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川島なお美の死から学ぶべきこと
既にご存知だとは思いますが、川島なお美さんが亡くなった、 という悲報が一昨日から世間を騒がせています。 各種メディアでも連日彼女の夫である鎧塚氏のコメントや 彼女の秘話などが取り上げられ、有名芸能人が亡くなったときの いつものパターンになっているワケですが、普段この手の話題を まったくと言っていいほど取り上げない僕が敢えてこんな話を 冒頭に持ってきたのにはそれなりの理由があります。 それはある記事で、彼女が死ぬ直前まで、肋骨が折れているのを 隠してまで舞台に出演していた、ということを知ったからです。 その記事を読んで僕は自分にこう問いかけざるを得ませんでした。 「もし自分だったら肋骨が折れてもセミナーをやるだろうか」、 「死ぬ直前までメルマガを書こうとするだろうか」と。 今までメルマガでも何度かこの手の話をしたことがありますが、 この記事を読むまでそのことをすっかり忘れてしまっていた、 というのが正直なところです。 昨日も東京でセミナーをやりましたが、そこまでの気持ちで やれていなかったことを、今は猛烈に反省しています。 かつて、僕が師と仰ぐ人にも「今日が最後のセミナーだと 思って話せ」と教わりました。 今日が最後。 これは非常に重い言葉です。 われわれ現代人が本気でそう思って何かをやり遂げることは 簡単ではないですが、その意識すら飛んでしまっていたことは、 僕の中にもまだまだ凡人が居座っていることを意味します。 凡人とは、今死んで後悔する人間のことです。 片腕がなくなっても、親が死んでも、ホームレスになっても やり通したいと思えることを、われわれは一刻も早く見つけ 実行しなければなりません。 それこそがわれわれを最も輝かせる生き方であり、 人間的美しさに貢献する生き方なのです。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合はこちらをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。   ...more»
目標の形而上学 ~神が与えし目標~
  毎年この時期になると世間では「来年はどうするか」的な話題が 増えてきます。 今年はこうだったけど、来年はああしよう。 まだこうやって反省をしているならいい方だと思うのですが、 多くの人はこれすらせずに忘年会やら新年会やらで1年間の 大切な経験を水に流してしまっているような気がします。 もちろん来年も余裕で売り上げが右肩上がりで伸びていく 自信と根拠があるなら問題ないと思うのですが、一般に、 この時期にバカ騒ぎしている人というのは、僕の偏見かも しれないですが、どうもそういう余裕のある人には 見えません。 どちらかと言えば、そんな余裕のない状況だからこそ、 その現実から目を背けるために、飲んで騒いでいるように 見えます。 僕もこの時期だけは付き合いで1,2回程度、忘年会や新年会と 呼ばれるものに参加することがあるのですが、そういう場では (いや、そういう場でなくても)まず「まともな話」が出てきません。 これが個人的にはいつも虚しいです。 別にそれは哲学や芸術の小難しい話をしろと言っているワケではなく、 自分たちの生活に直結する話、つまり税金のこととか雇用のこととか 金融危機のことぐらいは出てきてもいいんじゃないか、ってことです。 酒を飲みながらでもいい。 バカな話を交えながらでもいい。 それでもいいから少しは現実を見つめようよ、と。 そう毎度毎度思ってしまうのです。   こうして見たくないものからとことん目を背けている割には、 みんな性懲りもなく毎年新年の抱負だけはちゃっかり(?) 立てたり立てさせられたりします。 今年こそは痩せる。 今年こそは脱サラする。 未来の自分に興味があるのは結構なことですが、いつの時代も その抱負を達成する人というのは少ないものです。 それは僕がぐちゃぐちゃ詳細に説明するまでもなく、 今言ったことや周りの人間の様子を見れば明らかでしょう。 けれども、世間の人は飽きもせずに毎年毎年同じような抱負を 同じように立てて「今年もダメだったなー」とか同じようなことを 言いながら一生を終えていくワケです。 そんな人生もそれはそれでアリなのかもしれませんが、一生に 1回ぐらいは「目標」というものに真摯に向き合ってみては どうだろうか、というのが僕の個人的な意見です。 