UA-32556480-1
top-image

Tag archives for 目標

中途半端を極めろ
いつからか、僕は具体的な夢や目標を持たなくなりました。 少し前は「村を作りたい」みたいなことも言っていましたが、 今はそれすらなくなり、夢や目標と呼べるようなものは もはや何もありません。 ただ面白いのは、それと反比例するかのように僕の興味が 広がり続けているということです。 普通われわれは、具体的な夢や目標を持ち、それに向けて 仕事や勉強を頑張ることが素晴らしいことだと 思い込んでいますが、これは言い換えると、夢や目標に 関係無さそうなことは無価値・無駄だと見なしていることを 意味します。 例えばマンガ家になりたい人は、いろんなマンガを読んだり、 絵の技法や学んだり、先輩マンガ家のインタビューを真剣に 読んだりはすると思いますが、多分ヨガや錬金術や農業は 学ばないと思います。 なぜなら、それらは自分とは関係ない(ように見える)し、 そんなことを学んでも「無駄」だからです。 同じように、ダンサーになりたい人が電子工学やJAVA言語や 考古学を学ぶことは稀でしょうし、コピーライターに なりたい人が、物理学や生物学や禅を学ぶことも稀でしょう。 こうして具体的な夢や目標を持っている人たちは、 夢や目標を「一直線に」叶えようとするワケです。 しかし、ダンサーがダンスを練習するなんてのは誰でも 思いつくことであり、誰でもやっていることだということを 彼らは忘れています。 誰でもやっていることをやってトップに立てるのは、 才能のあるヤツだけです。 当たり前ですが、みんなが同じことをやれば、それを一番 効率よくやれる才能のあるヤツが勝つに決まっています。 自分の才能に自信があるとか、勝ち負けはどうでもいいと 思っているなら別ですが、他の人とは一線を画した評価される マンガ家やダンサーやコピーライターになりたいなら、 誰もがやるようなことを誰もがやるようにやっていては 話にならないのです。   さて、ここで少し考えてみましょう。 日本で15位の実力のあるダンサーと、日本で59位の 実力しかないけど、歌と面白いトークができて、 占いと脳科学にやたら詳しいダンサーだったら、 どっちが世間から評価されると思いますか? 日本で31位の実力のあるコピーライターと、 日本で101位の実力しかないけど、哲学とマンガと 昆虫と音楽にやたら詳しいコピーライターだったら、 どっちが面白がられるでしょう? 答えは言うまでもないと思います。 ダンスでトップに立ちたい人にとって、脳科学の知識は はっきり言って無駄でしょう。 しかしダンスでトップに立つことが、その人にとって 必ずしも幸せだとは限りません。 そういう人は自分で勝手にそう決めつけてしまっていて、 自分が幸せになれる可能性を自分で排除してしまって いるのです。 もしかしたら脳科学の知識によって新しい自分だけの カテゴリーが生まれたかもしれないし、そこでは一番に なれたかもしれないのに、その可能性をダンスに 固執することで、つまりダンス以外を無駄だと思うことで 無自覚に捨ててしまっているワケです。 夢や目標を持つことは悪いことではないですし、 それを目指すプロセス自体を楽しめているなら 何の文句もありませんが、「夢を叶えなきゃいけない」とか 「目標は達成しなきゃ意味がない」とか、そういう風に 固執してしまうぐらいなら、僕はない方がいいと思います。   僕が夢や目標を持たなくなったのは、自分で自分の可能性に 制限をかけるのをやめたからです。 僕が小説家になる可能性も、脳科学者になる可能性も、 ダンサーになる可能性も、プログラマーになる可能性も、 天文学者になる可能性も全部残しておきたい。 そう考えたら、夢や目標は邪魔になってしまったのです(笑) 別に目指すものを1つに絞る必要はないでしょ、って。 そんときの自分がなりたいと思ったものを目指して、 興味がなくなったらやめて他を目指して・・・みたいな 中途半端な生き方も、それはそれで可能性に溢れていて 魅力的だと思うんですよね。 僕は自分に才能があるなんて微塵も思わないし、 既存のカテゴリーで争って何かで一番になれる自信も ありません。 だからいろんなことを勉強して、それらを組み合わせて 「僕だけのカテゴリー」を作って、そこで一番になれば いいじゃないか、っていう発想で生きています。 多分99%の人は僕と同じで、既存のカテゴリーでは 一番になれない中途半端な人たちだと思います。 だったら。 中途半端を極めませんか? マラソンとかダンスとか将棋とか、そんなの一本じゃ 勝てないんだから、それら全部を中途半端に極めて、 「マラソン・ダンス・将棋」っていう新しいカテゴリーを、 「あなた」っていうカテゴリーを作りましょうよ。 そこがわれわれ中途半端な人間に唯一残された楽園だと 思います。   無駄を避けるとは、中途半端を避けるということです。 じゃあ中途半端なヤツが無駄を避けたらどうなるでしょう? この答えは自身でじっくり考えてみてください。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック ...more»
達成できない目標の5つの特徴
  珍しく具体的な話をしてみました(笑) 4つ目の「身の丈にあってない」というのが最大の注意点なので そこだけは絶対に聞き逃さないように。 https://youtu.be/C2t8uyOpgd4 ...more»
目標の形而上学 ~神が与えし目標~
