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ソーシャルレンタルサービスとリソーシャライズ(再社会化)
ども、ペスです。 僕にはこれまで自分の中で温めていたビジネスのアイデアがあります。 多分ここでこれを話しても「ふーん」ぐらいの反応しか得られないでしょうし、 アメリカでは既にサービスになっているかもしれません。 それぐらいインパクトが薄くてあってもおかしくないようなものなのですが、 僕の知る限りまだこのサービスを提供する会社やサイトはありません。 これを思いついた当初は協力者を集めて自分ではじめるつもりでいました。 そのためにいろんなソーシャル系サイトにも登録して協力者や実現のための 手段を探したりもしましたが、そんなことをしているうちにモチベーションが 下がりました(苦笑) モチベーションが下がったということは、これは僕がやりたいことではなかった ということです(やりたいことを探すとは多分こういうことです)。 こうやって今までいくつの案がボツになったのかは分かりませんが、今回の案は 僕の中で勝手に終わらせてしまうのは非常にもったいないと感じたので、僕ではない 誰かがこのアイデアを実現してくれることを期待して、そのアイデアを公開しようと 思います。 個人的には凄く欲しいサービス、というよりこれは相対主義をシステマチックに 乗り越えられる理想的なサービスなので、日本人の誰かが実現してくれることを 真剣に期待しています。   では早速そのアイデアを明かしてしまいますが、それはタイトルにもある ソーシャルレンタルサービス です。 こういう名前があるのかどうかは知りませんが、レンタカーでは既にこの手の サービスが存在します。 自分の家のご近所さんをそのサイト内で探して、ご近所さんの誰かが車の貸出登録を していたら、ネットからその車を予約してご近所さんに安価で車を貸してもらえる、 というサービスです。 僕の記憶だと一般のレンタカーを借りるのに比べてかなり安かったように思います。 サイト名などは残念ながら覚えてませんが、調べればすぐに出てくると思うので 興味があれば使ってみるのもいいかもしれません。 で。 僕が考えていたアイデアとは、車だけではなくご近所さんに何でも借りれてしまう サービスです。 「何でも」というのは主に、鍋や皿、座布団、布団、こたつ、椅子、机、ほうき、 ブルーシート、自転車、扇風機、旅行鞄、ドレスなどを指します。 つまり、買うほどではないけども一時的に必要なときがあるものをいつでも気軽に ご近所さんから借りられるサービスです。 今上に挙げたもののほとんどは、一時的にしか使用しません。 布団や椅子や机は常時使用するものもあるかもしれませんが、鍋や皿や旅行鞄あたりは 滅多に使わないものがほとんどではないでしょうか。 それらの普段は必要ないものを登録しておき、必要としている人が安価で 借りられるようにしておけばお互いに便利じゃないですか?ということです。 んでもって、その場を提供するサービスがあったら儲かりそうじゃないですか?と。 そういう至ってシンプルなアイデアです。   このサービスは色々な意味で効果を発揮します。 まず最も表面的なのは、物を持っているすべての消費者が新たな出費なしに 本職以外の収入源を得られるということ。 一ヶ月あたりにすれば数千円程度の利益しか出ないかもしれませんが、それでも今まで 置きっぱなしになって埃をかぶっていた皿や鍋や旅行鞄がお金を生み出してくれるワケ ですから、こんなに素晴らしいことはないと思うのです。 しかも今持っているもので始められるので、新しく何かを仕入れる必要もない。 オークションと違って遠くの人に貸し出すことは想定していないため、送料や運送の 手間もかかりません。 貸し出す側は借りたい人が借りにくるのを待っているだけでいいのです。 借りる方は借りる方で、わざわざ置き場に困るようなものを買わなくて済みます。 今まではヤフオクなどのオークションがここを補っていたワケですが、オークションの 場合はそれを買い取る必要がありました。 ずっと頻繁に使い続けるものなら買い取っても問題ないと思いますが、物によっては そういうものばかりではないと思います。 例えば臨時でお客さんが泊まりにくるので布団や座布団が必要だという場合には、 それらは一時的に必要なだけであって、お客さんが帰ってしまえば必要なくなります。 買ったものをまたヤフオクで売るのも手ではありますが、それはお金云々以前に かなりの手間です。 大きいものになれば梱包も面倒だし、銀行振込なども自分で管理しないといけない。 