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Tag archives for 現代美術

「OSAKA ART COMPLEX vol.5」と「大阪ベストコレクション」にて
ども、ペスです。 ここのところ、少しずつですがブログにコメントがつくようになってきました。 今はまだ「大エルミタージュ美術館展」の記事だけですが、それでもやっぱり 反応があるというのは嬉しいもんです。 気が向いたらで構いませんので、もしよければ時間のあるときにでも コメントしていって下さいね。 ちなみに、このブログはテンプレートの関係上、コメントの記入欄に メールアドレスを記入しなければならないようになっていますが、 そのアドレスがブログ上で公開されることはありません。 また僕から(無断で)そのアドレスにメールを送るようなこともありませんので、 その点はご心配なさらずに。 ではでは、本編に入ります。   大阪の5つの画廊が連携して行っている「OSAKA ART COMPLEX」というイベントを、 HUBchariという自転車貸出サービスを利用して、ぐるっと回ってきました。 イベントと言っても、特定のイベント日以外はそれぞれの画廊が普通に 開いているだけで、これといって何があるというワケではありません。 行ってきたのはYOD Gallery、TEZUKAYAMA Gallery、Yoshimi Arts、展現舎の4つ。 僕はよくYOD Galleryに出没するのですが、今回もそこで自転車を借りて出発しました。 最初に行ったのは大阪の堀江にあるTEZUKAYAMA Galleryという画廊。 ここでは上原浩子という方の作品を見たのですが、彼女の作品を見て1つ感じたことが あります。 それは、ここ最近、動的なものを表現した作品が増えてきている、ということです。 国立国際の「宮永愛子氏」の作品や兵庫県立美術館の「現代絵画のいま」の作品、 「アブストラと12人の芸術家」の作品を振り返ってみると、どうもそういう気配を 感じます。 例えば宮永愛子氏の作品は実際に作品が徐々に昇華していくという意味で動的だし、 「現代絵画のいま」の作家の方々が言っていた不確定や曖昧という言葉は、定まらない という意味で動的です。 「アブストラと12人の芸術家」には電気を使った作品があったし、上原浩子氏の作品は 今にも動き出しそうな雰囲気が作品から出ています。 そういった見方をしていくと、動画という直接的な方法以外にも、違う角度から動きを 表現している作品が増えてきているように思えるのです。   動的とは、つねに変化し続けているということです。 それはわれわれの生きる世界では当たり前のことであり、すべてのことに 当てはまります。 こうして立ち止まっている間にも地球はまわり、日々細胞は生まれ変わり、 心臓は血液を送り続けています。 それだけではなく、目の前にあるパソコンも今座っている椅子も、 目には見えないかもしれませんが、小さく変化し続けている。 この世に変化しないものなんて何1つありません。 だったらどうしてそんな当たり前のことが芸術で表現されなければ ならなかったのか。 それはその現実とは反対に、われわれの目には世界が静止したものとして 写っているからです。   親も会社も国も、ずっとこのまま存在し続ける。 そういう感覚が僕らにはあります。 しかし、それらは決して永遠ではありません。 一定の条件を満たせば国ですらも簡単に破綻する。 それが歴史的に何度も証明されてきた事実なのです。 ましてや親や自分はいつ死ぬか分からないし、 会社だって今は安泰だったとしても急にリーマンショックのようなことが 起これば一夜にして倒産することもあり得ます。 われわれはこういった現実を知っているようで、実際には右から左へ 聞き流しており、それを自分のこととして受け入れていないのです。 あれだけ大きな経営破綻があっても、あれだけ大きな震災があっても、 ヨーロッパが消えてなくなるぐらいの債務危機があっても、 何の対策も立てていない人間がほとんどであるということが、 何よりもそれを証明しています。 芸術家自身がこういったことを考えているかどうかはともかく、 彼らの作品はわれわれのそういった静止した態度に対する 問いかけなのではないでしょうか。 世界はつねに動いている。 今目の前にあるものも、いつ消えるか分からない。 