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理解されたい欲求
  「理解されたい」 これは恐らく人間なら誰もが持っている比較的大きな 欲求だと思います。 それゆえに相手に理解されてないと感じるときは 「なんで分かってくれないの」という不満を抱くし、 分かってくれてると感じたときは言葉では表せない ような喜びを感じる。 だからこそ自分を理解してくれている人、例えば 友人や恋人なんかと一緒にいるだけで一定の幸せを 感じることが出来るワケですね。 たまに「別に誰にも理解されなくてもいい」 みたいなことを言っている人もいますが、それは 多くの場合単なる強がりです。 なぜそう言い切れるのかというと、自覚しているか 無自覚かの差はありますが、現代人は本質的に 人間的理解を求めている生き物だからです。 この背景を詳細に説明するのは実は相当骨が 折れます。 ポキポキと。 なので、とりあえず今回の記事では大筋だけを 残して、あとはザックリと説明していくことします。 それでは少しばかり歴史の授業にお付き合いください。   時代は中世以前に遡ります。 この時代の人間というのは文化というシステムの 部品として存在していました。 まず文化という枠があって、そこに人間がそれぞれ 役割ごとにはめこまれる。 そんなイメージです。 貴族の子は貴族、農民の子は農民、職人の子は職人 という風に生まれた時から自分の役割が決まっている 代わりに、それに従ってさえいれば文化という安定した “関係”の中に留まることが出来ました。 この“関係”は文化によって支えられていたため、 文化が崩壊しない限りは無条件で保障され、 お金のあるなしにかかわらず、自分の身分や役割を 維持することが出来たワケです。 しかし資本主義が登場したことによって、 この文化(価値観)は壊されます。 資本主義は「生まれた家柄」ではなく「いくらお金を 持っているか」によって身分や役割を決めました。 これはよく言えば自分で自分の身分をコントロール できるようになったと言えますが、悪く言えばお金が 無ければ身分すら安定しなくなったということです。 やがてそれは「資本を持つ者こそが自由であり 権力者である」という価値観を浸透させていきます。 産業革命の時代を勉強したことがあれば分かると 思いますが、この時代の労働者というのは奴隷と 変わりません。 特に産業革命が起こってすぐというのは、 まだまともな法律も出来てなかったので、 雇い主はやりたい放題。 小学生ぐらいの子供が埃だらけの工場で 18時間働きっぱなし、なんて状況もあったそうです。 当然そんなことを繰り返していれば平均寿命も 縮まるワケで、死亡率、それも10代の若者の 死亡率は跳ね上がります。 そこでやっと「このままじゃヤバイんじゃね?」 ということになり労働基準法みたいな法律が 出来てきたワケです。 まあ「搾取」なんて言葉があるぐらいですからね。 よっぽど酷い労働環境・労働条件だったんだと 思います。 マルクスは資本主義のこういう状況に憤って 社会主義を打ち立てるに至るワケですが、 それはともかく、こうやって人間をただの道具 (労働力)としてしか見ないような人間が トップに立ち、その価値観を先導していくように なったのです。 資本主義の価値観は一言で言うと「お金が一番大事」。 つまり、資本主義以前は「最初に文化ありき」 だったためまず身分があった上で収入が決まる という流れでしたが、資本主義の世界ではまず 最初にお金があって、その上で人間の身分や役割が 決まるようになったということです。 そうやってお金の無い人はまともな身分すら 与えられない状況に追いやられていきます。 今までは生まれた時から身分が決まっていたので、 それ以上に裕福になることはなくても、それ以上 苦しい生活を強いられることもありませんでした。 しかしそんな時代はもう終わったのです。 お金がなければ社会との関係を保つどころか、 生きることすらままならない。 地獄の沙汰も金次第。 それが資本主義です。   この価値観が推し進められ、日本に輸入され、 受け継がれ生まれてきたのが僕ら現代人です。 自覚はないと思いますが、僕らも資本主義の国に 暮らす人間ですから、当然さっき書いたような人間と 同じような性質を持っています。 それは相手や自分を道具(労働力)としてしか 見れないような性質。 もう少し言うと、僕らは自分や相手の“機能”や “役割”にばかり目がいっていて、相手そのものや 自分そのものを見ることができなくなっている ということです。 婚活なんてのはその典型です。 婚活では女性は職業や給料で男性を選び、 男性も職業や見た目だけで女性を選びます (そうじゃない人もいると信じてますが)。 そうやって相互利益があるようならカップル成立。 まさに道具同士のカップルです。 