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哲学書を読む意味 ~ライフスタイルとしての教養~
  昨日お話ししたように、僕は今キルケゴールの『死にいたる病』に ハマっています。 少し前はアレントやブーバー、ハイデガー、ガダマーなんかに ハマっていた時期がありますが、これらの本の内容というのは はっきり言って何の役にも立ちません。 哲学書とは、当たり前のことをただ事細かに、ときに熱く(笑) 詳説してくれる、それだけのものだからです。 一方で、ビジネス書や自己啓発書、その他「実用書」と呼ばれる 種類の本たちは、何かの役に立つようなことが書かれています。 その内容はマーケティングやコピーライティング、営業、簿記、 ダイエット、整理整頓、料理の作り方などなど多岐にわたる ワケですが、どれも何か特定のことに役立つ(すぐに使える) という点で共通しています。 僕はここ1,2ヶ月ほどの間、この「役に立つ」という言葉に かなり苦しめられました。 なぜか分からないけど(いや、本当は分かってるんだけど)、 「自分も役に立つ何かをしなきゃいけない」という思いが ふつふつと湧いてきて、いくつかの「役に立つ」系の セミナーに参加してみたり、これまでほぼ無視してきた ビジネス書なんかも買ってみたりしました。 しかしその結果どうなったかというと、僕は僕ではなくなって しまいました(苦笑)。 そう、自分を見失ってしまったのです。 そこから散々な苦悩を経て、ようやく元に戻ることができた今、 改めて分かったことがあります。 「役に立つ」とは、損得勘定の視点で物事を見ることである、 ということです。   哲学書は何の役にも立たない。 この言葉は言い換えると、哲学書を読んで得することは何もない、 という意味になります。 自動配信されたバックナンバーでも話していると思いますが、 こういう損得勘定というのは、しょーもない人間の典型的な 考え方です。 「訴えられたら損 → だから法を犯すようなことはするな」 これと同じで哲学書も「読んでも得はない → だから読まない」 という判断になっています。 たしかに哲学書を読んで得することはないかもしれません。 その時間をビジネス書の読書に使えば、何かしら役に立つ知識が 得られることでしょう。 しかし僕にとって哲学書を読むことは、損か得かではなくて、 「哲学書を読んで1日を過ごすような素敵な自分であること」、 つまり哲学書を読むという無駄を許容できるぐらいの余裕があり、 損得勘定に縛られないという理想の自分を実現することなのです。   ほとんどの人が1ページすら読めない難しい本を、 時間を気にせず、損得も気にせず、楽しく読めること。 それが僕が理想とする自分であり、ライフスタイルです。 その内容が役に立つか立たないかは、どうでもいいんですよ。 苦悩を経た結果、やっとそのことに気付くことができました。 僕のメルマガやセミナーは、役に立つ何かを提供しているワケ ではありません。 そうではなくて、(直接的には)何の役にも立たないかも しれないけど、知的興奮を味わえたり、キッカケが得られたり、 心が晴れたりする、もっと言うと、そういったものに時間や お金を使えるぐらい余裕のある「ライフスタイル」を 提供しています。 教養も、教養それ自体が役に立つか立たないかはどうでもよくて、 「教養を身につけようとする自分であること」が大事なのであり、 それが素敵な自分であるということなのです。 哲学や芸術や宗教のことに詳しくなっても、多分直接的に何かの 役に立つことはありません。 でも、それらに魅力を感じる自分であることは、 何ものにも代えられない価値だと思います。 だって98%ぐらいの人は、損得勘定に縛られてそれに魅力を 感じることができないんだから。 教養は役に立つことが価値なんじゃなくて、 それに価値を感じられる自分であること、そして自分と 同じような人たちに共感できることが価値なのです。   哲学で飯は食えない。 それはそうかもしれません。 でも「哲学を愛する自分であること」を本気で発信できれば、 それで飯は食えます。 他でもない僕がそうだからです。 大事なのは哲学というコンテンツではなく、哲学を好きである自分、 哲学書を楽しく読める自分というコンテクストなのです。 これは哲学でなくても同じです。 どんなことであれ、それをコンテンツとして捉えているかぎりは、 直接的に役立つ何かでないと飯は食えません。 