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Tag archives for 当たり前

相応しさと日常の意外な関係
  「~に相応しくあること」 これをこのメルマガは目指していく、というような話を 以前したことがあります。 そこでは「人間として相応しい生き方をしようじゃ ありませんか」的な話をしたと思うのですが、 今から考えると、そのときの僕の「相応しさ」の理解は 浅かったと認めざるを得ません。 というのは、われわれは今この瞬間も自分に相応しい日常を 生きているからです。   ユニクロの服を買う人は、ユニクロの服が自分に相応しいと (無意識に)思っていて、安いものに飛びつく人は、 安いものが自分に相応しいと(無意識に)思っています。 彼らが高級ブランドの靴やバッグ、時計などを買うと、 それを特別扱いし、丁寧に、綺麗に扱おうとするワケですが、 それは言い換えればその靴やバッグが自分に相応しくない (自分にとって特別なものである)と認識しているからです。 これは逆に考えた方が分かりやすいかもしれません。 もしユニクロの服が自分に相応しくないと思っていたら、 それを買ったり着たりすることが苦痛で仕方ないはずです。 「なんで私がこんな服を着なくちゃいけないの?」 そう思って然るべきです。 しかしユニクロで買い物をする人たちは、そんなことは まったく思っていないだろうし、むしろ「安くて助かるわー」と 思っているでしょう。 知識や能力についても、今の自分の知識や能力に恥ずかしさを 感じていない人は、現時点の知識や能力が自分に相応しい (自分はこんなもんだろう)と思っています。 相応しさとは、その人が当たり前だと思うこと、言い換えると、 その人が快も不快も感じないことすべてなのです。   われわれは自分に相応しくないコトやモノに対しては苦痛や 特別感を感じますが、相応しいコトやモノに対しては何も 感じません。 ということは、相応しさや当たり前のレベルを上げるためには、 徐々にでも苦痛や特別感を感じるものを日常に取り入れ、 それを苦痛にも特別にも感じないようにする必要があります。 ステップとしては 1.自分が何とも思わないコトやモノを見つける 2.それらをちょっと背伸びしたコトやモノに変える 3.それが当たり前になるまで続ける という感じになるでしょうか。 まったくもって何も新しいことは言っていませんが、 結局これが当たり前のレベルを上げることであり、 相応しさを追求することであり、狙わずに狙える人間に なることなのです。 (※『自分の器をデカくする方法』要復習)   ある人が言っていました。 「人生は、当たり前のことしか起こらない」って。 まさに言い得て妙ですよね。 自分にとって凄いことは、それが凄い、つまり特別である という理由で、滅多なことでは起こらないのです。 いかに自分の当たり前のレベルを上げていけるか。 いかに自分に相応しくない現状に気付き、それを修正して いけるか。 それが人生の質を上げる、たった1つの道だと思います。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
自分の器をデカくする方法
  去年の9月から、このメルマガは6年目に入りました。 メルマガをはじめて1年目や2年目は、読者登録がある度に 心が躍っていたのをよく覚えています。 数十人しかいないメルマガで、読者が1人増えるというのは、 それはそれは重大な出来事なのです(笑) ましてや僕は広告を一切使わず、ブログだけでやっていたので、 その喜びはひとしおでした。 当然ながら今も、読者が増えることが嬉しいことに変わりは ありません。 ただこれだけやっていると、1年目2年目では特別だったことが そこまで特別ではなくなってきます。 言い換えると、今まで特別だったことが当たり前になった、 ということです。 われわれの当たり前のレベルというのは、こうやって少しずつ 見えないところで上がっていきます。   恋人ができて大喜びする人、大金を稼いで大喜びする人、 試験に受かって大喜びする人などなど、何かに大喜びする人は その大喜びの対象を特別だと思っています。 大喜びではなくても構いません。 高級な腕時計をドヤ顔で身につけること、高額な買い物を 自慢することなど、とにかく何かを特別だと思ったり、 何かを凄いと思ったりすることは、それ自体が本人の 当たり前のレベルを表しています。 僕にも心当たりが山ほどあるので偉そうには言えないですが、 そういう特別だとか凄いだとかを主張する人は、当たり前の レベルが低く、「器が小さい」というレッテルを貼られます。 男は黙ってサッポロビール。 結局これが一番カッコイイわけです(笑) 黙っていれば、自分に起こることすべてを当たり前だと 受け入れているように見えますからね。 