  毎年この時期になると世間では「来年はどうするか」的な話題が 増えてきます。 今年はこうだったけど、来年はああしよう。 まだこうやって反省をしているならいい方だと思うのですが、 多くの人はこれすらせずに忘年会やら新年会やらで1年間の 大切な経験を水に流してしまっているような気がします。 もちろん来年も余裕で売り上げが右肩上がりで伸びていく 自信と根拠があるなら問題ないと思うのですが、一般に、 この時期にバカ騒ぎしている人というのは、僕の偏見かも しれないですが、どうもそういう余裕のある人には 見えません。 どちらかと言えば、そんな余裕のない状況だからこそ、 その現実から目を背けるために、飲んで騒いでいるように 見えます。 僕もこの時期だけは付き合いで1,2回程度、忘年会や新年会と 呼ばれるものに参加することがあるのですが、そういう場では (いや、そういう場でなくても)まず「まともな話」が出てきません。 これが個人的にはいつも虚しいです。 別にそれは哲学や芸術の小難しい話をしろと言っているワケではなく、 自分たちの生活に直結する話、つまり税金のこととか雇用のこととか 金融危機のことぐらいは出てきてもいいんじゃないか、ってことです。 酒を飲みながらでもいい。 バカな話を交えながらでもいい。 それでもいいから少しは現実を見つめようよ、と。 そう毎度毎度思ってしまうのです。   こうして見たくないものからとことん目を背けている割には、 みんな性懲りもなく毎年新年の抱負だけはちゃっかり(?) 立てたり立てさせられたりします。 今年こそは痩せる。 今年こそは脱サラする。 未来の自分に興味があるのは結構なことですが、いつの時代も その抱負を達成する人というのは少ないものです。 それは僕がぐちゃぐちゃ詳細に説明するまでもなく、 今言ったことや周りの人間の様子を見れば明らかでしょう。 けれども、世間の人は飽きもせずに毎年毎年同じような抱負を 同じように立てて「今年もダメだったなー」とか同じようなことを 言いながら一生を終えていくワケです。 そんな人生もそれはそれでアリなのかもしれませんが、一生に 1回ぐらいは「目標」というものに真摯に向き合ってみては どうだろうか、というのが僕の個人的な意見です。 こういう意見の人は僕だけではないようで、これまた世間には 目標達成法なるものをまとめた本がそれなりの数売られていたり します。 そういう本がベストセラーになってしまうのは仕方ないとして、 ベストセラーになるほど売れた割には、周りに目標を達成できて いる人が少ない気がするのは、僕の気のせいなのでしょうか。 それとも、もしかして僕が知らないだけで、みんな黙って成功 しちゃっているのでしょうか。 それならちょっぴり寂しいと同時に非常に喜ばしいことですが、 今はそうではないと仮定しておきます。 となると、目標を達成できる人は依然として少ないことになるワケで、 それはなぜなのかを考えたくなるのが子供心というヤツです。 どうして目標は達成できないのか。 どうすれば目標は達成できるのか。 前書きがやたら長くなりましたが、今回はそんなことを徒然と 考えていきます。   そもそも僕らはなぜ目標を立てるのでしょうか? 目標なんて立てなくても死にはしないし、そんなものなくても 普通に生きていけるのに、どうして目標が必要なのか。 ある人はこう言うかもしれません。 ゴール(目標)がなければスタートできないからだ。 しかし、僕らはゴールを決める以前からずっと走り続けています。 どこに向かっているかは明確ではないかもしれませんが、人生という レースは既にスタートしてしまっている。 となると「ゴールがなければスタートできない」という意見は僕らの 現実と噛み合いません。 この「スタート」が「ゴール(目標)に向かい始める」という意味で あれば、その意見は確かに正しいことになりますが、それなら スタートよりも「方向転換」と言った方がしっくりくる気もします。 僕らの人生は生まれた瞬間がスタートであり、それ以降は死ぬまで ずっと過程でしかないのです。 また別の人はこう言うかもしれません。 ゴール(目標)がなければどこに向かって走ればいいか分からない からだ。 本当にそうでしょうか? もしそうだとしたら、僕らは生まれた瞬間から何かしらの「目標」を 自分で決めておかなければならない、ということになります。 ですが、僕らは自覚的か無自覚的かは人それぞれだとしても、 常に何かに向かって走っているのですから、どこに向かっていいか 分からないというのは、僕らの行動と矛盾しています。 マラソンのゴールは走り出してから決まるのでしょうか? 僕はそんなスポーツを見たことがありません。 こうなると疑問になってくるのが「目標」そのものの存在です。 今は「なぜ目標を立てるのか?」を考えていたワケですが、 それは目標を立てることが前提にあります。 目標は立てるものだ、目標は立てなくてはいけない、でもなぜ 立てなきゃいけないんだ?というのが今考えていたことです。 しかしそれは本当に必要なのだろうか、と問うてみると新しい道が 見えてこないでしょうか?   もし僕らに「目標」が必要ないとしたら、世の中に出回っている本で 言われているようなことは、すべてウソとは言わないまでも、すべて 空虚なものになってしまいます。 先ほども言ったように、僕らは自分が自分だと認識する以前から既に スタートを切っています。 どこに向かっているかを自覚している人は非常に少ないですが、 それでも全員がどこかに向かって走っている。 つまり、世間で言われるところの「目標」を持たずに大よその (少なく見積もっても5~10年以上の)人生を走ってきたワケです。 なのにどうして世間では「目標を立てるのが当たり前」みたいな 空気があるのでしょう? これについての意見も色々あるでしょうが、代表的な意見は こういうもののように思います。 目標がないよりも、目標がある方が今やるべきことが明確になり、 人生をより有意義にできるからだ。 仮にこれが100%と正しいとしましょう。 だとしたら、哲学も数学も物理学も生物学も考古学も歴史学も プログラムの知識も料理の知識もすべて「ある方がより人生を 有意義に」できるはずですから、それは「目標」に限ったことでは ないことになります。 目標が無ければそれらを学ぶことができないというのであれば 納得もいきますが、別に目標がない人でも数学がひたすら好きで 勉強している人は山ほどいるし、僕だって別に哲学的に達成したい 目標があって勉強しているワケではありません。 その他の分野についても然りです。 百歩譲って哲学や数学は「目標」に対して優位性が劣るとしても、 料理や経理や自分が関わる専門分野の知識などは、実際のところ 「目標」よりも優先されることだと思います。 より現実的なことを言うならば、新年の抱負を考えている時間を 使って、もっと他の勉強をした方が給料は上がるかもしれない ワケです。 