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「われわれ」は一体何者なのか
  前回の記事を改めて読み直してみたんですが、 ちょっと急展開し過ぎた感が否めないですね(苦笑) まあ今はピンッとこなくても、僕の記事を読み続けてもられば それなりに実感が湧くようになると思います。 僕がどんだけ丁寧に説明したとしても現時点では 「いやいやいや、ヒーローとか言われても やっぱり理想論にしか聞こえないし」 という状態だと思うんですね、多分。 でもそれは仕方ないことなんです。 だって今まで「善」とか「倫理」とか「徳」とか そーゆーものについて真剣に考えたことなんて ほとんどの人は無いはずですから。 そんな人がいきなりヒーローがどうの理性的権威がどうの って言われてすんなり受け入れられるはずもありません。 これは別に軽蔑しているワケではなくて、われわれは そーゆー風に教育されてきた、ってことなんです。 「善?あぁ、一日一善は実践した方がいいかもね」 「道徳?あぁ、小学校の授業でやった覚えがあるかも」 「倫理?高校で習ったけど意味わかんなかった」 この程度の認識ですよね、普通に生活してたら。 それぐらいわれわれの「倫理」や「道徳」に対する意識は低い。 多くの哲学者が「善や道徳は人が幸せになるための要素だ」 ということを言ってるのにも関わらず、学校や会社では そんなことは誰も教えてくれません。 いや、「誰も知らない」と言った方が正しいかな。 だから教えたくても教えることが出来ない。 もちろん知らなくてもどうってことはありません。 むしろ僕の言ってることは「普通」に生きていくには 全く必要のないことばかり。 一般には【ムダ】と呼ばれる部類に属します。 「相対主義とかどうでもいいからFXで儲かる方法を教えてくれよ」 というのが世間の本音でしょう、恐らく。 そう思うなら僕のブログなんか読まなくていいんですよ。 第一このブログはそーゆー人の役には立てないですから。 僕のブログが役に立てるのは本当の意味で【人生を善くしたい】と 思っている人だけです。 しかしながら、この一連の記事は「ビジネス」という テーマに終着する予定になっています。 つまり、広い意味での「金儲け」。 「言ってることが矛盾してるんじゃないの?」 と思うかもしれませんが、その真意は今後の記事を 読み続けてもらえれば分かると思います。 今はまだ構想中なので実際にどんな内容になるかは 未定ですが、まあ気長に待ってて下さいませ。 絶対損はさせませんから。 さて。 いつも通りムダに長い前置きが終わったところで(笑) 本日の本題に入っていきましょう。 前回からいきなり【ヒーロー】という概念を登場させましたが、 なぜヒーローが必要なのか、という部分の説明が全然足りて いなかったので今回の記事で補足させて下さい。 前回僕は今の時代にヒーローが必要な理由を一言で 周りがヒーローの言うことを素直に (自らの望むこととして)聞き入れるから と書きました。 これは一見すると何も難しいことは語っていないように見えるのですが、 実はこの言葉はかなり奥が深いです。 特に「(自らの望むこととして)」という部分。 ここをサラッと読み流さないで欲しいんですね。 ヒーローが絶対的に尊敬されている存在だということは 前回も説明しましたから「素直に聞き入れる」という部分は 特に問題なく受け入れられる思います。 しかし、それがなんで「自らの望むこととして」なのかは 疑問に思って欲しいのです。 どうして一般人はイチローにボール拾いを頼まれたら 喜んで(自らの望むこととして)それに応じてしまうのか。 「イチローに理性的権威があるからでしょ」という答えは 端的には正しいですが、実はそれだけじゃ不十分なんですね。 理性的権威は1つのキッカケに過ぎません。 理性的権威が非常に重要な地位を占めていることには 違いありませんが、われわれがイチローの言葉を すんなりと受け入れてしまう理由はもっと深いところに 起源があるのです。 