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いじめの構造と民主主義の関係
ども、ペスです。 先日のいじめのニュースに伴い、メディアではいつも通りしょーもない意見が大量に 垂れ流されています。 学校や教師の保身が云々、教育委員会が取り合ってくれない云々、根本的にいじめを 無くすにはどうすれば云々・・・まあ出てくる話はいつも同じです。 そんな議論でこの問題が解決した試しはないですし、それどころか状況は年々酷く なっているというのが実際のところでしょう。 たまたま見た番組でピーコが 「昔はいじめられていても助けてくれる人が必ずいたが、今はいじめられていても 誰も助けてくれない」 と言っていましたが、いじめが問題である理由は本質的には“これだけ”です。 歴史を振り返ってみれば明らかなように、いじめの構造そのものはずっと昔から 一度も無くなったことがありません。 貴族が奴隷をいじめ、一般人が魔女をいじめ、大国が小国をいじめ、健常者が 障害者をいじめ、アーリア人がユダヤ人をいじめ、白人が黒人をいじめ、多数者が 少数者をいじめる。 何千年もの間こういったことが繰り返されてきているワケですから、この話は本来、 学校のいじめがどうのという問題ですらないのです。 ただ、どんな時代にも必ず「そんな酷いことやめろよ」と訴える強者がいて、 そこから歴史は少しずつ前に進み続けてきました。 それは政治家であったり、哲学者であったり、科学者であったり、貴族であったり、 時には国そのものであったりしましたが、必ずそういう人が強者の中にいたのです。 今では当たり前となった民主主義や人権という考え方も、彼らがいなければ 生まれてこなかったかもしれません。 つまり、彼らは強者であると同時に少数派の先駆者でもあったワケです。   しかし、現代においては強者でありつつ少数派であるということは矛盾します。 昔は主に特権階級や物理的なパワーを持つ者が強者でした。 貴族である、軍事力がある、そういったものが強者を強者たらしめていたワケですが、 現代における強者は「多数者」です。 多い方が偉い、多い方が正しい、多い方が正義である。 国政を見れば分かるように、それが現代の先進国を支えている民主主義思想なのです。 ですから、「弱者を守る」という少数派な意見を発した時点で、その本人は必然的に 弱者になります。 いくら特権階級であっても、力があっても、です。 学校での暴力的ないじめであれば、本人が肉体的に強くなることによって 解決できることもあるかもしれませんが、匿名で行われる陰湿なネット上での 誹謗中傷などは本人の努力でどうなるワケでもありません。   普通、多数者は少数者を疎外することによって多数者たらしめています。 子供でも知っている「多数決」という決め方がまさにその典型で、少数派に属した時点で その人の意見や存在は無視されるのです。 もちろん表面上は「少数派の意見も参考にしましょう」という話に落ち着くワケですが、 本当に心からそう思っている多数者はその中でも少数であり、多数者の過半数が 「他の意見は無視する」と暗黙の判断を下すことによって現実的には無視される結果に なるということです。   今の日本では多数者である高齢者が少数者の若者をいじめる構造になっていますよね? 高齢者は自分たちが損をしたくないから若者の味方なんてしないワケです。 社会保障や年金を引き下げられたりしたら、たまったもんじゃないですから。 中には若者側についてくれる人もいますが、そういった人は高齢者から白い目で見られ、 票を集められず、結果として力を持つことができません。 だから高齢者が若者をいじめる構造がなくならないのです。   いじめられている子を助けようとした子が次にいじめられた。 こういう例はたくさんあります。 なぜこんなことが起こるのかというのは、さっきの説明が理解できていれば すんなり答えを導くことができます。 つまり、助けに入った子は多数者側から少数者側に移ったことで弱者になり、 助ける力を失って自分もいじめられる立場になってしまっただけなのです。 これは民主主義の構造上、“必ず”起こってしまう悲劇です。 基本的人権を謳っている民主主義国家が、その人権を無視する構造を内包している というのは皮肉でしかありませんね。   では、なぜ昔はピーコが言うようにここまで酷いことにならなかったのでしょうか。 昭和と言えども、日本が民主主義であったことには違いありません。 であるならば、同じようないじめがあってもおかしくないと考えるのが自然です。 しかし実際に昔は今ほど酷くはなかった。 その理由は、その頃はまだ多数者であること以上の権威が残っていたからです。 例えば一昔前の学校の先生や父親というのは権威の塊のようなものでした。 悪いことをしたらビシバシ体罰も与えるし、先生に逆らおうものなら教室に入れて もらえないことだってあったワケです。 またガキ大将というシンボルからも分かるように、子供たちの中でもそれなりの 格付けがあって、その権威にそった社会ができていました。 彼らの中でガキ大将になるためには力以上に尊敬され慕われるような人間性を 持っていなければならず、だからこそ当時のガキ大将は周りから一目おかれていたと 言えます。 つまり、強者の条件として多数者であること以上の資質が問われていた時代だったから なんとか上手く回っていたのです。   