を高めましょう」と言ってきたつもりです。 少し前の記事では「ホンモノになりましょう」とも言いました。 それはわれわれ自身のためでもありますが、美術の権威を正常に保つためでも あります。 どれだけ素晴らしい作品でも、その素晴らしさを理解できる人がいなくなれば、 その素晴らしさは失われてしまいます。 ヘーゲルの言うように、作品の素晴らしさとは、その作品を「素晴らしい」と 感じる人間の素晴らしさなのです。   われわれは美術をけがす人間になってはいけません。 われわれの仕事は、素晴らしい作品から、それ以上の素晴らしさを引き出せる 人間になることです。 そうならなければ、せっかく素晴らしい作品を残してくれた過去の偉人に 申し訳ないじゃないですか。 彼らはその作品に命を懸けたんです。 だったら、われわれもそれに相応しい態度で接しましょうよ。 僕はそういう当たり前のことを言っているだけなんですけどね。 どうして誰も気付いてくれないんだか。   ...more»
京都市立美術館「京都市立芸術大学作品展」にて ~ギャップの作り方~
ども、ペスです。 誰も僕の誘いにのってくれなかったので、今回も一人で見に行ってきました。 たまには同じ趣味を持った人と話したいなー、と思ってたんですけどね。 どうやら僕は嫌われているようです(笑) まあそれはともかく。 この作品展は行ってよかったと思います。 学生の作品とは思えないようなレベルの高い作品もいくつかあったし、普段見慣れない プロダクトデザインなんかの作品が見れるのも、こういう展覧会のいいところです。 僕は去年、大阪成蹊大学芸術学部の卒業制作展を見に行ったのですが、そのときから この時期におこなわれる大学の作品展や卒業制作展のファンになりました。 この手の展覧会は、作品の良し悪し云々よりも、純粋に面白いのです。 京都市美術館では今後ゴッホやリヒテンシュタインのベタな展覧会が控えていますが、 面白さという点では確実にこっちの方が上です。 千円以上もお金を払って価値の分からない作品を見るよりも、タダで面白い展覧会を 見る方がよっぽど価値があると僕は思います。   世界的に権威のある素晴らしい作品を集めた展覧会が、必ずしも素晴らしい展覧会とは 限りません。 逆に、無名の作家や作品ばかりを集めた展覧会が、必ず下らない展覧会なのか というと、そうでもありません。 展覧会の面白さというのは普通のビジネスと同じで、ギャップから生まれます。 学生の作品展では、 「学生なのにこんな作品が作れるのか!」 というギャップが、面白さを生み出しているのです。 以前、僕が「もの派」の作品に衝撃を受けたという話をしましたが、あれも僕の中に 大きなギャップがあったからです。 「どうせ下らないんだろうな」と思って見に行った作品が、なぜか強烈に僕の心を ゆさぶったことによって、その常設展は僕にとって忘れられないものとなりました。 つまり、良い意味で期待を裏切ってくれる展覧会こそが、素晴らしい展覧会なのでは ないだろうか、ということです。   聞けば当たり前のことなのですが、この当たり前のことをやっている展覧会は驚くほど 少ないです。 ギャップというのは、人それぞれにポイントが異なるものですから、万人にとっての 素晴らしい展覧会を作ることは不可能だと思います。 ただ、来館者の半分、いや、3分の1ぐらいの人にギャップを感じさせるような 展覧会であれば、ある程度意図的に作ることができます。 ギャップの作り方はいたってシンプルです。 「ゴッホなのに・・・」 「ピカソなのに・・・」 「デュシャンなのに・・・」 そういうものを考えるということです。 ゴッホの展覧会でゴッホの作品をそのまま展示するなんてのは、普通過ぎて何の 面白みもありません。 だったら例えばゴッホのような歴史的価値の高い作品を横向きや逆さに展示して 違った作品に見えるようにしてみるとか、裏向きに展示して絵を裏から見せるとか、 あえて照明を暗くして作品を印象を変えるとか、手が届かないぐらい上に展示して 子供の視点を体験させるとか(これは実際やっている美術館があります) そういうことをやってみてほしいのです。 これは一部の関係者からは反感をかうでしょうが、僕なら絶対に見に行きます。 だって面白そうじゃないですか、単純に。 たったこれだけのことで、面白さは生み出せるのです。   しかし、たったこれだけがなんとも難しい。 