われわれが分かっているようでまったく受け入れていない、 そういう当たり前のことを作品として表現することによって、 今の時代に欠けた感覚を刺激しようとしているのが 彼らなんだと思います。   「OSAKA ART COMPLEX」の話からは大きく脱線しましたが、 実はこのイベントについてはこれ以上話すことがありません(苦笑) つまりそれぐらい「アレだった」ということなのですが、 自転車を借りたついでに寄った「大阪ベストコレクション」の展示は よかったです。 個人的にはルネ・マグリッド「レディ・メイドの花束」と アルベルト・ジャコメッティ「鼻」がなんとなく気に入りました。 ただ前者はともかく、後者はなんで気に入ったのか自分でもよく分かりません。 その作品を見ながらずっと 「なんでこんなに鼻を長くしたんだろ?」 ということを考えていたら、初恋の始まりのような感覚になっていました(笑) なんだか分からないけど気になるあの人、的な(笑) まあそんなアホな話はどうでもいいんですが、さすがコレクション (自腹を切った)作品というだけあって、いいものが揃っています。 一般投票一位の佐伯祐三や小磯良平、靉光、福岡道雄、横尾忠則、森村泰昌、 草間彌生、田中敦子、ゲルハルト・リヒター、サルバドール・ダリ、 アメデオ・モディリアーニなど、あるのは美術館に常設展示されているような 作品ばかりです。 個人的にサルバドール・ダリ「幽霊と幻影」はダリの作品の中では イマイチのような気がしますが、あまり細かいことは気にしないで おきましょう。 残念ながら先週末でこの展示は終わってしまったのですが、大阪は他にも 色々面白い作品を持っているようなので、また機会があれば足を運んでみて 下さいませ。 追伸: 大阪で現代美術を見たいなら、YOD GalleryとTEZUKAYAMA Galleryをオススメして おきます。   ...more»
美術館「えき」KYOTO「山口晃展」にて ~百貨店の裏事情~
ども、ペスです。 以前滋賀県立近代美術館の常設展で見かけた山口晃氏の展覧会が 京都駅ビルの伊勢丹で行われているということで見に行ってきました。 サブタイトルに「老若男女ご覧あれ」と書かれているように、 彼の描く絵は誰が見ても楽しめる絶妙なバランスを持っており、 そのセンスの良さには感心させられます。 ふざけたものに真面目に取り組んだ作品。 これが彼の絵に対する僕の印象です。 馬をかたどったバイクに侍が乗っていたり、合戦場に女子高生がいたり、 高層ビルに瓦屋根がついていたり、発想自体は子供っぽく ふざけたものなのですが、描く技術の高さやディテールの繊細さゆえに、 まったくぶざけているように見えないという不思議さが彼の絵にはあります。 それは芸術性とはまた別で、どちらかと言えばニコニコ動画で 「才能の無駄使い」と呼ばれているものや宮藤官九朗氏の作品が近い と言えば伝わるでしょうか。 コンセプトはふざけているけど、作品の質は極めて高い。 こういう感じです。 やろうとしていることはシュールレアリズムに近い気もしなくは ないですが、そう捉えてしまうと、彼の絵はまだまだ「ひねり」が 足りないと言わざるを得ません。 偉そうな発言に見えてしまうかもしれませんが、ダリと彼の絵を比べれば 誰だってそう感じるはずです。 しかし、彼の絵は恐らくシュールレアリズムではないし、 ダリと比べるようなものでもありません。 それどころか芸術作品として評価することも間違いだと思います。 彼の絵は工芸作品なのです。 そうでなければ平等院の襖絵に奉納されることはなかったでしょうし、 百貨店が率先して今回のような展覧会を開くこともなかったはずです。 彼の絵は「人を呼ぶ絵」であり、誰からも一定以上の評価を得られる 絵であるからこそ、平等院にも百貨店にも選ばれたと考えるのが 妥当でしょう。 重要文化財と商業施設を並列して論じるのもどうかと思いますが、 両者とも、評価が分かれるものは欲していない、という点で共通しています。 平等院には平等院の、伊勢丹には伊勢丹の権威(ブランド)があり、 両者はそれに見合った作品、つまり「平等院のような」 「伊勢丹のような」絵を求めているワケです。 それがどのような絵なのかは、持っている(売っている)絵を見れば 分かります。 あっちの世界には、あっちの世界でしか評価されない絵があるのです。   上記の事情があるにもかかわらず、彼の絵は美術館にも買われ、 なおかつ百貨店でも評価を得ているという点で非常に稀です。 「平等院へ奉納」という肩書を利用したい百貨店の意図は丸見えですが、 それでも百貨店が販売ではない純粋な展覧会を企画したというのは、 やはり凄いと思います。 