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素晴らしさの可能性
ども、ペスです。 僕は美術を「実存的に」鑑賞するためには、ある4つの問いを持っておくことが 不可欠だと考えています。 このことを意識しているのは極少数の人だけだと思いますが、この4つのうち 2つについては無意識的ではあれ、誰もが念頭に置いて作品を見ているはずです。 その2つというのは 1.何を見るのか 2.どう見るのか という問いです。 われわれが特定の展覧会を「選ぶ」のは、1の「何を見るのか」という問いが自分の 中にあるからです。 これは無意識的な問いですから、誰も自覚していないと思いますし、もちろん僕も 問うていること自体は自覚していません。 ただ、この問いがなければ「選ぶ」という行為が生まれ得ない以上、われわれの中に こういう前提的な問いがあることは間違いありません。 厳密に言えば、われわれが特定の展覧会を見たいと思うのは「何を見るのか」という 問いと「それを見るか(見たいか)否か」という問いの末に導かれる結論です。 美術の展覧会に興味のない人は「何を見るのか」という問いを持ち合わせておらず、 それ故に彼らには展覧会に足を運ぶということが有り得ないのです。   2の「どう見るのか」は展覧会を見ているときにわれわれが持っている問いです。 みんな自分なりの見方で作品を見ていると思いますが、その「自分なりの見方で見る」 という答えは「どう見るか」という問いから導かれたものです。 これも当然自覚はないと思います。 自覚していたら誰だって美術の正しい見方を心得ているでしょうからね。 多くの人が作品を見て「上手い」や「キレイ」という感想しか持てないのは、 この問いに対する答えがそれだけ単調で乏しいということなのです。   冒頭で言ったように、ここまでは誰もが持っている問いです。 あと2つの問いについてはこれから説明しますが、ここで分かっておいてほしいのは、 それを持っているという事実が重要なのではなく、持っていることを自覚しておくことが 重要だということです。 この問いを自覚することによって、われわれは自分の判断の危うさ、自分の大衆性 (凡人性)を知ることができます。 例えば「何を見るのか」という問いは、多くの人にとって「どれを見るのか」という 問いになっています。 展覧会や美術館の数が限られている以上、それはある意味では仕方のないことでも あるのですが、問題はそこではなく、彼らは勝手に自分でその選択肢をしぼっている ということです。 10個の展覧会があったとしら、その10個のうちから選ぶのではなく、大衆はそれを 「恣意的に」3つぐらいにしぼった上で選びます。 その3つというのは大体、有名だとか、車内広告で見たとか、そういう理由で しぼられていて、彼らはその中からしか答えを出そうとしないのです。 これは夢を諦める人間の思考とまったく同じです。 彼らはやってもいないことを勝手に出来ないと決めつけ、自分から人生の選択肢を しぼっています。 その夢が叶うかどうかはやってみなければ分からないのに、その展覧会が面白いか どうかは行ってみなければ分からないのに、勝手に「出来ない」「面白くない」と 決めつけるのです。 これによって彼らの可能性が著しく狭まっていることは、言うまでもありません。 しかし彼らはそれを自覚していないし、気付こうともしません。 権威主義的な(ミーハーな)展覧会に集まる人間とは、こういう人間なのです。   さて、寄り道はこれぐらいにして、話を前に進めましょう。 われわれが持つべき3つ目の問いは 3.なぜ見るのか です。 なぜ自分はその展覧会を見るのか。 なぜ自分はこの作品を見るのか。 これには明確な答えは必要なく、問うことそのものに意味があります。 というのは、ガダマーが言うように 問いの本質は、可能性を開き、開いたまま保持することにある からです。 可能性を開いたまま保持するということは、その展覧会と、またはその作品と、 常に関係を持ち続けるということです。 それは必ずしも意識的に関係を持ち続けなければならないという意味ではありません。 心に残る作品や展覧会とは、すべて、事ある度にわれわれに「なぜ見るのか」という 問いを生起させるものだからです。 つまり「なぜ見るのか」という問いは、自分から意識的に持つようなものではなく、 あちら側から投げかけてくるものなのです。 それを上手く受け取れるかどうかは、あなたの人間としての器にかかっています。 小さなグローブでは、真正面にきた素晴らしいストレートのボールでも取り損ねて しまうのです。   最後の4つ目の問いは 4.見るとはどういうことか です。 これが「見るとは何か」という問いでないことに注意してください。 「見るとはどういうことか」という問いは、われわれにとって見るということが 何を意味するのか、ということを問うているのです。 難しい話になりますが、見るとは、われわれの存在の仕方の1つです。 われわれが何かを見ているとき、それはわれわれが見るという仕方で存在していると 言い表すことができます。 つまりこの問いは、哲学的に言えば それを了解しつつ見るという認識を可能にしているア・プリオリな諸条件とは何か ということであり、簡単に言えば 自分のことをもっと探求してね ということです(笑) 自分を探求することについて詳しく話し出すと立派な論文ぐらいの量になってしまうので 今は割愛させてもらいますが、1つだけヒントを出すと 常日頃から自分を自覚しておくこと を意識するといいと思います。 