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Tag archives for 国立国際美術館

国立国際美術館「What We See ~夢か現か幻か~」にて ~ホンモノになる方法~
ども、ペスです。 美術関係の記事を書くのは久々ですね。 今回は国立国際でやっている「What We See ~夢か現か幻か~」という動画作品の 展覧会を見てきました(実はこれも初日に見に行っています)。 ユーチューブやニコニコ動画をはじめ、今や動画はわれわれ個人にとっても身近な 存在となっているワケですが、まだまだ美術ないし芸術としての動画の歴史は浅く、 この展覧会も未熟なものであると言わざるを得ません。 クラシックの指揮者として有名なフルトヴェングラーは、自身の著作の中で芸術家の 仕事を 「無限なるものを強靭な力で有限なるものに閉じ込めること」 だと言っています。 この意見には賛否異論などあると思いますが、この言葉に従うならば、 今回見た動画作品はまったく何も「閉じ込めて」いません。 そもそも動画という媒体が一般的な意味での有限性を持っていないのですから 当然です。   動画というのは、どこまでいっても単なる記憶(記録)です。 記憶とはデータであり、データは実質無限に保存・コピーでき、無限に大きく できます。 その意味で動画には有限性がありません。 またデータである以上、絵画や彫刻と違って、美術館へ行っても直接それを 体験することができません。 要は、わざわざ美術館へ行って見る理由がないということです。 作者としては上映環境も含めて芸術表現なのだと主張するかもしれませんが、 僕が見た限り今回の展覧会では、そんなに特殊な環境は設定されていません。 大画面だったり、モニターが3つあったり、真っ暗だったり、その程度です。 「こんなんだったらユーチューブにアップしてくれよ」 そう思った鑑賞者も少なくないと思います。   この展覧会では最長で80分の作品が上映されていましたが、1つの作品を 評価するのに最低80分かかるというのは、鑑賞者にとってかなり苦痛です。 それが素晴らしいと分かっていれば、それぐらいは見ていられるでしょうが、 素晴らしいかどうかを評価するまでに80分かかるワケですから、その作品が 下らないものだった場合はその無駄な時間をどうしてくれるのか、という話に なります。 実際、僕は今回1つも素晴らしいと思うような作品に出合っていません。 にもかかわらず、美術館に滞在していた時間は今までで最も長かったワケです。 だらだら無駄に長いだけの作品を見せられた。 僕に残っているのは、そういう感想だけです。 もちろん絵画や彫刻にもしょーもないものはたくさんありますから、それだって 時間の無駄と言えば無駄です。 しかし、少なくともそれらは作品の側から奪う時間をおしつけたりはしません。 どれだけの時間その作品を見るかは、鑑賞者が決められるワケです。   そう考えると、動画には「責任」という概念を持ち出す必要がでてきます。 中途半端な評価でいいのならば、前半の5分だけを見てもらうということも 可能ですが、ちゃんと評価してもらうためには貴重な時間を「作品に合わせて」 使ってもらわないといけません。 そこに責任が生まれるのです。 どんな芸術家も「素晴らしい作品を生み出したい」ということは常日頃から 考えていると思います。 「歴史に残るような作品が作れたら、どれだけ素晴らしいだろうか」 そう思うのは芸術家として当然です。 しかし、動画作品の制作においては、その甘い意識は罪であると認識する必要が あります。 彼らは鑑賞者の貴重な時間を作品の都合で奪っているのですから、 「素晴らしい作品でなければ許されない」 という意識で制作を行わなければならないのです。 それはもはや芸術家の望みを超えて、それを評価する人に対する責任や義務で なければなりません。   本来、この意識は芸術家に限らず誰もが持つべきものです。 僕もあなたにこうして時間を使わせている以上、この記事は素晴らしいもので なければなりません。 それは本であろうが、映画であろうが一緒です。 どんなものであれ、それを見る人の時間を奪っている以上、見る側が「見てよかった」と 思うようなものを作る義務や責任があるのです。 これを忘れたときに、人は怠慢になります。 いや、逆に言った方が自然ですね。 怠慢な人は、この義務や責任をまったく感じていないということです。 だから平気で下らない作品を作ったり下らない記事を書いたりできる。 それによって周りがどれだけ迷惑するかを彼らは理解していないのです。 彼らは「俺は一生懸命やっている」と言い張るでしょうが、そんなことはプロなら 当たり前のことであり、その主張には何ら意味はありません。 一生懸命やるのは当然として、その上で素晴らしい作品を生み出さなければ 許されない。 