しかしそれを好きである自分、それを愛している自分がいるなら、 そのコンテクストに人は集まってきます。 コミュニティは勝手にできます。 僕の苦悩は、このコンテンツとコンテクストの間を行き来する、 まさに時代を跨ぐためのものだったのです。   僕がこれまで発信し、体現してきたことの1つは 「なんでも損得で考えるのはやめようぜ」ということです。 つまり「コンテンツで選ばずにコンテクストで選ぼうぜ」と。 僕はそんなことを語ってきたのだなぁ、と気付きました。 にもかかわらず、ここ数カ月の僕はそれとは真反対の、 コンテンツの側に重きを置こうとしてしまっていました。 愚かだったと思います。 でも、その苦い経験があったからこそ、こうして今までより 一層自分にとって大事なものが明確にくっきりと見えるように なりました。 もうこんな経験はこりごりですが、多分またどこかで 経験することになるんでしょうね(苦笑)   大事なことなのでもう一度言っておきます。 学んだ内容云々ではなく、何かを学んでいる姿勢そのものが われわれにとっての価値です。 政治でも哲学でも宗教でもなんでも、それが役に立つかどうか ではなく、それを学んでいる自分であること、そこに楽しさを 見出せる自分であることが価値なのです。 僕のメルマガを読んでいる時点で、あなたはその一歩を 踏み出しています。 自分にウソをつかず、嫌なもんは嫌だと、したくないことは 絶対にしたくないと、正直に言いましょう。 その強烈な価値観に、個性に、人は惹きつけられるのです。 大丈夫、僕がついてますから。 一緒に理想のライフスタイルを、理想の自分を実現しましょうね。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
教養へ至るための5段階
  僕が考えるに、われわれが教養へ至るためには5つの段階を 踏まえていく必要があります。 その5つとは 1.無知(知らない) 2.知識(知っている) 3.理解(分かっている) 4.知恵(使える) 5.教養(にじみ出る) です。   1.無知 何も知らない段階です。 今この文章を読んでいる時点で完全に無知ということは あり得ませんが、特定のジャンルや分野に無知だったり、 特定の人に対して無知だったりすることは普通にあります。 自分が無知であることに対して無知であることもありますよね。 いずれにしても、この段階の領域を極力減らすこと、 もう少し突っ込んで言うと、何に対しても無知であることを 恥や不快だと思うことが教養への第一歩です。 知らないってのは恥ずかしいことなんですよ、人として。 それは自分の専門は当然として、専門外に関しても同じです。 加えて、知らないことは恥である以上に危ないことである という自覚も持っておいてください。 ボストン美術館の収蔵品なんかを見ると分かると思いますが、 芸術の価値を分かっていない無知な人たちが、ああやって 貴重な日本の文化遺産を海外に売り渡してしまったワケです。 最近だと慰安婦問題の件とか、あれも結構ヤバイですよね。 安倍総理が知ってやってるのか知らずにやってるのかは 分かりませんが、あの件はメディアで騒がれているほど 素晴らしいことではありません。 こういう過ちを犯さないためにも、そして教養へ至るためにも、 日々自分の無知を減らすように努めましょう。   2.知識 知っている段階です。 1192年に鎌倉幕府ができたのは知っているけど、 なぜ・どのように鎌倉幕府が作られたのかは分からない。 そんな感じですね。 別の言い方をすると、インプットと解釈で終わっているのが この段階です。 これにアウトプット(説明する・教える)が加わわれば 理解に変わります。 知らないのも恥ですが、理解しておくべきことを理解して いないのも恥だと思ってください。 何が理解しておくべきことなのかは、あなたが持っている 人として基準によります。 この基準が低い人ほど恥を恥だと感じない(自尊心が低い) 傾向があるので、気を付けておきましょう。   3.理解 知っていることを教えられる段階です。 理想的には、ここを最低ラインにしておきいたいところです。 当然すべてを理解するなんてことは現実には不可能ですから、 あくまで「理想」です。 何かを知ったあとに、そのことを誰かに教えられれば、 それは理解できていると言っていいと思います。 逆に言うと、説明する・教えるという行動を起こさなければ、 この段階へは「絶対に」至れないということです。 