それぐらい今回の展覧会は費用対効果が大きいと見込んだのでしょう。 美術品に限って言えば、百貨店というのはリスクを負うことを極端に 嫌います。 百貨店で販売されている絵については通常100%画廊が責任を負うことに なっており、その絵が偽物であったり傷ものであったりしても、 百貨店はその一切の責任を画廊や作家に丸投げします。 彼らは作品が売れた際に場所代と手数料を取るのみで、 他はまったく何もしてくれない、というのが実際のところなのです。 それは販売スタッフについても同じで、あれは百貨店の従業員が代理販売を 行っているのではなく、画廊のスタッフが百貨店に出向いて販売している、 もしくは画廊が別で雇ったスタッフが販売しています。 そういう殿様商売だということを知った上で「山口晃展」を見ると、 それがどれほど凄いことなのかが分かるワケです。 平等院おそるべし。 あ、失礼。 山口晃おそるべし(笑) 百貨店には百貨店の事情があるのでしょうから、あまり百貨店を悪者みたいに 言いたくはないのですが、少なくとも(売れない)画廊や作家への対応は 最悪であるということは最後に言い残しておきましょう(笑) ではでは。   ...more»
兵庫県立美術館「現代絵画のいま」にて
ども、ペスです。 兵庫県立美術館でも現代美術の展覧会をやるということで、 初日に見に行ってきました。 初日に行った割には記事を書くのが随分と遅れてしまいましたが、 まあ細かいことは気にしないで下さいませ。 この展覧会は前タイトルに「キュレーターからのメッセージ」という言葉が 付いています。 これは文字通り「キュレーター(学芸員)が作品を選びましたよ」という 意味なのだと思うのですが、われわれがここで考えるべきは 「なぜそんなことを、わざわざタイトルに入れたのか」 ということです。 普通われわれは美術館の作品を誰が選んでいるのかなんてことは 気にもしないワケですが、こんなことをタイトルに書いているということは、 キュレーターによほどの自信がある、もしくはキュレーターが作品を選ぶことは 珍しいことである、と捉えられます。 日常的にキュレーターが作品を選んでいるのなら、いちいちこんなことは アピールしないだろうし、仮にキュレーターが選んでいたとしても、 そこに自信がなければそこを強調したりはしないはずです。 そう考えると、ある答えが浮かびます。 「現代絵画のいま」は、普通ではない異色の展覧会だということです。 それが客観的に異色かどうかは分かりません。 ただ、恐らく美術館にとっては珍しいことなのです。 このことを知っておくだけでも、作品を見る目は随分と変わってきます。 例えば「なんでこの絵を選んだのか」という見方が1つあります。 1人が選んだのか、それとも複数の人が選んだのかは分かりませんが、 「現代絵画のいま」というタイトルがついているぐらいですから、 選んだ人はその作品が現代を代表していると思って選んでいるワケです。 だとしたら、何がどう現代を代表しているのか、という見方も出てきます。 この展覧会の作品は抽象画がほとんどでしたが、抽象画にもいろいろ種類が あるワケで、抽象画だったら何でも現代絵画であるとは言えません。 その違いを感じとるのも、こういったマニアックな展覧会の楽しみ方だと 思います。   正直に言ってしまうと、僕はこの展覧会をあまり楽しめませんでした。 正確には、楽しめたと思っていたけれども感覚は受け入れていなかった、 という感じです。 これを言葉で説明するのは非常に難しいのですが、 僕は美術館で芸術に触れる度に理性と感性は別物なのだと感じます。 それは意識と無意識という風に言い換えてもいいかもしれません。 意識の上では楽しいと思っているのに、無意識的なところでは 拒否している自分がいるのです。 こういう場合、僕に起こることは明確で、今回のように 「記事を書きたくても書けない」 ということが起こります。 信じて頂けるかどうかは分かりませんが、僕の書く記事はそのほとんどが 無意識や感覚に依存しています。 最初から「これを書こう」と決まっているワケではなく、書いているうちに どんどん内容が生まれてくるのです。 今も実際そういった書き方をしており、これを書いている時点では どのような結論に落ち着くのか見えていません。 そういう性質からか、無意識や感覚を刺激されるようなものでなければ、 書きたいことが浮かんでこないのです。 