美術館のような公共の持ち物を管理している人たちは、だいたい頭の固い人ですから、 そう容易には奇抜なことはさせてくれません。 というか、そういう人に限らず、凡人はみんな保守的でリスクばっかりを気にして いますから、なんやかんや理由をつけて、新しいことには反対するのです。 美術の権威が下がるとか、ファンから苦情が来るとか言って。 けれども、そんなのはやってみなけりゃ分かりません。 今のまま平凡な展覧会を繰り返しても、どうせ来館者は減っていくばかり なのですから、やるだけやってみればいいのです。 失敗するかもしれませんが、失敗すればそこからまた別のアイデアが浮かびます。 それは現状維持よりも、はるかに価値のあることです。 僕の知るかぎり、まだどこの美術館もこんな新しいことはやってませんから、 今からやればパイオニアになれます。 そんなチャンスは今しかないのです。 だったら、もうやるしかないですよね。   ゴッホやピカソや印象派などのネームバリューで客を集められるのは今だけです。 みんなバカじゃないんだから、何回か行けば、そんな展覧会が面白くも なんともないことぐらいは分かります。 また、素晴らしい作品を展示するのは美術館であれば当たり前のことです。 そんなのは単なる前提であって、そこを満たしたからといって何ら自慢やウリには なりません。 だからこそ、そこから一歩進んだギャップが必要なのです。 「何を見せるか」ではなく「どう見せるか」。 「何を展示するか」ではなく「どう展示するか」。 それが今の時代に求められていることなのではないでしょうか。   ...more»
国立国際美術館「What We See ~夢か現か幻か~」にて ~ホンモノになる方法~
ども、ペスです。 美術関係の記事を書くのは久々ですね。 今回は国立国際でやっている「What We See ~夢か現か幻か~」という動画作品の 展覧会を見てきました(実はこれも初日に見に行っています)。 ユーチューブやニコニコ動画をはじめ、今や動画はわれわれ個人にとっても身近な 存在となっているワケですが、まだまだ美術ないし芸術としての動画の歴史は浅く、 この展覧会も未熟なものであると言わざるを得ません。 クラシックの指揮者として有名なフルトヴェングラーは、自身の著作の中で芸術家の 仕事を 「無限なるものを強靭な力で有限なるものに閉じ込めること」 だと言っています。 この意見には賛否異論などあると思いますが、この言葉に従うならば、 今回見た動画作品はまったく何も「閉じ込めて」いません。 そもそも動画という媒体が一般的な意味での有限性を持っていないのですから 当然です。   動画というのは、どこまでいっても単なる記憶(記録)です。 記憶とはデータであり、データは実質無限に保存・コピーでき、無限に大きく できます。 その意味で動画には有限性がありません。 またデータである以上、絵画や彫刻と違って、美術館へ行っても直接それを 体験することができません。 要は、わざわざ美術館へ行って見る理由がないということです。 作者としては上映環境も含めて芸術表現なのだと主張するかもしれませんが、 僕が見た限り今回の展覧会では、そんなに特殊な環境は設定されていません。 大画面だったり、モニターが3つあったり、真っ暗だったり、その程度です。 「こんなんだったらユーチューブにアップしてくれよ」 そう思った鑑賞者も少なくないと思います。   この展覧会では最長で80分の作品が上映されていましたが、1つの作品を 評価するのに最低80分かかるというのは、鑑賞者にとってかなり苦痛です。 それが素晴らしいと分かっていれば、それぐらいは見ていられるでしょうが、 素晴らしいかどうかを評価するまでに80分かかるワケですから、その作品が 下らないものだった場合はその無駄な時間をどうしてくれるのか、という話に なります。 実際、僕は今回1つも素晴らしいと思うような作品に出合っていません。 にもかかわらず、美術館に滞在していた時間は今までで最も長かったワケです。 だらだら無駄に長いだけの作品を見せられた。 僕に残っているのは、そういう感想だけです。 もちろん絵画や彫刻にもしょーもないものはたくさんありますから、それだって 時間の無駄と言えば無駄です。 しかし、少なくともそれらは作品の側から奪う時間をおしつけたりはしません。 