特別なことがあれば誰だって心は動くはずですし、 それを主張したり自慢したりしたくなると思いますが、 その気持ちをグッと抑え、さもそれがなんでもないこと かのように振る舞うこと。 それが器のデカイ人だと認識させる、そして実際に器を デカくするための最もシンプルな方法だと思います。   自分にとって凄いこと、あり得ないこと、難しいこと、 喜ばしいことを「こんなのぜんぜん普通だしぃ」、 「こんなの当たり前だしぃ」(ギャル男風)と思う努力を してみてください(笑) 世間的に凄いとされることを達成しても、「だから?」って 顔をしておきましょう。 繰り返しますが、これが一番カッコイイのです(笑) 難しいのは分かってるけどね。 木村拓哉や福山雅治も、自分をカッコイイと思っていない (ように見える)から余計にカッコイイわけです(笑) そんな感じ。 何の話がしたいのかよく分からなくなってきましたが、 まあ頑張ってカッコよくなりましょう(笑) ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
魂の奥義「狙わずに狙う」
  ここ2週間ほど、コンセプトについてひたすら自分の考えを ノートに書き出していました。 ブレインダンプってヤツです。 ずっとそれだけをやっていたワケではないとはいえ、 四六時中そのことで頭がいっぱいだったのは 間違いありません。 それだけ考えりゃそれなりの答えも出てくるワケで、 そうやって出てきたのが今回のタイトルになっている 「狙わずに狙う」です。 個人的にはもっと面白い表現に変えたいというのが 本音なんですが、当分はこのコンセプトでいいかな、 と思っています。 思い返してみれば、「脱凡人」というコンセプトを 考えたときも、自分ではそんなにしっくりきて なかったな、と。 コンセプトとは、案外そんなものなのかもしれません。 んで、狙わずに狙うとはなんぞや、という話なんですが、 これは理想を叶えようとしなくても自然と理想が 叶ってしまう、意図的なシナリオや戦略を組まなくても ビジネスが上手くいってしまう、子供を変な教材や塾で 教育しようとしなくても良い子に育ってしまうなどなど、 そういう狙わずとも勝手に的に当たってしまう人間になる (である)ことを意味しています。 前々回のメルマガで『僕がマーケティングをしない理由』 というのを話しましたが、その根っこがこれです。 僕は、なんだか分からないけど不思議なことが連鎖して 人生が勝手に上手くいってしまう、そういう人を増やす 活動をしていて、僕自身もそうなろうとしていた (そうなっていた?)ということです。 引き寄せの法則と言ってしまうとちょっと安っぽいですが、 その法則が発動する人間を作ることが僕のやってきたことで、 今やっていることなんだな、と。 そんな考えに至りました。   よくよく考えてみると、僕が重視している教養や人間性は テクニックやノウハウと違って意図的に使うものではなく、 持っているだけで勝手に誰かの役に立ってしまうものです。 教養のある人、優れた人間性を備えた人と接することは、 それだけでわれわれにとって癒しや学びになります。 何気ない会話でも大きな気付きが得られたり、 それまで頭を悩ませていたことがどうでもいいと 思えるようになったり、彼らと接していると そういうことが起こります。 当然ながら、彼らはそれを意図しているワケではありません。 彼らは自然に、普通に生きているだけで、それが勝手に われわれの助けになってしまうのです。 『Be Standard』セミナーを受講したなら分かると思いますが、 これが「当たり前」のレベルが高い、ということです。 当たり前のレベルを上げていけば、狙わずに狙う、つまり 普通に生きているだけですべてが勝手に上手くいくという 究極的に理想的な人生が手に入ります。 子供は親の「当たり前」を見て勝手にいい子に育つし、 部下は上司の「当たり前」を見て勝手に焚きつけられるし、 顧客は売り手の「当たり前」を見て勝手に買いたくなる。 これこそ本来あるべき合理性だと思うのです。 もちろんこれはテクニックやノウハウを否定するものでは ありません。 というよりも、この合理性の一部を切り取ったものが テクニックやノウハウと呼ばれるものです。 だとすれば、それらも本来は「意図して使うもの」ではなく、 「勝手に滲み出てしまうもの」であるべきではないでしょうか。   この境地に至るには時間もかかるし、楽でもありません。 さっさとテクニックやノウハウを学んで実践した方が、 はるかに(目に見える)結果が出るのは早いと思います。 でも、僕もあなたと同じでドMなんですよ(笑) ミスチルが歌っているように「高ければ高い壁の方が 登ったとき気持ちいいもんな」の「気持ちいいもんな」を 求めてしまうのです。 最近ようやく自覚できてきたんですが、 僕は(一般的に見て)物凄く遠回りをしています。 