認知科学的な言い方をすれば、メタ認知(メタ思考)能力を鍛える、という感じになる でしょうか。 このことが「見るとはどういうことか」にどう繋がるのかは、やれば分かります。 気になったら、やってみてくださいな。   長くなったので最後にまとめておきましょう。 われわれが美術を「実存的に」鑑賞するために持つべき問いとは   1.何を見るのか 2.どう見るのか 3.なぜ見るのか 4.見るとはどういうことなのか   の4つです。 これらがすべて揃ったとき、われわれの前に「素晴らしさ」が現れます。 これは逆に言った方が実感しやすいかもしれません。 われわれが素晴らしさを感じているときには、無意識的にこういう問いを自分の中で 投げかけているのです。 それらの問いの総合的な答えが素晴らしさであり、実存です。 今はこれを理解できなくても構いません。 ただ、頭の片隅には置いておいてください。 ちゃんと努力を続けていれば、そのうち意味は「実感」できますから。   追伸1:所感など。 僕が『脱凡人のすすめ』という奇怪なタイトルのメルマガを出しているのは既に ご存知かと思いますが、そこでテーマにしてる「凡人から脱する」ことが美術を 「正しく」鑑賞することや美術を理解することに繋がっているということに 気付いている人は極わずかしかいません。 当たり前の話ですが、凡人に美術は理解できません。 だってそういう人間のことを、われわれは「凡人」って呼ぶんだから。 哲学も分かろうとしない、芸術も分かろうとしない、難しいことは何も分かろうと しない。 それが凡人です。 これは凡人をバカにしているのではなく、凡人の定義を述べているに過ぎません。 そうやって怠惰に生きることを何とも思わない人間のことを、われわれは凡人と 呼んでいるということです。 ちなみに、無知であることと凡人であることとは関係ありません。 誰だって初めてのことに関しては無知なのですから、そんなのは仕方のないことです。 そうではなく、自分が無知であることを知りながら、それを克服しようとしない人間が 凡人だと言っているのです。 「美術が分からない」と自覚していながら、その分からない状態をそのまま 放置しておく人間ってどうなのよ、と。 あんたそれでも人間として恥ずかしくないのかよ、と そんなんでよく自分の子供に、勉強しろ、なんて言えるな、と。 僕が言いたいのは、そういうことです。   ここまで言えば僕が普段から抱いている気持ちは分かって頂けたと思います。 僕もバカの類ですから、バカをバカにするような自虐行為はしません。 ただ、自分がバカだってことを知ってるなら、そのバカという短所は克服しようぜ、と 言っているのです。 「脱凡人」とは、人間としてまともに生きよう、ということです。 凡人のように怠惰に生きるのではなく、そこから脱して、人間らしく向上心を持って 生きよう。 そういう思いを込めています。 それはメルマガに限った話ではありません。 このブログも、もう1つのブログも、いつも気持ちは同じです。 僕がプロフィールに「教養主義」と書いているのは、こういうところに由来しています。 僕の教養主義は、自分がバカだと自覚しているからこその教養主義だということを、 分かってもらえると嬉しいです。 ありがとうございました。   追伸2:哲学。 この記事にはハイデガーとコリングウッドの哲学を織り込みました。 美術に負けず劣らず、哲学も楽しいですよ。     ...more»
∀ガンダムと人間の愚かさ
ども、ペスです。 性懲りもなく、この時期に∀ガンダムなんかを見てしまいました。 ∀ガンダムというと、一般には髭ガンダムと称され、ビジュアル的にはあまり 人気のないガンダムなのですが、その反面、内容は核兵器問題や民族主義問題、 エルサレム問題などの要素をつめ込んだ複雑で凝った作りになっており、 ユニコーンガンダムと並んで一目置かれる作品となっています。 また内容もさることながら、各キャラそれぞれの信念と偏見(思い込み)が織りなす 非合理的な結果が生々しく、いかにも今の自分たちを見ているようでした。   この作品が主に表現しているのは、人間の愚かさ、特に想像力の無さです。 各キャラが信念を持ち、それを貫くために“勝手な”行動を起こすことで物語は 悪い方へ悪い方へと進んでいきます。 冷静に話し合おうとしている自分たちの代表者をさしおいて、 「俺の妻はこいつに殺されたんだ!」 と暴走して“勝手に”銃で相手勢力の代表者を殺してしまう町の役人。 この時点でちゃんと話し合えていれば、被害者は最小で済んだはずなのに、 たった1人がこういう“勝手な”行動をすることによって全体の信用を失い、 その結果としてもっと大きな被害がお互いに生まれることになってしまうワケです。 こういう場面を見ると、見ている側としては「なんでそんなことするんだ!」とか 「こいつがこんなことさえしなければ・・・」とイライラしてしまうワケですが、 これがわれわれのような普通の人間です。 自分の妻を殺した相手勢力の代表者なら、殺したくならない方がおかしい。 妻を殺した直接の原因は軍による爆撃でも、その軍の指揮をとっていたのは相手国の 代表者に違いないんですから。 にもかかわらず、そのキャラに共感するどころかイライラしてしまうというのは、 それだけわれわれの想像力が働いていないということです。 