それは僕にとって楽しくないのと同義であり、どれだけ僕が行ってよかったと 思っていたとしても、体は正直な反応を示します。 つまり結果としてこの展覧会は僕にとって良いものではなかった ということなのです。   その日、僕はアーティストトークにも参加しました。 が、特にこれと言って得るものはなかったように思います。 しいて言うならば、抽象的な作品を出している丸山直文氏・大崎のぶゆき氏・ 野村和弘氏の3人がみんな「あいまい」だとか「不確実」だとか 「全体を捉えられない」という言葉を使っていた辺りが今の時代を表している、 という感じでしょうか。 要するに彼らの作品は「よく分からないもの」を表現しているということです。 「これは机だ」とか「これは帽子だ」とか分かってしまうようなものは、 実は現実には存在しなくて、どれも本当は一時的・部分的なものに過ぎない。 そういう気持ちを込めて作られていることが彼らの話から、よく分かりました。 これだけ分かっておきながら「得るものはなかった」と言うのは失礼だと 思うかもしれませんが、それでもやはり僕の中では得るものはなかったのです。 そのことをもっと正確に言うこともできますが、ここでは敢えて言わずに 留めておこうと思います。 僕にとって何かを得るとは、そういうことではないのです。   余談ですが、ネット上で「キュレーターの名前で展覧会を売る時代がきた」 なんてことを言っている人を見かけましたが、どうなんでしょうかね。 美術館以外ではキュレーター主催の展覧会も増えてきていますから、 その可能性もなくはないと思いますが、だからどうなんだという気もします。 それはキュレーターの権威が増すだけであって、結局今度はキュレーターの 名前がなければ展覧会や作品が売れないような時代になってしまうだけでは ないのか、と。 ミーハーな価値観が「作家」から「キュレーター」に移っただけでは ないのか、と。 そういう気がしてなりません。 われわれはいつになったら「作品」を見られるようになるのでしょうね。   ...more»
解釈からの逃走 ~スーザン・ソンタグ著『反解釈』を手引きに~
ども、ペスです。 最近僕は現代美術に対して以前とは違う感情を抱くようになってきました。 以前(と言っても、つい1ヶ月程前までですが)は現代美術の展示には学芸員などの 美術に理解のある人の補助が必要だと言っていたし、実際そう思っていたのですが、 それは少し違うような気がしてきたのです。 その考えは最初、キュビズム以後を現代美術と呼ぶのが妥当と言えるのではない だろうか、という発想から始まりました。 キュビズムを現代美術の起源とする場合、それ以前とそれ以後の美術作品には明確な 違いが見られます。 キュビズム以前の美術は理解度の差はあれど誰が見ても“容易に”楽しめるもの だったのに対して、キュビズム以降の美術は人々の理解からどんどん遠ざかっている、 ということです。 古典主義やマニエリスム、浪漫主義、印象派などの巨匠が生み出した人物画や風景画は 万人を魅了し、今もその効力を失っていません。 彼らの作品は今でも人気があり、展覧会を開けば比較的多くの人が美術館に集います。 一方で、キュビズム以降のフォーヴィズムやシュールレアリズム、ミニマリズムといった 美術作品は人々の注目を集めるどころか、名前さえ知られていないのが現状です。 それらを見に来るのは極一部のマニアックな人だけであり、今の時代の「ぶっ飛んだ」 美術作品においては、彼らすらも敬遠する傾向にある。 こうした現実を見ると、現代美術は(人々の)解釈から逃げているように見えてきます。 解釈から身をかわすために、芸術はパロディになることもあろう。 あるいは、抽象的になることもあろう。 あるいはまた装飾的になることもあろう。 さらにまた、解釈に完全な空振りをくらわせるために、芸術は非芸術になることも ありうる。 スーザン・ソンタグは『反解釈』の中でそう言っていますが、われわれが現代美術と 呼ぶものは、まさしく彼女の言葉そのままではないでしょうか。 ただ石を床に並べてみたり、ただハンカチを重ねてみたり、ただ身の回りのものを 箱の中に入れてみたり、ただキャンバスを黒く塗ってみたり・・・。 これらの美術作品には解釈の余地がありません。 もちろん、これらを“無理やり意味付けて”語ることは可能だし、そういうことを している人はネット上にもたくさんいますが、それは正しい芸術との接し方ではない、 むしろそれは芸術を安易なものにおとしめていると彼女は言います。 