哲学書なんていう、何の役にも立たなさそうな本を 何時間もかけて読むあたりが、それを象徴していると 思います。 しかし結果として見てみれば、徐々にではあるけれども、 狙わずに狙えるような環境が出来上がってきました。 結果を狙わず、売上も狙わず、自分の好きなことを 好きなようにやるだけ。 このなんとも起業家として相応しくない態度や行動が、 今の環境を作っています。 つまり、狙わずに狙うことすら狙わずに生きられたことが、 実は凄く合理的だったということです。 とはいえ、これはスピリチュアルな話ではありません。 そうではなく、やりたいことをやることは、 狙わずに狙うことと同じことであり、人はやりたいことを やっていると勝手に「当たり前」のレベルが上がっていく ということなのです。   なぜ教養を身につけたいのか。 なぜ人間性を高めたいのか。 そこに明確な目的なんてものはないと思います。 ただただそこには「今の自分に満足できない」、 「自分に恥じない自分でありたい」「自分の世界を もっと広げたい」「もっと人の役に立てる人間に なりたい」という気持ちがあるだけだと思うのです。 その気持ちに素直に従うこと、それこそが狙わずに狙う、 「当たり前」のレベルを上げる唯一の道です。 勘がよければ気付いたかもしれませんが、 そうやって教養や人間性を求める人間になれたこと、 そのこと自体が既に成功への大きな一歩を踏み出した 証拠なのです。   意識的に後先や結果を考えるのではなく、自分の心の声に 耳を澄ましてください。 自分の気持ちに身を委ねてください。 それが魂の奥義を発動させる条件なのです。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合はこちらをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 ...more»
イノベーションと自明性
  ここのところ色々なメディアでイノベーションという言葉を目にすることが増えてきました。 創造的破壊、コペルニクス的転回、パラダイムシフト、リフレーミングなどなど、呼ばれ方は業界によって異なりますが、どれも意味はほとんど同じ。 これらが意味しているのは われわれにとっての「当たり前」を当たり前でないようにする ということです。 一般にはこれを、常識を覆す、とか言ったりしますが、要はそれさえできればイノベーションは起こるワケです。 しかしそれが口で言うほど簡単ではないことは、イノベーションについて少しでも考えたことのある人なら誰でも実感していると思います。 必死になって頑張ってみても、どこかの会社のようにテレビと空気清浄機を合体させてみたり、より高精度の液晶を開発してみたり、そういう勘違いが大半なワケです。   僕が考えるに、イノベーションが起こらない主な原因は、自分たちの「当たり前」が何かを自覚できていない、という点にあります。 日本の大手家電メーカーがしょーもないのは、柔軟な発想ができないからというよりも、自分たちが何に凝り固まっているのかを自覚していないからなのです。 テレビに空気清浄機をくっつける。 確かにこれも従来のテレビとは違った新しいものだと思います。 けれども、これをイノベーションと呼ぶのにはどこか違和感がある。 その理由は、くっつける物は多少珍しくても“くっつけ方”が凡庸だからです。 もう少し突っ込んでいえば、テレビをテレビ、空気清浄機を空気清浄機としてしか見ていないからです。 以前アフォーダンスの話をしたことがあると思いますが、テレビとはあくまでも映像を映し出す装置、いや、電気を使って映像を映し出す機能を持った大きな四角い物体でしかありません。 本来なら、それを使って映像を見るかどうかは、われわれがその使い方を選ぶかどうかによって決まります。 自分がその物体を邪魔だと思えば、それはどれだけ高性能であってもゴミになる。 モノの定義とはその程度のものなのです。 ですから、テレビや空気清浄機というのはそのモノが持った1つの側面でしかなく、テレビが単なる大型不燃ゴミではなくテレビであるのは、まさしく売り手がその側面のみをアピールし、われわれに対してそういうものであると強引に定義づけているからなのです。 この「当たり前」をほとんどの企業は自覚していません。 電気を使って映像を映し出す機能を持った大きな四角い物体をテレビとして売り出すこと、それを当たり前だと無自覚に思い込んでいるからこそ、何の悪気もなく彼らは「これはテレビです」と言って販売することができるのです。 僕が手前で、イノベーションを起こせない主な原因は「当たり前」を自覚できていないからだ、と言ったのはこのことです。 今の話は分かりやすいように企業を例にしましたが、これは別に商品開発に限った話ではありません。 