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東京国立近代美術館「フランシス・ベーコン展」にて
ども、ペスです。 行ってきました、ベーコン展。 フランシス・ベーコンと言えば、僕は今まで哲学者の方しか知らなかったんですが、何やらこの彼はその同姓同名の哲学者の血を引いているとか何とか。 誕生日が僕と一緒だったり、ちょうど僕がハイデガー(実存主義)を勉強しているタイミングで彼の展覧会が行われていたり、なんだか彼とは運命を感じます(笑) 気持ち悪いとか言わないでね。   彼の作品は「上手い」や「キレイ」という次元を超越しています。 それは「実存的」としか言い表しようがなく、他に彼の作品を形容する適切な言葉が 見当たりません。 偉大な芸術は、人間の置かれている状況がいかに脆いかを思い出させてくれる という彼の言葉どおり、そこに表現されているのはイマココという状況の脆さや移ろいやすさです。 誰もが当たり前のこととして認識しているイマココの状況は、実は非常に脆いもので、次の瞬間にはもう消えて無くなっている。 「その奇跡をもっと感じろよ」と言ったのはハイデガーですが、ベーコンの作品からもそれと同じような印象を受けます。   彼はある動画の中で 下書きをしたあとは、チャンスが来るのを待っている そのチャンスが来ると、意識することなしに作品が完成する というようなことを言っていたのですが、彼はその「直観」によって現実(イマココ)を 切り取ることに成功した稀有な画家と言えるでしょう。 直観とは、理性の先にある閃きのようなものです。 感覚としては、以前話した帰納的飛躍という言葉に近いと思います。 考えて考えて考え抜いた末に出てくる、突拍子もない何か。 今風に言えばイノベーションということになるでしょうか。 その閃きを閃きのままに描写すると、あんな感じになるんだと思います。   このことから分かるのは、偉大な芸術家は偉大な哲学者である、つまり理性的に考えを突き詰めた上で作品を作っている、ということです。 多くの画家が「言葉にできないから絵で表現するんだ」と言うとき、ほとんどの場合 それは単なる語彙力不足です。 彼らは自分のボキャブラリーの乏しさを言い訳にして、絵を描くことに逃げている。 理性を突きつめるどころか、理性を中途半端なまま放り出して、響きだけが美しい 感性という柱にしがみついて生きているのです。 しかしベーコンは違います。 彼はギリギリのところまで言葉での記述を追求し、その先にある言葉以上ものを絵として表現しようとしました。 「言葉で表現できないもの」のような漠然としたものではなく、「言葉を超えたもの」を 表現したのです。 それは彼の どうやったら理性的でないやり方で機能を作ることができるのだろう 見た目だけでイメージを作り直すのではなくて、私たち自身が把握しているあらゆる 感覚の領域を作り変えたいんだ という言葉からも明らかだと思います。 すなわち、芸術家と哲学者、芸術と哲学を分け隔てることは、芸術への裏切りであり、 哲学への反逆なのです。   哲学を理解できなければ芸術も理解できない。 ここまでの話で、なんとなくこういう理屈が見えてきたと思います。 もちろんこの「哲学を理解する」とは、ハイデガーやカントやヘーゲルの哲学を 知ることではありません。 そんなものは気になった人だけが知ればいいだけのことで、彼らの著書を読もうが 読むまいがどっちでも構いません。 そうではなく、ここで言う「哲学」とは、「哲学する」ということであり、 もっと分かりやすく言えば、自分が生きるとはどういうことかを探求し続ける 態度のことです。 そういう態度で生きていれば、芸術は自然とその意味を語りかけてくれます。 その意味はあなたにとっての意味でしかありませんが、それで十分なのです。 客観的な芸術とは、本質的にはもはや芸術ではないのですから。   哲学は本質的に反時代的である。 なぜなら、哲学は、いつも自分自身の時代のうちに直接の影響をけっして見出しえない、また、けっして見出してはならない、という運命をもつ、かの稀な事柄に属するからである。 直接の影響が起きているように見えるとき、哲学が流行になるときには、本当の哲学は 存在しないか、あるいは、哲学は誤解されて、なにか哲学とは異質の意図にしたがって、日常の要求のために悪用されているのである。 ハイデガーのこの言葉は、そっくりそのまま芸術に当てはめることできます。 つまり、芸術は本質的に反時代的である、ということです。 時代の価値観を超えている、流行に流されないという意味で、それは時代とは縁のないものなのです。 だから必然的に大衆からは支持されない。 ベーコン展は客層がかなり限られており、なおかつ、客数自体が少なかったという点で、まだまだ芸術としての役割を果たしていると言えます。 一方、ダ・ヴィンチやラファエロはもう芸術としては死んでいると言っていいでしょう。 あれらはもはや芸術のシンボルでしかなく、真の意味での芸術ではなくなって しまったのです。 この話は次回のラファエロ展についての記事で詳しく書こうと思います。   最後に一言。 この規模でのフランシス・ベーコン展は、今後2度と見られないかもしれません。 それぐらい手間暇のかかった貴重な展覧会です。 ラファエロ展よりこっちの方が断然見に行く価値があると思います。 上級者向きではありますが、この手の展覧会にはどういうお客さんが来るのかを 見ておくのも1つの勉強です。 もし少しでも気になっているなら、見ておいて下さいな。   ...more»