ほとんどの人が行動を起こさないことからも分かるように、 一般的にはこの段階で十分に「教養人」と見なされます。 大学の教授なんかは、大体この段階じゃないでしょうか。 それが良いか悪いかはともかく、理解の段階とは そういうものだと思っておいてください。   4.知恵 理解していることを役立てられる段階です。 世間一般の成功している人たちは、大体この段階だと 思います。 一応言っておきますが、別に彼らを軽蔑しているワケでは ないですからね。 単に僕がそう分析しているだけですので、価値判断は棚に 上げておいてください。 役立てられるとは、自分や他者に貢献できることであり、 この段階から自分の価値(相応しさ)が跳ね上がります。 その意味で、この段階は努力が報われる段階と言っても いいでしょう。 ここまで至れれば普通は十分だと思います。   5.教養 その人の言動の1つ1つが本人の意思とは無関係に、 周りの役に立ってしまう段階です。 知恵が人格化されたもの、と言えば伝わるでしょうか。 言葉で表現するのが非常に難しい段階ですが、 そういう人たちが世の中にはいます。 教養の手前の段階に知恵があることからも分かるように、 誰の役にも立たない哲学や芸術、政治、経済などの知識は 僕の言う意味での教養ではありません。 教養という言葉は文脈によって「芸術の知識があること」を 意味したりすることもありますが、それはせいぜい理解の 段階です。 ここで言っているのはそういう意味での教養ではなくて、 もっと本来的な意味、貴族的な意味での教養ですので、 その点は誤解のないように。   以上の5つ 1.無知(知らない) 2.知識(知っている) 3.理解(分かっている) 4.知恵(使える) 5.教養(にじみ出る) が教養へ至るための5段階になります。 この段階を1つ1つ踏まえていくことが、われわれが成功、 すなわち教養へ至るためのステップです。 そのために何をどうすべきなのかは、これから追々話して いきます(今までもずっと話してますけどね)。 ここで分かっておいてほしいのは、1つの教養や知恵を 極めたぐらいで満足するな、ってことです。 何であれ、長い間やっていれば自分の専門分野で 教養の段階へ至ることは可能ですが、それは師匠の言葉を 借りるなら 「バカの1つ覚え」 にすぎません。 20年や30年も同じことを続ければ「誰だって」 そうなるのであって、別に凄いことではないということです。 そうではなく、われわれは「あなたは何をやっている 人なんですか?」と聞かれるぐらい、いろんなことを 知っていて、理解していて、使える人でないといけない。 音響の仕事「を」していますとか、英語「を」教えています とかではなくて、音響の仕事「も」しているし、英語「も」 教えています、じゃないといけないワケです。 音響の仕事をしていますというのは、逆に表現すると 音響の仕事しかできません、音響のことしか知りません、 ということですからね。   リーダーとして、一人の人間として相応しくあることに 終わりはありません。 常に今の自分を恥じ、絶望し、それを乗り越えていくこと、 それこそが人格としての教養なのです。 相変わらず苦しい道ですが(笑)がんばっていきましょう。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
教養の4つの定義
  教養のことをネットで調べたり自分で考えたりしてみた結果、 教養の定義は大体4つぐらいに集約できることが分かりました。 1つ目の定義は、僕が前に言った「教養それ自身を役立てる何か」。 哲学や芸術、宗教、思想などを分かりやすく語れるだけでなく、 それを誰かの役立つカタチで構築し直して表現できる能力を 僕は教養と呼んでいます。 まあ平たく言えば翻訳です。 単に分かりやすく翻訳するだけなら、できる人はそこそこいると 思うのですが、使えるカタチで、となると結構難しいワケです。 その辺のポジションを僕は目指したいな、と。 というか、多分僕はその辺をふらついてるんじゃないかな、と。 そんな風に今はぼんやり考えています。   2つ目の定義は「共通の土台」です。 これについては『脱凡人の教科書』で詳しく語っていますが、 共通言語と言い換えてもいいかもしれません。 例えば禅のことを西洋人に説明しようと思った場合、 比喩として聖書の内容を引用できれば、かなり良い感じで 相手に伝わると思います。 この場合の「聖書の内容」が自分と相手との共通言語であり 教養です。 