現代における解釈は、つきつめてみると、たいていの場合、芸術作品をあるがままに 放っておきたがらない俗物根性にすぎないことが分かる。 本物の芸術はわれわれの神経を不安にする力を持っている。 だから、芸術作品をその内容に切りつめた上で、それを解釈することによって、人は 芸術作品を飼いならす。 解釈は芸術を手におえるもの、気安いものにする。 そもそも知的態度で芸術と接すること自体が間違いである。 彼女はそう言うワケです。 では、われわれは現代美術(芸術)とどう接すればいいのか、という話になるワケですが、 それについては彼女のこんな発言が参考になるかもしれません。 いま重要なのは、われわれの感覚を取り戻すことだ。 われわれはもっと多くを見、もっと多くを聞き、もっと多くを感じるようにならなければ ならない。 われわれの仕事は、芸術作品のなかに最大限の内容を見つけ出すことではない。 ましてすでにそこにある以上の内容を作品からしぼり出すことではない。 われわれがなすべきことは、「もの」を見ることができるように、内容を切りつめること である。 芸術についてのあらゆる解説と議論は、芸術作品を――そしてひろげて言えば、われわれ 自身の経験を――われわれにとってもっと実在感のあるものとすることを目指すべき である。 これは簡単に言えば、芸術体験を大切にしなさい、ということです。 石が置いてあろうが、ハンカチが重ねてあろうが、ガラクタが並べてあろうが、 それを見て感じたものを知識ではなく経験として積み重ねなさい。 そして芸術に関わる者は、その経験を補助、つまり余計な解釈が起らないよう、 鑑賞者に働きかけなさない。 僕には彼女がこう言っているように思えます。 すなわち芸術、特に現代美術に対する補助とは「分かろうとしないこと」を鑑賞者に 教えてあげることであり、感性を理性の支配下に置かないことを警告してあげること なのです。 知識同様、経験も積み重ねなければ、その本来の効力を発揮しません。 一度美術作品を見ただけでは、その醍醐味は味わえないのです。 釣りだって、サッカーだって、読書だって、ゲームだって、続けているからこそ 見えてくる魅力があると思います。 続けなければ身に付かない技術もあるだろうし、続けているからこそ分かる感覚、 分かる嬉しさ、分かる悔しさなどがあるはずです。 1回目は何も分からなかったけど、3回目ぐらいからコツがつかめて、10回目に なる頃には人に教えられるぐらいになっている。 経験とはそういうものです。 だとしたら、彼女は単純なことしか言っていません。 いっぱい経験すれば体が勝手に覚える、そして経験は別のものへ昇華する。 それだけです。 芸術とはいっぱい体験するためのものであって、いっぱい学ぶためのものではない。 そして現代美術とは、今までにない新しい体験をするためのものである。 僕には彼女のそんな囁きが聞こえます。 ...more»
兵庫県立美術館「バーン=ジョーンズ展」「S.W.ヘイター展」「祐成政徳展」「コレクション展」にて
ども、ペスです。 美術館視察(?)第3弾は兵庫県神戸市にある兵庫県立美術館に行ってきました。 ここに行ったのは今回が3回目で、以前に「ムンク展」と「印象派の画家展」を 見に行った覚えがあります。 JRの灘駅からは徒歩10分、阪神の岩屋駅からは徒歩7分ほどで行けるため、 関西の美術館の中では比較的交通の便は良い方です。 敷地面積は国立国際美術館と並ぶぐらいの広さがあり、 その黒っぽく巨大な外観は異様な存在感を放っています。 ただその巨大さ故に、はじめて来た人は入口を探すのが大変らしく、 僕がここを去る際、目の前からやってきたおばあさんに 「美術館の入り口はどこですか?」と尋ねられた、 ということは今後の美術館建設の参考のために書き残しておきましょう。 (実は僕もはじめて行った時は結構迷いました) いくら外観がよくても、入口が分からないようじゃ本末転倒ですからね。 その分かり難い正面の入口を入ると左右に大きな棟が1つずつあり、 現在は右側で「バーン=ジョーンズ展」と「コレクション展」、 左側で「パール・海の宝石展」を開催中です。 では展覧会の解説、いや、美術館の批評に入っていくことにしましょう。   ■バーン=ジョーンズ展 この手の展覧会の特徴は一言で言えば「名前や分かり易さで人が呼べること」に あります。 今回のバーン=ジョーンズ展の場合、彼の名前はよほど絵画が好きな人でない限り 知らないと思われますが、絵そのものにミーハー心をくすぶるもの、 つまり物語性や神秘的な要素が含まれています。 