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「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに答えられない理由
ども、杉野です。 先日メルマガで以下のようなクイズを出しました。   あなたに自分の子供がいたとして、その子から「ねえねえパパ(ママ)、なんで人を殺しちゃいけないの?」という質問をされたとしましょう。 この質問に対してどう対応するのがベストだと思いますか? 今回は少しだけヒントを出しておきましょう。「真正面から答えたら負け」。これがヒントです。   これについての解説が、今回転載する記事です。 読むだけでも勉強になることは約束しますが、自分なりに上記の問いを考えてから読むと、もっと勉強になります。 というワケで、できれば考えてみてから読んでくださいませ。 【関連記事】「なぜ人を殺してはいけないのか」に哲学的に答えよう   ■3つの一般的な答えに対する反論 「なぜ人を殺してはいけないのか」 僕が考えうるかぎり、この問いに対する一般的な回答は主に 1.法律で禁止されているから 2.誰かが悲しむから 3.自分が殺されたくないから の3つです。 これらはどれも間違いではないのですが、回答としては不十分と言わざるを得ません。 まず1の「法律で禁止されているから」に対しては「じゃあ法律で禁止されていなければ殺してもいいの?」という反論が可能です。 戦場では他国の人間(軍人)を殺しても法律違反にならないワケですが、そういう場合は人を殺してもいいのでしょうか。 国家が起こした天安門事件のような殺戮は正当化されうることなのでしょうか。 この辺を考え出すと1の回答の正当性はどんどん怪しくなっていきます。 2の「誰かが悲しむから」に対しても1と同じように「じゃあ誰も悲しまなければ殺してもいいの?」という反論が可能です。 身うちのいない、近所付き合いも一切ない一人ぐらしの老人を殺すことは、許されうることなのでしょうか。 孤独なホームレスを集団リンチで殺すことは、何も問題がないのでしょうか。こういう点でこの回答も不十分と言わざるを得ません。 3の「自分が殺されたくないから」にも当然「じゃあ自分が殺されなければ殺してもいいの?」という反論ができてしまいます。 自分が殺されるリスクを負うことなく相手を殺す手段として、われわれは死刑を挙げることができます。 死刑は国家が行うことなので、それが執行されたからといって自分が死の危険にさらされることはありません。 もちろん自分が死刑になる可能性はゼロにはなりませんが、少なくとも誰かが死刑になったということを理由に殺されたりすることはないワケです。 多くの人を殺した大量殺人鬼であっても、殺してはいけないのか。これもまだまだ考える余地がありそうです。   ■場合によっては人を殺してもいい? こうして考えると、今回の問いの深さや難しさが見えてきます。 素朴な感覚として、われわれには 「人を殺していいときもあるんじゃないか」 という考えが浮かんできてしまうのです。 しかし、それは決して悪いことではありません。 実際、われわれはそのときの状況によって、平気で人を殺せてしまうし、殺すことが(法的に)正しいことすらあるのですから。 動物愛護団体の人たちだって、自分が野犬に囲まれて死にそうな状況になったら、さすがにその中の1匹や2匹は殺すと思うんです。 それでも殺さないというのは、ある意味でホンモノだと思いますが、べつの意味では自分の命を軽んじる誤った主義であるとも思います。 この茨の道を進むかぎり、われわれが最終的に行き着くのは 「場合による」 という答えです。 言われてみれば当たり前なんだけれども、恐らくほとんどの人はこの答えにすら辿り着かないと思います。なぜなら、そこまで深く考えないからです。 さっき挙げたような戦争や死刑や天安門事件のような例を含めて考えていけば、「場合による」としか答えられないことは誰にだって分かります。 だって「殺してもいい場合」と「殺してはいけない場合」の両方が現実にはあるんだから。 彼らは問いの前提を見抜くことができないため「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いが「正しい問い」だと勝手に思い込んでいます。 しかしわれわれが知っておかなければならないのは、世の中には問いそのものが間違いであったり、無意味であったり、不完全であったりすることが往々にしてあるということです。   ■間違った問い 「なぜ人を殺してはいけないのか」は不完全な問いです。 