僕はそう言っているのです。   作品の質は作家が置かれている環境によって決まります。 アルバイトや非常勤講師をやって売れない作品を作っても生活できるような 生ぬるい環境で生きている場合は、そういう生ぬるい売れない作品しか作れません。 どれだけ本人が必死になろうとしても、人間が意識的に出せるパワーなんてのは たかが知れています。 本気を出すためには、本気を出さざるを得ない環境に身を置くしかない。 つまり、背水の陣に身を置け、ということです。 素晴らしい作品、売れる作品を作らなければ死ぬ(生きていけない)。 そういう環境があって、はじめて人は本気になれるのです。   本気とは、「なる」のではなく「ならざるを得ない」ものです。 素晴らしい作品も「作る」のではなく「作らざるを得ない」ものです。 以上のことから究極の結論が得られます。 本気を出して素晴らしい作品を作るホンモノの芸術家とは、「なる」ものではなく 「ならざるを得ない」ものであるということです。 本人がなりたいと望む望まないにかかわらず、なってしまうもの。 それがホンモノの芸術家なのです。 この世にどれだけホンモノがいるのか分かりませんが、ホンモノになるために やることはいたって簡単です。 背水の陣に身を置く。 それだけで誰でもホンモノになれます。 そういえばダイ・ハードか何かでブルース・ウィリスが面白いことを言ってました。 「死ぬ気でやれよ、死なないから」 って。 やれば分かります。 死なないですから、ホントに。 人間の本気をなめてはいけません。 さぁ、みんなでホンモノになりましょう(笑)   ...more»
国立国際美術館「リアルジャパネスク」・「コレクション展」にて ~現代美術との付き合い方~
ども、ペスです。 前回は途中から話がそれてしまったので、 あらためて「リアルジャパネスク」について書きたいと思います。 こちらの展示では1970年代・80年代生まれ、 つまり僕と同世代の方々の作品がところ狭しと並べられていました。 作品は立体の造形物や本、絵画、空間、動画など多種多様で、 いかにも現代アートな世界観がそこに表現されています。 しかしながら、この「いかにも現代アート」という言葉は一般に あまり良い意味で使われることがありません。 われわれが現代アートという言葉を使うのは、主に(皮肉的に) 理解できない最近の作品に対してなのです。 芸術の定義上、その作品がわれわれ一般人の理解の域を 超えていること自体は何ら悪いことではないと思います。 むしろ、なんでもかんでも容易に理解できるようなものは、 それこそ芸術として文化的価値がないということになるでしょう。 けれども、それが次世代的な表現だから理解できないのか、 単に意味のない表現だから理解できないのかでは、 まったく意味が違うワケです。 そして、ここの判断が作品を見る上で最も難しいと言っても 過言ではありません。 だからこそ画廊のオーナーや学芸員というのは、 これを見分ける目を鍛える必要があるワケですが、 その見分ける能力の無い人に何の解説もなくそのまま現代アートを 見せるというのは、かなり無茶なことではないかと思います。 つまり、現代アート・現代美術を展示するならば、 現代アート・現代美術とはなんたるかを一時的にでも 定義しておいてやるのが展示する側の優しさではないのか、 ということです。 真に新しい美術作品とは一体どういう作品のことなのか。 ここで選んだ作品は何がどう新しいのか。 最近の日本現代美術の動向とは一体何を指すのか。 リーフレットで使われているこれらの言葉の意味ぐらいは、 どこかに書いておいて然るべきではないでしょうか。   正直に言いますが、リアルジャパネスクで展示されている作品の いくつかについては、僕にはゴミにしか見えませんでした。 ゴミという表現が極端すぎるなら、廃材もしくは紙切れ、 とでも言いましょうか。 これは別に悪意があるワケではなく、素直にそう思ったのです。 展示されている場所がたまたま美術館の中だからかろうじて作品だと 認識できますが、その辺の道端に置いてあったら、普通に無視して 通りすごすと思います。 下手をすれば邪魔だとすら思うかもしれません。 何の解説もなく現代美術を一般人に見せるというのは、 それぐらい危ういことだということです。 デュシャンの『泉』だって、そう解説されなければ誰が見たって 単なる便器なワケですから、その解説があって初めて、 作品が立ち現われてくると言えます。 であるならば、解釈を見る者に委ねる、なんてのは甘えでしか ありません。 特に現代美術においては尚更です。 そもそも現時点で現代美術を評価することなんて出来ないのですから、 可能ならその点もどこかに示しておいてやるのが親切だと思います。 「理解できなくて当然なんですよ」、「分からないことを楽しむもの なんですよ」的なことを見る前に教えてあげれば、見る側も安心して 楽しむことができます。 