こういう意見の人は僕だけではないようで、これまた世間には 目標達成法なるものをまとめた本がそれなりの数売られていたり します。 そういう本がベストセラーになってしまうのは仕方ないとして、 ベストセラーになるほど売れた割には、周りに目標を達成できて いる人が少ない気がするのは、僕の気のせいなのでしょうか。 それとも、もしかして僕が知らないだけで、みんな黙って成功 しちゃっているのでしょうか。 それならちょっぴり寂しいと同時に非常に喜ばしいことですが、 今はそうではないと仮定しておきます。 となると、目標を達成できる人は依然として少ないことになるワケで、 それはなぜなのかを考えたくなるのが子供心というヤツです。 どうして目標は達成できないのか。 どうすれば目標は達成できるのか。 前書きがやたら長くなりましたが、今回はそんなことを徒然と 考えていきます。   そもそも僕らはなぜ目標を立てるのでしょうか? 目標なんて立てなくても死にはしないし、そんなものなくても 普通に生きていけるのに、どうして目標が必要なのか。 ある人はこう言うかもしれません。 ゴール(目標)がなければスタートできないからだ。 しかし、僕らはゴールを決める以前からずっと走り続けています。 どこに向かっているかは明確ではないかもしれませんが、人生という レースは既にスタートしてしまっている。 となると「ゴールがなければスタートできない」という意見は僕らの 現実と噛み合いません。 この「スタート」が「ゴール(目標)に向かい始める」という意味で あれば、その意見は確かに正しいことになりますが、それなら スタートよりも「方向転換」と言った方がしっくりくる気もします。 僕らの人生は生まれた瞬間がスタートであり、それ以降は死ぬまで ずっと過程でしかないのです。 また別の人はこう言うかもしれません。 ゴール(目標)がなければどこに向かって走ればいいか分からない からだ。 本当にそうでしょうか? もしそうだとしたら、僕らは生まれた瞬間から何かしらの「目標」を 自分で決めておかなければならない、ということになります。 ですが、僕らは自覚的か無自覚的かは人それぞれだとしても、 常に何かに向かって走っているのですから、どこに向かっていいか 分からないというのは、僕らの行動と矛盾しています。 マラソンのゴールは走り出してから決まるのでしょうか? 僕はそんなスポーツを見たことがありません。 こうなると疑問になってくるのが「目標」そのものの存在です。 今は「なぜ目標を立てるのか?」を考えていたワケですが、 それは目標を立てることが前提にあります。 目標は立てるものだ、目標は立てなくてはいけない、でもなぜ 立てなきゃいけないんだ?というのが今考えていたことです。 しかしそれは本当に必要なのだろうか、と問うてみると新しい道が 見えてこないでしょうか?   もし僕らに「目標」が必要ないとしたら、世の中に出回っている本で 言われているようなことは、すべてウソとは言わないまでも、すべて 空虚なものになってしまいます。 先ほども言ったように、僕らは自分が自分だと認識する以前から既に スタートを切っています。 どこに向かっているかを自覚している人は非常に少ないですが、 それでも全員がどこかに向かって走っている。 つまり、世間で言われるところの「目標」を持たずに大よその (少なく見積もっても5~10年以上の)人生を走ってきたワケです。 なのにどうして世間では「目標を立てるのが当たり前」みたいな 空気があるのでしょう? これについての意見も色々あるでしょうが、代表的な意見は こういうもののように思います。 目標がないよりも、目標がある方が今やるべきことが明確になり、 人生をより有意義にできるからだ。 仮にこれが100%と正しいとしましょう。 だとしたら、哲学も数学も物理学も生物学も考古学も歴史学も プログラムの知識も料理の知識もすべて「ある方がより人生を 有意義に」できるはずですから、それは「目標」に限ったことでは ないことになります。 目標が無ければそれらを学ぶことができないというのであれば 納得もいきますが、別に目標がない人でも数学がひたすら好きで 勉強している人は山ほどいるし、僕だって別に哲学的に達成したい 目標があって勉強しているワケではありません。 その他の分野についても然りです。 百歩譲って哲学や数学は「目標」に対して優位性が劣るとしても、 料理や経理や自分が関わる専門分野の知識などは、実際のところ 「目標」よりも優先されることだと思います。 