そんなワケで今回は 「われわれ(現代人)は一体何者なのか」 「われわれはどんな性質を持った人間なのか」 「われわれはどこから来て、どこへ向かっているのか」 という部分に焦点を当てて、書き綴っていこうかと 思います。 われわれは一体何者なのか。 分かりそうで全く分からない悩ましい問いです。 人は自分のことほど分かっていない、なんてことを よく言いますが、まったくその通りだな、と個人的にも思います。 「自分のことが知りたい」 恐らく僕ぐらいの年齢の人なら誰しも1度ぐらいは 考えたことがあるでしょう。 自分に向いている仕事は何なのか、自分のやりたいことは何なのか、 僕の周りの友人も同じように悩んでいました。 そしてミクシィのコミュニティなんかを見れば分かるように 今も悩み続けている人が何十万という単位で存在します。 みんな自分のことが見えないのです。 「神」や「理性」が絶対的なものと信じられていた時代は こんな悩みは存在しませんでした。 神の時代は、神の言葉に対して忠実に生きることが 人々にとっての全て。 その時代の人にとって自分なんてものはどうでもよく、 最終的に神に選ばれるかどうかが全てだったのです。 つまり、その時代の人は(生きている)自分に興味が なかったワケです。 また理性の時代は「いかに(理性的に)優れているか」が 問われた時代。 乱暴に言えば、成績のいいヤツほど幸せになれると 思われていた時代です。 「自分の在り方」とか「どんな人生を生きるのか」とか そんなものを考えるよりも東大出て大手企業で出世すりゃ 幸せになれるんだから頑張って勉強しなさい、と。 「将来が約束されている」という言葉はこの時代に よく使われた言葉だと思いますが、時代の価値観を うまく表してますよね。 要するに、この時代の人は自分について考える必要が なかったのです。 (難しく言えば決定論的だった、ということになります) しかしそんな「文明開化」「富国強兵」「年功序列」な時代は もう終わってしまいました。 いくら賢くて強くて自由でお金があっても、それが幸せとは 限らない。 そういった時代(価値観)の下でわれわれは生活しています。 そして最も重要なのは、今やわれわれには「神」や「理性」 という万人に共通した絶対的な【目標にすべきもの】が 存在しないということです。 つまり、何を目標にすればいいのかが分からない。 (なんのために生きているのかが分からない) だから「生きていること自体が不安」なのです。 例えば、あなたがマラソン大会に出たとしましょう。 走っている途中、突然主催者から 「実はこのマラソンのゴールはまだ決まっていないんです」 「ただし、立ち止まったらコーラ2リットルを鼻から 一気飲みさせて市中引き回し刑の後、即射殺しますので 頑張って走り続けて下さいねー」 なんてことを宣告されたら、どう思うでしょう? 極端ではありますが、これが今のわれわれの心境です。 人生という名のマラソンは生まれた瞬間にスタートし、 われわれは「生きている限り」走り続けなくてはなりません。 しかし多くの人にはゴール(目標)が決まっていない。 ゴールがないということは、走る目的もない、ということです。 だから 「このまま走り続けることに意味があるんだろうか??」 「でも立ち止まると殺されるし・・・」 と不安になる。 【死にたくない、でも今のまま生きてるのはもっと苦痛】 これが現在、多くの人が「無自覚なまま」抱いている 大きな不安なのです。 そこで。 この不安を解決するヒントを得るために、偉大な哲学者の 興味深い発言に注目してみたいと思います。 まずはニーチェ。 「人間の意志には目標が必要だ。 しかし、その意志は、何も目標が与えられないなら、 むしろ虚無を欲する」 「自分に命令する力の無い者ほど、自分を命令する者を求める」 続いてスペインの哲学者オルテガ。 「待命中の生は死以上の自己否定である。 なぜならば、生きるということは何か特定のことをなさなければ ならないということ(1つの任務を果たすこと)であり、 われわれがその生を何かに賭けることを避ける度合いに 比例して、われわれは自己の生を空虚にしていくのである。 