日本人は自分の無知をさらすのが恐くて言えないことが多いですが、 みんな作品の意味なんて分からないんですから、言っちゃえばいいんですよ。 「意味わかんねー」って。 そしたら気楽に作品が見られるようになりますから。 真剣な顔して作品を見ている人も、心の中では「わかんねーなー」って 思っています。 そんなことを言うのが恥ずかしいから声に出さないだけなのです。 そういう意味では子供の方がよっぽど気軽に現代美術を楽しめるような 気がします。   実は僕も、この記事が出来上がる前はアレコレ小難しいことを 考えていました。 反資本主義的な思想がどうのこうの、ブーバーの<我-それ>の関係が どうのこうの、そういったことを書くつもりだったんですが、 途中でバカらしくなってやめました。 多分、現代美術はそういう風に見るものではありません。 どっちかといえば「ああかもしれない、こうかもしれない」と 思いを巡らせ、「結局なにも分からない」という着地点に落ち着くのが 正しい楽しみ方なんじゃないかな、と。 なぜか分からないけどずーっと気になってる。 そういう片思いの始まりのような関係を続けることが、 現代美術の楽しみ方なのかもしれません。   追伸: またしても個々の作品に関する話が抜けてしまったので、ここで補足です。 と言ってもあんまり話すことはないんですが、個人的には泉太郎氏の 動画作品と五月女哲平氏のキュビズム的な絵が印象に残っています。 いや、インパクトで言えば入口を入ってすぐの貴志真生也氏の作品が 一番なのですが、好みで言えば前者2人かな、と。 感想は特にありません。 というか、あっても言いません。 気になるなら自分の目で確かめて下さいませ。   ...more»
国立国際美術館「リアルジャパネスク」・「コレクション展」にて ~美術館のブランド化~
ども、ペスです。 少し前の記事で美術館の可能性について言及しましたが、 頭の中で考えたことだけを偉そうに語り続けるのもアレなので、 趣味と視察(?)を兼ねて取り敢えず手近な美術館の 比較的マイナーそうな展覧会を見て回ることにしました。 とか言いつつも、今のところ次に回る予定の美術館は決まっていません。 ただ美術館について何がしかを語ろうと思った場合、 実際に足を運んでいないと恐ろしく説得力が落ちるので、 僕が何かを語りたくなったら美術館に出掛ける、 というスタンスになりそうです(笑) まあ楽しければ何でもいいじゃないか、ということでお許し下さいませ。   さて、それでは早速本題に入っていきたいのですが、今回は大阪中之島にある 国立国際美術館に行ってきました。 ここは行く度に毎回「よくこんなに掘ったよな」という感想が頭に浮かびます。 入口はガラス張りの小さなシェルター(複雑な曲線美のポストモダン建築)のように なっているのですが、中に入るとホントに広い。 日本が戦時下になれば本当に防空壕として機能しそうな施設です。 ここは今年の春に草間彌生展が開かれて話題になりましたね。 僕もその企画展は見に行ったのですが、その内容についてはまた機会があれば、 ということで。   で、今そこで行われいるのが「リアルジャパネスク」「コレクション展」です。 実はもう1つ「柏原えつとむ」という方の企画展も同時に行われているのですが、 これは僕の解釈すら許さないような超越的な展示だったため、ここではノーコメントと させて下さい。   まずはコレクション展について。 これは20世紀初頭(パブロ・ピカソ、ポール・セザンヌ、マン・レイあたり)から 最近(奈良美智、高柳恵里、ミロスワフ・バウカあたり)の作品までを年代別に 紹介するという美術館では典型的な展示方法でした。 印象派、抽象表現主義、キュビズム、ミニマリズム、シュールレアリズム、 ポップアート、コンセプシャルアートなどが歴史の流れに沿って展示されています。 この展示方法自体は可もなく不可もないのですが、悪く言えば「古臭い」「無難過ぎる」 という感じでしょうか。 この手の展示では、ところどころに年代別の解説文があり、それを読めばザックリと 歴史の基本的な流れが把握できるようになっています。 ただ、この解説文は比較的美術のことを知っている人向けに作られており、 例えば「キュビズムって何?ミニマリズムって何?」というレベルの人には 何が書いてあるのかがさっぱり分からない。 もしかしたら「それすら知らない人は読む必要はない」というスタンスなのかも しれませんが、だとしたら逆にもっと“ツウな話”をした方が対象としている人たちは 喜ぶんじゃないかと思います。 いずれにしろ、どっちつかずの中途半端な内容であることは否めません。 一言で言えば、教科書のような解説になっている、ということです。 文体や表現は堅く、かといって内容が詰まっているワケでもない。 