素晴らしさの可能性
ども、ペスです。 僕は美術を「実存的に」鑑賞するためには、ある4つの問いを持っておくことが 不可欠だと考えています。 このことを意識しているのは極少数の人だけだと思いますが、この4つのうち 2つについては無意識的ではあれ、誰もが念頭に置いて作品を見ているはずです。 その2つというのは 1.何を見るのか 2.どう見るのか という問いです。 われわれが特定の展覧会を「選ぶ」のは、1の「何を見るのか」という問いが自分の 中にあるからです。 これは無意識的な問いですから、誰も自覚していないと思いますし、もちろん僕も 問うていること自体は自覚していません。 ただ、この問いがなければ「選ぶ」という行為が生まれ得ない以上、われわれの中に こういう前提的な問いがあることは間違いありません。 厳密に言えば、われわれが特定の展覧会を見たいと思うのは「何を見るのか」という 問いと「それを見るか(見たいか)否か」という問いの末に導かれる結論です。 美術の展覧会に興味のない人は「何を見るのか」という問いを持ち合わせておらず、 それ故に彼らには展覧会に足を運ぶということが有り得ないのです。   2の「どう見るのか」は展覧会を見ているときにわれわれが持っている問いです。 みんな自分なりの見方で作品を見ていると思いますが、その「自分なりの見方で見る」 という答えは「どう見るか」という問いから導かれたものです。 これも当然自覚はないと思います。 自覚していたら誰だって美術の正しい見方を心得ているでしょうからね。 多くの人が作品を見て「上手い」や「キレイ」という感想しか持てないのは、 この問いに対する答えがそれだけ単調で乏しいということなのです。   冒頭で言ったように、ここまでは誰もが持っている問いです。 あと2つの問いについてはこれから説明しますが、ここで分かっておいてほしいのは、 それを持っているという事実が重要なのではなく、持っていることを自覚しておくことが 重要だということです。 この問いを自覚することによって、われわれは自分の判断の危うさ、自分の大衆性 (凡人性)を知ることができます。 例えば「何を見るのか」という問いは、多くの人にとって「どれを見るのか」という 問いになっています。 展覧会や美術館の数が限られている以上、それはある意味では仕方のないことでも あるのですが、問題はそこではなく、彼らは勝手に自分でその選択肢をしぼっている ということです。 10個の展覧会があったとしら、その10個のうちから選ぶのではなく、大衆はそれを 「恣意的に」3つぐらいにしぼった上で選びます。 その3つというのは大体、有名だとか、車内広告で見たとか、そういう理由で しぼられていて、彼らはその中からしか答えを出そうとしないのです。 これは夢を諦める人間の思考とまったく同じです。 彼らはやってもいないことを勝手に出来ないと決めつけ、自分から人生の選択肢を しぼっています。 その夢が叶うかどうかはやってみなければ分からないのに、その展覧会が面白いか どうかは行ってみなければ分からないのに、勝手に「出来ない」「面白くない」と 決めつけるのです。 これによって彼らの可能性が著しく狭まっていることは、言うまでもありません。 しかし彼らはそれを自覚していないし、気付こうともしません。 権威主義的な(ミーハーな)展覧会に集まる人間とは、こういう人間なのです。   さて、寄り道はこれぐらいにして、話を前に進めましょう。 われわれが持つべき3つ目の問いは 3.なぜ見るのか です。 なぜ自分はその展覧会を見るのか。 なぜ自分はこの作品を見るのか。 これには明確な答えは必要なく、問うことそのものに意味があります。 というのは、ガダマーが言うように 問いの本質は、可能性を開き、開いたまま保持することにある からです。 可能性を開いたまま保持するということは、その展覧会と、またはその作品と、 常に関係を持ち続けるということです。 それは必ずしも意識的に関係を持ち続けなければならないという意味ではありません。 心に残る作品や展覧会とは、すべて、事ある度にわれわれに「なぜ見るのか」という 問いを生起させるものだからです。 