そのストレスを一気に解消するのがソーシャルレンタルサービスなのです。   本来、普段から仲のいいご近所さんがいて、その人に布団や座布団を借りられれば、 こういった問題は何の手間もなく一瞬で解決します。 ピンポーンとインターホンを鳴らして「布団と座布団を貸してくれませんか?」と 言えばそれで済む話なのです。 けれども、この相対主義の進んだ現代ではご近所付き合いも急激に減りつつあり、 誰もが気軽にご近所さんに物を借りられるような状況ではありません。 これは明らかに非合理的だし、金銭的にも時間的にも労力的にも無駄が多い。 この無駄を解消するにはシステマチックにご近所付き合い(社会)を復活させるのが 一番手っ取り早いのです。   ソーシャルレンタルサービスは有料による物の貸し借りを通して、ご近所さん同士の “礼儀正しい”出会いと人間関係そのものを提供します。 つまり、買い手と売り手という立場関係をはっきりさせておくことで相対主義的な いざこざを防ぎ、初対面でのお互いの対応を向上させるということです。 もしこのサービスを無料でやったとすると、借りる側にメリットが偏ってしまい、 貸す側は貸し出す手間だけが増えることになります。 それでも不用なものであれば善意で出品する人はいるかもしれませんが、 その場合の対応は比較的雑なもの、「こっちが貸してやってるんだぜ」的な態度に なってしまうことはなんとなく想像できます。 それではせっかくのご近所さんとの出会いも印象の悪いものになってしまい、 このサービス自体もすぐに終わってしまうことになるでしょう。 だからこそ少額であってもこのサービスは有料にしておかなければならないのです。 有料にしておけばヤフオク同様、お互いの対応は丁寧なものになります。 貸す側は相手をお客様として扱うようになり、借りる側も相手から物を 借りている以上は、あまり横柄にはなれない。 そこに評価システムを導入すれば、尚更お互いに雑なことはできなくなります。 ヤフオクを通して仲良しになる人たちがいるように、ご近所さんなら普段から 顔をあわすことも少なくないでしょうから、このやり取りを通してヤフオク以上に 仲良しになる人たちが現れても不思議ではありません。 こうしてソーシャルレンタルサービスによるリソーシャライズ(再社会化)は システマチックに完成されるワケです。   このサービスが浸透すれば、いずれ人はこのサービスを利用するまでもなく、 お互いに不用な物を貸し借りするようになるでしょう。 それどころか、頂いて余った野菜をおすそ分けしたり、旅行中にペットを預かって あげたり、そういったことも起こってくるはずです。 それこそがまさしく次世代の地域社会の在り方だと個人的には思います。 旧世代のように「同じ地域だから仲良くしなければならない」ではなく、 ネットを通して「たまたま同じ地域だったから仲良くなった」。 これが現代の人間関係の自然な流れではないでしょうか。   ソーシャルレンタルサービスを通してこうした社会を築くことができれば、 それは素晴らしいことだと思います。 ・・・だから誰か作って下さい(笑) ...more»
これから世界はどうなっていくのか
  今回は話題をガラッと変えて時代性なんてものを 考えてみようかと思います。 10ヶ月ぐらい前に【リクルート就活人気ランキングに見る時代性】 という記事がアップされたのを覚えているでしょうか? この記事では就活の流行を題材にして、時代は安定と 不安定を交互に反動し合いながら動いている、 ということを書きました。 【大企業】→【公務員】→【ベンチャー】→【インフラ】 の流れは、要素を抽象すれば 【不安定】→【安定】→【不安定】→【安定】 になる。 じゃあ次は恐らく【不安定】的な何か(記事中では起業)が 来るんじゃなかろうか、と。 そんな感じで予想したワケです。 この予想の結果が出始めるのは、現在の国の状況や 世界の状況からして、恐らく来年から再来年ぐらいに なると思います。 今はいろんな意味で低迷期・停滞期なんで。 もちろん結果が出たとしてもそれが外れるという可能性も 十分有り得ますけどね。 ただ何にせよ、まだ現状では判断できない、ってことです。 まあその話はどうでもいいや。 要は、時代は反動で動いてるんだよ、ってことが言いたかった だけなので、取り敢えずそこだけ思い出して下さい。 今回の本題はこの「時代は反動で動く」という考え方を 応用してもっと大きなものを捉えてみようではないか、 というものです。 大きなものとは何か。 それは「世界」です。 