現実には殺してもいい、もしくは殺さなければならない場合もあるということを、この問いはカバーしていません。 だから僕は 「真正面から答えたら負け」 というヒントを出したのです。 この問いを真面目に考えたところで、そこから導き出される答えはすべて不完全です。 問いそのものが不完全なんだから当然ですよね。けれども、このことに気付ける人はほとんどいません。 それは彼らがバカだからではなく、われわれは昔からそういう教育を受けてきているということです。 学校で出題される問題を見て「先生、僕らがこの問題を解かなければならない根拠を教えてください」と質問する生徒は1%もいないと思います。 われわれは誰もが問いを解くことだけを教えられますから、問いそのものの意味を考えることなんて普通はできないのです。 だって考えてみてください。自分が出す問題にいちいち「この問いを解くことに何の意味があるんですか?」なんて聞かれたら、正直かなりウザイですよね? 国だって、文科省だって、教育委員会だって、そういう国民が増えるとウザイんですよ、当然。 だから彼らは、彼らが出した問題を素直に解いてくれる国民を作ろうとしているワケです。 その教育をわれわれは十何年も無批判に受けて続けているワケですから、そりゃ誰だって問いを疑う能力なんて身につきません。 愚民化政策というのは、こうやってこっそり行われているのです。   ■自動的な思い込み われわれは「正しい問い」と「どうでもいい問い」を見分ける力を身につけなければなりません。 そのためには、自分が問いをどう認識をしているかを自覚しておく必要があります。 「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを出された際、われわれは無意識的に自分の中で最も一般的な文脈をその問いにあてはめます。 テレビのニュースでは児童虐待や強盗殺人などがよく報道されていますが、多くの人にとってはそれが殺人における一般的な文脈です。 だから「人を殺す」という言葉を聞くと、われわれは無意識的にそれを犯罪という文脈と結び付けて、悪いことだと判断してしまうのです。 これは行動経済学の実験でも証明されています。 例えばある男性が走っていったあとに警官が彼を追っていったとしましょう。あなたはこれをどう思いますか? 普通、この場面を見たら、先に走っていった男性が何か悪いことをしたのではないかと思うはずです。 しかし、それは本当でしょうか?警官に追われることが、必ずしも悪いことをしたという証拠にはなりません。 もしかしたら彼は警官を事件の現場に先導していたのかもしれないし、彼はその警官の上司で、上司のうしろを警官が走ってついていっただけかもしれません。 にもかかわらず、われわれは男性が警官に追われている場面を見ると、自動的に「あの男性は何か悪いことをしたに違いない」と決めつけてしまうのです。 さっきの話もこれと同じです。 「人を殺す」という言葉だけでは何も判断できないはずなのに、そこに自動的に一般的な文脈があてはめられるから、悪いこととして判断されてしまう。 つまり、この「自動」をなんとかできれば、問いを見分けることができるようになるということす。   ■インプットと解釈の区別 「自動」は、それを自覚しさえすれば「手動」に切り替えることができます。難しいのは、それを自覚することです。 われわれは長年のしょぼい教育でその能力をことごとく失ってしまっていますから、それを取り戻すには相応の努力が必要になります。 何十年もサボったツケはそれなりに大きいワケです。 とはいえ、訓練そのものはシンプルです。インプットと解釈を別々に行う。これを繰り返すだけです。 今言った「自動」というのは、このインプットと解釈が自動的に同時に行われているということを意味します。 男性が警官に追われているという事実(インプット)と、男性が何か悪いことをしたに違いないという判断(解釈)が同時に起こっている。 これを別々に行う訓練をしてください。 詳しい方法というのは特にありません。最初は事実を事実として認識し、意味はあとで考える。ホントにこれだけです。 以前話した精読はこの訓練に最適ですので、読書のついでにやってみてもいいかもしれません。 最初はかなり意識しないと難しいですが、慣れれば自動的にできるようになります。 いい機会ですので、ぜひ訓練しておいてください。   ■文脈を見抜く ちなみに、これができないと本も読めないし、それどころか人の話もまともに理解できません。 なぜなら、本の文脈や会話の文脈も「自動」で設定されてしまっているからです。 