つまり「なぜ見るのか」という問いは、自分から意識的に持つようなものではなく、 あちら側から投げかけてくるものなのです。 それを上手く受け取れるかどうかは、あなたの人間としての器にかかっています。 小さなグローブでは、真正面にきた素晴らしいストレートのボールでも取り損ねて しまうのです。   最後の4つ目の問いは 4.見るとはどういうことか です。 これが「見るとは何か」という問いでないことに注意してください。 「見るとはどういうことか」という問いは、われわれにとって見るということが 何を意味するのか、ということを問うているのです。 難しい話になりますが、見るとは、われわれの存在の仕方の1つです。 われわれが何かを見ているとき、それはわれわれが見るという仕方で存在していると 言い表すことができます。 つまりこの問いは、哲学的に言えば それを了解しつつ見るという認識を可能にしているア・プリオリな諸条件とは何か ということであり、簡単に言えば 自分のことをもっと探求してね ということです(笑) 自分を探求することについて詳しく話し出すと立派な論文ぐらいの量になってしまうので 今は割愛させてもらいますが、1つだけヒントを出すと 常日頃から自分を自覚しておくこと を意識するといいと思います。 認知科学的な言い方をすれば、メタ認知(メタ思考)能力を鍛える、という感じになる でしょうか。 このことが「見るとはどういうことか」にどう繋がるのかは、やれば分かります。 気になったら、やってみてくださいな。   長くなったので最後にまとめておきましょう。 われわれが美術を「実存的に」鑑賞するために持つべき問いとは   1.何を見るのか 2.どう見るのか 3.なぜ見るのか 4.見るとはどういうことなのか   の4つです。 これらがすべて揃ったとき、われわれの前に「素晴らしさ」が現れます。 これは逆に言った方が実感しやすいかもしれません。 われわれが素晴らしさを感じているときには、無意識的にこういう問いを自分の中で 投げかけているのです。 それらの問いの総合的な答えが素晴らしさであり、実存です。 今はこれを理解できなくても構いません。 ただ、頭の片隅には置いておいてください。 ちゃんと努力を続けていれば、そのうち意味は「実感」できますから。   追伸1:所感など。 僕が『脱凡人のすすめ』という奇怪なタイトルのメルマガを出しているのは既に ご存知かと思いますが、そこでテーマにしてる「凡人から脱する」ことが美術を 「正しく」鑑賞することや美術を理解することに繋がっているということに 気付いている人は極わずかしかいません。 当たり前の話ですが、凡人に美術は理解できません。 だってそういう人間のことを、われわれは「凡人」って呼ぶんだから。 哲学も分かろうとしない、芸術も分かろうとしない、難しいことは何も分かろうと しない。 それが凡人です。 これは凡人をバカにしているのではなく、凡人の定義を述べているに過ぎません。 そうやって怠惰に生きることを何とも思わない人間のことを、われわれは凡人と 呼んでいるということです。 ちなみに、無知であることと凡人であることとは関係ありません。 誰だって初めてのことに関しては無知なのですから、そんなのは仕方のないことです。 そうではなく、自分が無知であることを知りながら、それを克服しようとしない人間が 凡人だと言っているのです。 「美術が分からない」と自覚していながら、その分からない状態をそのまま 放置しておく人間ってどうなのよ、と。 あんたそれでも人間として恥ずかしくないのかよ、と そんなんでよく自分の子供に、勉強しろ、なんて言えるな、と。 僕が言いたいのは、そういうことです。   ここまで言えば僕が普段から抱いている気持ちは分かって頂けたと思います。 僕もバカの類ですから、バカをバカにするような自虐行為はしません。 ただ、自分がバカだってことを知ってるなら、そのバカという短所は克服しようぜ、と 言っているのです。 「脱凡人」とは、人間としてまともに生きよう、ということです。 凡人のように怠惰に生きるのではなく、そこから脱して、人間らしく向上心を持って 生きよう。 そういう思いを込めています。 それはメルマガに限った話ではありません。 このブログも、もう1つのブログも、いつも気持ちは同じです。 僕がプロフィールに「教養主義」と書いているのは、こういうところに由来しています。 僕の教養主義は、自分がバカだと自覚しているからこその教養主義だということを、 分かってもらえると嬉しいです。 ありがとうございました。   追伸2:哲学。 この記事にはハイデガーとコリングウッドの哲学を織り込みました。 美術に負けず劣らず、哲学も楽しいですよ。     ...more»
実存の危機における美術館の可能性
