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ほんの些細なことでキレてしまう人の真実
  ついカッとなって殺してしまった。 巷のニュースではよくこの手の事件が取り上げられます。 車のことで口論になって・・・。 肩がぶつかって・・・。 別れ話がこじれて・・・。 このようにほんの些細なことが殺人事件にまで発展することは 珍しくないワケですが、不思議なことに、この逆のことは滅多に 起こりません。 逆とは例えば、ハンカチを拾ってもらったこと(些細なこと)が 発展して一緒の家に住むほど仲良くなるとか、電車で席を 譲ってもらったことが発展してお礼のプレゼントをもらったとか、 そういったことです。 サラッと読めば当たり前のように思うかもしれませんが、 よくよく考えると不思議じゃないでしょうか。 ただ肩がぶつかっただけで怒りの感情は相手を殺すほどに 激化するのに、どうして感謝や喜びの感情は激化しないの でしょう? 仮に激化しやすい感情と激化しにくい感情があるとすれば、 それは一体どのようなメカニズムによって生まれるもの なのでしょう? 以下そんな素朴なことを真剣に考えてみたいと思います。   多くの人は自分の日常に対して満足よりも不満をたくさん 感じています。 会社では、もっと給料を上げてほしい、残業を減らしてほしい、 昼寝の時間がほしい、クールビズにしてほしいなどの不満があり、 家に帰っても、お風呂を先にわかしておいてほしい、スーパーの お惣菜ではなく手料理を作ってほしい、愚痴を聞いてほしい、 子育てに協力してほしいなどの不満があります。 満足はそれが習慣化されるにつれて感じ難くなっていく一方、 不満は習慣化されるとむしろ敏感になる傾向があることは ご自身の体験からなんとなく分かるのではないでしょうか。 給料が上がった満足感は半年も続けばいい方で、その給料に 慣れてしまえば有り難さはなくなります。 しかし給料が上がらない不満は、それが長く続けば続くほど 増幅され、ストレスになり、やがてストライキや辞職などの形で 噴火するワケです。 われわれが何かに怒るときというのは大よそ「相手がこちらの 思うようにしてくれない」という不満(傲慢さ)が原因です。 肩がぶつかったから謝ってほしいのに謝ってくれない。 付き合い続けてほしいのに言い分を聞き入れてくれない。 その相手に対する不満が怒りを引き起こすワケです。 だとすると、怒りやすい人とは、相手に多くのことを求めていて、 相手に多くの不満を感じている人だと言えます。 それは言い換えれば、自分のことを棚に上げてすべての責任は 相手にあると思っている人です。 もうお分かりでしょう。 つまり凡人であればあるほど怒りやすく、カッとなりやすい 傾向にあるということなのです。   先程も言ったように、一時的にはどれだけ喜ばしいことであれ、 満足感というのは日に日に薄れていきます。 今年のボーナスが10倍になったとしても、来年の同じ時期には より大きな満足感を求めるようになっている。 満足とはそういう性質のものですから、満足で得た喜びや感謝の 感情は長続きしません。 このことだけでも、喜びや感謝が激化しにくいことは分かると 思います。 人の感情というのは不合理にできていて、満足にはすぐに 慣れてしまうのに、不満にはなかなか慣れないのです。 じゃあ喜びや感謝の感情は何でもかんでもすぐに消えて しまうのかというと、そうでもないんですよね、これが。 「充実」による喜びや感謝はずっと、場合によっては 一生続きます。 充実は満足と違って慣れることがありません。 なぜなら充実は継続することによって得られるものだからです。 充実した学生生活、充実したクラブ活動、充実した田舎暮らし、 充実した毎日などなど、充実という言葉はそれを継続している 時間に対して使われます。 要するに、喜びや感謝の感情を保ち続けることそれ自体が、 充実の定義になっているワケです。 自分にとっての充実した生活を想像してみてください。 体が健康で、周りの人も楽しく暮らしていて、みんな仲が良く、 やりたい仕事が好きなだけできて、自分がやりたいことを やることによって他の人にも喜んでもらえる。 こういった生活から得られる喜びや感謝は、日を増すごとに 積み重なり、周りにもどんどん大きく広がっていきます。 すると、周りはこちらの思うように協力的に動いてくれる ようになり、それに伴って自分の不満もなくなっていくのです。   ここで分かってほしいのは怒りっぽい人ほど、つまり 凡人であるほど充実していない、つまらない生活を おくることになるということです。 彼らは不満にばかり敏感になっているため、ほんの些細な、 しかし素晴らしい日常の出来事に気付くことができません。 