描かれているものはすべて具象的で、何が書かれているかは誰が見ても分かるし、 絵のことをまったく知らなくても「上手いなー」「綺麗だなー」ぐらいの感想は 抱くことができる。 平たく言えば、取っ付きやすい、ということです。 ラファエル前派やバーミンガム美術館やバーン=ジョーンズの名前を知らずとも、 立派な絵を見ることで崇高な体験をした気になれる、 というのがこの手の展覧会の特徴で、大体の人はそれを求めてやってきます。 5千円とか1万円出してクラシック音楽を聴くのは抵抗があるけど、 千円程度で一流の作品を見られるなら行ってみようかな、と。 「美術なんて難しくて分からない」と思っている人でも、 どこかで「けど、たまには一流の崇高さに触れてみたい」と思っているワケです。 そういう人たちは絵を見たいと思っているのでもなければ、絵を見てもいません。 彼らは「崇高な絵を見ている自分」という状態に陶酔するためにやってくるのです。 彼らにとって美術とは欲求を満たす道具であり、美術館はそれを提供する場所でしか ありません。 美術館で崇高な体験をしてみたい。 崇高そうなものであれば作品は何でも構わない。 それが近代人、特にオルテガが大衆と呼ぶような人間の視点なのです。 もちろん美術館に来る目的は自由ですから、それが悪いということではありませんが、 美術館はそういう人たちを対象にしているんだということを深く自覚しておくべきだと 思います。   さて、話は変わって展示についてです。 僕が気付いた限りですが、この展覧会では1つ、美術館らしい工夫があります。 それは、絵画の雰囲気に合わせて壁紙の色を変えている、ということ。 すべての作品に対してではありませんが、後半の展示では作品ごとに赤、青、 茶色、3つの背景を使い分け、さり気なく作品を演出しています。 そのさり気なさ故に僕も思わず見逃しそうになりましたが、 それぐらい裏方に徹しているからこそ作品が引き立っているとも言えます。 この展示方法を考えたのが兵庫県立美術館なのかバーミンガム美術館なのか、 それとも全然別の人なのかは知りません。 知りませんが、知恵をしぼればこういった方法が生まれてくるワケです。 これは展示をより良くしようという情熱の現れだと思いますので、 今後もその意識を低下させることなく運営を続けていってもらいたいです。   ■S.W.ヘイター(Stanley William Hayter)展 最初に言わせて下さい。 この展覧会は絶対に見ておいた方がいい!! 日本では無名で、僕もこの展覧会を見るまではヘイターの存在を 知りませんでしたが、彼の作品は本当に素晴らしいです。 最低でも僕が「展示の仕方なんてどうでもいい」と思うぐらいには 素晴らしい。 普段あまり作品についての感想を書くことのない僕ですが、 今回ばかりは絶賛せずにはいられませんでした。 あんなにいい作品を191点も寄贈してもらった兵庫県立美術館を 羨むばかりです。 彼の作品はほとんどが抽象画で、何が描いてあるとは 表現し難いものなんですが、その作品から伝わってくる衝撃は すさまじいものがあります。 特に個人的には1965年以降に描かれた晩年の作品に心を 揺さぶられました。 絵を見て目が潤んだのは、これが初めてです。 ヘイターの情報については日本語版ウィキペディアには彼の名前さえなく、 英語版でも情報は限られています。 ただ色々と探してみたら画像は案外たくさん見つかったので、 よかったら参考までに見てみて下さい。 画像集その1 画像集その2 画像集その3 画像集その4 画像集その5   ■祐成政徳展 ヘイター展から一転、この展覧会は僕には理解不能でした。 「目の不自由な方にも美術を楽しんでもらおう」という主旨から 兵庫県立美術館はこの「触れる美術」というコンセプトの展覧会を 始めたそうなんですが、そのことがどこまで反響を得ているのか、 僕には未知数です。 これは前にも言いましたが、やはりこの手の現代美術には 言葉による解説(補助)が必要なのではないかと思います。 触れば分かる、見れば分かる、といった放任主義も一定の領域を超えると 単なる怠慢になってしまうのではないでしょうか。 もちろん体験を通して自ら何かを見出すことは非常に大事なことですし、 それを否定する気はありません。 ただ、何の取っ掛かりも掴めていない人に対してそれを要求することは、 泳いだことのない人間をプールに投げ込んで「取り敢えず泳いでみろ」と 言っているようなものだと思うのです。 