相手が意図した文脈とは違う文脈で相手の言葉を解釈してしまうと、当然それは相手の意図とは違う意味で自分に伝わります。 相手の心からの「ありがとう」という言葉さえ、場合によっては自分は皮肉だと受け取ってしまうかもしれません。 「そんなつもりで言ったんじゃない」ということが起こるのは、まさしくお互いにこの能力が欠如していることが原因なのです。 コミュニケーションや文脈については、以前に告知した企画でより深く掘り下げる予定なので、こういうことに興味があるなら参加してもらえればと思いますが、それはともかくとして、この記事で大事なのは問いの前提を、つまり問いの文脈を見抜くということです。 「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問自体は不完全ですが、恐らくその質問をした本人は、その問いに何かしらの文脈を設定しています。 何の脈絡もなしに「なぜ人を殺してはいけないのか」と質問してきたとは考えにくい。 例えば戦争映画を見て、そういう問いが浮かんだとは考えられないでしょうか。 だとしたら、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いはその文脈にあてはめて答えることができます。 つまり「戦争中であっても、人を殺してはいけないのだろうか」という問いに置き換えることができる、ということです。 これなら答える余地があると思いませんか? 価値観によって意見が対立することはあるでしょうが、少なくとも自分なりの意見は提示できる。 このことが問いにおいては何よりも重要なのです。   文脈のない問いは、意見すら提示できません。その意見が正しいか間違いか以前に、まともに答えることすらできないのです。 そんな問いに向き合うことほど、バカらしいことはありません。 「じゃあなんでそんなことをさせたんだ」と思うかもしれませんが、その反論は誤りです。 僕が前回のクイズに何と書いたか、もう一度読み直してください。 僕は「なんで人を殺しちゃいけないの?」という質問に答えろとは一言も言っていません。 その質問に対してベストな対応を考えてください、と言ったのです。 ですから、そこには答えないという選択も含まれます。答えてもいいし、答えなくてもいい。 僕がそう言っているにもかかわらず、それを勝手に答えなければならないと解釈してしまうのは、先程話したインプットと解釈を分ける能力が欠けているからです。 僕の書いた文章が読めていないからです。 まずはそのことを自覚しましょう。 われわれはこんなところで立ち止まっている場合ではないのですから。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックしてメルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック     ...more»
ノウハウの憂鬱 ~科学の副作用~
  今回も引き続き、科学の話をしていきます。 とは言っても内容は前回のような堅い話ではなく、 比較的馴染み易いであろう「ノウハウ」について。 ここで言う「ノウハウ」とは、経験によって得た知識や知恵、 及びテクニックを含みます。 平たく言えば、ビジネス書に書かれていること全部です。 僕のビジネス書嫌いはもう有名(?)な話だと思いますが、 今回も追い打ちをかけるようにビジネス書の欠点をグサグサと 突き刺していこうかな、と。 そんな風に思っています。 いや、まあ、別にビジネス書をいじめるのが 目的じゃないんですけどね。 時間があれば読んでみて下さい。   まずは軽く復習から。 前回の話を一言でまとめると 科学とは自然と一致することのない非現実の世界であり 要素還元主義によって作られた科学は現実に当てはめると 必ず歪みが出来る、つまり科学は(現実世界では) 絶対ではない という感じになります。 要は最後に書いた【科学に絶対はない】ということだけ 思い出してもらえたらそれでいいんですが、 今回はそれを僕らの日常に溢れる「ノウハウ」に 当てはめて考えていきます。 えー、では早速本題に入っていきますが、その前に取り敢えず 分かっておいて欲しいことが1つ。 それは、「ノウハウ」も科学の1つである、ということです。 これはこの話の大前提なので、これ以降を読み進めるのであれば 是非とも理解しておいて下さい。 例えば「なんちゃら読書法」とか「感動を生むプレゼンテクニック」とか 「ダイエットのための筋トレ講座」とか「健康チェックシート」等々。 