ども、ペスです。 昨今の政府や地方自治体の事業仕分けに伴い、これまで公に守られてきた 日本の芸術文化は急速に衰退の道を歩んでいます。 交響楽団の活動停止や美術館の閉鎖、若手芸術家の育成不足、 そしてお金にならない活動に対する民衆の無理解。 他にもたくさんあると思いますが、こういったことが日に日に 悪い方向に進み続けていることには違いありません。 民間からは以前紹介したソーシャルファンディングと呼ばれる ビジネスモデルが少しずつメジャーになり始めたとはいえ、 それでもほとんどの人が芸術分野に対しては共感を 示していないのが現状です。 音楽や絵画、彫刻、演劇、映画・・・芸術にも色々ありますが、 今はこの中の本当に極一部にしか光が当たらず、 他はすべて無いものかのように一般には扱われているワケです。 その一例として、日本の美術館が行う展覧会のほとんどは 「印象派の画家」展であることが挙げられます。 これは美術館側から言えば「印象派の展覧会が一番集客しやすい」 という事情があるワケですが、これを繰り返すことによって 日本人の芸術観とも呼ぶべき感覚が狭められてしまっており、 その結果として現代美術や印象派以外の美術が多くの人から 軽視されるようになったことは悲しむべきことだと思います。 そして唯一、現代美術が堂々と輝ける場所としてあるべき 各現代美術館も、経営を重視するあまりマンガやアニメを頻繁に 取り上げるようになってしまっているのです。 マンガやアニメは芸術か否かという点はともかくとして、美術館は本来、 われわれの見識を広めるものでなければならない、と僕は思っています。 もう少し言えば、民衆を啓蒙する役割が美術館にはあるのではないか、 ということです。 たとえ経営が危ういとしても、その理念まで捨ててしまっては そもそも美術館が存続する意味がありません。 ときには印象派を紹介することも必要でしょうし、 ときにはマンガやアニメを紹介することも必要でしょう。 しかし、今やそれらはメジャー中のメジャーであり、 美術館がわざわざやらなくとも他の商業施設や百貨店などが 勝手にやってくれるのですから、取り敢えずそっちは他に 任せておけばいいのです。 美術館が今考えるべきは、無難で保守的な利益確定型の展覧会を やることではなく、儲からなさそうなマイナーで地味な展覧会で いかに集客するか、美術館が本来あるべき在り方で存続するためには どうすればいいか、ということなのです。 そこでやっと本題に入っていきます。 ブログやメルマガにも書いたように、現代人は実存の危機という状態に 陥っています。 だからこそパワースポットなんてものがブームになったり、 アーユルヴェーダやヨガや座禅や写経や瞑想やマラソンが 流行ったりするワケですが、これらの現象を抽象化すると、 人々は論理的なものではなく感覚的なものを重視し始めた、と 考えることができます。 もちろん今言ったそれぞれには固有の論理があり、すべてが感覚的なものだとは 言えないのですが、一般に言う論理、つまり科学とはまったく違うものばかりです。 だとしたら、この中に芸術が含まれていても何ら不思議ではないと思いませんか? 実際、これだけ音楽が売れなくなった現代でも、ライブコンサートの動員数は 右肩上がりだと言います。 家で動画を見てればお金のかからないニコニコ動画も、幕張で行われた 有料イベントであるニコニコ超会議は10万人を集めました。 こういうところに美術館は注目すべきだと思うのです。 個人的には美術館は建物自体が素晴らしいことが多いので、 聖なる空間として機能させることは十分に可能だと思いますし、 実際に人によっては既に聖なる空間と感じている人もいると思います。 美術館に行くとなぜか分からないけど落ち着く。 そういう人も少なくないはずです。 だったら、そういう人をもっと増やせないかどうかを考えてみては どうでしょうか。 また瞑想などとコラボして、曼荼羅の展覧会をやっているその中で瞑想を 実際に体験してもらう、というのもアリかもしれません。 贅沢を言えば、美術の体験の仕方を分かりやすく指導した上で、 美術を鑑賞してもらうのが一番理に適っていると言えます。 美術は音楽や動画と違って時間軸がほとんど無いため、聖なる時間、 聖なる体験になり難いという点があります。 ですから、そこをどう補っていけるかが起死回生のカギになるでしょう。 音声ガイドもその1つの試みではあると思いますが、あれを借りる人は ほとんどいないという現実があるワケですから、その現実をしっかり受け止めて 別の案を模索しなければなりません。 単なるモノとの出会いを、いかにして体験に変えるか。 これが今の美術館に求められている技術ではないでしょうか。   ...more»
聖なる空間 ~日常の中のスピリチュアル~
