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世界とは、可能性と私の関係である
  前回はいつになく日記的、というか僕の個人的な意見が モロに表面に出た記事となりました。 「孤独、孤独って言うけど、孤独ってそんなに悪いものなの?」的な。 僕の意見を押し付けるワケじゃないですが、もし心に余裕があれば、 一度孤独について考えてみて下さい。 「毎日なんとなく群れている自分にガッカリする」という経験も 大事だと思うし。 さて。 今回はまた抽象度の高い話に逆戻りです。 いや、もしかしたら今までで一番抽象度が高い話になる可能性も チラホラ・・・。 まずタイトルからして恐ろしく抽象的ですからね。 可能性と私の関係って(苦笑) でも僕の中でシックリくる言葉がこれしかないんですよね。 もちろん内容は出来る限り日常語で書くつもりなので いつも通りの感じで読んでもらえればいいんですが、 舐めてかかると分かった気になっただけで終わっちゃう かもしれません。 その辺だけお気をつけて。 んじゃ本編に入っていきましょう。   世界は私の表象である これはドイツの哲学者ショーペンハウエルが残した 有名な言葉です。 僕は彼の著書をまともに読んだことがないので この発言の真意は全く分からないのですが、 僕はこの言葉を 自分が見たり聞いたり感じたり考えたりしているもの、 それが(私にとっての)世界である という風に解釈しています。 それは逆に言えば、自分の認識外のものは世界ではないし、 世界にはなり得ない、ということ。 例えば僕の目の前に一匹の猫(仮名ゴエモン)がいたとすると、 ゴエモンは僕の世界です。 でもブラジル人がブラジルにいながらにして このゴエモンを認識することは無理ですよね? いや、もちろん厳密には無理ではないですけど、取り敢えず ここは認識できないということにしといてください。 この場合、このブラジル人にはゴエモンは 認識されていないワケですから、彼の世界には ゴエモンが存在しない、ということになります。 つまり、ゴエモンは僕の世界ではあるけれども、 ブラジル人の世界ではない、ということです。 これが正しいかどうかはともかく、つい最近までの僕は この考え方に非常に共感していました。 自分の認識外のものを含めて「世界」と呼んだとしても、 それは結局語り得ないし、在るかどうかも分からないものを 在ると仮定して「世界」と断定するのはどうなんだろう? と思ってったんで。 でもこれって僕に限らず、多分ほとんどの人が 無意識のうちに「世界」とはそういうもんだと 思い込んでいるような気がするんですよね。 一般に「世界中」という言葉が「地球全土」を指す辺りからして 僕にはそう思えます。   で、本題はここからです。 先ほど僕は「つい最近までの僕は・・・」と書きました。 ということは当然、今の僕は世界をそんな風には捉えていない、 ということです。 だからと言ってショーペンハウエルの言葉を 捨てたワケではありません。 むしろあの言葉を踏まえつつ、別の新しい概念を取り入れた という感じでしょうか。 その新しい概念というのが【アフォーダンス】です。 アフォーダンスとは、世界は客観的に存在し、且つ、 その世界そのものに含まれる無限の価値(可能性)を 僕らが個別に拾い上げて判断している、という考え方。 例えばコップには取っ手が付いていますが、あの取っ手は 「ここを持て」ということを無言で訴えてますよね? 誰も取っ手が「持つところ」だと説明していないにも関わらず、 僕らは取っ手を見ると勝手に「ここが持つところなんだ」 という価値判断を行って、そこを無意識に持つ。 これがアフォーダンスの考え方です。 要は、コップの取っ手自体には別の使い方がいくらでも 考えられるにも関わらず、そこから僕らは「取っ手」 という価値を拾い上げているのです。 ちなみに取っ手の「ここを持て」という無言の訴えを 「取っ手がアフォードしている」と言います。 興味があればいろいろ調べてみて下さいませ。   んで。 やっとここでタイトルの 世界とは、可能性と私の関係である という言葉の説明に入っていきます。 まずは【可能性】。 【可能性】というのは「ある対象が持ちうる価値すべて」を 指します。 僕らの世界にはボールペンというものがありますが、 あれは「先端の尖った10センチほどの短い棒」を 僕らがそう呼んでいるだけであって、ボールペンという 言葉や物自体を知らない人にその棒を渡せば 穴を掘る道具になったり、獲物を狩る道具になったり、 いろいろな【可能性】があるワケです。 これは物に限らず、人間も同じです。 僕らは日常的に「あの人は性格が悪い」とか「あの人は嫌い」と 一人の人間に対して一方的な見方をしてしまいますが、それも その人の1つの可能性でしかありません。 ここで言う【可能性】とは、そーゆー意味です。 そしたら次は【関係】。 関係というのは「ある対象との関わり」です。 上記の例に沿って言えば、ボールペンというのは 僕と「先端の尖った10センチほどの短い棒」の関係に 名前を付けたものだということです。 それは仲のいい人間との関係を「友達」と呼ぶのと同じ。 これは逆に考えた方が面白いので一応解説しておきますが、 ある対象に対して付けられた名前は、その人とその対象との 関係を表しているのです。 例えばノートPC。 僕が「平べったい2つに折りたためる板状の物体」を ノートPCとして使う時、僕と板状の物体との関係は 「ノートPC」という名称で表すことが出来ます。 