それを差し置いて、どうしてそれらの中で達成されもしない 「目標」だけが特別扱いされなければならないのでしょう? そう考えていくと「目標」それ自体の必然性や優位性はどこにも 無くなってしまうのです。 「今やるべきことが明確になる」という点は重要な視点なのですが、 ここで言っている「目標」から導かれる「今やるべきこと」には実は あまり意味がありません。 その理由は後半に譲るとして、少なくとも「ないよりあった方がいい」 というしょーもない理由は何の根拠にもなり得ないのです。 では最後に、こう問うてみることにしましょう。 目標を立てることは可能なのか?と。 上の方で言ったように、僕らの人生は死ぬまで過程でしかありません。 始まりも終わりもない経過地点。 いつもそれが僕らの人生です。 であるならば、僕らが立てられる「目標」、すなわちゴールも結局は 人生の経過地点であり、本来的な意味でゴールには成り得ないことに なります。 1億円稼ごうが、10キロ痩せようが、脱サラに成功しようが、 どれもこれも一時的な結果であり経過地点に過ぎません。 もちろん最初から「目標」を経過地点という意味で考えているなら それを立てることは可能ですが、その場合その「目標」はもはや 目標では無く、次の「目標」のための経過地点としか呼べなくなる ことになります。 その次の「目標」はまた次の次の「目標」のための経過地点となり、 さらに次の次の「目標」はまた次の次の次の・・・と、これを 繰り返していくとどこまでいっても「目標」は目標としての意味を なさなくなる。 つまり僕らは究極的な意味で目標を立てることが出来ないのです。   目標を立てる必要もなければ、立てることもできないというのは 一般的な感覚からしたら、なんと虚しいことでしょう(苦笑) あれほど世間では当たり前に大事とされていることが、これほど まで空虚なことだとは、恐らくほとんどの人は気付いてないと 思います。 これまたみんなが知ってて黙ってるだけなら嬉しいんですが、 それはないということにしておきます。 ただ、本題はここからです。 僕がここまで大多数の目標という言葉にカッコを付けていたことに お気付きでしょうか? 普通に読んでいたら何とも思わないかもしれませんが、それは 強調したいから付けていたのではなく、その「目標」を目標とは 違う意味で使っていたからなのです。 「目標」とは、ここまで説明したように、立てる必要もなければ、 立てることもできない空虚な目標(経過地点)のことです。 それに対して、ここからお話したいのは本当の目標、すなわち “死” に関するお話です。 正月前に縁起でもないことを、と思われたかもしれませんが、 縁起も何も僕らはいつだって死と隣り合わせに生きています。 それを口にしなかったり、まともに向き合わなかったり、一時的に 無自覚だったりしているだけで、誰もがその事実を抱えている。 世間一般には、それを口に出すことは暗黙のタブーのようになって いますが、それは倫理上マズイからではなく、なぜだか分からない けれども(いや、分かってるんだけども)、その言葉が一気に空気を 冷やしてしまうからです。 これは実際に言ってみればすぐに分かります。 飲み会の場で 「明日死ぬかもしれないのに、何下らないことやってんだよ!」 と言えば、間違いなくその場は冷めます。 こんなのはやる前から分かっているので、わざわざやる必要は ないですが、とにかく僕らは遥か遠くにいる未来や過去とは 必死で向き合おうとするのに、すぐ隣にいる死とは“なぜか” まともに向き合いたがらない性質を持っているワケです。 しかしながら、その死が僕らが唯一知りうる“確実な事実”で あることは間違いありません。 僕らはいつか絶対に死ぬ。 そのことを知らない振りをしているたくさん人はいても、本当に 知らない人はこの世にはいないと思います。 そして、死んだらそこで人生が終わる、ということもみんな 知っているはずです。 死は人生におけるゲームオーバーであり、ゲームクリアです。 ゲームであればクリアするまで何度でもリセットできますが、 人生は一度きり。 つまり人生においてはゲームクリアが同時にゲームオーバーで、 ゲームオーバーが同時にゲームクリアなのです。 通常、僕らがゲームをしているときに目標としているのは、 そのゲームをクリア(完遂)することです。 最初のボスを倒し、次のボスを倒し、ラスボスを倒す。 そもそもボスがいるかどうかはゲームの内容にもよりますが、 何にせよ基本的には「やり遂げること」がゲーム自体の目標と なっています。 だからこそ、それを完遂できずに途中でゲームオーバーになって しまったら、悔しいとは思わないまでも、なんとなく頂けない 気持ちになってしまうワケです。 ですが、それでも終わってしまうのが人生です。 それは思いもよらない瞬間に終わることもあれば、ある程度 想定通りに終わることもあります。 いつどこで誰がどうなるかは分かりません。 ただ今言ったように、人生において終わり(ゲームオーバー)とは 同時にゲームクリア(目標達成)なのですから、 「死」=「人生の終わり」=「ゲームオーバー」=「目標達成」 ということであり、それは 「死」=「目標達成」 ということなのです。   僕らの目標は死んだときに達成されます。 それは「死=目標達成」なのだから当然ですが、だとしたら 僕らは死そのものを目標にせざるを得ないことになります。 なぜなら、どう足掻こうとそれ以外には目標(最終地点=ゴール)に なることができないし、それ以前に、僕らがそれを目標として望む 望まないにかかわらず、最初からそれは揺るぎない定めとして僕らの すぐ隣に存在しているからです。 この絶対的な事実を、誰にも変えられない目標を無視しているから、 多くの人は「空虚な目標」しか立てられないし、そんな「目標」を “立ててしまう”のです。 では「死を目標にする」とは具体的にはどういうことなのか。 死にたくて死ぬ人が少数派であることを考えると、死を目標にする というのは何だか変な表現のような気がします。 また人間は死ぬ気さえあればいつでも死ねるワケで、その意味で 目標達成は容易だとも言えます。 そんなものを目指して何になるのか。 素朴に考えれば、そう感じるかもしれません。 それは確かにごもっともで、僕自身も何も知らなければ普通に そういう感情を抱いてしまうと思います。 