  朝早くに駅前なんかを歩いていると、たまにボランティアか何かで ゴミ拾いをしている人がいます。 僕はそれを見るたびに「偉い人がいるもんだ」と感心するんですが、 それと同時に「でも掃除する人がいるから捨てる奴がいるんだよな」 という虚しさをおぼえます。 「どうせ汚されるなら掃除するだけ無駄なんじゃないか」とすら 思ってしまうほどです。 実際、ゴミを捨てる人が減らない限り、いくら掃除をしても 街はキレイにならないワケですから、表面的に見れば無駄です。 それを続けるぐらいならシンガポールのようにポイ捨てする人に 罰金を科すことの方が、街をキレイにする効果は高い。 しかし、です。 だったらなぜわれわれは自分の部屋を掃除するのでしょうか? 何度掃除しても汚れることは分かっているのに、どうしてそんな 無駄なことを繰り返すのでしょうか? 「いや、自分の部屋と街とでは話が別でしょ」 そう思うのが普通だと思いますが、では何が別なのでしょう? 自分の部屋と街の違いなんて精々お金を払ってるか払ってないか、 私的空間であるかないか、広いか狭いか、それぐらいしかありません。 それぐらいしかありませんが、われわれにとってはそれが大事なのです。 素朴な感覚として、自分の部屋がピカピカになったら、誰でも嬉しいと 思います。 それは自分の住んでいる街がキレイになることよりも嬉しいはずです。 どちらも現象としては同じことなのに、なぜこれだけの感覚の差が 生まれるのかというと、自分の部屋には他の空間とは違う特別な何かを 感じているからです。 会社にひとりでいるのと、自分の部屋にひとりでいるのとでは同じ 状態のはずなのに、自分の部屋の方が落ち着くのはなぜなのか。 仮に仕事のない休日だったとしても、会社にいるのと自分の部屋に いるのとでは落ち着き具合がまったく違うと思います。 ベッドやソファーが無かったり、部屋の広さが違ったり、環境的な差も それなりにあるとは思いますが、それにしたって休日にやることは 大体毎回同じなんだから、必要最低限のものが揃っていれば同じように 生活できても不思議はありません。 けれども、やってみれば分かりますが、まったく体の回復の度合いや 精神的安定の度合いが違うのです。 この感覚の違いはどこから生まれてくるのでしょうか。   ・・・ところで。 旅行から帰った後って、なぜか分からないけど、すごい疲れた感じが しませんか? もしかしたらそれは僕があまり旅行好きじゃないからかもしれませんが、 それにしたって個人的にあの疲れ具合は尋常ではないように思うのです。 僕の場合、一泊二日で東京に行っただけで、帰ってきた次の日の 午前中ぐらいまで疲れをひきずっています。 特に遊びまわったワケでもなく、歩き回ったワケでもなく、ちゃんと 睡眠をとったにもかかわらずこんな感じです。 とにかく疲れるんです、家から出ると。 老けたのかしら。 だからといってまったく出ないワケにはいかないので、それなりに 意識して出掛けるようにはしてますが、基本的には(特にここ最近は) あまり出掛けるのは好きではありません。 だから「やっぱり自宅が一番ですよね」という話がしたいワケではなく、 そんな疲れが出るにもかかわらず、どうして多くの人は大金を払ってまで 旅行に行きたがるのか、ということを考えたいワケです。 まあシンプルに考えれば、疲れ以上に得るものが多いからというのが 一番真っ当な理由になると思います。 旅行に行けば身近な場所にはない特別な体験ができる。 大金を出して旅行に行く価値はそこにあるんだ。 恐らく多くの人はこう答えるでしょうし、これを否定する気はまったく ありません。 ただ失礼かもしれませんが、そういった特別な体験をした人たちが おしなべて普通の人である現実を見ると、僕にはその発言が真実を 語っているようには思えないのです。 旅行の理由をもう少し抽象的な言葉にするならば、彼らは日常から 離れた「非日常」を体験するために旅行していると言えます。 家でじっとしていたのでは面白くもなんともない。 だから外に何か目新しいものを、日常には無いものを求めて旅立つ ワケです。 外に出れば何か面白いものが見つかるはずだ、という期待を抱いて。 けれども、その結果なにが得られるかというと、大体の場合は 「旅行は旅行で確かに楽しかったけど、やっぱり我が家が一番だな」 という感想なのです。 つまり、みんな非日常を通して日常の大事さを再確認しているだけ なのです。   これはこれで重要であることには違いありませんが、当初本人たちが 求めていたものとはまったく逆のものが手に入っているというのは なかなか興味深い結果ではないでしょうか。 非日常を求めて外へ出たはずなのに、手に入ったのは非日常以上の 日常だった。 『青い鳥』を極力抽象化して論理的に解説すると、こんな感じになる かもしれません。 まあ青い鳥はどうでもいいんですが、ここであらためて考えたいのは 「どうして我が家は一番なのか」 ということです。 掃除の行きとどいたホテルに泊まって、美味しいもの食べて、 綺麗な景色を見ているはずの旅行先よりも、表面上は明らかに 劣っている我が家を一番だと感じるのはなぜなのか。 実はこういう素朴な感覚の中にわれわれのスピリチュアルが潜んで いるのです。   