このようなビジネス書の類には大体 「こうやれば本を正しく読めますよ」 「こうやれば良いプレゼンができますよ」 「こうやれば痩せられますよ」 「こうやれば健康になりますよ」 ということが書かれているワケですが、これは言い換えれば 「底辺」×「高さ」÷「2」=「三角形の面積」と言っているのと 同じことなんですね。 プレゼンテクニックであれば、「底辺」や「高さ」は 「プレゼン時の目線」や「声の抑揚」、「三角形の面積」は 「感動を生む」に対応します。 これは完全に「~~~をすれば・・・になる」という (普遍的な)因果関係になってますよね? 「目線」×「声の抑揚」=「感動」 みたいに。 科学の特徴の1つに「再現性」というものがありますが、 これは「普遍的な因果関係」とも言い換えられます。 普遍的な因果関係とは、いつ誰がやっても同じことが起こる、 というようなもの。 つまり「ノウハウ」も科学なのです。 そして、さっき僕が「科学に絶対はない」と言ったことから 分かるように、科学の1つである「ノウハウ」も絶対ではない ということなのです。 ビジネス本(ノウハウ本)を買う人が多いにも関わらず、 実際に結果を出せる人が一握りしかいないのには実は こういった背景があります。 世間的には、結果を出せない人は行動してない人、という 見方をされがちなんですが、じゃあどうしてみんな行動 できないのか?っていう話なんですね。 僕が読んだ限りですが、ビジネス書って、そんなに無茶なことは 書いてないと思うんです。 靴を磨け、寝る前に夢を唱えろ、感謝の気持ちを忘れるな、 相手の立場で物事を考えろ・・・などなど。 どれも少し意識すれば出来そうなものばかり。 でも多くの人は挫折する、というか途中で投げ出す、 いや、忘れていきます。 だから行動しなくなって結果が出なくなるのです。 ってことは忘れないようにすればいいワケですが、 それが案外難しい。 なぜなら、科学(ノウハウ)とは結局のところ、 表面的な形式論理でしかないからです。 形式論理っていうのは、ほとんどの場合 余程意識しないかぎり記憶には残りません。 それは数学の公式を思い出してもらえれば分かると思います。 例えば、解の公式って覚えてますか? サイン・コサイン・タンジェントの90度の値って 覚えてますか? 多分何かインパクトのある覚え方をしていない限り、 これらは忘れちゃってる思うんです。 当然僕もそんなもんは覚えてないワケですが、 数学の公式っていうのはある意味、形式論理の 究極形態です。 文脈も関係性もない形式論理のみで構成されている。 だから出る答えは必ず一義に決まっているワケです。 もう少し突っ込んだことを言えば、答えが一義に 決まっているから、公式だけを記憶しようとすると 他の何かと関連付けて思い出したりすることが できないのです。 歴史の年号なんかもそうですね。 1825年とか1256年とか、これはテキトーに 書きましたけど、その年に何があったのかを覚えている人は まずいないと思います。 でも鎌倉幕府成立の年号は誰でも覚えてる。 これは「いい国作ろう」っていう文脈(意味)があるから 覚えてるんです。 水兵リーベ僕の船・・・も同じ。 無機質な形式論理であっても無理矢理何かしらの意味を 持たせておけば、何かのキッカケによって、関連付けて 思い出すことができます。 逆に言えば、形式論理には文脈(意味)が含まれていないから、 普通の人には思い出したり応用したりすることができないのです。 ・・・若干話がズレましたね、元に戻しましょう。 要は ビジネス書(ノウハウ本)というのは、書いた人にとっては 【経験】という文脈が含まれているけど、読む側からしたら それが抜け落ちた形式論理しか見えない仕組みになっているから 文脈を自分で構成出来るそれなりに優秀な人にしか役立たない ものになっている ということです。 そして、ビジネス書(ノウハウ本)を読んで役立てられる人 というのは、もはやその本を読む必要のないレベルの人なのです。 なんだか矛盾しているように感じるかもしれませんが、 実際そうなんだから仕方がない。 っていうか、この矛盾に気付かない人がほどんどだから ビジネス書はいつまでも売れ続けるし、結果を出せない人は そのままビジネス書に依存し続けるワケです。 「読書量を増やせば結果はついてくるはずだ」ってね。 さてさて。 最後になりましたが、ここで是非とも覚えておいて欲しい、 というか、思い出して欲しいことが1つだけあります。 それは 人間はみんな個別バラバラである ってことです。 牛乳飲んで元気になる人もいれば、牛乳を飲んで お腹を下す人もいる。 ピーナッツを食って笑顔になる人もいれば、 ピーナッツを食って死んでしまう人もいる。 (ピーナッツアレルギーの人は最悪の場合、本当に死にます) 人それぞれ、同じ本を読んでも得るモノは違う。 当たり前ですね。 もう何度言っても言い足りないと思うので言いますが この【当たり前】こそが真実なのです。 だからこそ忘れないで欲しいし、誰も疑問に思わないことを 疑問に思うようになって欲しい。 科学は大雑把な見解としては非常に大きな役割を担いますが、 そこを妄信すると最後の最後で転ぶことになります。 初めの何歩かは科学に頼っても、後半の歩みは 自分の足でしっかり地を蹴って進まなければならない ということを分かっておいて下さい。 ではでは。 ...more»