知識にも、人間にも、同じようなことが言えます。 しょーもない知識も、しょーもない人間も、すべての根本にはこのことが関係しているのです。   「当たり前」はその言葉の通り、われわれにとって当たり前のことですから、それ自体は面白くも何ともありません。 見たり聞いたりしても何の感動もしないもの、ごく身近のありふれたもの、それをわれわれは「当たり前」と呼ぶワケです。 息をすること、体を動かすこと、水道の蛇口から水が出てくること、スーパーに行けばいつでも食料品が手に入ること、毎日何事もなく生きていること・・・。 これらはすべてわれわれにとって「当たり前」ですが、こうやって言葉で説明されなければ、通常は意識すらしないと思います。 それが「当たり前」が当たり前である所以です。 そのため誰もが「当たり前」に対して無自覚的で無意識的であり、その「当たり前」が揺らがない限り、それについて深く考えるようなことはほぼありません。 つまり「当たり前」を自覚していないこと自体はわれわれにとって普通のことであり、何か問題があるワケではないのです(道徳的には多々問題があるのですが、その話はまたどこかで)。 けれどもビジネス的に、知的に、人間的に、イノベーションを起こしたいと考えている場合は別です。 冒頭で話したように、イノベーションとは常識を覆すことなのですから、その常識、つまり「当たり前」を自覚していないことには話になりません。 犯人を知らなければ犯人を捕まえることも、ましてや改心させることもできない。 それゆえ、イノベーションを起こすことを主題とした場合、最初に考えなければならないのは、そもそもわれわれは何を「当たり前」として生きているのか、「当たり前」はどんな役割を担っているのか、ということです。 もちろんこれが分かっただけでイノベーションが起こせるということではありませんが、このことがイノベーションの第一歩として非常に重要であることは、ここまでの話からして異論はないでしょう。 ただ改めて考えて欲しいのは、ビジネスだろうが、知識だろうが、それらはすべて人間に関することである、という点です。 われわれ人間の活動がなければ、知識やビジネスは成立しません。 というより、「当たり前」という土台の上で行っている思考や行動が反映されて、それは知識やビジネスになるのです。 だったら。 ビジネス的イノベーションとか知的イノベーションとか、そういったことをちまちま考えるのではなく、われわれ人間自身の「当たり前」を問い直せば、あらゆる意味でのイノベーションを起こしやすくできるのではないでしょうか。 そしてそれが良くも悪くも人生を変えること、人生を「逆転すること」に繋がるのではないかと思うのです。   ここで「それでは僕と一緒に人生を変えましょう」などと巷の成功哲学愛好会のような気持ちの悪いことを言うつもりはありません。 ましてや僕にはあなたの人生を変えられるほどの力はないし、その資格もない。 僕のような人間がそんなことを口にするのは「おこがましい」というものでしょう。 神様でもあるまいし。 またそれ以前に、人生を変えること、人生を「逆転すること」、それ自体が良いこととは限りません。 イノベーションを起こすというと世間的には良い意味に捉えられることがほとんどですが、要は常識的でない思考を手に入れていくワケですから、必然的に常識的な人からは受け入れられなくなっていくことは十分に有り得ます。 場合によっては、今まで普通に付き合うことができた友人と話が通じなくなることもあるかもしれません。 「それでも変わりたい」 そう言い切れる者にのみ、自ら変わる資格が与えられるのではないでしょうか。   僕の言っていることは昔から何も変わっていませんが、僕は上記のような人と一緒に勉強したいし、仲間になりたいし、いろんなことに挑戦したいと思っています。 だからこそ、こんなマニアックな記事をずっと書き続けてきているワケですが、個人的な事情で来月以降からはよりパワフルに、よりアグレッシブに活動を本格化させていく予定にしています。 ブログの更新頻度も上がると思いますし、メルマガを出す頻度も上がるでしょう。 またイノベーションに関するセミナーや読書講座なども予定として考えています。 そしてあわよくば、仲間を巻き込んで海外進出なども出来ればな、と考えているところです(僕個人は1年ほど前から海外で物を売ったりしています)。 だからどうした、と言われればどうもしないんですが、ブログも新しくなったことだし、いい機会なので改めて仲間(便宜上はメルマガ読者)を募集しようかな、と。 要はそれだけです。 よかったら僕と一緒に(人生)勉強してみませんか? イノベーティブな生き方。 きっと楽しいと思いますよ。   ペスのメルマガに登録する   ちなみに今なら登録のおまけで『「当たり前」の構造』という18ページ程度のPDFレポートがついてきます。 この名前からも想像がつくように、内容はこの記事の続きです。 われわれの「当たり前」を具体的に紹介し、思考はいかにして可能か、会話はいかにして可能かなど、そんな感じのことを解説しました。 いつも通り難しい話はしてませんので、気楽に読んで下さい。 敢えて専門的に言うならば、メタ思考やメタ認知といったメタレベルの話、ないしオートポイエーシスの原理などにも関連したテーマです。 まあレポートの中にはこんな言葉は一言も出てこないんですけどね(笑) こういう言葉を出した方が理解しやすい場合もあるかと思ったので一応。 ではでは、今回も長くなりましたがこの辺で。 ありがとうございました。   ...more»