どれだけの時間その作品を見るかは、鑑賞者が決められるワケです。   そう考えると、動画には「責任」という概念を持ち出す必要がでてきます。 中途半端な評価でいいのならば、前半の5分だけを見てもらうということも 可能ですが、ちゃんと評価してもらうためには貴重な時間を「作品に合わせて」 使ってもらわないといけません。 そこに責任が生まれるのです。 どんな芸術家も「素晴らしい作品を生み出したい」ということは常日頃から 考えていると思います。 「歴史に残るような作品が作れたら、どれだけ素晴らしいだろうか」 そう思うのは芸術家として当然です。 しかし、動画作品の制作においては、その甘い意識は罪であると認識する必要が あります。 彼らは鑑賞者の貴重な時間を作品の都合で奪っているのですから、 「素晴らしい作品でなければ許されない」 という意識で制作を行わなければならないのです。 それはもはや芸術家の望みを超えて、それを評価する人に対する責任や義務で なければなりません。   本来、この意識は芸術家に限らず誰もが持つべきものです。 僕もあなたにこうして時間を使わせている以上、この記事は素晴らしいもので なければなりません。 それは本であろうが、映画であろうが一緒です。 どんなものであれ、それを見る人の時間を奪っている以上、見る側が「見てよかった」と 思うようなものを作る義務や責任があるのです。 これを忘れたときに、人は怠慢になります。 いや、逆に言った方が自然ですね。 怠慢な人は、この義務や責任をまったく感じていないということです。 だから平気で下らない作品を作ったり下らない記事を書いたりできる。 それによって周りがどれだけ迷惑するかを彼らは理解していないのです。 彼らは「俺は一生懸命やっている」と言い張るでしょうが、そんなことはプロなら 当たり前のことであり、その主張には何ら意味はありません。 一生懸命やるのは当然として、その上で素晴らしい作品を生み出さなければ 許されない。 僕はそう言っているのです。   作品の質は作家が置かれている環境によって決まります。 アルバイトや非常勤講師をやって売れない作品を作っても生活できるような 生ぬるい環境で生きている場合は、そういう生ぬるい売れない作品しか作れません。 どれだけ本人が必死になろうとしても、人間が意識的に出せるパワーなんてのは たかが知れています。 本気を出すためには、本気を出さざるを得ない環境に身を置くしかない。 つまり、背水の陣に身を置け、ということです。 素晴らしい作品、売れる作品を作らなければ死ぬ(生きていけない)。 そういう環境があって、はじめて人は本気になれるのです。   本気とは、「なる」のではなく「ならざるを得ない」ものです。 素晴らしい作品も「作る」のではなく「作らざるを得ない」ものです。 以上のことから究極の結論が得られます。 本気を出して素晴らしい作品を作るホンモノの芸術家とは、「なる」ものではなく 「ならざるを得ない」ものであるということです。 本人がなりたいと望む望まないにかかわらず、なってしまうもの。 それがホンモノの芸術家なのです。 この世にどれだけホンモノがいるのか分かりませんが、ホンモノになるために やることはいたって簡単です。 背水の陣に身を置く。 それだけで誰でもホンモノになれます。 そういえばダイ・ハードか何かでブルース・ウィリスが面白いことを言ってました。 「死ぬ気でやれよ、死なないから」 って。 やれば分かります。 死なないですから、ホントに。 人間の本気をなめてはいけません。 さぁ、みんなでホンモノになりましょう(笑)   ...more»
京都市立美術館「須田国太郎展」にて ~美術鑑賞の行動経済学~
ども、ペスです。 以前、京都市美術館で日展を見た際に「須田国太郎展」も一緒に見てきました。 本当はこっちがメインだったんですが、これといって話すことが思いつかなかったので、 今まで延び延びになっていた、という感じです。 たまにはそーゆーこともありますよ、人間だもの。 そういえば今年の春は京都市美術館でゴッホとリヒテンシュタインを同時開催する ようですね。 これについては色々言いたいことがあるんですが、それはともかく、定評のある作家の 作品を一気に見るには良い機会だと思います。 気になったら行ってみるといいかもしれません。   さて、須田国太郎展の話です。 失礼な話なのですが、僕は須田国太郎という人物をまったく知りません。 