そこから仲が深まって人間同士のカップルに なることもあるのでしょうが、婚活という言葉自体が 既に 「自分たちのために結婚がある」 という本来の在り方ではなく 「結婚のために自分たちがある」 という本末転倒の在り方になってしまっていますから、 よっぽどのことがない限り、人間同士の仲になることは 難しいと思います。 僕は婚活パーティーに出たことはないですが、 ネット上に溢れている情報を読む限りでは、 男性は主に職業をアピールの道具として使うことが 多いようです。 これは自分を“機能”という面でしか評価出来て いないことの裏返しと捉えることはできないでしょうか? 本当に自分の人間性そのものを評価しているのであれば、 そんな肩書を表に出す必要もないと思うし、というか むしろ婚活パーティには出ないと思うんですね。 だってそんなところに行っても自分は道具としてしか 見てもらえないんだから。 わざわざ自分が惨めになるところには 行かないでしょ、普通。 逆に、そういうところに行きたがる人は自分を 最高の道具として評価してもらいたい、もしくは 最高の道具だという評価を得て自分の価値を 確信したいから行くのです。 「美人である」「お金持ちである」「弁護士である」 そのことでどれぐらいの評価が得られるのかを 知りたいのです。 そしてあわよくば自分の評価をより高めてくれる人と 出会いたいと思っている。 個人的には婚活はそういう人間の集まりだと 分析しています。 ただ、これはあくまでも「個人的に」なので、 この見方には僕の偏見が大いに含まれているということを 忘れないで下さい。 あと、最近の就活なんかも分かりやすいですね。 就活塾なんてものが業績を伸ばしていることからも 明らかなように、今の学生たちは 「自分のための仕事」 を見つけるのではなく 「仕事のための自分」 になろうとしている傾向が伺えます。 これもまさに自分を道具的にしか評価できていないと 言えそうです。 時代が時代なので仕方ないという見方もあるかも しれませんが、それだけ時代が道具的人間の傾向を 促進している、という風に僕は捉えています。 つまり僕らは相手だけでなく自分自身をも道具としてしか 捉えられなくなってきているのです。   そうなってくると、その反動として「人間的に 見てもらいたい」とか「私そのものを評価してほしい」 という欲求が生まれるのは自然の流れ。 なぜなら、そっちの欲求を満たすものが圧倒的に 足りないからです。 人間には自分の技術を評価されたいという欲求も ありますから「最優秀新人賞」みたいな道具的評価も 必要です。 でもそっちをいくら満たしても人間的欲求は 満たされません。 それで満たされるのは「作家としては優秀ですよ」 とか「技術者としては優秀ですよ」という肩書にだけ ですからね。 「もっと私という人間を見てよ!」という欲求には 応えてくれないワケです。 ここでやっと冒頭の話に戻ってきます。 冒頭で僕は「現代人は本質的に人間的理解を求めている 生き物」だと書きましたが、その根拠はココ 『現代には道具的な人間ばかりが氾濫しているから』 というところにあったのです。   「理解されたい」 そう強く思ってしまうのは僕ら現代人の性質ですから 仕方ありません。 しかしその欲を押しつける前に 「自分は相手を理解しようとしているか?」 「自分は相手を道具的に見てはいかないか?」 と問いかけるのを忘れないで下さい。 セミナー音声で話していたアフォーダンスって言葉、 覚えてますか? 机というのは、四角い四本足の物体に対して僕らが 机という道具的な見方をするから「机」になる、 という話でしたね。 これは人間も同じで、相手に対して「役に立つ道具」 という見方をしている限り、相手は自分にとって 相手そのものではなく「役に立つ道具」になって しまうのです。 ビジネスで言うならば、お客さんに対して 『商品を買ってくれる人』(お店の利益になる人) という(道具的な)見方をしていてはダメだ ということです。 だって相手はお客さんである前に人間なんだから。 それも「理解されたい」という欲求を強く持っている 人間であるということを踏まえれば、大体どういう 接客をすればいいか分かってきますよね? 相手を理解しようとする、人間的に接するというのは そういうことなのです。 ぜひ覚えておいて下さい。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
必要性の形而上学 ~なぜ人は時間を無駄にするのか~