彼らにとって世界はストレスだらけで、飲み会やカラオケや 映画や遊園地にお金を払わなければストレスを解消することも ままならないワケです。 そう考えると、彼らが可哀想に見えてこないでしょうか。 些細なことでいつもイライラして、大声でわめき散らして、 それで一体何が得られるのでしょう? 百歩譲ってそれで気分がスッキリするならいいですが、 怒りの感情はどれだけ激化してもスッキリはしません。 それどころか、冒頭で話したように背負わなくてもいい 無駄な罪まで背負ってしまうことにもなり得るワケですから、 いいことなんて何もないのです。 だったら。 そんな人間からは早く脱しませんか。 満足を求めるのではなく、充実を求めませんか。 そうすれば僕らの人生は勝手に輝いていくのですから。   人生の99%はほんの些細なことで成り立っています。 あなたが今こうして無事に僕のメルマガを読めることだって ほんの些細なことだし、ご飯を食べること、靴を履くこと、 お風呂に入ることもほんの些細なことです。 その1つ1つを充実させることでしか人生は変わっていきません。 ほんの些細なことでイラッとするのか、ニコッとするのか。 そのことを常に意識して生活してください。 しょーもないことで怒っちゃダメですよ。 ありがとうございました。     ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
素晴らしさの可能性
ども、ペスです。 僕は美術を「実存的に」鑑賞するためには、ある4つの問いを持っておくことが 不可欠だと考えています。 このことを意識しているのは極少数の人だけだと思いますが、この4つのうち 2つについては無意識的ではあれ、誰もが念頭に置いて作品を見ているはずです。 その2つというのは 1.何を見るのか 2.どう見るのか という問いです。 われわれが特定の展覧会を「選ぶ」のは、1の「何を見るのか」という問いが自分の 中にあるからです。 これは無意識的な問いですから、誰も自覚していないと思いますし、もちろん僕も 問うていること自体は自覚していません。 ただ、この問いがなければ「選ぶ」という行為が生まれ得ない以上、われわれの中に こういう前提的な問いがあることは間違いありません。 厳密に言えば、われわれが特定の展覧会を見たいと思うのは「何を見るのか」という 問いと「それを見るか(見たいか)否か」という問いの末に導かれる結論です。 美術の展覧会に興味のない人は「何を見るのか」という問いを持ち合わせておらず、 それ故に彼らには展覧会に足を運ぶということが有り得ないのです。   2の「どう見るのか」は展覧会を見ているときにわれわれが持っている問いです。 みんな自分なりの見方で作品を見ていると思いますが、その「自分なりの見方で見る」 という答えは「どう見るか」という問いから導かれたものです。 これも当然自覚はないと思います。 自覚していたら誰だって美術の正しい見方を心得ているでしょうからね。 多くの人が作品を見て「上手い」や「キレイ」という感想しか持てないのは、 この問いに対する答えがそれだけ単調で乏しいということなのです。   冒頭で言ったように、ここまでは誰もが持っている問いです。 あと2つの問いについてはこれから説明しますが、ここで分かっておいてほしいのは、 それを持っているという事実が重要なのではなく、持っていることを自覚しておくことが 重要だということです。 この問いを自覚することによって、われわれは自分の判断の危うさ、自分の大衆性 (凡人性)を知ることができます。 例えば「何を見るのか」という問いは、多くの人にとって「どれを見るのか」という 問いになっています。 展覧会や美術館の数が限られている以上、それはある意味では仕方のないことでも あるのですが、問題はそこではなく、彼らは勝手に自分でその選択肢をしぼっている ということです。 10個の展覧会があったとしら、その10個のうちから選ぶのではなく、大衆はそれを 「恣意的に」3つぐらいにしぼった上で選びます。 その3つというのは大体、有名だとか、車内広告で見たとか、そういう理由で しぼられていて、彼らはその中からしか答えを出そうとしないのです。 これは夢を諦める人間の思考とまったく同じです。 彼らはやってもいないことを勝手に出来ないと決めつけ、自分から人生の選択肢を しぼっています。 その夢が叶うかどうかはやってみなければ分からないのに、その展覧会が面白いか どうかは行ってみなければ分からないのに、勝手に「出来ない」「面白くない」と 決めつけるのです。 これによって彼らの可能性が著しく狭まっていることは、言うまでもありません。 しかし彼らはそれを自覚していないし、気付こうともしません。 