禅を禅的に、つまり日本的文脈、日本的バックボーンで 語ったのでは、西洋人が理解するのは難しいけれども、 聖書を通して禅を表現できればそれほど伝わりやすいものは ないワケです。 最近僕が書いたハイエクとケインズの話なんかも、桃鉄という 共通言語を通すことで、なんとか伝えようとした例です。 どれだけの人にとって桃鉄が共通言語と言えるのかは 不明ですけど(笑)、少なくとも桃鉄をやったことのある 世代にとっては、結構分かりやすかったと思います。 要はAをBやCやDという別の内容でどれだけ表現できるか、 その能力がこの定義で言うところの教養だということです。 まあ1つ目の翻訳とほとんど変わりませんね。   3つ目の定義は「知識や経験が人格にまで昇華されたもの」。 これも前に言いましたね。 何の意図もなくサラッと自分の言葉としてシェイクスピアや ゲーテ、トルストイ、カント、ヴェートーベン、デュシャン、 カンディンスキー、道元、弘法大師の言葉が出てくるような、 そういう人格化された知、血肉となった知が教養です。 誤解の無いように言っておくと、これは別にこの人たちの 本を読んでいなければならないワケではありません。 そうではなくて、彼らと同じようなことが言えるほどに、 そういう言葉がポロっと出てくるほどに高められた人格には、 教養が備わっているということです。 恐らく難しい本なんて読んでいないであろうスポーツ選手から サラッと凄い言葉が出てくるのは、彼らに教養があるからです。 そういうなんとも言葉にし難いものが、この3つ目の定義の 教養になります。   4つ目の定義は「漠然とした賢さ」。 良いか悪いかは置いておくとして、特に定義づけられずに 使われる場合の教養はこんな感じの意味です。 一般教養とか、教養学部とか、あの人には教養があるとか、 そういう使われ方をされるときは、この定義で使われていると 思っていいんじゃないかな、と。 本当は漠然としている時点で定義とは言えないんですけどね。 細かいことは気にしないでおきましょう。   まとめておくと 1.教養それ自身を役に立てる何か 2.共通の土台・共通言語 3.知識や経験が人格にまで昇華されたもの 4.漠然とした賢さ の4つがおおよその教養の定義です。 4つ目はともかくとして、2と3あたりを主流と考えておけば 変な方向には行かないと思います。 1つ目は2つ目のプラスαって感じですかね。 共通の土台を相対的側面、知識や経験が人格にまで 昇華されたものを絶対的側面と考えれば、この2つの側面を それぞれ磨いていくことが教養と言えます。 いつだったか、上級の方で個性の話をしたと思いますが、 今回の話も個性を磨くことと原理は同じです。 そう考えると個性を輝かせるのは教養であるとも言えますね (ここの論理的飛躍は自分で埋めてみてください、 良い思考訓練になると思います)。 ますます教養が無視できないものになってきました。 ちょっとずつでいいので、着実に身につけていきましょう。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
教養は何の役に立つのか ~裁判員裁判で裁判官に声をかけられた話~
  実は僕、裁判員制度で裁判員をやったことがあります。 あれは確か5年ぐらい前のことです。 まだ裁判員制度が始まって1年も経っていないときに 裁判所から封筒が届き、僕は大阪地裁に足を運びました。 裁判員になるかどうかは封筒が届いた時点では まだ決まっておらず、封筒が届いた人の中から さらに裁判所でくじ引き的なことを行い、 100人ぐらいいる中の10人ほどが裁判員になるのですが、 僕はその何十倍という倍率(?笑)を見事にくぐり抜け、 裁判員をやることになりました。 我ながら恐ろしいくじ運だと思います(笑) なんとなく当たる気はしていたので、それほど驚きは しなかったですが、いざ当たってみると緊張するものです。 そこから3日間、僕は朝9時から夕方5時頃まで裁判員として 大阪地裁に通い、裁判官3人の手引きに従いながら、 他の裁判員と一緒に議論を重ねました。 自分のことを棚に上げて言ってしまいますが、他の裁判員は 本当にどこにでもいるような普通の人たちで、彼らの意見は いい意味では一般的な感覚に根ざしたものだった反面、 悪い意味では非常に偏った、明らかにメディアの影響を直で 受けてしまっている意見だったのが印象的です。 