コミュニケーションの3つの論理
  若干更新の頻度が落ちつつある今日この頃、 いかがお過ごしでしょうか? 予告した通り、今回は前回の記事と非常に関連の深い 内容になります。 コミュニケーション力が一番大事と言われて久しい昨今。 本屋には平積みで「雑談を続ける方法」みたいなものまで 売り出され、人はお金をかけてまでコミュニケーションを 習わないといけない時代になってしまったワケですが、 そんな時代にタダでコミュニケーションの本質を 垂れ流してしまおうという、この太っ腹さ(笑) 読まなきゃ損、どころの話じゃありません(笑) そんなにハードル上げちゃって大丈夫なの? と思うかもしれませんが、それぐらいやっても 十分に超えられちゃうレベルで今回の話は面白いと 個人的には思ってます。 無論、いつものように抽象度はそれなりに高い話なので 実践に活かせるかどうかはあなた次第ですけどね。 さあ、それでは本題へ入っていきましょう。   コミュニケーション。 えー、いきなりですが、まずは自分なりに コミュニケーションとは何か、みたいなのを 簡単でいいので思い浮かべて下さい。 以心伝心、相互理解、共感共苦、意思疎通・・・ 別に四文字熟語である必要はありませんよ(笑) 色々浮かんだでしょうか? じゃあ今度はコミュニケーションが取れている場面を 想像してみて下さい。 友達と楽しく会話、クライアントから褒められた、 職場が楽しく仕事がはかどる・・・ で。 多分なんですが、今コミュニケーションが取れている状況を 想像したときに、 「相手と円滑に何かを通じ合い伝え合えてる」 みたいなイメージが頭に浮かびませんでした? 浮かんでなかったらごめんなさい(苦笑) でもここは強引にまとめます(笑) 要はコミュニケーションというのは、自分の伝えたいことを 正確に伝え、相手の伝えたいことを正確に受け取る、 その繰り返しで成り立っている、ということなんです。 じゃあ「正確に伝わる」「正確に受け取る」って 何なんでしょう? これを解くには、3つの論理という視点が非常に 重要になってきます。 ここはあっさり書いてしまいますが、 1.形式論理 2.コンテクスト(文脈)の論理 3.関係性の論理 がコミュニケーションにおける3つの論理と 言われているものです。 「言われているもの」と言っても世間一般には こんな話は出回ってないと思いますが、 極一部のマニアックな集団内では、常識として 通じる話になっています。 それはともかく。 1つずつ説明していきます。 1.形式論理 これは言葉そのものの定義、もしくは辞書的な意味のことです。 前回の記事に絡めて言うなら 「お前が好き」 を形式論理で理解すると 「あなたに心惹かれています」 となります。 ここには【「お前」が誰なのか】【どこで好きと言ったのか】 【なぜ好きと言ったのか】【何かがあって好きと言ったのか】 などの情報は一切含まれません。 文脈や関係性を無視した論理、とも言えます。 2.コンテクスト(文脈)の論理 これはその「場」における論理のことです。 冗談っぽく「好き」と言ったのか、真剣に「好き」と言ったのか、 はたまた告白の練習で相手がいない状態で「好き」と言ったのか、 などなど。 「場」は「シチュエーション」とか「雰囲気」、「空気」と 言い換えてもいいかもしれません。 前回も書いたように、この論理が読めない人のことを KYと呼ぶワケです。 3.関係性の論理 これは名前の通り、相手と自分がどのような関係にあるのか、 ということです。 家族関係、師弟関係、恋愛関係、兄弟関係、友達関係・・・など。 自分の親に「好き」と言えば家族愛になりますが、 恋人に「好き」と言えば恋愛になります。 また同じ友達関係でも、知り合って何年経つのか、 異性か同姓か、どういった経験を共にしたのか、 といった情報も関係してくるので、一概に 「友達関係だから・・・」なんていう定義付けはできません。 以上の3つがコミュニケーションの論理と呼ばれているものに なります。 