ここで言う「世界」は、みんながイメージしている「世界」の ことだと思って下さい。 厳密な意味で世界を定義してどうの、なんて難しいことは 今は考えないので、漠然とした「世界」で大丈夫です。 その「世界」が今後どうなっていくのかを、 大きくザックリと、時には細かく、考えます。 いや、一緒に考えましょう、か。 せっかく去年あれだけ相対主義のいろんな側面を 学んだんだから、共に考えようぜよ、同志よ。 で。 まずは今までにどういう反動で世界が動いてきたのかを 確認するために、過去をザックリ振り返ります。 相対主義の話は過去の記事を参照してもうらうとして、 相対主義の前は何だったのかというと、近代、です。 多少強引に言い換えれば近代は理性絶対主義の時代とも言えます。 (近代とは何か、といった説明はまた機会があれば・・・) この時代は理念や論理(科学)の進歩こそがより善い世界を 作るんだ、という考え方が世界を支配していました。 科学の果てには究極の楽園、ユートピアが待っているんだ、と。 劣った奴らを皆殺しにすれば、優れた奴だけが残って 素晴らしい世界になるんだ、と。 そーゆーある種、極端な(偏った)考え方を持った時代です。 これが良いのか悪いのかは今は考えません。 そーゆー時代があったという事実だけを頭に入れておいて下さい。 そしたらもう1つ遡って近代(理性絶対主義)の前は 何だったのかというと、神の時代、ですね。 この時代もさっきみたいに神様絶対主義という感じで 言い換えられそうですが、それは実は違います。 神は絶対ではありません。 いや、神の存在は絶対だったんですが、それに対する解釈は 理性とは違って一様ではありませんでした。 ルター派・カルヴァン派、カトリック・プロテスタントなどの 例を考えれば分かるように、これらは神に対する解釈が 全く異なります。 ルターは「懺悔さえすれば、神は何でも許してくれるさ」と 言っているのに対して、カルヴァンは「許すとか許さないとか それ以前に神は全員の運命を既に決めてしまっているんだ」と 言ってるワケですから、神の立場(?)みたいなものは 全然違いますよね? つまり「絶対」ではないんです。 むしろ「捉え方は人それぞれ」という観点から言って 個人的には相対主義に近い感じがします。 ただ、相対主義のように万人に立場を認めるような 物腰の柔らかい態度はこの時代にはないですけどね。 さて、そろそろ見えてきたでしょうか? さっきの 【神】→【理性】→【相対主義】 という時代の流れを抽象化すると 【相対的】→【絶対的】→【相対的】 となります。 ということは、次はなんとなく【絶対的】な何かに なるんじゃなかろうか、と。 そういう風に僕個人は考えています。 じゃあ【絶対的】な何かとは何なのか。 それが具体的に何かは僕にも分かりません。 ただ、恐らく【共】という字がキーワードになるような 時代がくるだろう、とは思っています。 しいて言うなら「共存(共有)主義」という感じでしょうか。 みんなで一緒にがんばろうよ、みたいな。 そういう時代が来る気がする。 いや、実はもう足は突っ込んでるんですけど。 その辺を今から詳しく解説していきます。 僕の考えでは、【共】というキーワードは大きく 2つか3つに分けることが出来ます。 【共感・共苦】【共存・共栄】(そして【共有】) 前者2つはセットです。 最後の【共有】は最後の1つというよりも、 全体を包み込むものという感じ。 この3つを通して未来の兆しを考えます。 まず様々なものを共有するものとして象徴的だったのが ミクシィの登場ですよね。 ミクシィのコミュニティは情報や趣味を共有するための 絶好の広場です。 コミュニティにおいては情報の共有はさることながら 相談や激励など共感・共苦に溢れています。 またTwitterの登場によって僕らは見知らぬ人と 時間をも共有できるようになりました。 今何をやっているか。 今何を考えているか。 その「今」さえも共有できるようになったのです。 情報や趣味、時間の共有と来たら最後は空間の共有も 当然出てくるワケですが、これは一義的なものではなく、 様々なシェアリングが挙げられます。 身近なところで言えばルームシェアリングやカーシェアリング なんかが流行してきてますよね。 他にも使わない服や調理道具などをお互いにシェアリングする サイトも立ち上がっていますし、アメリカには自分の部屋を 使わない時に貸し出すサービス、というのもあったりします。 あとオフ会も空間の共有として捉えれば その類かもしれません。 共存・共栄の根拠としては、やっぱり環境問題です。 