現実を現実的に生きる
  世間では「現実的に考えろ」とか「現実と理想は違う」 という言葉をよく耳にします。 学生が社会人になって「現実を思い知らされた」なんてことは よくあることですし、企画や政策が現実的であることに重点が 置かれるのは、もはや常識です。 しかし、いざ【現実】や【現実的】とは何なのかをちゃんと 説明しようと思うと、モヤモヤしていて意外と説明出来ないことに 気付くと思います。 なんとなく「自分が感じ取れるもの」が【現実】で 「実現が可能そうなこと」が【現実的】、というぐらいの 答えは出てくると思いますが、実際、自分の中でその答えが シックリくるかというと、恐らくそうではない。 かと言って「現実とは何か」という問いに1時間も2時間も 費やす価値は無いような気がする。 恐らくこれが普通の感覚でしょう。 つまり、普通一般的には【現実】なんてものを考えよう という発想自体が皆無だし、仮にそれを考えろと言われたところで 考える価値すら感じない、ということです。 その理由はもう今まで散々言ってきているように、 現実というものが僕らにとって当たり前過ぎるからに 他なりません。 普通の人にとって「当たり前のこと」を一々考えるのは、 アリに聖書を読み聞かせるぐらい無益で無駄なことなのです。 にも拘らず、どうして僕はそんなことを一々ブログに 書こうとしているのか。 それは多分僕が変人だから、というのもありますが(苦笑) それ故に(?)【現実】や【現実的】を考えることに 意義があると思っているからです。 その理由の中にはもちろん「哲学的に意義深い」というものも 含まれます。 でも僕にとって重要なのは、 僕らは現実を生きている という事実に目を向けること。 わざわざ僕がこんなことを書くということは、普通の人はみんな 現実を直視せずに生きている、と僕は思っているということです。 もしかしたらそれは僕の大きな勘違いなのかもしれませんが、 僕が見る限り、僕の周りのほとんどの人は現実を現実的に 見ることが出来ていないように思います。 毎日着たくもないスーツを着、乗りたくもない満員電車に乗って、 やりたくもない仕事をやって・・・これらは僕から言わせれば 現実を現実的に生きているとは言えないのです。 それは何故なのか。 今から詳しく説明しましょう。 僕らは現実を生きています。 死んでしまったら僕らは現実を生きることは出来ません。 つまり僕らが生きていること、それ自体が現実なのです。 そして「生きている」ということは、常に死ぬ可能性を 併せ持っていることを意味します。 生きてなければ死ぬこともないし、生きているからこそ 僕らはいつか死んでしまう。 これは言い換えれば、僕らは毎日「死ぬ可能性」という 究極の不安を背負って暮らしている、ということなのです。 この「死ぬ可能性」をハイデガーは有限性と呼び、この有限性を 自覚して生きている者、すなわち【現存在】であることが 現実的に生きる(存在する)ことだと言ったワケですが、 僕が言いたいのもまさしくそれと同じです。 要するに 「現実を現実的に生きる」とは、毎日常に死の不安と 向き合いながら生きることであり、それはつまり、 いつ死んでも後悔しない生き方をいかなる瞬間においても 実行すること なのです。 先ほど書いた例をもう一度書きます。 毎日着たくもないスーツを着、乗りたくもない満員電車に乗って、 やりたくもない仕事をやって・・・ こんなことをやっている人間を果たして「現実を現実的に 生きている」人間だと言えるでしょうか? 死の不安を自覚している人間が、やりたくもない仕事を やろうなんて思うでしょうか? 僕らは今日、まさにこの瞬間に死ぬかもしれないのです。 にも拘らず、やりたくもないことをやってる時間なんて 本当にあるのでしょうか? それを今一度、見直してみて欲しいのです。 現代の日本においては、身近な人が亡くならない限り、 死を実感することは無くなってしまいましたし、 長寿高齢化によって80歳ぐらいまで生きることは 当たり前のように扱わるようになりました。 また医学の発達によって死ぬはずだった人も 生きることが出来るようになりました。 