さて。 今までの話から導かれるのは、「少数者を守る」という意見や態度を多数者に 持ってもらうことができればすべて解決する、ということです。 これは民主主義の構造と時代性を考慮すると非常に難しいのですが、理屈としては 不可能ではありません。 要は、多数者の中にリーダー的な人を生み出し、その人に他の人たちを引っ張って もらえばいいワケです。 ただし、このリーダーにはそれ相応のリスクが発生します。 「少数者を守る」と主張しても賛同が得られず、自分はリーダー的な地位から 単なる少数者になってしまうのではないか、というリスクです。 そうなれば元はリーダーであっても、その人は干され、下手をすればいじめを 受けることになるでしょう。 若者の味方をする高齢者のように・・・。 いじめっ子に立ち向かう(少数者を守る)、という意見は基本的に多数者にとって リスクでしかありません。 みんなで立ち向かえば勝てるのかもしれませんが、周りの人がもし裏切ったら 今度は自分がいじめられるかもしれないワケです。 そんなリスクをおかすなら、何もせずにじっとしていた方が安全だ。 そう考えるのが普通でしょう。 なぜなら、仮にいじめられている子を救えたとしても、そこから得られる表面的な利益は 何もないからです。 高齢者が若者の味方をすることで得られる直接的な利益は何もないからです。 そう、こういう損得勘定でしか物事を考えられない人間が多数者になってしまったが故に この問題は深刻さを極めているのです。   本来、いじめられている子を助けるか助けないかは道徳の問題です。 つまり「助けた方が得か」ではなく、 「人として、いじめを放っておくのはどうなのか」 という判断において行われるべきものなのです。 もちろんそれが出来るか否かという問題はあります。 助けるべきだと判断しても、自分にそれだけの能力がなければ助けられないかも しれません。 ただ、周りの人間の心を動かすのは、いつだって道徳的に正しい人間なのです。 自分の好きなドラマや映画、マンガ、アニメの主人公を思い出してみて下さい。 彼らがみんな輝いて見えるのは、われわれが「本来、人はこうあるべきだ」と思っている 道徳を貫いているからです。 モンスターに襲われている街を保身のために見捨てる勇者がいますか? いないですよね? 事件が難解すぎるからといって解決を諦める名探偵がいますか? いないですよね? いじめの問題を解決せずに放っておく伝説の教師がいますか? いないですよね? だから彼らはわれわれの心を惹きつけてやまないのです。 そして、われわれがそれに共感できるのは、われわれも心のどこかで 「本来、人はこうあるべきだ」 と思っているからです。 その心の奥深くに埋まってしまった現代人の道徳観を掘り起こすことでしか、 現代のいじめの構造は崩せないと思います。 それぐらい歴史的にも人間的にも根の深い問題なのです。   昨今のいじめ問題は、それを傍観することしかしない我々全員の問題です。 すなわち、テレビを見ながら「学校が悪いよなぁ」とか言っているその人自身も 実は間接的な加害者なのです。 そういった雰囲気、社会、環境が子供たちをいじめに向かわせ、それを止めようとする 人間の道徳観(日本人の武士道)を衰退させているのですから。   人間はどうあるべきなのか。 自分はどうありたいのか。 これを考えることが、すべてのスタートなのではないでしょうか。 ...more»
民主主義国家の末路
  この頃の政局は荒れまくってますねー。 しかし、あの【麻生おろし】ってネーミングは どうなんでしょ?? 仮にも「自分たちが選んだ」日本の代表である総理大臣を あんな風に言っちゃうってのは、ちょっと、ねぇ・・・。 僕はどっちかというとイケてない総理を選んだ方に 責任があるんじゃないかと思う一派なんですが、 どうやら政府の方々やメディアの自覚は薄いみたいです。 そういえば、政局は自民か民主か、みたいになってますけど、 この二元論的な【アレかコレか】という考え方自体が 誤りだということにそろそろわれわれは気付かないと いけません。 もうそんな近代的な時代はとっくに終わったのですから。 今はむしろ【アレはアレ、コレはコレ】という時代。 つまり、決められた選択肢から選ぶのではなく、 自分で正しいと思う選択肢を作り出さなければ ならない時代だということです。 今の日本の政治システムでは決められた選択肢(政党)から 選ぶしか方法はありませんが、それがそもそも既に時代遅れなのです。 また国が地方すべてを一元的に管理しようっていうのも 近代的な考え方ですから、これも時代遅れ。 (今は近代の次、ポストモダンの時代です) 橋本知事や東国原知事なんかはこの辺のことを 危惧しているっぽいですが(だから地方分権を 推し進めようとしているのでしょうが) まだまだ日本の行く末は不安定ですねー。 さてさて、冒頭から珍しく政治ネタに触れたところで 今回は政治の本体である【国家】に関わる話を していきたいと思います。 国家と言えばプラトンです。 プラトンの著作【国家】はあまりにも有名ですね。 読んだことはなくても、名前ぐらいは聞いたことが あるんじゃないでしょうか?? 内容はザックリ言えば 「正義って何なんだろう?」 「個人の正義を考えてたら長くなりそうだから 個人の集まりである国家の正義を最初に考えて それを最終的に個人に当てはめよう」 という感じ。 