この展覧会を知るまで名前も聞いたことがなかったし、彼の絵を見たあとも特に何も 調べていません。 調べていないのは僕の単なる怠慢なのですが、そんな情報は無くても作品の 良し悪しは分かります。 以前から言っているように、作品の良し悪しを判断するには自分の感覚に頼るしか ありません。 作家の活動歴や人物像を知るのはもちろん大事ですが、その情報が作品に 反映されているということを“感じ取る”には、やはりそれを捉える感覚が 必要なのです。 こう言うと大体の人は 「感覚って言われても・・・」 みたいな感想を持つと思います。 言いたいことは分からないでもないけど、どうすりゃいいのよ、と。 これについては今までいろんな解説をしてきましたが、今回はこれまでと違った視点、 行動経済学という視点を導入して、 美術の良し悪しを判断することはいかにして可能か ということを出来る限り科学的に解説してみようと思います。 この時点では意味が分からないと思いますが、期待してもらって構いません。 あなたの美術鑑賞、いや、生き方は今日から変わりますよ。   まずは行動経済学の基本概念を学んでおきましょう。 今からお話する内容で最も重要な概念はシステム1とシステム2と呼ばれるものです。 システム1とは、直感や感情、衝動、感覚、価値判断といった自分では意識的に 制御できないものを指します。 例えば誰かを好きになった場合、その「好き」という感情はわれわれには絶対に 制御できません。 たまたま変な場面に遭遇してその人を嫌いになることはあっても、意識的に感情を コントロールして「好き」を「嫌い」に変えることは出来ないはずです。 もちろんその逆も然りですし、他にも「美しい」と思ったものを無理やり「醜い」と 感じるように感情を操作することは出来ません。 表面的に「醜い」と言い張ることは可能ですが、それでも自分の心は「美しい」と 感じ続けています。 そういう無意識的に生まれてくる自分でも操作不可能な直感や感覚などのことを システム1と言うワケです。   われわれは日常生活のほとんどをシステム1に委ねています。 それは自分の行動を思い返してもらえれば分かるはずですが、 今あなたがこのブログを読んでいるのだって、恐らくシステム1の仕業です。 その証拠に、あなたはブログを見にきた理由を自分でも知らないはずです。 「更新されたから」とか「面白いから」とか、そういう理由はあるかもしれませんが、 その理由がそもそもシステム1ですよね? 更新されたから、なんとなく見にきた。 面白いから、なんとなく見にきた。 そこに明確な目的や意図、もしくは見なければならない理由などは無いと思います。 要は感覚的に、感情的に、衝動的に、なんとなく見たいから、あなたはこのブログを 見にきているワケです。 あなたのシステム1は間違いなく優秀です(笑) ちなみに今の話は良いとか悪いとかはまったく関係ありません。 こんな感じでわれわれは日常のほとんどをシステム1の判断(感覚)に任せて 生きているということを言いたかっただけですので、単なる事実として 捉えておいて下さい。   システム2とは、論理的思考や選択、行動などの自分で意識的にコントロールできる (と思っている)ものを指します。 この記事を読んだり読まなかったりすることは誰でも自由にできます。 また極端に難しいことでなければ、字を書いたり、計算したり、数を数えたり、 投票したり、買いたい商品を選んだり、一定の条件で商品を振り分けたり、 といったこともできるでしょう。 それらはすべてシステム2に属するものです。 このシステム2はシステム1を自覚し、それを自分が望む方向に矯正していくことが できます。 「好き」という感情を生み出すのはシステム1ですが、それが「好き」であると 自覚するのはシステム2の役割です。 システム2はシステム1の生んだ「好き」という感情を抑えつけるために、その相手と 顔を合わさないようにしたり、メールアドレスを変更したり、遠くに引っ越したりする ことができます。 システム2は「好き」を直接「嫌い」に書き換えることはできなくても、「好き」という 感情が減衰するような対応を取ることが出来るワケです。 しかしシステム2は基本的に怠け者で、それを働かせるためには努力(注意力)が 必要です。 