全地球上から恐ろしい叫び声が湧き起こり、無数の犬の ほえ声のように天空にまで響き渡り、命令を下してくれる者、 仕事や義務を与えてくれる者の存在を求める日もそう遠くは ないであろう」 「創造的な生は、厳格な節制と、高い品格と、尊敬の意識を 鼓舞する絶えざる刺激が必要なのである。 創造的な生とは、エネルギッシュな生であり、それは 次のような2つの状況下においてのみ可能である。 すなわち、自らを支配するか、あるいは、われわれが 完全な支配権を認めた者が支配する世界に生きるか、 つまり、命令するか服従するかのいずれかである。 しかし服従するとは決して忍従することではなく、 (忍従は堕落である)その逆に、命ずる者を尊敬して その命令に従い、命令者と一体化し、その旗の下に 情熱を持って集まることなのである」 (オルテガ著【大衆の反逆】より引用) その他お馴染みの精神分析研究者エーリッヒ・フロムも ニーチェやオルテガと同じようなことを言っています。 非常に興味深いですよね。 ここでニーチェが言っているのは 人間には目標が必要で、目標がなければ死にたくなるし、 自分で目標をたてられないヤツは代わりに命令してくれる人が 欲しくてたまらない ってことです。 ちょっと前に「指示待ち人間」なんて言葉が流行りましたが 彼らは自らの目標を立てられない典型的なタイプに属します。 要は「考えてないだけ」なんですが、彼らには 何を考えればいいかさえ分からないから 何かしていないと不安なのです。 だから指示があると自分の任務が確認できてホッとする。 しかし、ずーーっと指示がないと自分が会社にいる意味が 感じられないし、周りからは「役立たず」という見られるし、 だからと言って何を考えればいいかも分からないしで 段々と辞めたくなっていって、いずれ辞めてしまう。 これは会社だから「辞める」で済みますが、 これが人生そのものなら「虚無(死)を欲する」、 つまり死にたくなって、いずれ死んで(自殺して)しまう。 だから人間には「目標」や「目標を与えてくれる人」が必要だ、 とニーチェは言っているのです。 んでもってオルテガが言ってるのは 命令を待っている(自ら目標を見出せない)状態で生きている というのは死ぬ以上に自分を苦しめていることになる なぜなら、生きるということは何かをなすことだから われわれが生きる任務(目標)を持てないままでいると それはどんどん自分の人生を虚しくしていくのと 同じことだからである 自殺したくなる人が増え、生きる目標を与えてくれる 救世主をわれわれが求め始める日もそう遠くはないだろう われわれが「善く生きる」には、誰かの命令に従うか、 自分で自分に命令するか、どちらかしかない しかし誰かに従うというのは、嫌々従うのではなく、 「この人になら命令されてもいい」と思うような人を選び、 自らの望むものとしてその人の命令(指示)に情熱を注ぎ、 一緒に実現していくことである ってこと。 つまり僕が何を言いたかったのかはもうお分かりでしょう。 それは われわれが人生の不安から抜け出すためには、 まず自分が不安であることを自覚し、自身がヒーローになる、 もしくは自らの認めるヒーローを見つけ、指示を仰がなければならない ということです。 やっとまとまった(笑) これだけ話せば伝わったかなー(苦笑)。 なんで僕が相対主義の話ばかり取り上げるのか。 なんで僕が理性的権威が相対主義の世界を 救うキーワードだと言ったのか。 なんで今の時代にはヒーローが必要なのか。 全てはこういった前提があってのことだったのです。 「自己分析」とか「心理テスト」とか「自分探し」とか 「血液型説明賞」とか「風水」とか「占い」とか 「スピリチュアル」とか、そーゆーものが日本で流行るのは 実は上で話したようなことが大きく関係しています。 表面上は「ただ楽しいから」だと思われていますが、 こうやってちゃんと勉強すれば、これらが 【無自覚な不安を解消するための行動】 として明確に理解できるワケです。 みんな不安だから自分のことを少しでも 「知った気になって」安心したいんですよ。 ホントはその前に自分が不安だということを 自覚しなくちゃ意味ないんですけどねー。 ま、何かの参考になれば。 ではではー♪ ...more»