さて、これを踏まえて先ほどの「正確に伝える」「正確に受け取る」 という話を思い出してみましょう。 何がどうなれば「正確」なのか。 それは、上記3つの論理を正しく判断できれいれば 「正確」だということです。 日本においては形式論理はほぼ無視しても問題ありませんが、 コンテクストの論理と関係性の論理は重要な地位を占めています。 日本人は昔から「察する」「言わなくても分かる」 という技術(文化?)を大切にしてきました。 それは言うまでもなく、2と3の論理を読むことで 成り立っています。 上司のコップが空いたら、言われなくてもビールを注ぐ。 師匠が作業を始めたら、言われなくても自分はそれを見て学習する。 友達が泣いていたら、そっとしておいてあげる。 場合によっては優しくなぐさめてあげる。 電車でお年寄りが乗ってきたら、席を譲る。 これがコンテクストの論理と関係性の論理を正確に判断する、 ということです。 つまり、発せられた言葉そのものではなく、 その場がどういう状況で、その相手が誰なのか、 そこを正確に捉えて行動していくことが コミュニケーションの原点なのです。 「嫌よ嫌よも好きのうち」 なんて言葉がありますが、その場と相手によっては 「嫌」という言葉さえ「好き」という意味になります。 これは形式論理が最低限の役割、いや、何の役割も 果たしていない証拠ではないでしょうか。 もちろん形式論理が必要ないとまでは言いませんが、 今回紹介した3つの論理を意識して生活していると いかに形式論理が軽視され、コンテクストと関係性が 重要視されているかが分かると思います。 これを語弊を恐れずに言ってしまえば、表面に見えているものなんて 本当はちっぽけなものでしかない、ってことです。 コミュニケーションにおいて大切なのは「見えない部分」、 「見せない部分」なのです。 喉が渇いた、でも言わない。 腹が立った、でも言わない。 バカだと思った、でも言わない。 それらはお互いに感じ取らないといけないのです。 何かの参考になれば。 ではでは。 ...more»
Twitter的人間退化論
  前回書きましたが、最近Twitterなるものにハマってまして、 その影響で段々とブログに手がつかなくなる状況に陥っています。 Twitterってねー、ホントに凄いんですよ。 今までの僕は毎日毎日思うことを頭に溜めていって ブログでまとめて吐き出すということを行っていたんですが、 それがTwitterの登場によって一変しました。 Twitterというのはその瞬間に思ったことを 吐き出せる媒体なんですね。 一度に書ける文字数に140文字という制限はありますが、 普通に考えていることを吐き出すには十分な量です。 ブログ同様、何を書くかは個人の自由。 例えば 「あー、腹減った」 みたいなどーでもいいことを書いてもいいし、 世の中に訴えたいことを書いてもいい。 僕なんかは自戒の言葉を書いたりしてますが、 完全に独り言の領域だから基本的には何を書いても 許されます。 そして僕が最も革新的だと思うのは、 文脈を一切気にしなくてもいい、ってところです。 つまり、思ったことを「まとめる前」に吐き出せる。 恐らくこれが一般のTwitter使用者がTwitterにハマる 心理的な理由だと思います。 少なくとも僕はそうです。 ブログを書く作業では「まとめる」という工程で、 文脈をちゃんと意識して1つの記事にする必要が ありました。 さっきの例のように 「あー、腹減った」 と書くにしても、そこには「お腹が減った理由」や 「何を食べたいのか」など他の要素に繋げて書かないと 文脈が成り立たないために、すべてを考えてから 記事を書かなくてはならない、といった暗黙のルール みたいなものがあったワケです。 言い換えれば、ブログは好きなことが気軽に書ける、 ということから一大ブームが起ったワケですが、 実際、蓋を開けてみれば案外気軽でもなかった、 ということ。 それはやはり「文脈を考える」つまり「まとめる」 という工程(拘束)があったからでしょう。 その点、Twitterはホントによく出来ています。 いや、今の時代にマッチしている、と言った方が より正しいかもしれません。 何を以って今の時代にマッチしているのかと言えば、 それは「文脈を意識しなくていい」という点。 「あー、腹減った」 と書いた次に 「ポストモダニズム建築は素晴らしいと思う」 なんてことを書いてもTwitterでは許されます。 まあ許すも何も独り言なんだから何言ってもいいのは ある意味当然。 もちろんネット上で公開されていますから 倫理的・道徳的にマズイことは言えませんけどね。 