世界はグローバル化し、誰か一人の問題が 世界全体の問題になり得る時代になりました。 あなたの捨てたたった1つのゴミが地球を崩壊させる。 これを極端な発想だと思う時代はもう終わったのです。 全員が生き残るためには、全員が全員のために 行動を起こさないといけない。 誰かだけが生き残って誰かだけが滅びる、なんてことは もはや起こりえません。 0か100か、どっちかです。 だとしたら、共存・共栄をスローガンに動かざるを得ないことは 誰が目にも明らかでしょう。 まとめると 共感・共苦が世界を形作り、共存・共栄が世界を支える、 そんな【共】を中心とした時代がすぐそこまできている ってことです。 僕の個人的な予測なんで、まったく違う方向に 進んでいる可能性も否定できませんけどね(苦笑) ま、何かの参考になれば。 ではでは。 ...more»
アナタがいるから私がいる
  今回はちょっと変な方向に話を進めてみます。 タイトルを読んでもらえればお分かりのように 今までと雰囲気が違いますよね? スピリチュアルっぽいというか、なんというか・・・。 一般に女性に好かれそうなタイトル(笑) 一見するとそんな感じなんですが、僕の書く文章が そんなものになるはずもなく(笑)メインの内容は 社会心理学的な話になります。 残念(笑) 僕も決してあっち系が嫌いなワケじゃないんですけどねー。 スピリチュアルとかオカルトとか錬金術とかって 深く勉強すると実は結構面白いんで。 ただ、現段階ではまだ触れられない、というのが 僕の立場です。 なので、そのうちそーゆー話も出てくるかもしれません。 さてさて。 今回の話はジョージ・ハーバード・ミードって人の 【I】と【Me】という概念がメインになります。 ってかそれしか書きません(笑) 【I】と【Me】については後で詳しく説明しますが、 要は「自分って何なの?」みたいな話です。 現在、【やりたいことが分からない】という悩みと ほぼ同じぐらい多くの人が悩んでいることに 【自分が何なのかが分からない】 というのがあります。 「自分探しの旅」や「自分探し病」などの言葉に 代表されるように、みんな何かしら自分というモノを 見つけようとしている。 これにも相対主義が影響しているのはもはや言うまでも ありませんが、そんなことを知っている人は 迷わないワケで、知らないからみんな右往左往して しまっているワケです。 今から紹介するミードが相対主義に対する問題意識を 持っていたかどうかは僕が不勉強なせいで分かりません。 でも、彼の思想は僕に相対主義「解明」の大きなヒントを 与えてくれました。 (あくまでも「解明」であって「解決」ではない) 彼が提唱した概念で有名なのは、上に書きましたが 【I】と【Me】という概念です。 【I】とは個人的自己のことを指します。 これは何ていうか「これが自分だ!」みたいな 自分像みたいなものです。 アイデンティティと言えば伝わるかな。 【Me】とは社会的自己、つまり自我のこと。 これは周りから見た自分、もしくは、周りに 見せている自分がそれです。 客観的自己と言い換えてもいいかもしれません。 通常、この個人的自己と社会的自己は個別に存在すると 考えられています。 特に日本人は「本音と建て前」という言葉があるように、 個人的自己は内に秘め、社会的自己を外に出す、 というのが通例、というか文化です。 つまり【I】と【Me】は完全な別物として捉えられている。 しかしミードが言ったのは、これとは発想が違うんですね。 彼が【I】と【Me】の概念の中で言っているのは 【Me】から【I】が形成され、その【I】がまた【Me】に 反映される、という循環の繰り返しで【私】は作られて いるんだ と。 より簡単に言えば、 【見られる自分】がいなければ【見る自分】は存在しないし、 【見る自分】と【見られる自分】は相互に影響を与えながら 【私】を作り出している ということです。 全然簡単になってなかったらごめんなさい(苦笑) ところで。 「人間は一人じゃ生きていけない」 なんてことが巷ではよくささやかれたりしていますが、 これの意味って分かります? あ、いや、これは別にバカにしてるんじゃなくって 純粋に聞いてます。 これって、よく言われるのは 「必ず誰かの作った道具を使ってるから」とか 「完全な自給自足は不可能だから」みたいな 物理的な問題だけですよね。 確かにその答えも間違いじゃないと思うんですが、 今回のミードの考え方を踏まえれば、それが本質的な 答えではないことがよく分かると思います。 人間が一人で生きていけないのは 「何かしらの物理的な問題が生じるから」 ではありません。 