そのキャラについて深い描写を事前に見せられていれば同情の余地もあるのでしょうが、 そうやって予めそのキャラのことを知ってないと、われわれはそのキャラに思いを 巡らせようともしません。 ましてや一話限り、数十秒しか登場しないようなキャラのことなど考えもしないワケです。 突然出てきて、勝手に相手勢力の代表者を殺して終わり。 このたった一場面だけを見て、われわれはそのキャラにイライラするのです。   こういったことはわれわれの日常にも溢れています。 単純な話、マナーの悪さにイラッとするのも想像力の無さが原因です。 例えば僕はタバコを道端に捨てる人を見る度にイラッとするのですが、それはその人の 「タバコを道端に捨てる」という場面しか見ておらず、その人の他の面を何も想像しない からイラッとしてしまうワケです。 いや、もちろん知り合いであってもイラッとすることには違いないんですけど、 その場合と上記の場合とは意味が違ってきます。 正直、知らない他人のそういう行動を見た時は、後ろからドロップキックを くらわせたくなります。 「いい歳こいて、何しとんじゃワレ!」とは言いませんが、それぐらいの勢いです。 実際に蹴飛ばしたことはありませんが、かなり感情的に反応してしまうことには 違いありません。 けれども、それが友達や知り合いとなるとそこまではいかず、注意することもあれば 「可哀そうだな(・・・いい人なのに)」と思うだけのときもあります。 「可哀そうだな」というのは、家や学校で躾をしっかり受けなかったんだな、と思って しまうということです。 つまり、その人の背後にある家や学校という可能性を想像することによって、 単なる感情的なイライラから、冷静でより総合的な判断が下せるワケです。 相手がどういう人間かを知っているからこそ、人間がどういう生き物かを知っている からこそ、その欠点もある程度許容できる。 それが寛容さの1つの原理なのです。   ここから分かるのは、われわれが(自然と)想像力を働かせるためには相手に関する 一定以上の知識が必要だということです。 特に相手の長所や生い立ちを知っているほど、それは働きやすくなります。 例えば村にウソばかりついて周りに迷惑をかけている狼少年がいたとしても、 その少年の長所や生い立ちを知っていれば、 「あの子がウソをついているのは、過去に両親が殺されたことを全部ウソにして しまいたいと思ってるからじゃないか」 ぐらいのことは考えられると思うんです。 少なくとも「あの子を村から追い出せ」とか「殺してしまえ」みたいなことには ならない。 だってその子には何も罪はないんだから。 そういう感情的で短絡的な答えを人間が出してしまうのは、想像力の欠如が原因であり、 何より相手のことを何も知らないことがその欠如を招いているのです。 ただウソをつきまくる少年と、両親を失ったことでウソばかり言うようになって しまった少年では、印象も共感もまるで違います。 どちらもやっていることは同じなのにもかかわらず、です。 それぐらい、相手に関する知識の有無がわれわれに大きな影響を与えているということ です。 たまに中国にある日本メーカーの支店がデモの暴動で被害にあったりしますが、 あの暴動を起こしている人たちは日本が毎年どれぐらい中国に資金援助(ODN) しているかを知りません。 ※日本が最も多く資金を援助しているのは中国です。 また、その日本のメーカーが中国に出店していることによって、どれだけ中国に雇用や 利益が生まれているかも知らないワケです。 だから、ただただ感情にまかせて暴れまくるしか能の無いようなことになってしまう。 彼らは彼らなりに愛国心を表現しているのでしょうが、自国を侮辱したことに 腹を立ててとったその行動が、結果として、自国を一番苦しめているのです。 これはわれわれも同じです。 愛国心から「尖閣諸島を守れ!尖閣諸島は日本の領土だ!」と叫んでいる人ほど、 実は日本の首を絞めていたりするワケですが、このことに気付いている人はほとんど いません。 あそこは色々な事情があって“まだ”そう言ってはならないところなのです。 詳しい事情については日中関係について調べてもらえれば分かると思いますが、 とにかく、日本人もそういう愚かなことをしているということです。   ∀ガンダムの中でも、現実世界でも、人間の愚かさはすべて無知から生まれています。 退け合い、憎しみ合い、奪い合い、そして殺し合う。 こういった野蛮な歴史はわれわれが無知である故に積み重ねられるのです。 ここで言いたいのは、相手を、人間を、知ってほしいということです。 どんな人間であれ、背後にはその人が生きた分だけ情報が詰まっています。 その情報の中には良い情報もあれば悪い情報もあるでしょう。 ただ、そこには良い情報も悪い情報も必ず両方が入っています。 その「必ず両方が入っている」という知識に関しては普遍的かつ確実なのですから、 まずはその知識を原動力にして想像力を働かせてほしいのです。 これが、言うは易し、であることは言うまでもありません。 しかし、これは“言うだけ”で効果があります。 何かあった時に、これを言える、もしくは考えるだけの冷静さがあれば、それで十分 なのです。   ソクラテスではありませんが、無知の知こそが人間を愚かさから解放してくれるのだと 思います。 ...more»
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