われわれが生きている空間には大きく分けて特別な何かを感じる空間と 何も感じない空間という2種類の空間があります。 この特別な何かを感じる空間のことをミルチャ・エリアーデという 宗教学者の言葉で 「聖なる空間」 と言います。 癒し、安心、安定、暖か味、落ち着き、パワー、オーラ、エネルギー、 そういったものを感じる空間はすべて「聖なる空間」です。 典型的なのは自分の実家や部屋ですが、そこに癒しを感じるのは、 そこが自分にとって「聖なる空間」だからです。 素朴な感覚として、外から自分の部屋に帰ってくると、なんとなく ほっとしますよね? なぜだか分からないけれども、今まで張りつめていたものが、 ふっと解消されたような気がする。 それが「聖なる空間」です。 自分の部屋以外では例えば神社の鳥居をくぐったり、山に登ったり、 洞窟に入ったりしたときにも、何か特別な感じを受けると思います。 それも「聖なる空間」の一種で、要は「聖なる空間」には自分にしか 分からない純粋に主観的なものと、他人とも共有できる客観的なものが あるということです。 同様に、特別な何かを感じる時間のことをエリアーデの言葉で 「聖なる時間」 と言います。 これは友達と遊んでいるときの時間とか映画を見ているときの時間とか、 そういう普段とは違う早さを感じる時間のことです。 友達と楽しく話してるときって、時間が経つのが早いでしょ? その時間を「聖なる時間」と言うワケです。 便宜上、更につけ足して特別な何かを感じるモノ、思い出の品や 思い入れのあるモノをここでは勝手に「聖なるモノ」と呼ぶことに しましょう。 それに対して何も感じない空間のことをエリアーデの言葉で 「俗なる空間」 と言います。 これは言い換えてしまえば、単純に「聖なる空間」以外の空間 ということです。 これも人によって違うので断定はできませんが、例えば学校とか 会社とか公園とか電車の中とか駅とか、そういうのが典型だと 思います。 そこにいるからといって何か特別なものを感じることはない。 そういう空間が「俗なる空間」です。 「聖なる空間」と同じように、何も感じない時間を「俗なる時間」 といい、何も感じないモノをまた勝手に「俗なるモノ」と呼ぶことに しましょう。   一通り説明が終わったところで話を進めていきますが、 エリアーデはこれら聖なるものと俗なるもののバランスが 崩れたときに人は「実存の危機」に陥ると言っています。 実存の危機とは 「なんとなく生きている心地がしない」 「毎日がどこか虚しい」 「生きがいを感じない」 「毎日が平凡すぎてつまらない」 「いつも将来のことを不安に感じる」 「死んだ方が楽な気がする」 そういう状態のことです。 こんな状態になってしまうのは聖と俗のバランスが崩れているからだ とエリアーデは言っているワケです。 このバランスというのは、人によって異なります。 例えば聖なるものばかりを追いかけていくと、自分の部屋から 一歩も出ずに動画サイトやゲームばかりを見て、自分の好きなもの ばかり食べて暮らしているような状態になります。 世間で言うところの引きこもりです。 この人を周りから見れば、無駄なことばかりに時間や労力を費やして 世間との接点を一切持とうとしない非常識な人、という感じに見える でしょう。 が、本人にとってはそれが正常なバランスなのかもしれません。 毎日ゲームをやってないと死んでしまう。 1回でも見たいアニメを見逃したら死んでしまう。 あくまでも予想の範囲ですが、多分そういう人もいると思うのです。 この例が分かり難いなら、携帯電話のことを考えてみて下さい。 今の時代、携帯が無くなっただけでヒステリーを起こすような人は 案外多いと思います。 毎日暇があれば携帯の画面ばかりを眺め、特に用事もないのに タッチパネルをずっと触っている。 そういう人はまさしくその携帯が「聖なるモノ」であり、それを 触っている時間を「聖なる時間」として過ごしているのです。 それを行儀が悪いとか校則違反だとかいう理由で禁止すると、 その人の聖と俗のバランスが崩れ、毎日の生活が虚しいものに 変わってしまうかもしれません。 逆に、携帯やゲームがあることによって「俗なる時間」が減り過ぎて、 人によってはバランスが保てなくなるということもあります。 この場合は、浮世離れしていく、という感じでしょうか。 ネットゲームにハマり過ぎて廃人になってしまった人なんかが その典型です。 このバランスというのは、あくまでも個人が感じるバランスなので、 聖と俗が50:50でつり合っていることが必ずしもバランスが 取れている状態とは言えません。 つまり「実存の危機」に陥らないためには、何が自分にとって ベストバランスなのかを常に監視し、どちらか一方に偏り過ぎないよう、 自分の生活をコントロールしてやる必要があるのです。   そこで話を戻します。 