【アナタ】がいなければ、そもそも【私】が 存在し得ないからなのです。 つまり 【私(個人的自己)】には【アナタ】が必要 なのです。 【人間】って本当によく出来た言葉だなー、と 僕は最近になってようやく気が付いたんですけど、 なんで【人間】は「人」の「間」って書くんだと 思います? 【人の間】ってことは、最低でも2人以上の「人」が 必要だってことなんですよ。 つまり、「アナタ」と「私」が必要なんです、 【人間】であるためには。 しかも【間】ってことは、そこには関係性がないといけない。 それは親子かもしれないし親戚かもしれないし 師弟かもしれないし友人関係かもしれない。 とにかく何でもいいから2人以上の人が存在し、 そこに何かしらの関係性が存在しないと 人は【人間】でいられない、ってことなんです。 仮にその場に2人の人がいたとしても、その2人の関係が 完全な他人であれば【間】に何も存在しません。 だって「他人」っていうのは関係じゃないですからね。 自分とは何の関係もない人を「他人」って呼ぶワケですから そこに何か関係があればこの言葉自体が矛盾してしまいます。 要は、【アナタ】は他人ではダメだ、ってことです。 少なくとも「道を聞いてきた人」とか「ハンカチを 拾ってくれた人」とかそーゆー関係がないと 【アナタ】にはなり得ないのです。 ここまで話せば、なんとなく 【アナタ】がいるから【私】がいる っていうのは分かってもらえました? そこで。 この話を発展させるために、また相対主義の話を 思い出してみましょう。 もう聞き飽きたと思いますが、相対主義は他者に無関心な人を 生み出し、「アナタはアナタ、私は私」という価値観を われわれに植え付けました。 そこから導き出されるのは、他者との関係を失った孤独な【私】。 誰からも邪魔されず自由である反面、誰からも関心(関係)を 持ってもらえない孤独な存在が現代の【私】です。 ってことは、現代の【私】は段々と【見られる自分】を 作る機会が減ってきているワケですよ。 だって関心(関係)のない相手に対して「見られること」を 意識する必要はないですからね。 職場ではテキトーな服装だけど恋人に会うときは 特別な服を着る、なんていうのはその典型。 同様に、電車の中で化粧ができちゃうのも「周りから見られる」 という周りへの関心(関係)を失ってしまっているからです。 そこには【見られる自分(Me)】が存在しない。 つまり、電車の中で化粧をしている【私】は 誰でもない【私】なのです。 (それは【人間】ではなく【人】なのです) 伝わったかなー・・・(苦笑) これが分かれば、なぜ自分を探す人が増えているのか、 という疑問も簡単に理解することが出来ます。 一言で言えば、それは みんながみんなに関心(関係)を持たなくなったから です。 より大きく言うと、相対主義という悪魔によって われわれの関係性が希薄になってしまったから。 【人間】が【人】になろうとしているからなのです。 【アナタ】がいるから【私】がいる 何度も書いてますが、今回の話はホントにこれだけです。 自分という存在は他者との関係によって保証されている。 これは今の時代の重要なキーワードなので 忘れないで欲しいと思います。 ではでは。 ...more»
ホセ・オルテガ・イ・ガセットとは
  ホセ・オルテガ・イ・ガセット スペインの哲学者です。 日本では著書『大衆の反逆』がもっとも有名です。 『大衆の反逆』はこの手の本にしては非常に読みやすいので是非とも読んで欲しいんですが、読みやすいという理由を除いても野蛮人を相対主義者にたとえて言及している点は現代にも通ずる重要な視点です。 他の著作は主に全集におさめられているため普通の本屋ではまず見かけることはないと思います。 かくいう僕も全集はパラパラと目を通した程度なので、中身はほとんど知りません。 名のある哲学者にありがちな、常軌を逸した逸話もチラホラあります。 『大衆の反逆』の解説によると、幼いときに4時間程度でドン・キホーテ(世界で2番目に売れている本)の一章をすべて暗記したとかなんとか。 値段の100倍以上の価値はあると思いますので、ぜひ買って読んでみてください。 ちなみに、どーでもいい話なんですが、ガダマーの自伝に3行だけオルテガが出てきます(笑) よかったらそっちも併せてどうぞ。 ...more»
ヒーローとは