より現実的なことを言うならば、新年の抱負を考えている時間を 使って、もっと他の勉強をした方が給料は上がるかもしれない ワケです。 それを差し置いて、どうしてそれらの中で達成されもしない 「目標」だけが特別扱いされなければならないのでしょう? そう考えていくと「目標」それ自体の必然性や優位性はどこにも 無くなってしまうのです。 「今やるべきことが明確になる」という点は重要な視点なのですが、 ここで言っている「目標」から導かれる「今やるべきこと」には実は あまり意味がありません。 その理由は後半に譲るとして、少なくとも「ないよりあった方がいい」 というしょーもない理由は何の根拠にもなり得ないのです。 では最後に、こう問うてみることにしましょう。 目標を立てることは可能なのか?と。 上の方で言ったように、僕らの人生は死ぬまで過程でしかありません。 始まりも終わりもない経過地点。 いつもそれが僕らの人生です。 であるならば、僕らが立てられる「目標」、すなわちゴールも結局は 人生の経過地点であり、本来的な意味でゴールには成り得ないことに なります。 1億円稼ごうが、10キロ痩せようが、脱サラに成功しようが、 どれもこれも一時的な結果であり経過地点に過ぎません。 もちろん最初から「目標」を経過地点という意味で考えているなら それを立てることは可能ですが、その場合その「目標」はもはや 目標では無く、次の「目標」のための経過地点としか呼べなくなる ことになります。 その次の「目標」はまた次の次の「目標」のための経過地点となり、 さらに次の次の「目標」はまた次の次の次の・・・と、これを 繰り返していくとどこまでいっても「目標」は目標としての意味を なさなくなる。 つまり僕らは究極的な意味で目標を立てることが出来ないのです。   目標を立てる必要もなければ、立てることもできないというのは 一般的な感覚からしたら、なんと虚しいことでしょう(苦笑) あれほど世間では当たり前に大事とされていることが、これほど まで空虚なことだとは、恐らくほとんどの人は気付いてないと 思います。 これまたみんなが知ってて黙ってるだけなら嬉しいんですが、 それはないということにしておきます。 ただ、本題はここからです。 僕がここまで大多数の目標という言葉にカッコを付けていたことに お気付きでしょうか? 普通に読んでいたら何とも思わないかもしれませんが、それは 強調したいから付けていたのではなく、その「目標」を目標とは 違う意味で使っていたからなのです。 「目標」とは、ここまで説明したように、立てる必要もなければ、 立てることもできない空虚な目標(経過地点)のことです。 それに対して、ここからお話したいのは本当の目標、すなわち “死” に関するお話です。 正月前に縁起でもないことを、と思われたかもしれませんが、 縁起も何も僕らはいつだって死と隣り合わせに生きています。 それを口にしなかったり、まともに向き合わなかったり、一時的に 無自覚だったりしているだけで、誰もがその事実を抱えている。 世間一般には、それを口に出すことは暗黙のタブーのようになって いますが、それは倫理上マズイからではなく、なぜだか分からない けれども(いや、分かってるんだけども)、その言葉が一気に空気を 冷やしてしまうからです。 これは実際に言ってみればすぐに分かります。 飲み会の場で 「明日死ぬかもしれないのに、何下らないことやってんだよ!」 と言えば、間違いなくその場は冷めます。 こんなのはやる前から分かっているので、わざわざやる必要は ないですが、とにかく僕らは遥か遠くにいる未来や過去とは 必死で向き合おうとするのに、すぐ隣にいる死とは“なぜか” まともに向き合いたがらない性質を持っているワケです。 しかしながら、その死が僕らが唯一知りうる“確実な事実”で あることは間違いありません。 僕らはいつか絶対に死ぬ。 そのことを知らない振りをしているたくさん人はいても、本当に 知らない人はこの世にはいないと思います。 そして、死んだらそこで人生が終わる、ということもみんな 知っているはずです。 死は人生におけるゲームオーバーであり、ゲームクリアです。 ゲームであればクリアするまで何度でもリセットできますが、 人生は一度きり。 つまり人生においてはゲームクリアが同時にゲームオーバーで、 ゲームオーバーが同時にゲームクリアなのです。 通常、僕らがゲームをしているときに目標としているのは、 そのゲームをクリア(完遂)することです。 