理性的権威とヒーロー
  今日はいよいよ理性的権威についての話に入っていきます。 いよいよとか言いながら楽しみにされたなかったら ちょっと悲しいけど(苦笑) まあそれはともかく。 ここから話は急展開するので振り落とされないように ご注意を(笑) 僕は前回の【民主主義国家の末路】で理性的権威が 相対主義の世界を救う(?)ためのキーワードだと言いました。 「救う」なんて言っちゃうとやや大袈裟な感がありますが、 それでも日本における人間関係や文化が徐々に 崩壊しつつあるのは恐らく誰もが感じているでしょうし、 自殺者や殺人鬼が増加の一途を辿っているのは 否定できない事実です。 それをなんとか出来ないか、と考えたら やっぱり理性的権威溢れる世界を 作っていくことしかないよなー、と僕は思ったんですね。 もちろんこれはただの理想論ではありません。 以前のベーシックインカム関連の記事を読んで頂ければ 分かると思いますが、僕は基本的に理想論は嫌いです。 嫌いというか、避けている、と言った方が正しいかもしれません。 理想を語るのは楽しいですし、理想を目指すのは 大切なことだとは思うのですが、多くの場合は 理想を理想論のまま終わらしてしまう、という過ちを 犯しがちです。 これは言い換えれば、理想は机上の空論で終わっちゃうことが 往々にしてあるということを指します。 机上の空論で終わっちゃ意味ないんですよ、 少なくとも僕にとっては。 そして多くの哲学が勘違いされているのも 実はこの点なのです。 この点とは 「哲学の議論は現実と乖離していて実際には何の役にも立たない」 という偏見のこと。 つまり 「哲学って理想論をひたすら議論してるだけじゃないの?」 と。 これは大きな間違いです。 理想論と哲学は全然違います。 なぜなら理想論は理想を拡大させるだけの論なのに対して、 哲学は理想を現実に近付ける試みだからです。 だから「幸せとは何か」とか「自由とは何か」とか 一見無駄としか思えないことを一生懸命考えたりするワケです。 ただその一生懸命さゆえに、使っている用語や 話している内容が厳密になり過ぎ、現実世界と 乖離しているように見えてしまうのが哲学なのです。 そこを勘違いしている人があまりに多いような気がして なりません。 哲学者が「人生とは?」と問うのは、 人生をより有意義に生きたいと思っているからです。 そして何より「全ての人の人生を有意義にしたい!」 そう思って彼らは無駄に見えるようなことを 毎日考えて続けているのです。 これだけは是非、覚えておいて欲しいと思います。 さあ、ここからがやっと本題です。 まずは話を戻しましょう。 僕が理性的権威をキーワードに置いたのは それを駆使すれば相対主義の世界でも「ある意味で」 絶対的な【善】を定義できると思っているからです。 相対主義の世界では、みんながバラバラの価値観を持ち、 1つの絶対的な「善」や「悪」なるものは存在しません。 もちろんそれ以前の世界でも事実上絶対的な「善」というのは 存在しなかったのですが、理念の上では存在していました。 それが「神」であり「理性」であったワケです。 中世ルネッサンス期までは「神」は絶対に善であり、 神が意図することは全て善なのだ、という前提がありました。 また近代においては「理性」こそが絶対の善であり、 「理」つまり論理や科学を追及していくことが 人々の幸せに繋がる、すなわち「善」だと思われて いたのです。 しかし文明が進歩するにつれて、神も理性も絶対ではない、 ということを人は知ってしまった。 存在するかどうかも分からない神。 自分さえも欺く理性。 どっちも信用できねーよ、と。 そして「結局信じれられるのは自分しかいないんじゃないの?」 という思いから相対主義が生まれたのです。 通常、相対主義における善は各々の道徳・倫理に依存します。 これは「自分が善だと思ったらそれが善」ということです。 極端な話、その人が善だと思っているなら、 人を殺しまくったとしても それが善だということになります。 実際そーゆー事件がたくさん起こってますよね。 「ムカついたから殺した」みたいな。 