  今回からそろそろ実践的な話をしていこうかなー、と思います。 今までの話はなんていうか、 「言ってることは分かるけど、だからどうなの?」 的な内容ばっかりだったと思うんですね、正直なところ。 そーゆー抽象的な話はもちろん非常に重要なんですが、 今の時期、やっぱり実生活に直接役に立つような知識が 求められているんじゃないか、と。 色々書きながらそう感じたワケです。 ヒーローとか理性的権威とか相対主義とかニーチェとか ハイデガーとかなんだかんだ言ったって、結局のところ 「じゃあその知識は何の役に立つの?」 というのが本音ですよね?(笑) 今まで単純な知的欲求から僕のブログを読んでくれていたなら それはそれで非常に嬉しいんですが、取り敢えず抽象度の高い話は この辺にして、そろそろ今までの話が何に活きてくるのか、という 実際的・実践的な話をしていこうと思います。 で。 今回はタイトルを読んでもらえれば分かるように 【必要性】というものにちょっと注目してみます。 副題に 「なぜ人は時間を無駄にするのか」 って書いてますが、要はそーゆーことです。 もう少し突っ込んだことを言えば 「なんで人は必要なもの(こと)と無駄なもの(こと)を 区別できないのか」 という話。 ビジネスにはニーズという言葉がありますが、 それよりかもうちょい本質的です。 この話には、人は往々にして自分に必要なもの(こと)が 何なのかが分かっていない、という前提があります。 なんでそんな前提があるのか、というのは今までの僕の記事を 読んでもらえれば分かると思うので省略しますが、一言で言えば 【現代人のほとんどは明確な目標を持って生きていないから】 ってことです。 さて。 あなたにとって必要なもの(こと)とは何でしょうか? 急にこんなことを言われても分からないと思いますが、 すぐに答えられないことそれ自体がそもそも問題だという 意識を今この瞬間から持って下さい。 なぜなら、これがすぐに答えられないということは、 今自分のやっていることが本当に自分に必要なことなのかが 分かっていない、ということだからです。 極端に言えば、無駄な行動を毎日毎晩、365日繰り返している 可能性があるということです。 このブログを読むことは、ひょっとしたらあなたにとって 無駄なことかもしれません。 パソコンを触ることもあなたには無駄なことかもしれません。 もちろん逆も有り得るでしょう。 しかし、それが本当に必要かどうかはあなたが判断できなければ 他の誰にも分からないのです。 【必要】や【無駄】というのは、多くの場合、 客観的なものではなく、個人に依存する主観的なものです。 例えばテレビゲーム。 ある人にとっては時間の浪費でしかないようなテレビゲームも 別のある人にとっては商品開発のヒントを得るための大切な リサーチかもしれません。 mixi。 ある人にとってはmixiはただの暇つぶしかもしれませんが、 別のある人にとっては仕事の依頼を得るための大事な ツールかもしれません。 2ちゃんねる。 ある人にとっては歪んだ人間の溜まり場にしか 見えないかもしれませんが、別のある人にとっては 人の本音を探るための重要な情報源かもしれません。 ブランド品(シャネル、グッチ、ルイヴィトンetc)。 ある人にとってはただ高いだけの商品かもしれませんが、 別のある人にとっては自己意識を向上させるための 大事な道具かもしれません。 1日中、家でゴロゴロ。 ある人にとっては人生の無駄遣い以外の 何ものでもないかもしれませんが、別のある人にとっては 重要なデータを集めるための実験かもしれません。 例を挙げればいくらでも出てきますが、 まあこんなもんで十分でしょう。 つまり、目的によって【必要】【無駄】という判断基準(区別)が 変化するということです。 何を目的にするかは基本的には個人の自由だと思います。 「暇をつぶす」ということが目的なら だらだらテレビゲームやったり、ぼーっとmixiを 眺めたり、家でゴロゴロしているのもアリでしょう。 ですが、もっと根本的なことを考えてみて下さい。 なんであなたは【暇】なのか。 することがない(決まってない)からですよね。 じゃあなんですることがないのか。 目標がないからです。 目標があれば、それに向かってやるべきことが 必ずありますから。 目標というのは「夢」とか「やりたいこと」と 言い換えてもいいかもしれません。 「弁護士になりたい」「お金持ちになりたい」 「ビッグになりたい」「自分の学校を作りたい」 「日本を変えたい」などなど。 しかし、目標は「あればいい」というレベルのものでは ありません。 そこを勘違いしないで欲しいんですね。 よく、目標を持ちましょう、みたいなことが漠然と 語られますが、上記みたいに「弁護士になりたい」 とか思ってるだけじゃ意味ないんですよ。 だってそれじゃあ「宇宙飛行士になりたい」と言っている 小学生と一緒で、弁護士にはなれませんから。 確かに目標を持つことは重要です。 重要なんですが、本当の意味で重要になるには、 「いつまで」「どんな」弁護士になりたいのか、などを 目的に沿って具体化する作業が完了してからになります。 例えば「弁護士になりたい」という目標があったとしても 10年後になりたいのか5年後になりたいのか、それによって 【今必要なもの】が変わります。 10年後でいいなら大学でじっくり勉強するのもアリかも しれませんが、家庭の事情や年齢的な事情で5年後や3年後までに なんとかしないといけなかったとしたら、そんな悠長なことは 言ってられませんよね。 