学芸員の解釈や意見が含まれている分だけ教科書よりかは 多少面白みもありますが、少なくとも僕は解説については 何一つ印象に残っていません。 そんな印象に残らない、覚えられてもいない解説なら、 無いのと変わらないのではないでしょうか。   個人的なアイデアとしては、よく大手CDショップにあるライナーノーツの ようなものを作品の横に展示すれば今よりよほど面白くなると思います。 それも学芸員的な視点ではなく一般人の視点で、例えばデュシャンの作品に対して 「ふざけているワケではありません、彼も必死だったんです」 とか書いておけば結構ウケるんじゃないかな、と。 ミニマルアートについても 「この絵と模様の違いって何なんでしょうね?」 と書いておけば、見に来た人にもっと興味を持ってもらえるかもしれません。 そういう素朴な視点というのがこの展示には、いや、美術館全般に足りないと 思いました。 もちろんこれは一般人を対象とした展示の場合ですけどね。   確かに美術館としての威厳は大事なのかもしれません。 実際に展示されている作品は歴史的意義の高いもので、あまりふざけたことは 許されない、という雰囲気もあると思います。 けれども、美術館の理念が啓蒙であるならば、威厳を守る一方で、 理解を促すということも大事なことなのではないでしょうか。 「アーティストは大衆に迎合してはならない」と、歴代のいろんなアーティストが 言っていますが、迎合するのではなく「取っ付きやすいものにすること」は別に 悪いことではないような気がするのです。 だってどんなアーティストも最初は多分「お絵描き」から始まったんですから。 だったら見る側も、最初は「お絵描き」的な視点なのは仕方のないことです。 最初にアニメやマンガの方を好むのは、ごく自然な流れと言えます。 ただ、本当に美術を大事に思う気持ちがあるのなら、そこから先に進む キッカケをできる限り多く与える方法を考えるべきだと思います。 美術に興味のない人は、好きになるキッカケがなかっただけなのです。 どれだけ美術に興味のない人でも、一度ぐらいは何かのノリで美術館に 入ったことはあると思います。 ピカソやムンク、ゴッホ、モネ、モディリアーニ、エッシャー・・・どれかは 分かりませんが、メジャーなアーティストの展覧会であれば誰であれ 足を運ぶことも少なくないはずです。 しかし残念なことに、その中のほとんどはそこから美術の魅力を感じることなく、 次のマイナーなアーティストの展覧会にまでわざわざ出かけようとは思いません。 絵を見ただけで魅力を感じ取れるというのは、それだけである種の才能なのです。 絵の力、絵の魅力だけに頼っていては美術ファンはまず増えません。 だからこそ、絵とそれを見る人の間に橋をかける努力が美術館には 必要なのではないかと思うワケです。 本当に美術のことを大事だと思っているのなら。   これに成功すれば多くの人から「あの美術館の展示は面白い」という評価を 得ることができます。 つまり、どんなマイナーな作品を展示しても美術館に来てもらえる、 ということです。 まさに美術館のブランド化。 この地位を今の美術館は目指すべきだと思います。 作品でお客を呼ぶのではなく、美術館そのものの魅力 (展示の仕方・作品の見せ方)でお客を呼ぶのです。 「あの美術館は展覧会をチェックせずに行ってもハズレが無い」 これが理想の美術館と言えるでしょう。 恐らく今までの美術館は展示物に頼り過ぎていたんだと思います。 珍しいものを、有名なものを、展示すれば勝手にお客は集まる。 そういう甘えが今のような衰退を招いたのです。 この試練を素直に受け入れることでしか、前には進めません。 お金は無くとも頭は何個もあるのですから、もっと知恵をしぼりましょう。 そして、もっと美術以外のことを知る努力をしましょう。 服屋はどうやって服を並べているのか。 本屋はどうやって本を並べているのか。 スーパーはどうやって商品を並べているのか。   展示のヒントはそういう誰もが見過ごすようなところにあるのです。   追伸: 上記では美術館の作品についてほとんど触れていませんでしたが、 僕は国立国際はかなり良質で面白い作品を所蔵していると思います。 パブロ・ピカソ、ヴァシリー・カンディンスキー、マルセル・デュシャン、 マックス・エルンスト、(最盛期の?)草間彌生、アンディー・ウォーホル、 ゲルハルト・リヒターなどの王道は見ておいて損はないと思いますし、 それ以外も心をくすぶられるものが多いと感じました。 個人的には中原浩大『LEGO』、エドワード・ルシェ『ZERO』なんかが 結構好みです。 『LEGO』を見る際は、是非とも壁際になっている作品の裏側も チェックして下さい。 ほんのちょっとだけ感動すると思います(笑)   ...more»
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