普段多くの人が自分の感情や価値判断(システム1)に何の疑問も持たない (自覚していない)ことからも明らかなように、システム2は意識的に注意しなければ 働きません。 例えば「自分はなぜその商品が欲しくなったのか」なんてことは余程ビジネスに関心が ある場合にしか考えないはずです。 考えない理由は大体「面倒臭い」とか「考える意味がない」とか「考えるという発想すら 無かった」とか、そういうものだと思います。 そんな感じでシステム2というのは意識しておかないと楽なことばかりを選ぶのです。 まったく、誰に似たんだか。 システム2に関してはこんなところです。   なんとなくシステム1とシステム2については分かってもらえましたか? まあ分かってなくても進んじゃうんですけどね。   もうお気づきかと思いますが、美術鑑賞というのはシステム1の仕事です。 われわれが作品を見たときにわれわれのシステム1がそれを「美しい」と感じたり、 「この作品には価値がある」という価値判断を行ったりするワケです。 それは先に言った「感覚で捉える」という言葉からも明らかでしょう。 しかし重要なのはここからです。 だったら、どうして特定の人にだけ「この作品は素晴らしい」という感覚や 価値判断が引き起こされ、それ以外の人には起こらないのか、ということです。 これは考えればすぐに分かることなのですが、人それぞれシステム1の能力に差が あるからです。 システム1の能力は人によって違います。 優れたシステム1を持っている人は、体操選手のように考えなくても感覚でくるくる 回れたり、ボクシング選手のように条件反射的にパンチをかわせたり、サカナくんの ように「ぎょぎょっ!」とか言いながらお魚と話しができたり、そういうことができます。 ホントなら凄いよね、サカナくん。 ぎょぎょっ。 それらはすべて、最初はシステム2で意識的に繰り返されていたことです。 例えばあなたも最初からパソコンのキーボードをすらすら打てたワケではないと 思います。 最初はシステム2で基本ポジションみたいなものを習って、キーボードの文字の位置を 確認して、1つずつ文字を意識しながら打っていたはずです。 それが何ヶ月か続けているうちに体に染み込み、システム1として特に意識することなく できるようになった。 システム1とシステム2にはこういう関係があるワケです。   しかし、それは今紹介したような技能や特技に限った話ではありません。 われわれが日々の生活の中でなんとなく繰り返していることは、知らない間にすべて システム1に組み込まれて、それを強化していきます。 ここが今回の最重要ポイントです。 自分の日常を振り返ってみれば分かると思いますが、何か明確な意図や目的をもって 意識的に行動することはかなり稀なはずです。 なんとなくフェイスブックを見て、なんとなくニュースサイトを見て、なんとなく テレビを見て、なんとなく安い物を買って、なんとなくお菓子を食べて、なんとなく ゴミを捨てて、なんとなく働いて、なんとなく食器を洗う。 ほとんどの人はこういう生活をしていると思います。 この何の意図も目的もない「なんとなく」というしょーもない生活の繰り返しが、 しょーもないシステム1の“しょーもなさ”を強化しているのです。   システム1が美術鑑賞の質を左右するのならば、多くの人に美術の良し悪しが 判断できないのは、しょーもないシステム1しか持っていないからです。 残念ですが、しょーもない人間のしょーもないシステム1には作品は何も応えて くれません。 そういう人はシステム2で「きれい・汚い」や「上手い・下手」といったこと捉えるのが 精一杯でしょう。 確かにそれも必要なことですが、それは感覚で捉えることとは別の話。 作品を感覚で捉えられるようになるには、その作品を見るに相応しい“生活”をする 必要があるのです。 それは「大豪邸に住まなければならない」とか「お金持ちでなければならない」という 一般人が考えるような下品な意味ではまったくありません。 むしろそんなのは邪魔です。 大事なのは毎日を“丁寧に生きる”こと。 それだけです。 たったそれだけで歴史に残る美術から誰よりも多くのことを得られるようになるの ですから、安いもんですよね。 お金も一切かかりません。 そうだと分かれば、あとはやることをやるのみ。 今年の抱負は「丁寧に生きる」にしましょう。 結果は僕が保証します。   追伸1: あ、そうそう。 「丁寧に生きる」の意味が分からなくても僕に聞かないで下さいね。 