そんな話が延々会話形式で進んでいきます。 その中でプラトンは民主制(民主主義)について 言及しているんですが、これがねー、なんというか 面白いことに今の日本の状況そのまんまなんですよ。 思わず 「すげーよ、プラトン」 と呟いてしまうほどに、そのまんま(笑) プラトンは民主制について 民主制は、〈自由〉を善と規定する。 他方で民主制は、支配者に従順な者たちを、 自分から奴隷になるようなつまらぬやつらだと 辱しめるだろう。 個人的にも公共的にも賞賛され尊敬されるのは、 支配される人々に似たような支配者たち、 支配者に似たような被支配者たちだということになる。 このような国家においては、必然的に、自由の風潮はすみずみにまで 行きわたって、その極限に至らざるをえないのではないかね? たとえば父親は子供に似た人間となるように、また息子たちを 恐れるように習慣づけられ、他方、息子は父親に似た人間となり、 両親の前に恥じる気持ちも恐れる気持ちもなくなる。 自由であるためにね。 そして居留民は市民と、市民は居留民と、平等化されて 同じような人間となり、外人もまた同様だということになる。 このような状況のなかでは、先生は生徒を恐れてご機嫌をとり、 生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育掛りの者に対しても同様の 態度をとる。 一般に、若者たちは年長者と対等に振る舞って、言葉においても 年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、 面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、 若者たちを真似て機智や冗談でいっぱいの人間となる (プラトン著【国家】下巻より引用) って言ってます。 つまり 「民主制は自分勝手で個性のないバカな人間を生み出す」 ということです。 まさに前回僕が解説した相対主義の世の中そのものですよね? そしてもう分かったと思いますが、民主主義こそが 相対主義を生み出した原因だったということです。 われわれは通常、民主主義国家における自由や平等が 「良いもの」かのような教育を受けます。 社会主義のソ連は崩壊したし、更に社会主義が行き過ぎた 共産主義は中国みたいになってしまう。 だからアメリカやヨーロッパ諸国や日本のような自由と平等が 尊重される民主主義が最も優れた政策なんだ、と。 「最も優れた」とは言わないまでも、それに近いニュアンスで 教育を受けることには違いありません。 しかし、その「良いもの」を突き詰めた結果がコレです。 われわれは自由と平等を手に入れた代償として、 民主主義が堕落した個性のない傲慢で凶暴な野蛮人を生み出す ということを身をもって証明してしまったのです。 かつて、ハイデガーの弟子であるハンナ・アレントは没個性こそが 悪を生むと言い、トクヴィルは多数者の専制(民主主義)と平等が 思いやりのないバカを生むと言いました。 そして、プラトンも何千年も前に現在の状況を予見していた。 民主主義の末路は、それほど自明だったワケです。 さてさて。 民主主義の真実を知ってしまった今、われわれは 何を信じて生きていけばいいのでしょう? 今のままでは日本はバカと自己中と野蛮人の温床と 化してしまう。 いや、もう既に温床だと言ってもいいでしょう。 われわれはこんな人間であふれた世界を 望んではいないはずです。 出来ることなら、賢くて思いやりのある人間で溢れた世界を つくっていきたい。 少なくとも僕はそう思っていますし、ほとんどの人も そう望んでいると僕は信じています。 じゃあ、そんな世界を作るにはどうすればいいのか。 あくまでも僕個人の考えですが、この問題を解決する キーワードとなるのが、エーリッヒ・フロムが 「自由からの逃走」という著書の中で定義している 理性的権威 だと思っています。 理性的権威というのは、尊敬とか感謝とか 人々のそういった感情から生まれてくる権威のことです。 例えば、会社に尊敬出来る上司がいたとしましょう。 仕事は早いし、気遣いも細かい。 気前は良いし、部下にも大人気。 昼ご飯もいつもおごってくれる。 そんな神様のような上司が「この仕事、手伝ってくれない?」 と頼んできて断る人はまずいないでしょう。 これは上司だから断れないという感情もあるかもしれませんが、 それ以上に【この人の頼みなら喜んで!】という感情も あると思うんですね。 そういう感情を起こさせる権威が理性的権威です。 イチローがボール拾いを頼んで断る一般人がいるか、 って話ですよ、要するに(笑) みんな喜んでボール拾いするだろう、と。 この場合、一般人はイチローの理性的権威に服従した、 ということになります。 服従って言うとイメージ悪いですけど、現実には 「喜んで引き受けた」ってことです。 通常、権威とは圧力的でイヤなイメージがありますが、 理性的権威はむしろ喜んで受け入れたくなるような そーゆー感情を引き起こすものです。 さて、この理性的権威が今の時代にどう役に立つのか。 その辺の話は乞うご期待(笑) ではではー。 ...more»
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