しかし自分が死んだときのことをいくつか想像してみて下さい。 どれも「死んだ」という事実は同じかもしれませんが、「死にざま」や 「死に方」は違うのではないでしょうか? 何万人の人に凄く悔やまれながら死ぬ死に方と、誰にも悲しまれずに ただ淡々と作業として終わってしまう死に方。 どちらの死に方が僕らにとって理想的でしょうか? もしかしたら死んでしまえばみんな同じなんだから、そんなことを 考える意味はないと言い捨てる人もいるかもしれません。 ですが、それは違うと断言できます。 死を考えることに意味がないということは、目標そのものに 意味がないということであり、目標に意味がないのであれば、 それを達成するための過程である人生にも意味がないことになります。 要は、生きることに意味は無い、と言っているのと同じなのです。 ですから、死について考えることを否定した時点で、その人は自分の 生きる意味も同時に否定していることになり、結果として、自分で 自分自身の発言そのものすらをも否定していることになるのです。 この議論に首を突っ込むとなかなか抜け出せなくなるので今は 深くは語りませんが、簡単に言っておくと、人生には「意味が無い」 のではなく、人生の意味は生きている時点では、いや、ある意味では 永遠に「未確定」なのです。 何のために生きるのか。 その答えが人生の意味なワケですが、最終的にその人の人生が 何のためになったのかを判断“できる”のは本人ではなく、 残された人たちなのですから、そこに意味が生まれるのは、 本人の人生が終わってから、つまり死んでからになります。 すなわち、生きている本人が人生の意味を知ることは原理上 絶対にできないのです。 もっと言えば、残されている人たちも入れ替わり立ち替わり 死んで交代していくワケですから、ある人の人生の意味は 歴史的にどんどん変化していくことになります。 核が人類の希望であった時代もあれば、現代のように人類の 絶望になってしまうことがあるように、モノやコトの意味は 時代と共に変わる。 これ以上行くとさすがに脱線してしまうので、ここで強引に 話を戻しますが、人生の意味が死ぬまで未確定である以上、 生きている時点で僕らに出来るのは、可能な限りこういった 歴史的な解釈に耐えうる存在になること、平たく言えば 「死んでも忘れられない存在」 になろうと努力することなのではないか、ということです。 もちろん忘れられてもいいと思うのは人の勝手ですが、 僕らは存在を忘れられた時点で「存在しなかった」ことに なりますから、それは今自分が生きている意味そのものを 否定していることになります。 そんな人生、虚しくないですか? 「目標を見失う」とは、本当はこういうことを言うのです。   あなたにとって「最高の死」とは、どういったものでしょう? どこでどんな風に何をしている時に死ねれば本望でしょう? その答えはいつも、 今を全力で生きること にあります。 今を全力で生きてさえいれば、いつ死んでも後悔することは ありません。 それは結果が出ていなくても後悔しないという意味ではなく、 結果が出ないはずがない、という意味です。 この記事の中盤辺りで 「目標があれば今やるべきことが明確になる」 ということが重要な視点だと言ったと思いますが、その理由は 最高の死という目標を考えることで、今やるべきことが明確に なると同時に、言葉通りそれを“全力”で行えるようになるから なのです。 そして何より、その全力で生きることができているという事実は、 常に自分にとって最高の結果なのです。 ある人にとってはそれは絵を描いているときかもしれません。 また別のある人にとっては料理を作っているときかもしれません。 人それぞれ何が最高かは異なりますが、それをやっているとき、 自分が最も自分らしくあれるとき、それが最高の人生(過程)であり、 そうやって死ねることが最高の結果なのではないでしょうか。 目標とは達成するために立てるものです。 だとしたら、死という目標が必ず達成されるようにできているのは、 自然なことなのかもしれません。 その真意は神のみぞ知るところですが、せっかくそういう風に できてるんだから、いちいち難しいことを考えずに、そういう風に 生きればいいじゃない、ってことです。 そしたら“自然と”そういう風になりますよ、きっと(笑) ではでは、来年もよろしくお願いします。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
目標(やりたいこと)を見つける方法
  珍しく今回は分かりやすいタイトルをつけてみました。 読んで字のごとく、そのまんま。 前回の記事では目標を持つことがいかに大事なのかを 必要性という観点から解説しましたが、今回は 「なぜ目標を持たなければならないのか」 という疑問を前回とは別の側面から解説し、尚且つ、 ペス流の目標を見つける具体的な方法も紹介します。 もし何かしら今の自分にモヤモヤした悩みがあるなら、 今回の記事は結構役に立つかもしれません。 んじゃ本題へ入ります。 【なぜ目標を持たなければならないのか】 前回はこの答えを「時間をムダにしないため」という 位置づけで解説しました。 目標がないからみんな毎日毎日貴重な人生を 下らないことに浪費してしまうんだ、と。 そんな話でしたね。 ではでは、前回の記事を思い出したついでに 「われわれ」は一体何者なのかという記事も 思い出して下さい。 この記事で僕は 人間の意志には目標が必要だ。しかし、その意志は、 何も目標が与えられないなら、むしろ虚無を欲する。 というニーチェの言葉を引用しました。 ここに【目標】という言葉が使われていることに 注目して欲しいのですが、この言葉を現代社会に 当てはめるとどうなると思います? 僕はこの言葉を「目標がないヤツは死にたくなる」みたな感じで 解説をしましたが、その解説だと前回の記事で言った 「現代人のほとんどは目標を持っていない」という前提を 踏まえると意味が矛盾しちゃうんですよ。 要するにこーゆーことです。 現代人のほとんどは目標を持っていない。 ということは、ニーチェの言葉を鵜呑みにすると ほとんどの現代人が死にたくなってるはずなのに 自殺者はそこまで多はくない。 