権威主義的な(ミーハーな)展覧会に集まる人間とは、こういう人間なのです。   さて、寄り道はこれぐらいにして、話を前に進めましょう。 われわれが持つべき3つ目の問いは 3.なぜ見るのか です。 なぜ自分はその展覧会を見るのか。 なぜ自分はこの作品を見るのか。 これには明確な答えは必要なく、問うことそのものに意味があります。 というのは、ガダマーが言うように 問いの本質は、可能性を開き、開いたまま保持することにある からです。 可能性を開いたまま保持するということは、その展覧会と、またはその作品と、 常に関係を持ち続けるということです。 それは必ずしも意識的に関係を持ち続けなければならないという意味ではありません。 心に残る作品や展覧会とは、すべて、事ある度にわれわれに「なぜ見るのか」という 問いを生起させるものだからです。 つまり「なぜ見るのか」という問いは、自分から意識的に持つようなものではなく、 あちら側から投げかけてくるものなのです。 それを上手く受け取れるかどうかは、あなたの人間としての器にかかっています。 小さなグローブでは、真正面にきた素晴らしいストレートのボールでも取り損ねて しまうのです。   最後の4つ目の問いは 4.見るとはどういうことか です。 これが「見るとは何か」という問いでないことに注意してください。 「見るとはどういうことか」という問いは、われわれにとって見るということが 何を意味するのか、ということを問うているのです。 難しい話になりますが、見るとは、われわれの存在の仕方の1つです。 われわれが何かを見ているとき、それはわれわれが見るという仕方で存在していると 言い表すことができます。 つまりこの問いは、哲学的に言えば それを了解しつつ見るという認識を可能にしているア・プリオリな諸条件とは何か ということであり、簡単に言えば 自分のことをもっと探求してね ということです(笑) 自分を探求することについて詳しく話し出すと立派な論文ぐらいの量になってしまうので 今は割愛させてもらいますが、1つだけヒントを出すと 常日頃から自分を自覚しておくこと を意識するといいと思います。 認知科学的な言い方をすれば、メタ認知(メタ思考)能力を鍛える、という感じになる でしょうか。 このことが「見るとはどういうことか」にどう繋がるのかは、やれば分かります。 気になったら、やってみてくださいな。   長くなったので最後にまとめておきましょう。 われわれが美術を「実存的に」鑑賞するために持つべき問いとは   1.何を見るのか 2.どう見るのか 3.なぜ見るのか 4.見るとはどういうことなのか   の4つです。 これらがすべて揃ったとき、われわれの前に「素晴らしさ」が現れます。 これは逆に言った方が実感しやすいかもしれません。 われわれが素晴らしさを感じているときには、無意識的にこういう問いを自分の中で 投げかけているのです。 それらの問いの総合的な答えが素晴らしさであり、実存です。 今はこれを理解できなくても構いません。 ただ、頭の片隅には置いておいてください。 ちゃんと努力を続けていれば、そのうち意味は「実感」できますから。   追伸1:所感など。 僕が『脱凡人のすすめ』という奇怪なタイトルのメルマガを出しているのは既に ご存知かと思いますが、そこでテーマにしてる「凡人から脱する」ことが美術を 「正しく」鑑賞することや美術を理解することに繋がっているということに 気付いている人は極わずかしかいません。 当たり前の話ですが、凡人に美術は理解できません。 だってそういう人間のことを、われわれは「凡人」って呼ぶんだから。 哲学も分かろうとしない、芸術も分かろうとしない、難しいことは何も分かろうと しない。 それが凡人です。 これは凡人をバカにしているのではなく、凡人の定義を述べているに過ぎません。 そうやって怠惰に生きることを何とも思わない人間のことを、われわれは凡人と 呼んでいるということです。 ちなみに、無知であることと凡人であることとは関係ありません。 誰だって初めてのことに関しては無知なのですから、そんなのは仕方のないことです。 そうではなく、自分が無知であることを知りながら、それを克服しようとしない人間が 凡人だと言っているのです。 「美術が分からない」と自覚していながら、その分からない状態をそのまま 放置しておく人間ってどうなのよ、と。 あんたそれでも人間として恥ずかしくないのかよ、と そんなんでよく自分の子供に、勉強しろ、なんて言えるな、と。 僕が言いたいのは、そういうことです。   ここまで言えば僕が普段から抱いている気持ちは分かって頂けたと思います。 僕もバカの類ですから、バカをバカにするような自虐行為はしません。 