最初のボスを倒し、次のボスを倒し、ラスボスを倒す。 そもそもボスがいるかどうかはゲームの内容にもよりますが、 何にせよ基本的には「やり遂げること」がゲーム自体の目標と なっています。 だからこそ、それを完遂できずに途中でゲームオーバーになって しまったら、悔しいとは思わないまでも、なんとなく頂けない 気持ちになってしまうワケです。 ですが、それでも終わってしまうのが人生です。 それは思いもよらない瞬間に終わることもあれば、ある程度 想定通りに終わることもあります。 いつどこで誰がどうなるかは分かりません。 ただ今言ったように、人生において終わり(ゲームオーバー)とは 同時にゲームクリア(目標達成)なのですから、 「死」=「人生の終わり」=「ゲームオーバー」=「目標達成」 ということであり、それは 「死」=「目標達成」 ということなのです。   僕らの目標は死んだときに達成されます。 それは「死=目標達成」なのだから当然ですが、だとしたら 僕らは死そのものを目標にせざるを得ないことになります。 なぜなら、どう足掻こうとそれ以外には目標(最終地点=ゴール)に なることができないし、それ以前に、僕らがそれを目標として望む 望まないにかかわらず、最初からそれは揺るぎない定めとして僕らの すぐ隣に存在しているからです。 この絶対的な事実を、誰にも変えられない目標を無視しているから、 多くの人は「空虚な目標」しか立てられないし、そんな「目標」を “立ててしまう”のです。 では「死を目標にする」とは具体的にはどういうことなのか。 死にたくて死ぬ人が少数派であることを考えると、死を目標にする というのは何だか変な表現のような気がします。 また人間は死ぬ気さえあればいつでも死ねるワケで、その意味で 目標達成は容易だとも言えます。 そんなものを目指して何になるのか。 素朴に考えれば、そう感じるかもしれません。 それは確かにごもっともで、僕自身も何も知らなければ普通に そういう感情を抱いてしまうと思います。 しかし自分が死んだときのことをいくつか想像してみて下さい。 どれも「死んだ」という事実は同じかもしれませんが、「死にざま」や 「死に方」は違うのではないでしょうか? 何万人の人に凄く悔やまれながら死ぬ死に方と、誰にも悲しまれずに ただ淡々と作業として終わってしまう死に方。 どちらの死に方が僕らにとって理想的でしょうか? もしかしたら死んでしまえばみんな同じなんだから、そんなことを 考える意味はないと言い捨てる人もいるかもしれません。 ですが、それは違うと断言できます。 死を考えることに意味がないということは、目標そのものに 意味がないということであり、目標に意味がないのであれば、 それを達成するための過程である人生にも意味がないことになります。 要は、生きることに意味は無い、と言っているのと同じなのです。 ですから、死について考えることを否定した時点で、その人は自分の 生きる意味も同時に否定していることになり、結果として、自分で 自分自身の発言そのものすらをも否定していることになるのです。 この議論に首を突っ込むとなかなか抜け出せなくなるので今は 深くは語りませんが、簡単に言っておくと、人生には「意味が無い」 のではなく、人生の意味は生きている時点では、いや、ある意味では 永遠に「未確定」なのです。 何のために生きるのか。 その答えが人生の意味なワケですが、最終的にその人の人生が 何のためになったのかを判断“できる”のは本人ではなく、 残された人たちなのですから、そこに意味が生まれるのは、 本人の人生が終わってから、つまり死んでからになります。 すなわち、生きている本人が人生の意味を知ることは原理上 絶対にできないのです。 もっと言えば、残されている人たちも入れ替わり立ち替わり 死んで交代していくワケですから、ある人の人生の意味は 歴史的にどんどん変化していくことになります。 核が人類の希望であった時代もあれば、現代のように人類の 絶望になってしまうことがあるように、モノやコトの意味は 時代と共に変わる。 これ以上行くとさすがに脱線してしまうので、ここで強引に 話を戻しますが、人生の意味が死ぬまで未確定である以上、 生きている時点で僕らに出来るのは、可能な限りこういった 歴史的な解釈に耐えうる存在になること、平たく言えば 「死んでも忘れられない存在」 になろうと努力することなのではないか、ということです。 