これらの影響で、僕らは死の不安から解放されたかのような 錯覚を抱いてしまっているワケですが、実際、死というものが 僕らから引き離されたかというと、そうではない。 それはあくまでも錯覚であって、死神は常に僕らの隣にいるのです。 世間では未だに「やりたいことをやりなさい」的な本が 散見されます。 しかし、現実を現実的に生きている人間(以下現存在)にとっては それこそが自明のことなのです。 僕の友人(だと思っている)に川田祐子さんという 現代画家の方がいます。 彼女は僕が現存在であると思う数少ない人間の一人なのですが、 彼女が先日Twitterでこんなことをつぶやいていました。 「たとえ最初の一筆でさえも、ここで自分の命が絶えて 2本目を引くことができなくても、作品として残すことができる」 という気持ちで描くのと、そうでないのとでは、作品の出来具合に 相当な開きが出て来ます。 現存在は、こんなことがサラッと言えてしまうのです。 本人に確認したワケではありませんが、恐らく彼女にとって この発言は当たり前のことでしかなく、誰かを驚かすための 発言でも、自分を誇示するため発言でもありません。 彼女はあくまでも事実を述べているだけだと思うのです。 この発言から学べることはいくらでもありますが、 1つ重要なものを挙げるとすれば、彼女自身と在り方と 彼女の貢献度(作品)が切り離せないものになっている、 ということです。 上記の発言の裏を読むと「有限性を意識せずに生まれた作品は 中途半端で腐ったものでしかない」と解釈できます。 つまり、現実を現実的に生きていない人間の生み出したものは 最良のものには成り得ない。 すなわち、やりたいことを(全力で)やっている人間だけが、 自分にとって世界にとって最良・最善のものを生み出せる、 ということなのです。 もうお気付きかと思いますが、これはビジネスの話とも 大きく関係してきます。 ずっと前に「いずれビジネスの話に繋がります」的なことを 書いたと思いますが、今、ようやくその入り口に差し掛かりました。 かと言って、ここからいきなり「ブランディングが・・・」とか 「なんちゃらマーケティングを駆使して・・・」みたいな そーゆーしょうもない話題に走ったりはしませんので ご安心下さい。 僕の捉えるビジネスとは、そういうものではありませんから。 ま、続きは次回以降をお楽しみに。 ではでは。 追伸 今回紹介した川田祐子さんのブログはこちら。 あと、彼女はセルフカバーアートというものをWebで 販売しています。 僕が誰かを紹介することは滅多にない、ということを 念頭に置きつつ、気が向いたらアクセスしてみて下さい。 ...more»
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Fatal error: Uncaught Error: Call to undefined function ereg_replace() in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code:1 Stack trace: #0 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1): eval() #1 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(688): require_once('/home/philosoph...') #2 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(647): load_template('/home/philosoph...', true) #3 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/general-template.php(76): locate_template(Array, true) #4 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/archive.php(151): get_footer() #5 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template-loader.php(74): include('/home/philosoph...') #6 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-blog-header.php(19): require_once('/home/ph in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code on line 1