普通の感覚を持つ人からしたら 「いやいや、ムカついたって何よ」 という話になるワケですが、そーゆー常識からも ある意味解放されてしまったのが現代人なワケです。 これが相対主義の世界。 ここであなたが 「さすがにこのままはじゃマズいんじゃないの?」 という感覚を持ってくれたら僕の思惑通りです(笑) じゃあどうやったらバラバラになっている危険な【善】を まともな【善】に統一していけるでしょうか? そこで登場するのが、理性的権威です。 やっと出ました。 前置きが長い!というツッコミはスルーしつつ話を進めます。 理性的権威の根源は尊敬や感謝だというのは 再三説明している通りです。 前回の記事ではイチローのボール拾いなら誰もが 喜んで引き受ける、という例を出しましたが、 もしイチロー的な人が身近に溢れていたとしたらどうでしょう? 例えがイチローだとちょっと分かり難いかな。 もうちょい抽象的に、自分の尊敬する人が身の周りに 溢れていたとしたら・・・というのを考えてみて下さい。 人によって尊敬出来る人はそれぞれだと思いますが、 尊敬している人に囲まれてイヤな人はまずいないと 思います。 むしろ自分の尊敬する人に囲まれるなんて、 なんかウキウキしません? もちろん自分は周りの人を尊敬しているワケですから 周りの人は何かしら自分に対して嬉しいことを してくれる人であったり、自分のために注意や指導を してくれる人だということです。 ちょっと恐いけど、何が壊れても いつも余裕で修理しちゃう父。 自分の知らないことをたくさん教えてくれる祖父。 何を作っても美味しい祖母。 誰よりも深い愛を与えてくれる母。 誰もが尊敬でき、感謝の気持ちが絶えない状態。 これが理性的権威が溢れている状態です。 「誰もが尊敬でき、誰に何を言われても喜んで引き受ける状態」 と言ってもいいかもしれません。 ただ、 「そんなの理想の世界だよ」 と思いませんでした? 確かにこれだけならただの理想です。 「こうなればいいなー」で終わっちゃえば、の話ですが。 つまり終わらないってことなんですけどね。 そこでまず手始めに、理性的権威をどう使って 統一した【善】を作り出していくのかを説明していきます。 ホントは「統一」というとやや語弊があるんですが まあそれは追々わかってくるかと。 僕の考えには、理性的権威を持つ者が行うことは 全てが【善】である、という前提があります。 厳密には、ある人が定義している【ヒーロー】という 概念があって、その【ヒーロー】の行うことが【善】 だという意味です。 ヒーローとは、一般に知られている正義のヒーロー みたいなテキトーなものではなく、もっとリアルに 自分の所属するコミュニティ(共同体)の理解を得つつも、 自分自身の信じる善なるものを発信していける存在 という概念です。 コミュニティというのは、一昔前なら地域とか家族とか そういった物理的なものだけを指したのですが、 昨今においては同じ趣味とか同じ職種とか同じ目標とか そういったカテゴリー的なものの意味合いの方が強いです。 ミクシィのコミュニティなんかがいい例ですね。 言ってしまえば、ヒーローがいれば そのコミュニティ内における【善】が確立できる、 と僕は思っているワケです。 なんでそう思うのかというと、一言で言えば 【周りがヒーローの言うことを素直に (自らの望むこととして)聞き入れるから】 ちょっと考えてみましょう。 自分の尊敬する師匠が 「空き缶のポイ捨てなんてしてたら腕が鈍るぞ」 と言ったとしたら、弟子はどういう行動を取ると思います? 自分の尊敬する先生が 「勉強なんてしなくていい!」 って言ったら「あ、勉強なんてしなくてもいいだ」って 素直に思いません? あの先生が言ってたんだから間違いない!って。 ってことは、ヒーロー的な人が 「生きる意味を考え続けることが【善】なんだ」 って言ったら、どうなるのかな?という話です。 ヒーローの概念で大事なのは 【コミュニティの理解を得つつ】という部分。 コミュニティの理解を得るとは、家族内や会社内 (つまりコミュニティ)での常識やマナーを守りつつ、 信頼や信用が積み上げられた状態を指します。 