  ヒーローとは 自分の所属する共同体において絶大な信用と信頼があり、尚且つ、 自らの善なる信念を持ってその共同体を導いていける存在 のこと。 読んで分かるように、このブログにおける【ヒーロー】とは、 一般に言う「正義のヒーロー」とはちょっと、いや、かなり違います。 自分の所属する共同体、というのはミクシィのコミュニティ みたいなものを思い浮かべてもらえば分かり易いかもしれません。 例えば「猫好き」のコミュニティ。 僕が言うまでもなくそこには猫好きが集まっているワケですが、 そのコミュニティで信用や信頼を得ている人というのは多分、 猫にめちゃ詳しい人だったり、アップする猫画像がいつも 可愛くて人気のある人だったり、猫ブリーダーだったり そんな感じだと思います。 そして尚且つ、善なる信念を持ってコミュニティを導く、 つまり猫に関する誤解や間違いを正し、猫と一緒に暮らすとは どういうことなのかを正しい知識を持って発信していける存在が 猫好きコミュニティにおける【ヒーロー】です。 「本物のプロ」と表現しても間違いではないでしょう。 僕のブログではもっと大きな共同体(相対主義の世界)を 対象とした【ヒーロー】を想定して話を進めていますが、 本質的には猫好きコミュニティのヒーローと意味は同じです。 物凄く乱暴に言ってしまえば、あるコミュニティの中で 【スゴイ人】 はそれだけで大よそヒーローの要素を持っています。 もちろん何がスゴイかにもよりますけど(笑) その他、詳しいことは参考ページを読んでみて下さいませ。 なぜヒーローなんて概念が必要なのか。 なぜ今の世の中にヒーローが必要なのか。 読めば分かります。   ...more»
相対主義とは
  相対主義とは みんなの価値観や文化や特徴はバラバラなんだから、どれが一番とか決めるんじゃなくて、それぞれの価値を認めて、互いに尊重し合おうじゃないか という考え方のことです。 もっとシンプルに言えばナンバーワンよりオンリーワンがいいよねーという感じ。 典型的な例としては「駆けっこでみんな手を繋いでゴール」みたいな価値観を指します。 ただ、、一人一人の価値を尊重し過ぎて(?)お互いが無関心になってしまっているのも相対主義の特徴です。 これは相対主義の負の側面と言ってもいいかもしれません。 「アナタはアナタで自由にしてていいよ」、これだけを読めば相手を尊重しているように見えますが、「ただし、オレの邪魔だけはしないでね」という文章を足せば、「オレ」は「アナタ」に無干渉である代わりに無関心でもあるということが分かるワケです。 関心があるなら「オレが変なことしたら注意してね」とか「アナタが怪我しないようにちゃんと見てるから」とかなんとでも言えるはずですから。 つまり、上は「アナタの勝手にしなよ、オレも勝手にするから」と言ってるのと一緒なんですね。 まるで冷め切った夫婦みたいでしょ? でもそれと同じなんですよ、実際。 結局、お互いがお互いの関係に冷めている状態が相対主義の負の側面なのです。 善くも悪くも現代を生きるわれわれの価値観はこの相対主義で覆いつくされています。 核家族の増加。 近所付き合いの減少。 自分勝手な人間の増加。 自殺者や精神病や統合失調症患者の増加。 これらは全て相対主義の負の側面を克明に表している現象です。 具体的な説明は参考ページを読んでもらえば分かると思いますので、ここでは割愛。 ただ【相対主義】はこのブログの頻出(重要)単語なので、是非とも意味は覚えておいて下さいませ。   ...more»
常識の崩壊
  前回の【目標(やりたいこと)を見つける方法】はどうでした? ってかやってないでしょ?(笑) まあ別にいいんですけど(笑) あれを読んで実際にやる人は1000人に1人もいないと思いますが、 もしちゃんとやって目標らしきものが見つかったという場合は 僕までご一報下さい。 素晴らしく行動力のあるあなたには、特別に次のステップを お教えしますので。 あ、そうそう。 いきなり話は変わりますが、最近なにかと話題の Twitterなるものに登録してみました。 まだまだ全然使いこなせてなくて あんまり意味も分かってないんですが、 もし興味があれば僕を探してみて下さい。 何かしら面白いことがあるかもしれません。 (ブログの更新なんかはお知らせしてます)   さて、そんなどーでもいい話はこの辺にして、 さっさと本題に入るとしましょう。 えー、今回は【常識】にスポットを当ててみることにしました。 常識と言えば、前回の記事で【共同体の常識】というキーワードが 出てきましたね。 われわれは普段、無意識に「誰か」が決めたレールに沿って 生きている。 そのレールは日本の常識だったり、会社の常識だったり、 家族の常識だったり・・・ それらをまとめて僕は【共同体の常識】という風に 表現したワケですが、じゃあ 「現代における共同体の常識ってどうなってんの?」 