例えばヘッドフォン。 僕が「2つのバッドが繋がった丸みを帯びた物体」を マイクとして使う時、僕と丸みを帯びた物体との関係は 見た目がいくらヘッドフォンであっても「マイク」 ということになります。 (実際、本当にヘッドフォンはマイクとして使えます) 関係というのはそーゆーことです。   では話をまとめます。 可能性とは、ある対象が持ちうる価値すべて、である。 関係とは、ある対象との関わり、である。 つまり【世界とは、可能性と私の関係である】とは 無限にある可能性の中から私が選んだ関係が 私の世界を形作っている もっと言うならば 本当の意味での世界とは、あらゆる対象の 無限の可能性のことだが、私にはそれらすべてを 認識できないが故に私は私の世界を形作っていくしかない そして、だからこそ 私の世界(可能性)を広げるためには、 あらゆる対象との関係を固定せず、 常に新たな関係(厳密にはアフォードされるもの)を 見つけ続けることが重要である ということなのです。 伝わったかなー・・・(苦笑) もちろんこれは僕個人の考えなので、この考えに反対ならば それはそれで問題ありません。 自分なりの世界がある場合は、そっちを信じて 行動し続けてもらえればいいと思いますし、 そうやって自分の世界が持てているということは 人の考えに沿って生きるよりも、むしろ素晴らしい。 世の中には自分の価値観を押し付けようとする人が たくさんいますが、それは本人だけでなく相手の世界をも 狭めてしまっているのです。 そんな人間にはならないよう、お互い気をつけましょう。 ではでは。   ...more»
アナタがいるから私がいる
  今回はちょっと変な方向に話を進めてみます。 タイトルを読んでもらえればお分かりのように 今までと雰囲気が違いますよね? スピリチュアルっぽいというか、なんというか・・・。 一般に女性に好かれそうなタイトル(笑) 一見するとそんな感じなんですが、僕の書く文章が そんなものになるはずもなく(笑)メインの内容は 社会心理学的な話になります。 残念(笑) 僕も決してあっち系が嫌いなワケじゃないんですけどねー。 スピリチュアルとかオカルトとか錬金術とかって 深く勉強すると実は結構面白いんで。 ただ、現段階ではまだ触れられない、というのが 僕の立場です。 なので、そのうちそーゆー話も出てくるかもしれません。 さてさて。 今回の話はジョージ・ハーバード・ミードって人の 【I】と【Me】という概念がメインになります。 ってかそれしか書きません(笑) 【I】と【Me】については後で詳しく説明しますが、 要は「自分って何なの?」みたいな話です。 現在、【やりたいことが分からない】という悩みと ほぼ同じぐらい多くの人が悩んでいることに 【自分が何なのかが分からない】 というのがあります。 「自分探しの旅」や「自分探し病」などの言葉に 代表されるように、みんな何かしら自分というモノを 見つけようとしている。 これにも相対主義が影響しているのはもはや言うまでも ありませんが、そんなことを知っている人は 迷わないワケで、知らないからみんな右往左往して しまっているワケです。 今から紹介するミードが相対主義に対する問題意識を 持っていたかどうかは僕が不勉強なせいで分かりません。 でも、彼の思想は僕に相対主義「解明」の大きなヒントを 与えてくれました。 (あくまでも「解明」であって「解決」ではない) 彼が提唱した概念で有名なのは、上に書きましたが 【I】と【Me】という概念です。 【I】とは個人的自己のことを指します。 これは何ていうか「これが自分だ!」みたいな 自分像みたいなものです。 アイデンティティと言えば伝わるかな。 【Me】とは社会的自己、つまり自我のこと。 これは周りから見た自分、もしくは、周りに 見せている自分がそれです。 客観的自己と言い換えてもいいかもしれません。 通常、この個人的自己と社会的自己は個別に存在すると 考えられています。 特に日本人は「本音と建て前」という言葉があるように、 個人的自己は内に秘め、社会的自己を外に出す、 というのが通例、というか文化です。 つまり【I】と【Me】は完全な別物として捉えられている。 しかしミードが言ったのは、これとは発想が違うんですね。 彼が【I】と【Me】の概念の中で言っているのは 【Me】から【I】が形成され、その【I】がまた【Me】に 反映される、という循環の繰り返しで【私】は作られて いるんだ と。 より簡単に言えば、 【見られる自分】がいなければ【見る自分】は存在しないし、 【見る自分】と【見られる自分】は相互に影響を与えながら 【私】を作り出している ということです。 全然簡単になってなかったらごめんなさい(苦笑) ところで。 「人間は一人じゃ生きていけない」 なんてことが巷ではよくささやかれたりしていますが、 これの意味って分かります? あ、いや、これは別にバカにしてるんじゃなくって 純粋に聞いてます。 これって、よく言われるのは 「必ず誰かの作った道具を使ってるから」とか 「完全な自給自足は不可能だから」みたいな 物理的な問題だけですよね。 確かにその答えも間違いじゃないと思うんですが、 今回のミードの考え方を踏まえれば、それが本質的な 答えではないことがよく分かると思います。 人間が一人で生きていけないのは 「何かしらの物理的な問題が生じるから」 ではありません。 