要するに、コミュニティの人から絶対的に尊敬されている状態が ヒーローの大前提だということです。 そして尚且つ、自分の中に明確な【善】なるものを持っている。 これが一番分かり難いと思いますが、考え過ぎずに 「人を殺しちゃいけない」とか「人助けをしましょう」とか そういった善なる心を備えている、ってことです。 まとめると あるコミュニティに対して強力な理性的権威を持ち、 尚且つ自分自身の善なるものを明確に打ち出していける 存在がいれば、そのコミュニティにおける統一された【善】を 確立することは可能ではないか と。 僕はそう考えています。 (「統一」という言葉に語弊があると言ったのはこーゆー意味です) ということは、次はその善を指し示す存在であるヒーローを どうやって作る(?)のか、という話になります。 なりますが。 これ以上長くなると記事をアップする時期が大幅に 遅れてしまいそうなので、一旦ここで区切って 投稿することにします。 続きはまた次回以降。 ではではー♪ ...more»
民主主義国家の末路
  この頃の政局は荒れまくってますねー。 しかし、あの【麻生おろし】ってネーミングは どうなんでしょ?? 仮にも「自分たちが選んだ」日本の代表である総理大臣を あんな風に言っちゃうってのは、ちょっと、ねぇ・・・。 僕はどっちかというとイケてない総理を選んだ方に 責任があるんじゃないかと思う一派なんですが、 どうやら政府の方々やメディアの自覚は薄いみたいです。 そういえば、政局は自民か民主か、みたいになってますけど、 この二元論的な【アレかコレか】という考え方自体が 誤りだということにそろそろわれわれは気付かないと いけません。 もうそんな近代的な時代はとっくに終わったのですから。 今はむしろ【アレはアレ、コレはコレ】という時代。 つまり、決められた選択肢から選ぶのではなく、 自分で正しいと思う選択肢を作り出さなければ ならない時代だということです。 今の日本の政治システムでは決められた選択肢(政党)から 選ぶしか方法はありませんが、それがそもそも既に時代遅れなのです。 また国が地方すべてを一元的に管理しようっていうのも 近代的な考え方ですから、これも時代遅れ。 (今は近代の次、ポストモダンの時代です) 橋本知事や東国原知事なんかはこの辺のことを 危惧しているっぽいですが(だから地方分権を 推し進めようとしているのでしょうが) まだまだ日本の行く末は不安定ですねー。 さてさて、冒頭から珍しく政治ネタに触れたところで 今回は政治の本体である【国家】に関わる話を していきたいと思います。 国家と言えばプラトンです。 プラトンの著作【国家】はあまりにも有名ですね。 読んだことはなくても、名前ぐらいは聞いたことが あるんじゃないでしょうか?? 内容はザックリ言えば 「正義って何なんだろう?」 「個人の正義を考えてたら長くなりそうだから 個人の集まりである国家の正義を最初に考えて それを最終的に個人に当てはめよう」 という感じ。 そんな話が延々会話形式で進んでいきます。 その中でプラトンは民主制(民主主義)について 言及しているんですが、これがねー、なんというか 面白いことに今の日本の状況そのまんまなんですよ。 思わず 「すげーよ、プラトン」 と呟いてしまうほどに、そのまんま(笑) プラトンは民主制について 民主制は、〈自由〉を善と規定する。 他方で民主制は、支配者に従順な者たちを、 自分から奴隷になるようなつまらぬやつらだと 辱しめるだろう。 個人的にも公共的にも賞賛され尊敬されるのは、 支配される人々に似たような支配者たち、 支配者に似たような被支配者たちだということになる。 このような国家においては、必然的に、自由の風潮はすみずみにまで 行きわたって、その極限に至らざるをえないのではないかね? たとえば父親は子供に似た人間となるように、また息子たちを 恐れるように習慣づけられ、他方、息子は父親に似た人間となり、 両親の前に恥じる気持ちも恐れる気持ちもなくなる。 自由であるためにね。 そして居留民は市民と、市民は居留民と、平等化されて 同じような人間となり、外人もまた同様だということになる。 