なぜ多くの人は旅行をするのか。 その理由は自らの聖と俗のバランスを保とうとしているからなのです。 本当は自分の部屋だけで、携帯電話だけで、テレビドラマだけで、 十分に聖なるものを体験しているはずなのに、それがあまりにも 当たり前になり過ぎて、そこに何も感じなくなってしまった。 だからみんな外にそれを求め始めたワケです。 最近、凄い勢いでパワースポットなるものが人気を得ていますが、 あの人気もまさに今が「実存の危機」だからだと言えます。 富士山や熊野古道や伊勢大社というのは、どこもずっと昔から 存在していたところばかりですから、本来であれば別に今更 パワースポットだなんだかんだと騒ぐようなものではありません。 確かにそこに行けば何か癒されたような感じを受けることも あるでしょうし、だからこそ誰もがそこに癒しを求めて出掛ける のだと思います。 けれども、そういうところにお金を払ってまで行くということは、 現状の自分が、普段の生活が、病んでいるという証なのです。 念のために言っておきますが、僕はパワースポットに行くことが バカげていると言っているワケではないし、パワースポットに 行くなと言っているワケでもありません。 そうではなく、行くなら行くで、なぜ自分はパワースポットに 惹かれるのかを考えて欲しいのです。 なぜわざわざ癒しを求めて出掛ける必要があるのかを考えて 欲しいのです。 それを考えれば、おのずと今自分が置かれている立場が分かり、 パワースポットに行くような一時的な措置ではない、根本的な 措置を自分自身でとれるようになります。 癒しを求めて出掛けるのも結構ですが、そもそも病んでなければ 癒される必要はないのですから、その病みの原因をつきとめて 解決してやるのが本当の意味での癒しなのではないかな、と。 個人的にはそう思います。   われわれはいつだって小さな「実存の危機」を抱えています。 その危機を補正するために、われわれは人と話したり、働いたり、 ゲームをしたり、旅行をしたりするのです。 何を俗なるものと感じ、聖なるものと感じるかは人それぞれです。 はたから見れば意味の無いことを繰り返しているような人も、 もしかしたらその人にとって、それをやっている時間は大切な 聖なる時間なのかもしれません。 通勤時間に電車の中でゲームをやることによって、かろうじて 仕事ばかりの俗なる毎日とのバランスを取っている人もいるかも しれません。 それは単なる現実逃避だと批判する人もいると思いますが、それが 本当に現実逃避なのかどうかは、本人にしか分からないのです。 この話は深掘りすれば、もっともっと個人的な領域に突っ込んで いくことができます。 僕はそこまで詳しくはないので、これ以上のスピリチュアルを 語ることはできませんが、興味があるならヒエロファニーや ヒーリング、サイティカル体、アファメーションなどを調べてみるのも 面白いかもしれません。 最終的に行きつく先は親鸞や道元、孔子や老子あたりのような 気がしますが、それは色々やってみて自分で判断して下さい。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
実存とは
  実存とは、「実際に在る」「現実に存在する」ということを広く表した概念です。 何をもって実存とするかは人それぞれの考え方があるので決定的なことはいえませんが、実存主義者と呼ばれるような人たちは僕が『メルマガ登録』の記事で言っているような“リアルな”現実を追い求めていたと言えます。 かつて、サルトルは「存在なんて気持ち悪い、吐き気がするぜ!」と言い、ハイデガーは「いやいや、存在というのは奇跡なんだよ!みんなもっと驚けよ!」と言い、ニーチェは「ありもしないお花畑ばかり見てないで、お前らもっと現実を直視しろ!」と言いました。 それぞれ現実に対する態度はかなり異なっていますが、彼らはみな実存を真摯に追い求め、実存的であることに人生を注いだワケです。   翻ってみると、このことは当時の人々が「現実をおろそかにしていた」、「非実存的だった」ということを意味します。 誰もが現実を見失い、ありもしない虚構ばかりを見て生きている。 そういう現実があったからこそ彼らは実存を追い求めたワケです。 ヨーロッパの産業革命が一通り終わりに近づき、近代化がいちじるしかったこの時代は、人々がモノ的になっていった時代でもありました。 資本主義の発展に伴うプロレタリアートとブルジョワジーの対立、帝国主義による世界の植民地化、2度にわたる世界戦争・・・これらの事実はすべてこの時代が人々をモノ的に扱っていたことを証明しています。 モノ的とは、その名の通り「モノのように」ということであり、資本主義や帝国主義や戦争は人々を「労働力」というモノに置き換え、まさに使い捨てるかのように命を消費していったワケです。 