まあ多く見積もってもせいぜい数万人程度。 これを「現代人のほとんど」と呼ぶにはやや忍びないですよね。 かと言って、みんな死にたいのを我慢しながら 生きてるのかというと多分そうではない。 なぜなのか? それは、みんな【エセ目標】を持っているからです。 ニーチェのもう1つの言葉を覚えていますか? 彼は 自分に命令する力の無い者ほど、自分を命令する者を求める とも言ってます。 つまり、まとめると、 人は目標を失うと死にたくなってしまうから そうならないために(自己防衛本能として) 自分に命令する力のない者は自分に命令する者を求める ということなのです。 じゃあ、みんなが持っている「エセ目標」とは 誰が与えたものなのか。 それは時と場合によって異なります。 小さい頃は親。 「ピアノの練習をしなさい」「勉強しなさい」・・・。 その内容の善し悪しはともかく、自分で目標を 見つける能力のない時期はわれわれは親が立てた目標に 従うしかありません。 学校に入れば学校での目標も加わります。 「テストでいい点を取る」「受験に受かる」というのも 学校での目標の1つです。 そして就職したら会社の目標が自分の目標になります。 会社が「年商100億を目指す」と言えば、それが自分の目標。 要は、自分で目標を立てない限り、 誰かが敷いたレール(共同体の常識)に沿って 生きていくしかない、ってことです。 逆に言えば、そのレールがあるからこそ、ほとんどの人は 死にたくなるほどの虚無感に襲われることなく、それなりに 生きることが出来るのです。 ですが、他人のレールに沿って生きるなんて、 【生きてる】って言えるの?と僕は思うんですね。 それって【死んでないだけ】なんじゃないの?と。 僕は「生きる」ってことは自分が主体的に何かを 成し遂げていくことだと思うんです。 オルテガじゃないですが、1つの使命に自分の命を 賭けることが「生きる」ってことなんじゃないか、って。 もちろん人それぞれ考え方は違いますし、 戦争を体験した方なんかは 「生きてるだけで幸せなんだ」 とおっしゃるかもしれません。 ユダヤ人迫害を逃れたエマニュエル・レヴィナスって哲学者も そんなこと言ってますし。 そう心から思えるなら、それでいいと思うんです。 ただ、そんな局面を体験していない僕ら世代が 「生きてるだけで幸せ」と思うのは現実的には かなり難しい。 だからこそ、そんな僕らが幸せを感じるためには 【自らが立てた目標】を自ら成し遂げていくことが 必要だと思うワケです。 というワケで、ここからは目標を見つける方法を紹介します。 この記事を書く前に本やらネットやらをいろいろ調べて みたんですが、どうもどれもシックリこないんですよね。 方法的には悪くはないんだけど・・・みたいな。 「1年以内にやりたいことを書き出せ」とか 「1億円あったらやりたいことを書き出せ」とか 「自分史を書いてみたらいいかもよ」とか それ自体は確かに有効なんだけど、それをやっただけで 目標が見つかるかというと、ちょっと「?」。 もちろんそれだけで見つかる人もいるとは思います。 思いますが、やっぱり出来ることならもっと確率を上げて、 より多くの人に結果を出して欲しいなー、と。 そう思い、元々知っていた方法を自分の体験などを踏まえて 新たに再構築し直したものが今回紹介する方法です。 自分で言うのも何ですが、敢えて言っちゃいます。 これで結果が出ないなんて有り得ません それぐらい自信があります。 ただし。 これは「ちゃんとやれば」の話。 作業自体は非常にシンプルなので【出来ない】ということは ないと思いますが、全く楽ではないので【やらない】ということは 大いにあり得ます。 僕には【やらない】人に結果を出させることは出来ません。 当たり前ですが、ここから先はそれを分かった上で 読んで下さいね。 では具体的な作業の話に入りましょう。 この方法では主にブレインダンプとマインドマップを使って 作業を行なってもらいます。 やり方はいたってシンプルです。 1.ブレインダンプ これは頭の中にあるものを全て書き出す作業です。 【やりたいこと】と【やりたくないこと】を 各々最低でも200個以上出して下さい。 (できれば【やりたいこと】は250個以上) つまり全部で400個以上。 それより上なら何個出しても構いません。 ってか出せる限り全部出して下さい。 多分慣れてないと「やりたいこと」を出すだけで 1日終っちゃうと思うので、目処は2日以内。 僕も最初は8時間で100個ぐらいしか出せなかったので、 そーゆーもんだと思って頑張って下さい(笑) 慣れれば6時間で200個ぐらいは出せるようになります。 一応簡単なヒントを出しておきましょう。 「100万円あったら何がやりたいか」 「1億円あったら何がやりたいか」 「王様になったら何がやりたいか」 「どんなことでも出来る能力があれば何がやりたいか」 「1年後に死ぬとしたら何がやりたいか」 「法律がなかったら何がやりたいか」 「未来・過去に行けるなら何がやりたいか」 これらを考えていけば多分100個ぐらいはすぐです。 一応例も出しておきましょうか。 お金持ちになりたい、モテたい、賢くなりたい、 不完全性定理を理解したい、金髪にしたい、 ヴィトンのバッグが欲しい、世界遺産巡りをしたい、 会社を作りたい、社長になりたい・・・。 こんな感じ。 抽象度や内容の善悪は無視して、内容が被っていようが 卑猥なことだろうが全部書いて下さい。 人に見せるものじゃないので、公言出来ないような 非道徳なことも書いて大丈夫です(笑) 「やりたくないこと」はこの逆。 「100万円借金してもやりたくないこと」 「奴隷になってもやりたくないこと」 「死んでもやりたくないこと」などなど。 例を出すなら 便所掃除はしたくない、営業はしたくない、 人に頭は下げたくない、理不尽なことはしたくない、 下らないことはしたくない、お金を使うことはしたくない、 悪いことはしたくない、人に従いたくない、 愛する人を悲しませたくない・・・。 こんなもんかな。 このブレインダンプの作業が一番キツイと思いますが、 ここで頭の中を空っぽにしておかないと後々の作業が 無意味になってしまうので、是非とも手を抜かずに やって下さいね。 2.マインドマップ これは有名なので知ってると思いますが、 トニー・ブザンって人が考えた思考ツールのことです。 