時と場合によっては、そういった荒行も必要ではありますが、 その態度が現代美術の一般的評価を歪めている気がしてなりません。 現代美術や現代アートという言葉が皮肉の域を脱するためには、 もう少しこっち側の人間が手を伸ばしてやる必要があるのでは ないでしょうか。   ■(その他の)コレクション展 兵庫県立美術館の2階には小磯良平の展示室、その隣に金山平三の展示室、 さらにその隣には田中敦子、鷲見康夫、元永定正、白髪一雄、菅野聖子などの 具体を代表する作家の作品が多く展示されている展示室があります。 個人的に気になったのは3つ目の具体作家の展示室で、 この部屋は薄暗さと作品の雰囲気、そして天井の低さが合わさって 薄気味悪い雰囲気を漂わせています。 それゆえ作品を見てまわるのも少し怖いのですが(苦笑)、 作品はインパクトの強いものが多く、どれも存在感が半端では ありませんでした。 先日、東京の国立新美術館で行われている具体の展覧会を 見逃してしまったので、ここでその埋め合わせができて 個人的には非常に満足です(笑) ただ、基本として展示リストは置いておいて欲しいですね。 1階は比較的雰囲気も明るく、天井も3階の特別展と 同じぐらいの高さがあって、大きい、というよりも巨大な作品なども 展示されています。 いずれの階も面白い作品が揃っているので、もし行く機会があるなら どちらも見逃さずに回って下さいませ。 追伸: 作品については既に触れているので、最後に観覧料について思ったことを 少しだけ話しておくことにします。 今回、僕はバーン=ジョーンズ展とコレクション展のチケットを 一緒に購入したので、観覧料は1450円でした。 この内訳はバーン=ジョーンズ展が1300円、コレクション展が 150円です。 同時購入割引でコレクション展が100円安くなりました。 僕がここ行ったときはクールスポット割引(?)という割引が 適用されていたらしく、コレクション展の料金は単体でも250円だったのですが、 通常時は400円ぐらいするようです。 ここで考えたいのは、その微妙な料金システムはなんとかならんのか、 ということです。 いくつかの美術館に行ったことがあれば分かると思いますが、 普通コレクション展の観覧料はどこの美術館でも特別展の観覧料に 含まれています。 今の国立国際ならリアルジャパネスクのチケットを買えばコレクション展も見られるし、 滋賀近代だって自然学のチケット買えばコレクション展は無料で見られるようになって いました。 これは僕の中ではデフォルトとして組み込まれており、今回も同じように特別展の チケットを買えばコレクション展も無料で見られるだろうと思っていたワケです。 ところが、チケット売り場で確認してみると追加料金が必要だと言われた。 ここで僕をケチだと思うのは、とんだ見当違いです。 僕はコレクション展が有料であることに文句を言っているのではなく、 どうせだったら特別展の料金を1500円にしてコレクション展は無料だと 言ってくれた方が確実に心理的な負担は少なかった、ということなのです。 これはコレクション展に興味のない人に対する美術館の配慮なのかも しれませんが、たとえ大衆であっても美術館に来るような人は、 たかだか200円ぐらいでグダグダ言ったりしません。 むしろ、追加料金が必要である、ということに大きなストレスを感じるはずです。 配送料金が無料のつもりで冷蔵庫を買い替えたのに、会計するときになって いきなり「配送料は千円になりますが、どうされますか?」と聞かれれば 誰だってイラッとしますよね? いやいや、冷蔵庫なんて配送するに決まってんだから、最初からその千円を 商品代金に加算しておけよ、と。 それと同じ感覚なのです。 特別展を見る人は大体コレクション展も見るんだから、 最初から料金を1つにしときゃいいじゃない、というのが僕の率直な意見です。 自分が同じ立場だったらどう思うかを考えて、ご検討下さい。 ...more»
国立国際美術館「リアルジャパネスク」・「コレクション展」にて ~現代美術との付き合い方~