そうやって人に聞けばいいと思って甘ったれてるから、ダメなんですよ。 今のままでは仮に僕が答えを教えたとしても、あなたには丁寧に生きることなんて できません。 断言できます、絶対に無理です。 「丁寧に生きる」とは何なのか。 まずはそれを考えることからやって下さい。 それが丁寧に生きることの第一歩です、いや、マジでね。 ヒントは記事の中にありますから、それこそ“丁寧に”読めば分かります。 もし答えを知りたいなら、自分なりに答えを考えてから 「私は・・・だと思うんですが、どうでしょうか?」 という感じでコメントするか、僕に直接メールを出して下さい。 別に出し惜しみしているワケではないので、やることさえやってくれれば、いくらでも お教えします。 あとはご勝手にどうぞ。   追伸2: 「須田国太郎と何も関係ないじゃないか!」というツッコミは受け付けません。 いつものことじゃないですか(笑) 気にしない、気にしない。 ひとやすみ、ひとやすみ。   追伸3: 今回のような行動経済学の話に興味があれば ダニエル・カーネマン著『ファスト&スロー』(早川書房) という本を読んでください。 ご存知のように、僕は普段あまりオススメの書籍を紹介したりはしないのですが (それには明確な理由があるのですが今は割愛)、この著書と『大衆の反逆』に限り、 万人に必読だという理由でオススメします。 上下巻合わせても、たかだか4千円程度です。 新年会を1回削って買う価値は十分にあります。 ぜひ買って読んで下さい。 人によっては、人生が変わるほどのものが得られると思いますよ。     ...more»
京都市立美術館「第44回日展」にて ~伝わる作品とは何か~
ども、ペスです。 京都市立美術館で12月15日から始まった日展を見てきました。 日展を見たのは今回が初めてでしたが、ぶっちゃけ、もう行かないと思います(苦笑) 同じ団体展でも先日見た「行動展」とは違い、感じることは何もありませんでした。 俗に言う「キレイな作品」や「上手い作品」はたくさんあったし、技術的にはどれも 優れていると思います。 普通に見れば、何の問題もない作品ばかりに見えるでしょう。 しかし、それは問題もない代わりに突出したものもない、ということを意味しています。 保守的で、無難で、殻に閉じこもったものばかり。 それが僕の目から見た日展の作品群なのです。 工芸部門の作品からは多少新しいものも感じましたが、絵や彫刻はガチガチに枠に はまっており、ほとんどそこから抜け出せていません。 だから日展の会場には年配の方ばかりが集まるのでしょうね。 演歌や落語と同じ理屈です。 歳をとるほど見慣れたものや聞慣れたものにしか近寄らなくなる、つまり保守的に なっていくのです。   美術にはいろんな作品があっていいと思います。 定番のものもあれば、斬新なものもある。 それは大事なことです。 ただ、古いか新しいかにかかわらず、作品を作る以上その態度は 積極的であるべきです。 もう少し分かりやすく言えば、 「この作品を作らずにはいられない!」 「なにがなんでも作りたい!」 という気持ちがなければならない、ということです。 その気持ちがあって、初めて「キレイな作品」でも「上手い作品」でもない 「伝わる作品」 が生まれます。 脳みそが何年も冬眠し続けている人には分からないでしょうが、伝わる作品と 伝わらない作品というのは、見る人が見れば分かるのです。 参考までに、見分けるコツを紹介しておきましょう。 作品を見る際に、すべての思考を停止して、極力見ることにだけ集中すること。 絵を見ているという感覚にだけ意識を向けること。 これをやってみて下さい。 どのレベルで出来るかにもよりますが、少なくとも下手な解釈をするよりかはよほど 素直に作品を見ることができるはずです。 よく「感覚を研ぎ澄ます」なんて言葉が使われたりしますが、それに近いものだと思って もらえればいいと思います。 例えばどこでもいいので目を閉じて歩いてみて下さい。 今まで感じなかった微細な感覚を足の裏に感じませんか? 理屈としてはそれと同じです。 感覚とは、特定の感覚を鍛えることによって伸ばすのではなく、他の不必要な部分を 閉じることによって浮き出てくるものなのです。   以上のことから、「伝わる作品」とは、われわれの余計な感覚を刺激しないような 作品である、ということが分かります。 