ということを今回は掘り下げていこうかと思ってます。 抽象的で理解の難しい話になってしまいますが、 出来る限り平易な表現を心がけるのでご勘弁を(笑) んじゃまずは常識の定義の確認からです。 【常識】の定義って何ですか?と質問されたら あなたなら何と答えますか? 知っていなければならないこと。 生活するために最低限必要な知識みたいなもの。 誰もが当たり前にすること。 ザックリ表現すればこんな感じですかね、多分。 んじゃあ、ちょっとここで頭の体操ならぬ、 頭のトレーニングをしてみましょう(どう違うんだ・笑) 上に挙げた3つの常識の定義。 これらは完全に僕の思いつきで書いただけなんですが、 この3つには実は共通点があります。 さて、その共通点とは何でしょうか。 ヒントは・・・ありません(笑) これは帰納的思考力を鍛えるためのトレーニングです。 帰納というのは、与えられた情報から何らかの法則や 共通項などを見つけ出す作業(?)だと思って下さい。 この作業を常日頃トレーニングしていると、 普通の人には見えない世の中の普遍的な法則や 共通点が見えるようになってきます。 電車に乗っている人は何を求めているのか。 サラリーマンは何にお金をかけているのか。 そーゆーことが見えてくるようになるので、 何かしらビジネスをやろうと思っている人は 特にやっておいた方がいいかもしれません。 ちなみに、逆に法則や共通項を具体的に当てはめていく作業を 演繹と言います。 哲学書とか難しい学術書なんかにはよく出てくる言葉なんで 意味を覚えておくと多少読みやすくなるかもしれません。 まあそれはいいか。 そろそろ答え出ました? じゃあ答え合わせをします。 答えは、 【誰もが持ってて(知ってて)当然という前提があること】 です。 「知ってなければならないこと」というのは 裏を返せば「知らないのはヤバイ」という意味ですよね。 「生活するために最低限必要な・・・」というのも 裏を返せば「それが無かったら生活できない」という 意味になります。 「誰もが当たり前にすること」は裏を返すまでもなく 「みんなが無意識にやってること」という意味ですね。 つまり常識は、誰もが持ってて当然と思われているもの、 ということになるワケです。 まあここまでは別に大した話じゃありません。 自明なことをトレーニングを交えつつ確認しただけですから。 問題はここから。 じゃあ相対主義の世界では【常識】はどうなってしまうのか。 軽く結論を言ってしまうと、常識の定義自体は変わりません。 定義ではなく、常識の【在り方】が変わります。 相対主義のことを久々に思い出して欲しいんですが、 相対主義を生きるわれわれの特徴は一言で言えば 【バラバラ】 でしたね。 従うべき一つの絶対的な基準が存在しないから みんな好き勝手やって生きている。 アイツはアイツ、オレはオレ。 アイツがどう思うかは知らないけど、 オレはオレでやりたいことやるからほっといて。 これが相対主義の主な特徴でした。 ってことはですよ。 相対主義の世界で万人に共通する1つの常識なんてものは 存在しえるのか?という話になるワケです。 みんなバラバラの価値観を持って考えたり動いたりしてるのに、 常識だけが統一されていることなんて有り得るのか、と。 有り得ないですよね? だって相対主義ではみんな 「自分の持ってる常識こそが常識なんだ!」 って思ってしまうんだから。 要するに 相対主義における常識というのは、共同体の中の 誰もに共通した1つの常識ではなく、個人個人が バラバラに持っている【自分勝手な】常識に過ぎない、 ということなのです。 こんなのはもう常識じゃないですよね? 常識という名の個人主義というか何というか。 「オレが基準だ」的な常識観になってしまっている。 他人に対して自分の常識を押し付けるワケではないので そこまでは言い過ぎかもしれませんが、それでもやっぱり 従来の常識とはかけ離れた意味になってますよね。 のび太がぶつかって謝らないのはムカつくけど、 オレ(ジャイアン)がぶつかって謝らないのは 何も問題ない、みたいな。 これは僕の偏見かもしれませんが、電車の中や街中の風景を 見ているとそんな風に感じることは多いです。 で。 また前回の話に戻ります。 前回の【共同体の常識】という言葉が出た辺りを 読み返してみて欲しいんですが、その辺に われわれには共同体の常識があるから、自分の目標が 明確じゃなくても虚無感に襲われずに毎日をそれなりに 生きることが出来るんだ という感じの文章があると思います。 コレ。 