これもやることはシンプル。 こんな感じでブレインダンプで出てきたものを 全部まとめていくだけです。 まとめ方には特にルールはありません。 「趣味」とか「勉強」とか「娯楽」とかそんな感じの カテゴリーでまとめていってもいいですし、 「行動」とか「能力」とかでも構いません。 とにかく何かしら自分の見やすい形で まとまっていることが大事なので、 自分が分かるようにやってくれれば大丈夫です。 何をやればいいのかが全く分からない場合は トニー・ブザン氏の本を買って読んで下さい。 なんなら立ち読みでも大丈夫です(笑) それぐらいで分かると思いますから。 ホントはホワイトボードか何かを使って目の前で 説明してあげられれば一番いいんですが、さすがに 動画を用意するには時間的にも環境的にも無理があるので 何か不明なことがあればメールなどで質問して下さいませ。 3.「問いかけ」そして「回想&妄想」 ここではマインドマップを眺めながら「問いかけ」と 「回想&妄想」を行います。 まずは「問いかけ」。 マインドマップに書いてある【やりたいこと】 【やりたくないこと】に対して「なぜ?」と 問い続けて下さい。 なぜお金持ちになりたいのか。 なぜ賢くなりたいのか。 なぜ営業をしたくないのか。 なぜ人に従いたくないのか。 これらを行うことで、書き出したマインドマップが 頭の中で繋がっていきます。 「お金持ちになりたいのは世界遺産を巡りたいから」とか 「賢くなりたいのは不完全性定理を理解したいから」という風に 各項の繋がり明確になってくるように「なぜ?」を 続けてください。 これをやってると、一見バラバラに見えていた各項が 実はほとんどが繋がっていたんだ、ということに 気付くと思います。 どれぐらいやればいいのか、という基準は特にありませんが、 目標が明確に見えるまではマインドマップを眺めながら 毎日モヤモヤさせといてもらえればいいかと。 ポイントはモヤモヤさせておくことです(笑) ガチガチに考えると逆効果ですから、 リラックスしてボヤーっと考えて下さいね。 で、これをやりつつ「回想&妄想」も同時にやります。 これは過去の出来事、中でも特に強く印象に残っていることを 回想して下さい。 部活でもいいし、バイトでもいいし、学校行事でもいいし、 会社での企画でもいいし、とにかく強く印象に残っていて 尚且つ楽しかったことを出来るだけ思い出すようにしましょう。 妄想の方は特に言うことはありませんけど、 自分が最も望むような状態を想像してニヤニヤしといて もらえればそれで十分です(笑) もちろんこれらをやっている最中はマインドマップを 眺めることをお忘れなく。 これら一連の流れを真面目にこなしてもらえれば マインドマップ完成から1週間以内には 何かしら自分の目標とするべきものが見つかります。 「なぜこんな方法で目標が見つかるのか」というのは 説明すると話が難しくなるので今は割愛させて下さい。 ちなみに「本当に真剣にやったけど見つからなかった」 という場合、それは純粋に【経験(体験)が足りない】 ということです。 今回紹介した方法はザックリ言ってしまえば 【自分の中】を洗い出す作業です。 なので、今回の作業では自分の中に無いものは 一切出てきません。 つまり。 自分の中を洗い出して目標が見つからなかったということは そもそも自分が人生の目標を作り出すような経験を していなかった、ということを意味するワケです。 ただ、これもある意味ので【答え】なんですね。 「今の自分には目標を立てることが出来ない」 という明確なことが分かったワケですから。 もちろんだからと言って目標を持つことを 諦めることはありません。 目標が見つからなかったのは純粋に経験が足りないだけなので 今からどんどん経験を積めばいいんです。 今までやったことのないこと、嫌って避けていたこと、 人がやらないようなこと、それらを積極的にやっていけば、 やり方によってはすぐに見つかります。 ま、こんなことを言っても実際に経験を増やすために 行動する人なんて1%もいないと思うんで、やったもん勝ち だと思いますよ。 信じる信じないはあなた次第。 やるやらないはあなた次第。 どうぞ、ご自由に。 あ、何か質問があればいつでも送って下さいねー。 ではではー。 ...more»
「われわれ」は一体何者なのか
  前回の記事を改めて読み直してみたんですが、 ちょっと急展開し過ぎた感が否めないですね(苦笑) まあ今はピンッとこなくても、僕の記事を読み続けてもられば それなりに実感が湧くようになると思います。 僕がどんだけ丁寧に説明したとしても現時点では 「いやいやいや、ヒーローとか言われても やっぱり理想論にしか聞こえないし」 という状態だと思うんですね、多分。 でもそれは仕方ないことなんです。 だって今まで「善」とか「倫理」とか「徳」とか そーゆーものについて真剣に考えたことなんて ほとんどの人は無いはずですから。 そんな人がいきなりヒーローがどうの理性的権威がどうの って言われてすんなり受け入れられるはずもありません。 これは別に軽蔑しているワケではなくて、われわれは そーゆー風に教育されてきた、ってことなんです。 「善?あぁ、一日一善は実践した方がいいかもね」 「道徳?あぁ、小学校の授業でやった覚えがあるかも」 「倫理?高校で習ったけど意味わかんなかった」 この程度の認識ですよね、普通に生活してたら。 それぐらいわれわれの「倫理」や「道徳」に対する意識は低い。 多くの哲学者が「善や道徳は人が幸せになるための要素だ」 ということを言ってるのにも関わらず、学校や会社では そんなことは誰も教えてくれません。 いや、「誰も知らない」と言った方が正しいかな。 だから教えたくても教えることが出来ない。 もちろん知らなくてもどうってことはありません。 むしろ僕の言ってることは「普通」に生きていくには 全く必要のないことばかり。 一般には【ムダ】と呼ばれる部類に属します。 「相対主義とかどうでもいいからFXで儲かる方法を教えてくれよ」 というのが世間の本音でしょう、恐らく。 そう思うなら僕のブログなんか読まなくていいんですよ。 第一このブログはそーゆー人の役には立てないですから。 