そんな中で、僕1人が素朴な意見や疑問を裁判官にぶつけ、 裁判官の人から「そんなこと考えもしなかった」的なことを 何度も言われました。 そして最終日。 なんとか裁判の判決が出て、帰る準備をしていると、 裁判官の1人が僕にこんなことを聞いてきました。 「Aさん(僕のこと)は普段何をされている方なんですか?」 「普通こういうことはあまり聞いてはいけないことに なっているんですが、あまりにも意見が素晴らしかったので、 つい聞きたくなってしまって・・・もしよろしければ 教えていただけませんか?」 これが教養が役に立った僕の具体的な経験です。   当たり前ですが、僕は法的知識は皆無と言ってもいいぐらい 何も持ち合わせていません。 はっきり言ってド素人です。 にもかかわらず、そんなド素人の僕にプロである裁判官が 興味を持ち、最終的に話しかけざるを得なくなるところまで 惹きつけたというのは、なかなか面白い事例だと思いませんか? 僕が思うに、教養を身につけることの最大の利点は、 自分と同等に教養のある人と対等に話ができること、 言い換えると、自分の(一般常識やメディアに侵されていない) 意見が言えることだと思います。 自分の意見ぐらい誰だって言えるよ、と思うかもしれませんが、 当時の僕から見ても、他の裁判員の意見は酷くつまらない、 一般常識を絵に描いたようなものでした。 普通に生きてたら、それぐらい誰でも思いつくよね、と。 そういう意見ばかりだったということです。 もっと言うと、彼らは思想的には同じ顔をした無個性の 人間だとも言えます。 今ほど個性の重要性が叫ばれている時代もないと思いますが、 彼らが自分の意見だと思っているものは、誰かさんがこっそり 彼らに浸透させた価値観から発せられている借り物の 意見なのです。   教養について、池上彰氏の面白い対談記事があったので ちょっと引用してみます。 池上:日本を代表して出席している政治家は、大概の場合、 端の方にぽつんと座っていて、各国の代表とまったく会話を していないんですね。パーティのときもそうです。 上田:英語ができないから、じゃないんですか? 池上:その側面もあるかもしれませんが、本質的には語学の 問題じゃないですね。そもそも「会話」に加われないんです。 なぜかというと、各国を代表してやってきた政治家たちと 語るべき「コンテンツ」を持っていないから。言い換えれば 「教養」がないんですね。企業トップでも同じようなことが 起きるんです。自分の持ってきた仕事のプレゼン用 コンテンツ以外に、会話の中身がない、というわけです。 上田:それは今に始まったわけじゃないですね。 (日経ビジネスオンラインより引用) どうでしょう? これは裁判員裁判でも同じです。 裁判員の多くは、語るべき「コンテンツ」を持っていない。 だから意見が面白くないし、議論にもならないし、印象にも 残らないのです。   一定以上の人間と付き合おうと思ったら、かならずどこかで 教養が必要になります。 日本では政治や国際関係、宗教、思想などの議論を持ちだすと 嫌がられることが多いですし、実際僕も最近、某忘年会で その手の話題を持ち出して場の空気を濁しました。 彼らならその話題に乗ってくれるかもしれないとどこかで 期待していただけに、結構悲しかったです。 でも、ある読者の人がメールを送ってくれましたが、 外国人と話をするなら、自分の意見が言えないとまったく 相手にされません。 その方は僕のメルマガを読んで自分の意見が言えるようになり、 外国人と話す自信も生まれたと言っていました。 これは外国人云々もそうですが、そういう外国人を相手にして 生きている教養ある日本人と話す場合も同じだと思います。 収入が引き寄せる人間の種類を決めるのも確かだと思いますが、 教養も引き寄せる人間の種類を決めているのではないでしょうか。   教養は何の役にも立ちませんが、すべての役に立ちます。 哲学は「そのままでは」何の役にも立ちません。 しかし哲学を教養として学べば、哲学を役に立てるものにする 何かが学べます。 教養とは、教養それ自身を役立つものにする何かなのです。 それは具体的な文脈に当てはめたときに、はじめて役に立ちます。 自分の理想に対して、いかに自分の教養を当てはめていけるか。 それが今年の僕の課題です。 まだまだ暗中模索ですが、やるっきゃないでしょ。 今年もよろしくです。 ありがとうございました。   追伸1:日経ビジネスの引用元。 『MITは「理系バカ」が役に立たないと知っている』   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