こういった経緯により彼らは徐々にお互いをモノ的にしか見られなくなり、何事に対しても使えるか使えないか、役に立つか立たないか、労働力ガあるかないか、お金を生むか生まないかでしか価値を見出せなくなっていきました。 また別の方面では資本主義が人々の個人主義を促進し、より自分本位で自己中心的な人間が量産されていたことも見逃せません。 彼らは自分のことだけしか考えない人間だったからこそ、他国の資源を奪ったり、相手を殺してまで自分の利益を優先したりということが出来たのです。 こうして「モノ的」で「自己中心的」な人間が世界を支配するようになったワケです。 しかしながら、現実は「モノ的」とか「自己中心的」といったものから遠く離れた概念であり、まったく性質の違うものです。 「モノ的」とは、もう少し具体的に言えば科学的価値観のことですが、そもそも科学は現実を部分的に切り取ったものにすぎず、数字になるものや言葉で言い表せるものは現実の一部分でしかありません。 その一部分でしかないものしか信じない、それがすべてであるという態度が「モノ的」な態度なワケです。 それはさすがに現実を見ているとは言えないですよね。 この世には科学で証明できないこと、数字や言葉にならないことがたくさんあるのに、そういったことを一切無視している。 ちょっと前にホメオパシーのレメディー(でしたっけ?)を用いた代替医療を猛烈に批判していたのは、科学を盲信した「モノ的」な人たちです。 彼らの言い分も間違いではないのですが、人間の理性では測り知れないことが実際には数多くあるワケですから、すべてを科学的価値観で測ろうとするあの態度はどうなのか、と。 それは果たして“リアルな”現実を見ていると言えるのか、と。 そう思うワケです。   「自己中心的」というのも、その考え方自体がそもそも現実的ではありません。 自己中心的に自社利益を最大化しようとした結果、自社が倒産する(ほされる)なんてことは往々にしてあるし、囚人のジレンマよろしく、ゲーム理論でも自己利益を追求することが自分にとって最も損な結果を生むと証明されている。 仮にこれらを知らなかったとしても、道徳的にそういうことをしたらマズイことが起こりそうだというのは感覚的に分かるのが普通だと思うのです。 にもかかわらず、それを平気をやってしまうあたりが、どれだけ現実が見えていないかを証明していると言えるでしょう。 われわれが非実存的になった要因は他にもあると思いますが、大雑把に言えばこういったプロセスを経て、いつしか「現実のようなもの」がわれわれにとっての現実になってしまったワケです。   この非実存的な状況は今も変わっていません。 いや、視点を変えてみれば、この当時よりも悲惨なことになっていると言えます。 今は他人に命を奪われるのではなく、自分で自分の命を絶つような生物学的に異常な人間が大量に現れ始めたのですから。 このような状況を少し難しい言葉で「実存の危機」と言います。 感覚的には「生きている実感がない」、「生きている意味を感じない」、「なんのために生きているのか分からない」、「今の私は本当の私ではないような気がする」、「なんとなく将来が不安」というような状態です。 この中身は症状の軽いものから重いものまでさまざまです。 今すぐ死んでしまいたくなってしまうようなものもあれば、居心地は悪いけど別に死のうとまでは思わないというものもあります。 ただ、誰もが何かしらモヤモヤした漠然とした不安を抱えている、というのが実存の危機たる状況なのです。 この居心地の悪さというのは先ほど上で話したようなものに加え、急速な時代の変化や常識の変化なども関係しています。 要するに「自分の思っている現実」と「実際の現実」が気付かないうちにどんどん乖離していっているから、なんとなく自分の日常に現実感がなくなり、気付いたときには茹でガエルのごとく手遅れになってしまうワケです。   この状況を打開するにはわれわれが実存を取り戻す必要があるワケですが、そのヒントとして、かつて歴史的な実存の危機を生きた哲学者の言葉が役に立ちます。 彼らはその時代において常に現実と向き合い、危機を乗り越えようともがいた稀有な人間です。 そして彼らは歴史に名を残すほどの鬼才でもある。 幸いにして、われわれはたった1000円程度のお金で彼らが一生をかけた臨んだ哲学に触れることができます。 それらは決して読みやすいものだとは言えませんが、人生をかけてでも読む価値のあるものばかりです。 別に今すぐに読めなくてもいいのです。 日々勉強をかさね、たまにペラペラとページをめくり、読む気にならなければまた本棚へしまっておく。 これを繰り返しているうちにどこかのタイミングで少しずつ読めるようになってきます。 なんとなく言わんとしていることが分かってきます。 そしてそうなったときには、あなたは既に実存の道を歩み始めているのです。   ...more»
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