作品の方からわれわれを見ることに集中させるように仕向けてくる。 つまり、われわれが見ることに集中せざるを得ない作品こそが「伝わる作品」なのです。 その意味では、今回の日展で展示されているような伝わらない作品には、雑念が多く 含まれていると言えます。 作品はキレイでも、表現されているものが雑なのです。 気持ちがぼやけていると言えば、なんとなくでも伝わるでしょうか。 なぜか見ていても気がそれてしまう。 これは文章も同じで、読んでいて気持ちが他に気移りしてしまうようなものは、 「伝わる文章」ではありません。 先を読みたくて仕方がない。 この作品から目が話せない。 そういう鑑賞者や読者を魅了する物語性が「伝わるもの」には含まれています。 だからこそ、そこに込められた気持ちは伝わらざるを得ないのです。   「伝わるもの」は見る側と見られる側の良好な関係があってはじめて生まれてきます。 見る側の受け取りたいという気持ち。 見られる側の伝えたいという気持ち。 この両方が揃わなければ「伝わるもの」は生まれないのです。 両者の関係は可能な限り対等でなければなりません。 良好な関係というのは、どちらかに偏ったり依存したりしないものだからです。 お互いに同じぐらい尊敬し合っている。 お互いに同じぐらい愛し合っている。 お互いに同じぐらい思い合っている。 それが僕の思う良好な関係です。 この関係があって、はじめてお互いに気持ちが通じ合います。 作品と鑑賞者の関係もこれと同じ。 伝えたい気持ちと受け取りたい気持ちが均衡する場所にだけ、「伝わる作品」は 現れるのです。   ところで、気持ちって何なんでしょうね(笑)   ...more»
滋賀県立近代美術館「常設展 ~物質(モノ)への挑戦~」にて ~作品とタイトル~
ども、ペスです。 県展に行ったついでに常設展も見てきたので、その辺のことも少し話そうと思います。 ここの常設展は以前「夏休みこども美術館」という企画を僕が大きく評価したことで 記憶にあるかもしれませんが、今回もなかなか見ごたえのある展示でした。 「物質への挑戦」というタイトルからもなんとなく想像がつくように、絵画や彫刻という よりも、物質(モノ)そのものの在り方に焦点を当てた展示になっており、「もの派」で お馴染みのリー・ウーファンや「具体」でお馴染みの白髪一雄や元永定正なんかの 作品も展示されています。 その中の1つに西村陽平という現代陶芸家の「時間と記憶」という作品があります。 これは解説を読んで驚いたのですが、雑誌や本を窯で焼き、その後に残った灰 (厳密には灰ではないらしいですが)を瓶につめて展示しているとのこと。 なんというか、ぶっ飛んでますよね、発想が。 瓶には「anan」とか「少年マガジン」とか各雑誌の名前が書かれていて、どの雑誌が どの灰なのかが分かるようになっています。 出品作品リストの解説には 「知識を伝達する書籍と言えども実はただの物質に過ぎないのだと我々に 再認識させるという、哲学的でコンセプチュアル・アート的な表現を試みています」 と、いかにも崇高な表現かのように書かれていますが、そもそもその「再認識」が 重要かどうかが怪しいところです。 この解説が正しいとすれば、広辞苑は漬物石の代わりになる、 本は薪の代わりになる、というぐらいの意味しかないように思います。 この作品のコンセプト自体は面白いですが、哲学的と言ってしまうのは どうなのかな、と。 そんなことを感じました。   ところで「時間と記憶」というタイトルをあなたはどう思うでしょうか? 意味深だと思いますか? それとも格好をつけているだけだと思いますか? 「作品を見ていないから分からない」 そう思ったかもしれませんが、ここで考えたいのはそのことについてなのです。 作品とタイトル。 今回はこの2つの関係を考えていきます。   一般に、名前には必然性がありません。 例えば僕のハンドルネームは「ペス」ですが、これが仮に「ポチ」とか「タマ」とか 「セバスチャン」だったとしても何も問題はないと思います。 それはその名前が僕を表す記号もしくは目印に過ぎないからです。 大事なのは名前そのものではなく、その名前が何(誰)を指し示しているのか、です。 僕が「ポチ」に改名することに問題はありませんが、僕とはまったく関係のない「ポチ」が このブログを書くことには大きな問題があります。 