もちろん忘れられてもいいと思うのは人の勝手ですが、 僕らは存在を忘れられた時点で「存在しなかった」ことに なりますから、それは今自分が生きている意味そのものを 否定していることになります。 そんな人生、虚しくないですか? 「目標を見失う」とは、本当はこういうことを言うのです。   あなたにとって「最高の死」とは、どういったものでしょう? どこでどんな風に何をしている時に死ねれば本望でしょう? その答えはいつも、 今を全力で生きること にあります。 今を全力で生きてさえいれば、いつ死んでも後悔することは ありません。 それは結果が出ていなくても後悔しないという意味ではなく、 結果が出ないはずがない、という意味です。 この記事の中盤辺りで 「目標があれば今やるべきことが明確になる」 ということが重要な視点だと言ったと思いますが、その理由は 最高の死という目標を考えることで、今やるべきことが明確に なると同時に、言葉通りそれを“全力”で行えるようになるから なのです。 そして何より、その全力で生きることができているという事実は、 常に自分にとって最高の結果なのです。 ある人にとってはそれは絵を描いているときかもしれません。 また別のある人にとっては料理を作っているときかもしれません。 人それぞれ何が最高かは異なりますが、それをやっているとき、 自分が最も自分らしくあれるとき、それが最高の人生(過程)であり、 そうやって死ねることが最高の結果なのではないでしょうか。 目標とは達成するために立てるものです。 だとしたら、死という目標が必ず達成されるようにできているのは、 自然なことなのかもしれません。 その真意は神のみぞ知るところですが、せっかくそういう風に できてるんだから、いちいち難しいことを考えずに、そういう風に 生きればいいじゃない、ってことです。 そしたら“自然と”そういう風になりますよ、きっと(笑) ではでは、来年もよろしくお願いします。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
現実を現実的に生きる
  世間では「現実的に考えろ」とか「現実と理想は違う」 という言葉をよく耳にします。 学生が社会人になって「現実を思い知らされた」なんてことは よくあることですし、企画や政策が現実的であることに重点が 置かれるのは、もはや常識です。 しかし、いざ【現実】や【現実的】とは何なのかをちゃんと 説明しようと思うと、モヤモヤしていて意外と説明出来ないことに 気付くと思います。 なんとなく「自分が感じ取れるもの」が【現実】で 「実現が可能そうなこと」が【現実的】、というぐらいの 答えは出てくると思いますが、実際、自分の中でその答えが シックリくるかというと、恐らくそうではない。 かと言って「現実とは何か」という問いに1時間も2時間も 費やす価値は無いような気がする。 恐らくこれが普通の感覚でしょう。 つまり、普通一般的には【現実】なんてものを考えよう という発想自体が皆無だし、仮にそれを考えろと言われたところで 考える価値すら感じない、ということです。 その理由はもう今まで散々言ってきているように、 現実というものが僕らにとって当たり前過ぎるからに 他なりません。 普通の人にとって「当たり前のこと」を一々考えるのは、 アリに聖書を読み聞かせるぐらい無益で無駄なことなのです。 にも拘らず、どうして僕はそんなことを一々ブログに 書こうとしているのか。 それは多分僕が変人だから、というのもありますが(苦笑) それ故に(?)【現実】や【現実的】を考えることに 意義があると思っているからです。 その理由の中にはもちろん「哲学的に意義深い」というものも 含まれます。 でも僕にとって重要なのは、 僕らは現実を生きている という事実に目を向けること。 わざわざ僕がこんなことを書くということは、普通の人はみんな 現実を直視せずに生きている、と僕は思っているということです。 もしかしたらそれは僕の大きな勘違いなのかもしれませんが、 僕が見る限り、僕の周りのほとんどの人は現実を現実的に 見ることが出来ていないように思います。 毎日着たくもないスーツを着、乗りたくもない満員電車に乗って、 やりたくもない仕事をやって・・・これらは僕から言わせれば 現実を現実的に生きているとは言えないのです。 それは何故なのか。 今から詳しく説明しましょう。 僕らは現実を生きています。 死んでしまったら僕らは現実を生きることは出来ません。 つまり僕らが生きていること、それ自体が現実なのです。 