ども、ペスです。 前回は途中から話がそれてしまったので、 あらためて「リアルジャパネスク」について書きたいと思います。 こちらの展示では1970年代・80年代生まれ、 つまり僕と同世代の方々の作品がところ狭しと並べられていました。 作品は立体の造形物や本、絵画、空間、動画など多種多様で、 いかにも現代アートな世界観がそこに表現されています。 しかしながら、この「いかにも現代アート」という言葉は一般に あまり良い意味で使われることがありません。 われわれが現代アートという言葉を使うのは、主に(皮肉的に) 理解できない最近の作品に対してなのです。 芸術の定義上、その作品がわれわれ一般人の理解の域を 超えていること自体は何ら悪いことではないと思います。 むしろ、なんでもかんでも容易に理解できるようなものは、 それこそ芸術として文化的価値がないということになるでしょう。 けれども、それが次世代的な表現だから理解できないのか、 単に意味のない表現だから理解できないのかでは、 まったく意味が違うワケです。 そして、ここの判断が作品を見る上で最も難しいと言っても 過言ではありません。 だからこそ画廊のオーナーや学芸員というのは、 これを見分ける目を鍛える必要があるワケですが、 その見分ける能力の無い人に何の解説もなくそのまま現代アートを 見せるというのは、かなり無茶なことではないかと思います。 つまり、現代アート・現代美術を展示するならば、 現代アート・現代美術とはなんたるかを一時的にでも 定義しておいてやるのが展示する側の優しさではないのか、 ということです。 真に新しい美術作品とは一体どういう作品のことなのか。 ここで選んだ作品は何がどう新しいのか。 最近の日本現代美術の動向とは一体何を指すのか。 リーフレットで使われているこれらの言葉の意味ぐらいは、 どこかに書いておいて然るべきではないでしょうか。   正直に言いますが、リアルジャパネスクで展示されている作品の いくつかについては、僕にはゴミにしか見えませんでした。 ゴミという表現が極端すぎるなら、廃材もしくは紙切れ、 とでも言いましょうか。 これは別に悪意があるワケではなく、素直にそう思ったのです。 展示されている場所がたまたま美術館の中だからかろうじて作品だと 認識できますが、その辺の道端に置いてあったら、普通に無視して 通りすごすと思います。 下手をすれば邪魔だとすら思うかもしれません。 何の解説もなく現代美術を一般人に見せるというのは、 それぐらい危ういことだということです。 デュシャンの『泉』だって、そう解説されなければ誰が見たって 単なる便器なワケですから、その解説があって初めて、 作品が立ち現われてくると言えます。 であるならば、解釈を見る者に委ねる、なんてのは甘えでしか ありません。 特に現代美術においては尚更です。 そもそも現時点で現代美術を評価することなんて出来ないのですから、 可能ならその点もどこかに示しておいてやるのが親切だと思います。 「理解できなくて当然なんですよ」、「分からないことを楽しむもの なんですよ」的なことを見る前に教えてあげれば、見る側も安心して 楽しむことができます。 日本人は自分の無知をさらすのが恐くて言えないことが多いですが、 みんな作品の意味なんて分からないんですから、言っちゃえばいいんですよ。 「意味わかんねー」って。 そしたら気楽に作品が見られるようになりますから。 真剣な顔して作品を見ている人も、心の中では「わかんねーなー」って 思っています。 そんなことを言うのが恥ずかしいから声に出さないだけなのです。 そういう意味では子供の方がよっぽど気軽に現代美術を楽しめるような 気がします。   実は僕も、この記事が出来上がる前はアレコレ小難しいことを 考えていました。 反資本主義的な思想がどうのこうの、ブーバーの<我-それ>の関係が どうのこうの、そういったことを書くつもりだったんですが、 途中でバカらしくなってやめました。 多分、現代美術はそういう風に見るものではありません。 どっちかといえば「ああかもしれない、こうかもしれない」と 思いを巡らせ、「結局なにも分からない」という着地点に落ち着くのが 正しい楽しみ方なんじゃないかな、と。 なぜか分からないけどずーっと気になってる。 そういう片思いの始まりのような関係を続けることが、 現代美術の楽しみ方なのかもしれません。   追伸: またしても個々の作品に関する話が抜けてしまったので、ここで補足です。 と言ってもあんまり話すことはないんですが、個人的には泉太郎氏の 動画作品と五月女哲平氏のキュビズム的な絵が印象に残っています。 いや、インパクトで言えば入口を入ってすぐの貴志真生也氏の作品が 一番なのですが、好みで言えば前者2人かな、と。 感想は特にありません。 というか、あっても言いません。 気になるなら自分の目で確かめて下さいませ。   ...more»
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