今すぐにでも参考書買いまくって、1日15時間とか 勉強しないといけない可能性があるワケです。 また、どんな弁護士になりたいのか、というのでも 【必要なもの】は変わります。 テキトーな弁護士でいいなら、司法試験の勉強だけ やってりゃいいかもしれませんが、無敗の弁護士に なりたい、とかいう場合にはもっと他にやるべきことが あるはずです。 もっと言えば、弁護士になって何がしたいのか、というのも 【必要なもの】に影響します。 冤罪を無くしたい、社会的弱者を救いたい、というのであれば、 一般業務とは別にそういった勉強をする必要があるでしょう。 つまり 目標は目的と融合し、尚且つ、具体化されてこそ意味を持つ ということなんですよ。 ここまでやって、やっと人は【必要】と【無駄】が 区別できるようになるのです。 こうやって見てみると、世の中のほとんどの人が 時間を浪費していることに気付くと思います。 そりゃたまには休むことも必要でしょうから 一時的にはゲームをしたり、ダラダラするのも アリでしょう。 ただ僕が思うのは「みんな休憩し過ぎ」(苦笑) 目標も立ってないうちから休憩しててどうすんの、と。 それこそ前回書いた【不安を自覚してない】ってことです。 日々人生は浪費されているのに、それを不安にさえ思わず、 ただただ毎日をその日暮らしで過ごすだけ。 明日のことさえ考えず「今日は楽しかったなー」で終わり。 そんな下らない人生でいいなら僕は止めませんけど、 今この瞬間に僕のブログを読んでるってことは 多分そんな風には思ってないと思うんですね。 だからそんなあなたにこの言葉を送ります(笑) あたかも一万年生きるかのように行動するな。 不可避のものが君の上にかかっている。 生きてるうちに、許されているうちに、善き人たれ。 ローマ帝国の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス って人が残した言葉です。 意味は分かると思います。 彼の残した【自省録】は僕にとって聖書的な地位を占めていますが、 この言葉も読み返す度、我に返ります。 あぁ、そういえば忘れかけてたなー、って。 特にわれわれ日本人はある意味最も【死】から遠い世界で 生活しているせいもあってか「いつ死ぬか分からない」 という当たり前のことを忘れがちです。 仮に言葉では言えたとしても、そこに実感が伴わない。 だから誰もが目標を持たず、毎日ダラダラと生活できて しまうワケです。 幸いにして僕らには 「明日赤紙が送られてくるかもしれない」 なんていう不安はどこにもありません。 しかし約70年前の今頃。 それは僕と同年代であれば誰もが当たり前に抱く不安でした。 当時の人からすれば赤紙が死神からの手紙と 同じ意味を持っただろうことは容易に想像できます。 そんな状況で彼らは毎日何を考えて生きていたのか。 考えたことありますか? リアルに「明日死ぬかもしれない」という不安を抱いたとき、 人は何を考えるのか。 もし分からなければ時間があるときにでも【きけわだつみのこえ】 という本を読んでみて下さい。 何かの参考にはなると思います。 随分話が大きくなりました。 でもこれでいいんです。 こうやって縦横無尽にいろんな知識を結びつけないと 人の理解というのは促進されないんでね。 それがなんでなのか、というのはネットワーク理論とか マインドマップとか構造主義とか複雑系とかを学んでもられば なんとなく分かると思います。 まあそんな話はどうでもいいか。 とにかく。 今回僕が言いたかったことをまとめてしまえば 満足した豚がいいのか、それとも、不満足な人間がいいのか ってことです。 目標を持たない、ということはある意味で、 満足した豚なんですね。 毎日エサ(享楽)を貰ってればそれで幸せなのが豚ですから。 (豚の気持ちは豚に聞いてみないと分からないけど・笑) 逆に、目標を持つ、ということは目標を達成するまで 不満足なワケですから、それは人間(現存在)なのです。 更に、目標とは達成される度に更新されるものですから、 常に不満足なのが人間(現存在)なんですね。 豚は豚で幸せかもしれませんし、どっちがいいとは 僕には決められないので、自身で悩んで下さいませ。 ではではー♪ 追伸 今回の話は人によって反論があるかもしれません。 「人生に無駄なことなんてないんだ!」みたいな。 確かに僕も「人生には無駄なことはない」と思ってる一派なので、 その意見には賛成なんですが、それは個人的には目的意識によると 思うんですね。 何にも考えずに普通にゲームをするのか、 「ゲームをするとどんなに気持ちになるんだろ?」 という疑問を解決するためにゲームをするのかで 得るモノが全然違いますから。 人生に無駄なことがないのは確かだと思いますが、 その人生を無駄にしているのは誰なのか?というのも 同時に考えてもらえると、より理解が深まるかもしれません。 ...more»
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