ただ、自分がバカだってことを知ってるなら、そのバカという短所は克服しようぜ、と 言っているのです。 「脱凡人」とは、人間としてまともに生きよう、ということです。 凡人のように怠惰に生きるのではなく、そこから脱して、人間らしく向上心を持って 生きよう。 そういう思いを込めています。 それはメルマガに限った話ではありません。 このブログも、もう1つのブログも、いつも気持ちは同じです。 僕がプロフィールに「教養主義」と書いているのは、こういうところに由来しています。 僕の教養主義は、自分がバカだと自覚しているからこその教養主義だということを、 分かってもらえると嬉しいです。 ありがとうございました。   追伸2:哲学。 この記事にはハイデガーとコリングウッドの哲学を織り込みました。 美術に負けず劣らず、哲学も楽しいですよ。     ...more»
凡人とはどういう人間か
  今回はあらためて凡人の定義を確認しておきたいと思います。 いきなり最初からガツンと言ってしまいますが、凡人とは、 薄情で、怠惰で、迷惑で、傲慢で、残酷で、臆病で、保守的で、 利己的で、楽観的で、無気力で、無責任で、無関心で、無力で、 無知で、無価値で、自分がこういう人間であることにまったく 気付いていない無自覚な人間 のことです。 どんな人間も完全に凡人から脱することは不可能ですから 僕もあなたもどこかに必ずこういう要素を持っています。 ただ、唯一僕らが巷に溢れる凡人と違うのは、一番最後に言った 「無自覚な」 の部分です。 少なくとも、今あなたはこの記事を読んでいる時点で、自分が 凡人であることを自覚しています。 そして「凡人ではダメなんだ」ということも知っている。 だから凡人から脱することが“可能”なのです。   今の定義からも分かるように、僕が言っている真の意味での凡人は 自分がああいった人間であるということに対して無自覚です。 それゆえに、あの最悪の定義をなんら改善しようとしないし、 問題そのものを認識していないワケですから、彼らにそれらを 解決することはできません。 少し荒い言い方をすれば、彼らは “救いようがない” のです。 彼らの方から病院に来てさえくれれば、いくらでも診察することは できます。 病院で病人をほったらかしにする医者なんて、ほとんどいません。 しかし、自分から病院に来ない人を無理やり診察することは、 完全にいき過ぎたお節介だし、何よりも効果がありません。 そんな人はどれだけ優秀な医者がいても助けてあげられないのです。   多くの場合、彼らが病院にやってくるのは手遅れになってからです。 そのときには自覚症状が明確に現れているはずですが、それは既に 病気が末期まで進行しているということであり、そうなってからでは 優秀な医者の診察も意味がありません。 「余命半年です」 医者からそう聞かされた後、彼らはこう嘆くでしょう。 「こんなことならもっと色々やりたいことをやっておけばよかった」 これが典型的な凡人の生き方です。   あなたなら、今言ったようなことは既に分かっていると思います。 場合によっては「何をいまさら」と思っているかもしれません。 しかし「分かっている」のと「やっている」のとでは、雲泥の差が あるということを今あらためて理解してください。 どれだけ頭で分かっていても、やってないなら凡人と同じです。 今のまま何もやらなければ、あなたも彼らのように手遅れになります。 このメルマガをぼーっと読んでるだけだったら、あなたも彼らと 同類だということです。 それをよく自覚しておきましょう。   あの定義からも分かるように、僕らはつねに大量の病気を抱えて 生きています。 怠慢も、傲慢も、無気力も、無責任も、無知も、全部病気です。 これらはすべて 「行動」 によってしか、治療できません。 しかも、それらの病気は、行動しなかった日は確実に悪化する という厄介な特性を持っています。 この病気を治す薬なんてありませんし、薬のようにして売られて いるものは、どれも単なる麻薬です。 一時的な安息が得られるだけで、根本的には何も解決しません。 むしろそういう麻薬は病気の悪化を早める原因になりますから 絶対に使わないでください。 使ったあとにどうなっても、僕は知りません。   今のあなたに唯一希望があるとすれば、あなたは自分の足で ちゃんと病院に来たということです。 ここ以外にも病院はたくさんありますから、今からそっちに 移動して優秀な医者に病気を診てもらうのも1つの手かも しれません。 別に僕はそれを止めようとは思いませんし、それであなたの病気が 治せるのなら、素晴らしいことだと思います。 ただし、優秀な医者であればあるほど、その医者はあなたを 治療してはくれない、ということを言っておく必要があるかも しれません。 