【アナタ】がいなければ、そもそも【私】が 存在し得ないからなのです。 つまり 【私(個人的自己)】には【アナタ】が必要 なのです。 【人間】って本当によく出来た言葉だなー、と 僕は最近になってようやく気が付いたんですけど、 なんで【人間】は「人」の「間」って書くんだと 思います? 【人の間】ってことは、最低でも2人以上の「人」が 必要だってことなんですよ。 つまり、「アナタ」と「私」が必要なんです、 【人間】であるためには。 しかも【間】ってことは、そこには関係性がないといけない。 それは親子かもしれないし親戚かもしれないし 師弟かもしれないし友人関係かもしれない。 とにかく何でもいいから2人以上の人が存在し、 そこに何かしらの関係性が存在しないと 人は【人間】でいられない、ってことなんです。 仮にその場に2人の人がいたとしても、その2人の関係が 完全な他人であれば【間】に何も存在しません。 だって「他人」っていうのは関係じゃないですからね。 自分とは何の関係もない人を「他人」って呼ぶワケですから そこに何か関係があればこの言葉自体が矛盾してしまいます。 要は、【アナタ】は他人ではダメだ、ってことです。 少なくとも「道を聞いてきた人」とか「ハンカチを 拾ってくれた人」とかそーゆー関係がないと 【アナタ】にはなり得ないのです。 ここまで話せば、なんとなく 【アナタ】がいるから【私】がいる っていうのは分かってもらえました? そこで。 この話を発展させるために、また相対主義の話を 思い出してみましょう。 もう聞き飽きたと思いますが、相対主義は他者に無関心な人を 生み出し、「アナタはアナタ、私は私」という価値観を われわれに植え付けました。 そこから導き出されるのは、他者との関係を失った孤独な【私】。 誰からも邪魔されず自由である反面、誰からも関心(関係)を 持ってもらえない孤独な存在が現代の【私】です。 ってことは、現代の【私】は段々と【見られる自分】を 作る機会が減ってきているワケですよ。 だって関心(関係)のない相手に対して「見られること」を 意識する必要はないですからね。 職場ではテキトーな服装だけど恋人に会うときは 特別な服を着る、なんていうのはその典型。 同様に、電車の中で化粧ができちゃうのも「周りから見られる」 という周りへの関心(関係)を失ってしまっているからです。 そこには【見られる自分(Me)】が存在しない。 つまり、電車の中で化粧をしている【私】は 誰でもない【私】なのです。 (それは【人間】ではなく【人】なのです) 伝わったかなー・・・(苦笑) これが分かれば、なぜ自分を探す人が増えているのか、 という疑問も簡単に理解することが出来ます。 一言で言えば、それは みんながみんなに関心(関係)を持たなくなったから です。 より大きく言うと、相対主義という悪魔によって われわれの関係性が希薄になってしまったから。 【人間】が【人】になろうとしているからなのです。 【アナタ】がいるから【私】がいる 何度も書いてますが、今回の話はホントにこれだけです。 自分という存在は他者との関係によって保証されている。 これは今の時代の重要なキーワードなので 忘れないで欲しいと思います。 ではでは。 ...more»
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Fatal error: Uncaught Error: Call to undefined function ereg_replace() in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code:1 Stack trace: #0 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1): eval() #1 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(688): require_once('/home/philosoph...') #2 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(647): load_template('/home/philosoph...', true) #3 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/general-template.php(76): locate_template(Array, true) #4 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/archive.php(151): get_footer() #5 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template-loader.php(74): include('/home/philosoph...') #6 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-blog-header.php(19): require_once('/home/ph in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code on line 1