このように、同じ「ポチ」でもその名前が何を指し示しているかが大事なワケです。 だとしたら、同じ作品を指し示す限り「時間と記憶」は「ケセラセラ」や「チンパンジー」 という名前でも問題ないということになります。   ・・・本当にそうでしょうか? ここでわれわれは大事なことに気付かなければなりません。 名前には「指し示すもの」の他に「込められた意味」があるということです。 僕の「ペス」というハンドルネームには特に意味はありません。 だからこそ「ポチ」や「セバスチャン」に改名しても問題ないワケですが、僕の本名は 親やら親戚やらがそれなりに思い(意味)や願いを込めて付けてくれていますから、 仮に法的に許されたとしても、おいそれと簡単に変えるワケにはいきません。 同様に「時間と記憶」というタイトルにも作家の思い(意味)や願望が込められていると 考えるのが自然です。 「時間と記憶を表現したい!」 「この作品には時間と記憶というタイトルが相応しい!」 こういう気持ちがあったかどうかは知りませんが、タイトルに気持ちが 込められている以上そのタイトルは「ケセラセラ」や「チンパンジー」では ダメなのです。 この「込められた意味」があって初めて名前やタイトルには必然性が生まれます。 もし「ペス」が凄く可愛がっていた犬の名前で、僕がその思いを込めて「ペス」と 名乗っていたならば、「ポチ」に改名することは許されません。 なぜならその「ペス」は単なる記号ではなく、1つの意味を持った単語だからです。 しかしながら、世の中に名前負けしている人間が大勢いるように、込められた意味と 指し示すものが客観的に一致することはほとんどありません。 「大輝」という人間が必ず大きく輝くワケでもなければ、「翔」という人間が必ずしも 羽ばたくとは限らないワケです。 なんか夢も希望もなくなりそうな悲しいことを言ってしまいましたが、これは事実なので 仕方がありません(笑) 作品もこれと同じです。 作家がタイトルに込めた思いと、実際に作品が表現しているものは、ほとんどの場合、 一致しないのです。   「人の名前と違って、作品タイトルは完成後に付けることもあるから、その場合は 一致するんじゃないか」 この疑問は非常にいいところを突いています。 走りの速くなった子に後から「俊也」と名付ければピッタリじゃないか、という発想です。 しかし完成後に考えられたタイトルは、その作品に対する作家的な解釈でしか ありません。 「この作品に合うタイトルは何だろうか」 そういう思考の結果に得られたものがこの場合のタイトルですから、そのタイトルが 作品が表現しているものと一致していることは無いと考えていいでしょう。 つまり、基本的に作家が付けたタイトルは作品に対して不完全なのです。   これを違った視点で考えてみましょう。 タイトルが作家の解釈や願望であるならば、それは作品ではなく、むしろ作家と関係が 深いものだということにならないでしょうか。 われわれはつい作品とタイトルを無意識的に結び付けて考える傾向があります。 「時間と記憶」というタイトルがついていると、その作品のどこかに時間と 記憶の言葉が意味するような要素が盛り込まれているのではないかと思ってしまう。 しかしそれは誤りです。 タイトルは作品に対する作家の解釈や願望なのですから、それは作家の見方や 考え方を端的に表しているにすぎません。 要するに、タイトルを見て分かるのは作品のことではなく、作家のことなのです。   「大輝」という名前から親から子への気持ちが読み取れるように、 「時間と記憶」というタイトルからは作家から作品への気持ちが読み取れる。 こう考えると、なんだか少しだけロマンチックな気持ちになりませんか? 仮にタイトルが作品のことを明確に表せていなくても、そんなのは問題では ありません。 名付けることは、名付けられた方ではなく、名付ける方に意味があるのです。   追伸: この常設展で個人的に気になったのは、マグダレーダ・アパカノヴィッチという人の 「群衆Ⅳ」という作品です。 麻布を固めて作った顔と腕のない人形を30体並べた不気味な作品で、この空間だけが 異様な雰囲気を漂わせています。 楽しさや面白さみたいなものはありませんが、虚無感や恐怖感が心に残る作品でした。   ...more»
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