このような状況のなかでは、先生は生徒を恐れてご機嫌をとり、 生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育掛りの者に対しても同様の 態度をとる。 一般に、若者たちは年長者と対等に振る舞って、言葉においても 年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、 面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、 若者たちを真似て機智や冗談でいっぱいの人間となる (プラトン著【国家】下巻より引用) って言ってます。 つまり 「民主制は自分勝手で個性のないバカな人間を生み出す」 ということです。 まさに前回僕が解説した相対主義の世の中そのものですよね? そしてもう分かったと思いますが、民主主義こそが 相対主義を生み出した原因だったということです。 われわれは通常、民主主義国家における自由や平等が 「良いもの」かのような教育を受けます。 社会主義のソ連は崩壊したし、更に社会主義が行き過ぎた 共産主義は中国みたいになってしまう。 だからアメリカやヨーロッパ諸国や日本のような自由と平等が 尊重される民主主義が最も優れた政策なんだ、と。 「最も優れた」とは言わないまでも、それに近いニュアンスで 教育を受けることには違いありません。 しかし、その「良いもの」を突き詰めた結果がコレです。 われわれは自由と平等を手に入れた代償として、 民主主義が堕落した個性のない傲慢で凶暴な野蛮人を生み出す ということを身をもって証明してしまったのです。 かつて、ハイデガーの弟子であるハンナ・アレントは没個性こそが 悪を生むと言い、トクヴィルは多数者の専制(民主主義)と平等が 思いやりのないバカを生むと言いました。 そして、プラトンも何千年も前に現在の状況を予見していた。 民主主義の末路は、それほど自明だったワケです。 さてさて。 民主主義の真実を知ってしまった今、われわれは 何を信じて生きていけばいいのでしょう? 今のままでは日本はバカと自己中と野蛮人の温床と 化してしまう。 いや、もう既に温床だと言ってもいいでしょう。 われわれはこんな人間であふれた世界を 望んではいないはずです。 出来ることなら、賢くて思いやりのある人間で溢れた世界を つくっていきたい。 少なくとも僕はそう思っていますし、ほとんどの人も そう望んでいると僕は信じています。 じゃあ、そんな世界を作るにはどうすればいいのか。 あくまでも僕個人の考えですが、この問題を解決する キーワードとなるのが、エーリッヒ・フロムが 「自由からの逃走」という著書の中で定義している 理性的権威 だと思っています。 理性的権威というのは、尊敬とか感謝とか 人々のそういった感情から生まれてくる権威のことです。 例えば、会社に尊敬出来る上司がいたとしましょう。 仕事は早いし、気遣いも細かい。 気前は良いし、部下にも大人気。 昼ご飯もいつもおごってくれる。 そんな神様のような上司が「この仕事、手伝ってくれない?」 と頼んできて断る人はまずいないでしょう。 これは上司だから断れないという感情もあるかもしれませんが、 それ以上に【この人の頼みなら喜んで!】という感情も あると思うんですね。 そういう感情を起こさせる権威が理性的権威です。 イチローがボール拾いを頼んで断る一般人がいるか、 って話ですよ、要するに(笑) みんな喜んでボール拾いするだろう、と。 この場合、一般人はイチローの理性的権威に服従した、 ということになります。 服従って言うとイメージ悪いですけど、現実には 「喜んで引き受けた」ってことです。 通常、権威とは圧力的でイヤなイメージがありますが、 理性的権威はむしろ喜んで受け入れたくなるような そーゆー感情を引き起こすものです。 さて、この理性的権威が今の時代にどう役に立つのか。 その辺の話は乞うご期待(笑) ではではー。 ...more»
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