それでも、それさえ守ればホントに何でも言える世界が Twitterの出現によって「完成されてしまった」のです。 Twitterは今や、企業が注目するメディアのトップに なろうとしています。 なぜそんなに注目を集めているのかと言えば、Twitterは リアルタイムで人の気持ちが反映されるメディアだからです。 今その瞬間に人々は何を悩み、何を考えているのか。 善くも悪くもそれが分かってしまうメディアなんですね。 (見る人が見れば、の話ですが) だから例えば自分の営業先の人をフォローしとけば、 その人が困った瞬間に営業を仕掛けることも出来るし、 自分の商品では助けられないのなら、 ジョイントベンチャー的に他の企業の紹介とかも 出来てしまうワケです。 もちろんもっと細かく、「胃が痛い」と悩んでいるときに 効く胃薬を教えてあげたりもできるかもしれない。 人間関係やビジネスにおいては、そういう可能性を 秘めています。 しかし。 物事には表と裏があるもんで、Twitterにもやっぱり デメリットがあると思うんですね。 それが先に書いた「文脈を意識しなくていい」 というところ。 まず、文脈とは何かを考えてみましょう。 文脈とは簡単に言えば、その場の雰囲気、のことです。 例えばここに一言 「お前が好き」 という言葉があったとします。 この言葉だけを読むと、目の前にいる相手のことが 好きなんだろうな、ということを想像すると思います。 でも、この「好き」が冗談なのか本気なのかは この時点では分かりません。 それはその「場」のシチュエーションが分からないからです。 デートの最後に海辺で言われたなら恐らく本気でしょうし、 お笑いの話をしているときに急に言われたなら冗談かもしれない。 ひょっとしたら演劇の練習中に言った 台本のセリフということも考えられます。 これが文脈です。 同じ「好き」という言葉なのに、その時の文脈によって 意味が全く違ってくる。 別の言い方で「空気」と言われたりもします。 少し前に流行ったKYというのは、この文脈が うまく読めない(本気か冗談かが分からない)人を 指すワケです。 さあ、ここで話を戻します。 結局「文脈を意識しなくていい」というのは どういうことなのか。 一般的な言葉で言えば、それは 「空気を読まなくてもいい」 ってことです。 「空気を読まなくていい」ということは、 「空気を読む能力が必要ない」もしくは 「空気を読む力が育てられない」というのと同義。 つまりTwitterが普及するほど 【KYが続出する可能性がある】 と。 僕はそう感じています。 もちろんTwitterをやっている人でも、ちゃんと文脈を 意識して1つの文章のようにつぶやいている方もいます。 ただ、それでも相手(フォロワー)との関係性は ほとんど無視されている。 相手が何をつぶやいていようと、自分のつぶやきが 変わることはないですからね。 多少影響を受けることはあっても、相手の文脈に沿って 自分のつぶやきを合わせることはほぼありません。 そこにあるのは【お手軽な自己との対話】と 【自己顕示欲の解消】だけ。 結局のところ、自己満足しかない、ってことです。 機械的なマーケティングツールとして使ったり、 自身のショップの宣伝などに使うのであれば 話は変わってきますが、そうじゃないなら Twitterっていうのはただの自己満足だと思います。 さてさて。 こんなことを書いている僕もTwitterにハマり出した 一人ですから、気をつけなきゃなー、と思っている ところです。 ただねー、やってみれば分かりますが、文脈や関係性を 意識しなくていいだけでめちゃくちゃ書くのが楽なんですよ。 ホント、楽過ぎると言っても過言じゃない。 だからダメなんですよね、余計に。 楽なことってのは常に人間をダメにしますから。 便利なツールが次々と登場する世の中ですが、 その波に流されてはいけません。 マルクス主義で有名なカール・マルクスって人が 使える物が増えるほど、使えない者が増える と非常にうまい表現を残してますが、つくづく その通りだと思います。 便利な物に依存すると人間は退化するのです。 是非とも忘れないで下さいませ。 ではでは。 追伸 今回の記事で【文脈】と【関係性】という言葉が 出てきましたが、これはコミュニケーションを考える上で 非常に大事な概念です。 それに関連して、次回は「コミュニケーションの3つの論理」 というタイトルでコミュニケーションとは何か、みたいなものに 突っ込んでいこうかと思います。 お楽しみにー。 ...more»
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