教養を身につける意味 ~4つのベネフィット~
  なんのために教養が必要なのか。 教養が身につくと何がどう良くなるのか。 この問いについて、これまで僕は考えようとしたことがなく、 考えなければならないという自覚もありませんでした。 僕の中での教養は、ただただ身につけることが楽しいから 身につけるべきものであって、それ以上でもそれ以下でも なかったのですが、つい先日ある方から 「果たしてそうかなぁ?」的なアドバイスをいただいて、 僕をせき止めていた見えない壁をまた1つ見つけることが できました。 言われてみれば当たり前なのですが、本当に楽しいだけで 教養を身につけていたなら、こうしてあなたに メルマガを読んでもらうこともできなかっただろうし、 あなたの役にも立たなかっただろうし、ビジネスにも ならなかったはずです。 僕が今なんとかかんとか生かしていただけるのは、 僕の身につけた教養なるものが、何かしらのベネフィットを あなたに提供しているからに他なりません。 だとすれば、それは何なのか。 それを知ることによって、あなたがメルマガを読む意味 (僕にとってはメルマガを書く意味)がより明確に 見えるようになり、これからこのメルマガが目指すべき方向も 定まってくるのではないかと思い、教養についてあらためて 「具体的に」考えることにしました。   それにあたって最初に明確にしておきたいのが教養の定義です。 ウィキペディアによると、教養とは「個人の人格に結びついた 知識や行いのこと」ということになっています。 これは非常によくまとまった定義だと思います。 ポイントは、個人の人格と結びついた、というところです。 単なる物知りと教養のある人は何が違うのかというと、 前者は知識と自分が乖離している、つまりその知識を持つのに 相応しくない在り方・生き方をしているのに対して、後者は その知識を持つのに相応しい在り方・生き方をしている点に あります。 どれだけ世界史や日本史に詳しくても、その知識に基づいた 何らかの行動や態度、感情、生き様が伴っていなければ、 それは教養とは言えません。 その知識や経験を通して、いかに生きるのか。 知識や経験をいかに自分の表現へと至らしめるか。 それが教養の有無の重要な点だと言えるでしょう。   僕の考える教養のベネフィットは大きく分けて4つあります。 1.人や物事の良し悪しを判断できる 2.高い確率で未来が予測できる 3.周りから一目置かれる意見が言える 4.質の高いコンテンツを生み出せる これでも僕としては頑張った方なんですが(笑)、まだ一般的には 抽象的でぼんやりしている部類に入ると思うので、ここからさらに 具体化していきます。   1.人や物事の良し悪しを判断できる ・何が自分に合ったダイエットなのかが分かり、無理なく挫折なく 楽しく痩せられる ・自分の体に合った食品が分かり、無駄に高い健康食品 (ココナッツオイルなど)を買わなくて済む ・どの学習法が自分に向いているかが分かることで 学習効率が上がり、他人と同じ時間で何倍もの結果が得られる ・学習したことを適切にアウトプットできれば他者から感謝され、 ビジネスに繋げることができる ・おまけに学習効率は教養が高まれば高まるほど上がっていく ・どの医者が優秀なのかを見分けられることで、 無駄な治療費と通院時間を減らせると同時に、優秀な医者を 紹介することで周りから感謝される ・企業の良し悪しが分かることで、ブラック企業や 未来のない企業を選ばずに済む ・自分の判断を信じられるので、周りの批判や視線、常識などが 気にならなくなる ・自分の判断と他者の判断は違って当たり前だということが 理解できるので、自分と違う価値観や意見に対して寛容になれる ・これによって人間関係も改善される ・人の良し悪しが判断できることで、付き合うべき人、 つまり自分を高めてくれる仲間や自分を幸せにしてくれる恋人を 選べるようになる ・総じてストレスが減り、毎日が成長に繋がり、自分らしさも 浮き彫りになってくる   2.高い確率で未来が予測できる ・今何をやっておけば将来優位に立てるかが分かる ・自分の子供をどの学校に入れれば将来が明るいかが分かる ・どの会社、どの業界に就職すれば比較的将来が安泰かが分かる ・どの国に行けば楽しく生きられるのかが分かる ・どの人についていけば間違いないのかが分かる ・総じて今すべき努力、何をすれば将来報われるのかが分かる   3.