逆に言えば、共同体の常識がなければ虚無感に襲われる、 ってことですよね。 ということは、現在社会問題になっている自殺者の増加と 相対主義の関係が見えてきませんか? 社会の大きな目標であったはずの共同体の常識が崩壊した結果、 多くの人が目標を見失い、虚無感に襲われ、 その精神的苦痛を避けるためにみんな自殺していく・・・。 これが正しいかどうかは分かりませんが、 僕にはそういう構図が見えます。 さっきも言ったように、相対主義でも常識自体は存在します。 ただ、その常識は共同体の常識ではなく、何の基準にも 支えにも成り得ない「ヤワ」で自分勝手な常識に過ぎません。 より分かり易く言えば、それは もたれかかることの出来ない常識であり、目標 なのです。 なぜなら、そこには【文化】という大事な大黒柱が 抜け落ちてしまっている。 もう分かると思いますが、共同体の常識というのは 【文化】と同じ意味なんですね。 われわれが【日本文化】という言葉を口にするとき、 それは【日本(という共同体)における常識】を 意味します。 もちろん文化という言葉にはもっと広い意味もありますが、 それはまた別の話。 今ここで言う【文化】とは上のような意味です。 その文化が今、無くなろうとしているのです。 近所付き合い?そんなの面倒だし。 年賀状?別にメールでいいじゃん。 お中元?お互いにやめればお金もかからないし、楽じゃん。 ・・・。 こんな声がどこからともなく僕の耳には聞こえてきます。 これまで常識だったそれらの文化が軽視され、 最新鋭のITの方が重要視される時代。 そんな時代が現代です。 こんなことを偉そうに書いてる僕も、こうやって ネット上でブログを書き、メールを送っているワケですから その影響から脱することは出来ていません。 でも、大事なのはそれに【気付いている】ことだと 思うんですね。 これは自分を正当化してるんじゃなくて、 【今の時代に迎合しないために】という意味で。 時代は【気付いていること】が大事なのであって、 流れに【乗らないこと】が大事なワケではありません。 というか流れには乗らないといけない。 だってそれがその時代のルールですから。 ただ僕が言いたいのは、その流れに乗りつつも 「自分を見失ってはいけない」ということなのです。 「みんなバラバラだから自分もバラバラでいいや」ではなく、 そんな状況を見つつ自分もバラバラのような振りをして 一歩高い視点で全体を見渡しておく。 この視点がないから、いつの時代も多くの人は メディアに踊らされてしまうワケです。 要するに、現状が普通だと思わないで欲しいのです。 むしろ今は【異常】だと思って欲しい。 (正確に言えば、常に「今」を疑って欲しい) 何を以って異常とするのかは人によると思いますが、 僕はほとんど何もかもがオカシイと思っています。 そもそも【常識がバラバラ】という時点で、 根本的なところからズレてますから。 ただ今は、それにいきなり反発するんじゃなくて 様子を伺っておいてほしいんですね。 大事なのは上に書いたように【気付いている】ことなんで。 いろんなニュースを見ながら 「あぁ、相対主義なんだなー・・・」 と感じ取っておいて下さいませ。 さてさて。 なんか今回の記事は取りとめのない感じで 進めてきちゃいましたが、意味は伝わったでしょうか? 念のためにザックリまとめておきますね。 相対主義の影響によって共同体の常識は崩壊し、 個人が自分勝手な常識を持つようになった。 しかし、文化(共同体の常識)を無視して個人が作り上げた常識は 自分さえ支えられないほどに脆かった。 その結果、人は自分で自分を追いやることになり、 今や自身をも崩壊させてしまっている。 文化の無い人間とは、大黒柱の無い家である。 どれだけ外見を立派に見繕っていても 軽い地震があっただけですぐに崩れ落ちる。 見た目や「安さ」にこだわるのもいいが、本当に大事なのは いざという時に自分を支えてくれる大黒柱ではないだろうか。 こんな感じ。 こんなにスッキリまとまるんなら、最初から これだけ書いときゃよかった(笑) まあそれはともかく。 今回の記事は今までの記事の「総まとめ」的な 意味合いが強いので、これを機会に今一度 以前の記事を読み直してもらえれば新たな発見があったり、 より深く理解できる部分があったり、何かと気付くことが あると思います。 ってかそうなるように書いてるので 出来れば復習して欲しいと願う今日この頃。 よろしくです。 ではでは。 ありがとうございました。 ...more»
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