そして「生きている」ということは、常に死ぬ可能性を 併せ持っていることを意味します。 生きてなければ死ぬこともないし、生きているからこそ 僕らはいつか死んでしまう。 これは言い換えれば、僕らは毎日「死ぬ可能性」という 究極の不安を背負って暮らしている、ということなのです。 この「死ぬ可能性」をハイデガーは有限性と呼び、この有限性を 自覚して生きている者、すなわち【現存在】であることが 現実的に生きる(存在する)ことだと言ったワケですが、 僕が言いたいのもまさしくそれと同じです。 要するに 「現実を現実的に生きる」とは、毎日常に死の不安と 向き合いながら生きることであり、それはつまり、 いつ死んでも後悔しない生き方をいかなる瞬間においても 実行すること なのです。 先ほど書いた例をもう一度書きます。 毎日着たくもないスーツを着、乗りたくもない満員電車に乗って、 やりたくもない仕事をやって・・・ こんなことをやっている人間を果たして「現実を現実的に 生きている」人間だと言えるでしょうか? 死の不安を自覚している人間が、やりたくもない仕事を やろうなんて思うでしょうか? 僕らは今日、まさにこの瞬間に死ぬかもしれないのです。 にも拘らず、やりたくもないことをやってる時間なんて 本当にあるのでしょうか? それを今一度、見直してみて欲しいのです。 現代の日本においては、身近な人が亡くならない限り、 死を実感することは無くなってしまいましたし、 長寿高齢化によって80歳ぐらいまで生きることは 当たり前のように扱わるようになりました。 また医学の発達によって死ぬはずだった人も 生きることが出来るようになりました。 これらの影響で、僕らは死の不安から解放されたかのような 錯覚を抱いてしまっているワケですが、実際、死というものが 僕らから引き離されたかというと、そうではない。 それはあくまでも錯覚であって、死神は常に僕らの隣にいるのです。 世間では未だに「やりたいことをやりなさい」的な本が 散見されます。 しかし、現実を現実的に生きている人間(以下現存在)にとっては それこそが自明のことなのです。 僕の友人(だと思っている)に川田祐子さんという 現代画家の方がいます。 彼女は僕が現存在であると思う数少ない人間の一人なのですが、 彼女が先日Twitterでこんなことをつぶやいていました。 「たとえ最初の一筆でさえも、ここで自分の命が絶えて 2本目を引くことができなくても、作品として残すことができる」 という気持ちで描くのと、そうでないのとでは、作品の出来具合に 相当な開きが出て来ます。 現存在は、こんなことがサラッと言えてしまうのです。 本人に確認したワケではありませんが、恐らく彼女にとって この発言は当たり前のことでしかなく、誰かを驚かすための 発言でも、自分を誇示するため発言でもありません。 彼女はあくまでも事実を述べているだけだと思うのです。 この発言から学べることはいくらでもありますが、 1つ重要なものを挙げるとすれば、彼女自身と在り方と 彼女の貢献度(作品)が切り離せないものになっている、 ということです。 上記の発言の裏を読むと「有限性を意識せずに生まれた作品は 中途半端で腐ったものでしかない」と解釈できます。 つまり、現実を現実的に生きていない人間の生み出したものは 最良のものには成り得ない。 すなわち、やりたいことを(全力で)やっている人間だけが、 自分にとって世界にとって最良・最善のものを生み出せる、 ということなのです。 もうお気付きかと思いますが、これはビジネスの話とも 大きく関係してきます。 ずっと前に「いずれビジネスの話に繋がります」的なことを 書いたと思いますが、今、ようやくその入り口に差し掛かりました。 かと言って、ここからいきなり「ブランディングが・・・」とか 「なんちゃらマーケティングを駆使して・・・」みたいな そーゆーしょうもない話題に走ったりはしませんので ご安心下さい。 僕の捉えるビジネスとは、そういうものではありませんから。 ま、続きは次回以降をお楽しみに。 ではでは。 追伸 今回紹介した川田祐子さんのブログはこちら。 あと、彼女はセルフカバーアートというものをWebで 販売しています。 僕が誰かを紹介することは滅多にない、ということを 念頭に置きつつ、気が向いたらアクセスしてみて下さい。 ...more»
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