周りから一目置かれる意見が言える ・尻込みせずに堂々と外国人と会話ができる ・人間力の高い魅力的な人を引き寄せられる ・人を感動させたりドキッとさせる発言ができる ・自分を必要としてくれる仲間が集まる ・仲間が集まることで自分は自然とリーダーになる ・実力のある人からブレインとして雇われる ・後輩、部下、子供、恋人、パートナーから尊敬される ・会社から重宝され「やめないでくれ」と言われる ・総じて生きている実感、充実感、存在意義が感じられる   4.質の高いコンテンツを生み出せる ・他の人には絶対に真似できないブログ、メルマガ、動画、音声、 セミナー、商品などが作れる ・何気ない会話でも「凄く勉強になりました!」と言って 喜んでもらうことができる   以上の4つ 1.人や物事の良し悪しを判断できる 2.高い確率で未来を予測できる 3.周りから一目置かれる意見が言える 4.質の高いコンテンツを生み出せる が教養を身につける主なベネフィットです。 多分まだまだ細かく出そうと思えば無限に出てくると思うんですが、 改めて書き出してみて、驚くほどのベネフィットだな、と個人的に 感じております(笑) これを読んだだけでも、教養を身につけないなんてあり得ない、 って感じですよね。 もちろんこれらには「度合い」があって、単純に教養があれば これら全部が手に入って、無ければ手に入らない、 みたいなものではないですが、身につければ身につけるほど、 今挙げたものが手に入りやすくなっていくのは間違いありません。 こんなにベネフィットがあるのに今まで気付かなかったというのは、 本当にもったいないことをしていたなー、と思います。 例えば先日の『What's Real』というのは、この全部を 手に入れられるようになりましょう、というある意味で 超欲張りな企画なワケです。 にもかかわらず、僕がそのことを自覚していなかったばかりに、 「現実を見られるようになりましょう」みたいな極端に 抽象的なことしか言えなかった。 それでも申し込んでくれた人はいましたが、そういう人たちは 本当に変人中の変人であって、普通の人は多分上記ぐらい 具体的なことを言わないとピンとこないんですよね。 そんなの当たり前じゃん、って思う人が大多数だと思いますが、 僕にとっては当たり前じゃなかったんです。 だって僕は「存在と時間」みたいなタイトルにヨダレを垂らして しまうような人間ですから(苦笑) むしろ上記のような言葉が並んでいるのを見たら、それだけで 「しょーもない」という判断をして避けるぐらいです。 自分がいかに一般的な感覚から乖離した人間であるかが、 これでよーく分かりました。   そう言えば占い師さんにも言われたんですよね。 「みんなはあなたみたいにはなれないんですよ」って。 加えてこういうことも言われました。 「他者とは分かり合えないけど、手をつなぐことはできる」 これですよ、これ。 当初はこの意味がイマイチ飲み込めていなかったですが、 今はよく分かります。 手をつなぐためには、僕は階段を下りなければならないし、 あなたには階段を上がってもらわないといけません。 僕が上の階からロープをたらしても、ロープで上に上がれる つわものなんて、限られているワケです。 これまでの僕はまさしくこの「ロープをたらす」タイプのことを たくさんやっていたワケですが、それではあまりにも 脱落する人が多いし、何より、助けられるはずの人を見殺しに してしまうことになります。 そのことにやっと、今更、気付いたということです(苦笑)   これを踏まえて、来年はもっと階段を下りようと思います。 これは決してレベルを下げるということではありません。 単に抽象度が下がるだけです。 先日のハイエクとケインズの記事のように、重要なエッセンスは 残しつつ、もっと遊びの部分というか、楽しめる部分を加えて いけたらなー、と。 そんな感じで考えています。 全部が全部、あんなラノベ調にするつもりはないですけど、 やっぱ楽しまなきゃね。 来年はどんな展開になるかなー。 今から楽しみです。 ではでは、一応これを今年最後のメルマガということにして おきます。 来年もまた頑張ってまいりましょう。 それではよいお年を!   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
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