僕のブログが役に立てるのは本当の意味で【人生を善くしたい】と 思っている人だけです。 しかしながら、この一連の記事は「ビジネス」という テーマに終着する予定になっています。 つまり、広い意味での「金儲け」。 「言ってることが矛盾してるんじゃないの?」 と思うかもしれませんが、その真意は今後の記事を 読み続けてもらえれば分かると思います。 今はまだ構想中なので実際にどんな内容になるかは 未定ですが、まあ気長に待ってて下さいませ。 絶対損はさせませんから。 さて。 いつも通りムダに長い前置きが終わったところで(笑) 本日の本題に入っていきましょう。 前回からいきなり【ヒーロー】という概念を登場させましたが、 なぜヒーローが必要なのか、という部分の説明が全然足りて いなかったので今回の記事で補足させて下さい。 前回僕は今の時代にヒーローが必要な理由を一言で 周りがヒーローの言うことを素直に (自らの望むこととして)聞き入れるから と書きました。 これは一見すると何も難しいことは語っていないように見えるのですが、 実はこの言葉はかなり奥が深いです。 特に「(自らの望むこととして)」という部分。 ここをサラッと読み流さないで欲しいんですね。 ヒーローが絶対的に尊敬されている存在だということは 前回も説明しましたから「素直に聞き入れる」という部分は 特に問題なく受け入れられる思います。 しかし、それがなんで「自らの望むこととして」なのかは 疑問に思って欲しいのです。 どうして一般人はイチローにボール拾いを頼まれたら 喜んで(自らの望むこととして)それに応じてしまうのか。 「イチローに理性的権威があるからでしょ」という答えは 端的には正しいですが、実はそれだけじゃ不十分なんですね。 理性的権威は1つのキッカケに過ぎません。 理性的権威が非常に重要な地位を占めていることには 違いありませんが、われわれがイチローの言葉を すんなりと受け入れてしまう理由はもっと深いところに 起源があるのです。 そんなワケで今回は 「われわれ(現代人)は一体何者なのか」 「われわれはどんな性質を持った人間なのか」 「われわれはどこから来て、どこへ向かっているのか」 という部分に焦点を当てて、書き綴っていこうかと 思います。 われわれは一体何者なのか。 分かりそうで全く分からない悩ましい問いです。 人は自分のことほど分かっていない、なんてことを よく言いますが、まったくその通りだな、と個人的にも思います。 「自分のことが知りたい」 恐らく僕ぐらいの年齢の人なら誰しも1度ぐらいは 考えたことがあるでしょう。 自分に向いている仕事は何なのか、自分のやりたいことは何なのか、 僕の周りの友人も同じように悩んでいました。 そしてミクシィのコミュニティなんかを見れば分かるように 今も悩み続けている人が何十万という単位で存在します。 みんな自分のことが見えないのです。 「神」や「理性」が絶対的なものと信じられていた時代は こんな悩みは存在しませんでした。 神の時代は、神の言葉に対して忠実に生きることが 人々にとっての全て。 その時代の人にとって自分なんてものはどうでもよく、 最終的に神に選ばれるかどうかが全てだったのです。 つまり、その時代の人は(生きている)自分に興味が なかったワケです。 また理性の時代は「いかに(理性的に)優れているか」が 問われた時代。 乱暴に言えば、成績のいいヤツほど幸せになれると 思われていた時代です。 「自分の在り方」とか「どんな人生を生きるのか」とか そんなものを考えるよりも東大出て大手企業で出世すりゃ 幸せになれるんだから頑張って勉強しなさい、と。 「将来が約束されている」という言葉はこの時代に よく使われた言葉だと思いますが、時代の価値観を うまく表してますよね。 要するに、この時代の人は自分について考える必要が なかったのです。 (難しく言えば決定論的だった、ということになります) しかしそんな「文明開化」「富国強兵」「年功序列」な時代は もう終わってしまいました。 いくら賢くて強くて自由でお金があっても、それが幸せとは 限らない。 そういった時代(価値観)の下でわれわれは生活しています。 そして最も重要なのは、今やわれわれには「神」や「理性」 という万人に共通した絶対的な【目標にすべきもの】が 存在しないということです。 つまり、何を目標にすればいいのかが分からない。 (なんのために生きているのかが分からない) だから「生きていること自体が不安」なのです。 例えば、あなたがマラソン大会に出たとしましょう。 走っている途中、突然主催者から 「実はこのマラソンのゴールはまだ決まっていないんです」 「ただし、立ち止まったらコーラ2リットルを鼻から 一気飲みさせて市中引き回し刑の後、即射殺しますので 頑張って走り続けて下さいねー」 なんてことを宣告されたら、どう思うでしょう? 極端ではありますが、これが今のわれわれの心境です。 人生という名のマラソンは生まれた瞬間にスタートし、 われわれは「生きている限り」走り続けなくてはなりません。 しかし多くの人にはゴール(目標)が決まっていない。 ゴールがないということは、走る目的もない、ということです。 だから 「このまま走り続けることに意味があるんだろうか??」 「でも立ち止まると殺されるし・・・」 と不安になる。 【死にたくない、でも今のまま生きてるのはもっと苦痛】 これが現在、多くの人が「無自覚なまま」抱いている 大きな不安なのです。 そこで。 この不安を解決するヒントを得るために、偉大な哲学者の 興味深い発言に注目してみたいと思います。 まずはニーチェ。 「人間の意志には目標が必要だ。 しかし、その意志は、何も目標が与えられないなら、 むしろ虚無を欲する」 「自分に命令する力の無い者ほど、自分を命令する者を求める」 続いてスペインの哲学者オルテガ。 「待命中の生は死以上の自己否定である。 なぜならば、生きるということは何か特定のことをなさなければ ならないということ(1つの任務を果たすこと)であり、 われわれがその生を何かに賭けることを避ける度合いに 比例して、われわれは自己の生を空虚にしていくのである。 全地球上から恐ろしい叫び声が湧き起こり、無数の犬の ほえ声のように天空にまで響き渡り、命令を下してくれる者、 仕事や義務を与えてくれる者の存在を求める日もそう遠くは ないであろう」 「創造的な生は、厳格な節制と、高い品格と、尊敬の意識を 鼓舞する絶えざる刺激が必要なのである。 創造的な生とは、エネルギッシュな生であり、それは 次のような2つの状況下においてのみ可能である。 すなわち、自らを支配するか、あるいは、われわれが 完全な支配権を認めた者が支配する世界に生きるか、 つまり、命令するか服従するかのいずれかである。 しかし服従するとは決して忍従することではなく、 (忍従は堕落である)その逆に、命ずる者を尊敬して その命令に従い、命令者と一体化し、その旗の下に 情熱を持って集まることなのである」 (オルテガ著【大衆の反逆】より引用) その他お馴染みの精神分析研究者エーリッヒ・フロムも ニーチェやオルテガと同じようなことを言っています。 非常に興味深いですよね。 ここでニーチェが言っているのは 人間には目標が必要で、目標がなければ死にたくなるし、 自分で目標をたてられないヤツは代わりに命令してくれる人が 欲しくてたまらない ってことです。 ちょっと前に「指示待ち人間」なんて言葉が流行りましたが 彼らは自らの目標を立てられない典型的なタイプに属します。 要は「考えてないだけ」なんですが、彼らには 何を考えればいいかさえ分からないから 何かしていないと不安なのです。 だから指示があると自分の任務が確認できてホッとする。 しかし、ずーーっと指示がないと自分が会社にいる意味が 感じられないし、周りからは「役立たず」という見られるし、 だからと言って何を考えればいいかも分からないしで 段々と辞めたくなっていって、いずれ辞めてしまう。 これは会社だから「辞める」で済みますが、 これが人生そのものなら「虚無(死)を欲する」、 つまり死にたくなって、いずれ死んで(自殺して)しまう。 だから人間には「目標」や「目標を与えてくれる人」が必要だ、 とニーチェは言っているのです。 んでもってオルテガが言ってるのは 命令を待っている(自ら目標を見出せない)状態で生きている というのは死ぬ以上に自分を苦しめていることになる なぜなら、生きるということは何かをなすことだから われわれが生きる任務(目標)を持てないままでいると それはどんどん自分の人生を虚しくしていくのと 同じことだからである 自殺したくなる人が増え、生きる目標を与えてくれる 救世主をわれわれが求め始める日もそう遠くはないだろう われわれが「善く生きる」には、誰かの命令に従うか、 自分で自分に命令するか、どちらかしかない しかし誰かに従うというのは、嫌々従うのではなく、 「この人になら命令されてもいい」と思うような人を選び、 自らの望むものとしてその人の命令(指示)に情熱を注ぎ、 一緒に実現していくことである ってこと。 つまり僕が何を言いたかったのかはもうお分かりでしょう。 それは われわれが人生の不安から抜け出すためには、 まず自分が不安であることを自覚し、自身がヒーローになる、 もしくは自らの認めるヒーローを見つけ、指示を仰がなければならない ということです。 やっとまとまった(笑) これだけ話せば伝わったかなー(苦笑)。 なんで僕が相対主義の話ばかり取り上げるのか。 なんで僕が理性的権威が相対主義の世界を 救うキーワードだと言ったのか。 なんで今の時代にはヒーローが必要なのか。 全てはこういった前提があってのことだったのです。 「自己分析」とか「心理テスト」とか「自分探し」とか 「血液型説明賞」とか「風水」とか「占い」とか 「スピリチュアル」とか、そーゆーものが日本で流行るのは 実は上で話したようなことが大きく関係しています。 表面上は「ただ楽しいから」だと思われていますが、 こうやってちゃんと勉強すれば、これらが 【無自覚な不安を解消するための行動】 として明確に理解できるワケです。 みんな不安だから自分のことを少しでも 「知った気になって」安心したいんですよ。 ホントはその前に自分が不安だということを 自覚しなくちゃ意味ないんですけどねー。 ま、何かの参考になれば。 ではではー♪ ...more»
bottom-img

Fatal error: Uncaught Error: Call to undefined function ereg_replace() in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code:1 Stack trace: #0 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1): eval() #1 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(688): require_once('/home/philosoph...') #2 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(647): load_template('/home/philosoph...', true) #3 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/general-template.php(76): locate_template(Array, true) #4 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/archive.php(151): get_footer() #5 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template-loader.php(74): include('/home/philosoph...') #6 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-blog-header.php(19): require_once('/home/ph in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code on line 1