治療は自分でやらなければ意味がないからです。 優秀な医者ほど、それを深く理解していますから、彼らは正しい 診断はしてくれても、それ以上のことはしてくれないはずです。 「治療してもらうために病院に来たのに、なんで自分で治療しなきゃ いけないんだ」 そう思うかもしれませんが、あなた以外の人間が「行動」して、 あなたの病気が改善するはずがありません。 そんなことも分からなければ、その優秀な医者もあなたを相手に してくれないと思いますので、お気をつけて。   最後にもう1つだけ注意しておきます。 やぶ医者についてです。 彼らは一見すると善人の顔をしています。 彼らは心優しい人間のフリをして、薬を処方してあなたの病気を治すと 言ってくるかもしれません。 しかし、あなたの病気を治せるのは、あなたの「行動」だけです。 薬なんてものがあるとすれば、それは麻薬ですから、彼らの言葉には 騙されないでください。   凡人の定義については、もうこれぐらいで十分でしょう。 このあと、あなたがどうするかは、あなた次第です。 僕はこれから「正しい診断」、すなわち   1.凡人という病気を放っておくとどうなるか 2.凡人という病気を治療するにはどうすればいいか 3.凡人から脱することが、いかに素晴らしいことであるか   をお伝えしていく予定です。 もしあなたにやる気があるならば、手始めのそのやる気を僕に 見せてください。 その行動が治療の第一歩です。 レポートの中でも言いましたが、あなたから動かなければ、 あなたは絶対に変われません。 もう一度だけ言っておきます。 そのままだったら確実に死にますからね? 薄情で、怠惰で、迷惑で、傲慢で、残酷で、臆病で、保守的で、 利己的で、楽観的で、無気力で、無責任で、無関心で、無力で、 無知で、無価値で、それを何も直そうとしない人間が“普通に” 生きていける時代はもう終わってますから。 その危機感がないってことは、あなたが何も問題を自覚していない ということです。 つまりあなたは普通の凡人です。 今世界(日本を含む)で何が起こってるかを知っている人は、 必死で準備を進めています。 「まだ何も起こってない」んじゃなくて、あなたがそれを 知らないだけです。 自分の知ってることだけがすべてだと思っていませんか? このメルマガを読んでるだけで安心してるんじゃないですか? 凡人ほどそういう思い込みが激しくて困るんですが、そして だからこそ 「救いようがない」 のですが、ここまで言っても分からなければどうしようも ありませんね。 あとは勝手にしてください。   あ、それと、これで行動しないようなら、このメルマガの 存在意義はないとみなして、打ち切るかもしれません。 もちろん反応が多ければ続けますが、何の危機感も反応もない 「救いようのない人間」に情報を配っても意味ないですからね。 一応それだけ言っておきます。 それでは。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
もしスティーブ・ジョブズが凡人だったら
  つい最近亡くなった偉人にスティーブ・ジョブズという人がいます。 彼は生前、iMacやiTunes、iPod、iPhone、iPadなどを発案したことで 有名ですが、彼の死は全世界を失望させました。 彼が生きていたら生み出されたであろう、未来の素晴らしい コンテンツを、彼の死がすべて消し去ってしまったからです。 彼がもしあと10年生、いや、5年でも生きていてくれたら、もっと 凄いことが起こったかもしれない。 その世界の希望を、彼は自分の死と一緒に葬ってしまったのです。   自伝や評伝を読めば分かるように、スティーブ・ジョブズは世界でも 有数の変人、いや失礼、脱凡人です(笑) 彼は自分の案に妥協を許さず、アップルの技術者にいつも無理難題を おしつけていました。 「人が画面に合わせるのではなく、画面が人に合わせるようにしろ」 「タッチの強度を判別させろ」 「次に出すものは、今より薄くて軽いものにしろ」 技術者はこういった彼の注文に振り回され、ときには猛烈な抗議に 出ることもありました。 「そんな無茶苦茶なこと、できるわけないでしょ!」 しかし彼は「できるはずだ」の一点張り。 この常識では考えられないほどの横暴ぶりが、彼を世界の王者へと 導いたのです。   ここで少し想像してほしいのですが、もし彼が横暴ではなく、 周りの意見を尊重して妥当な案を導き出す、いかにも日本的ないい人 だったとしたら、iPhoneやiPadは生まれていたでしょうか? 技術者から 「こんなの無理に決まってるでしょ」 と言われて 「そうかぁ、じゃあこれぐらいなら出来るか?」 なんてことを言っていたら、あれらの商品は生まれたでしょうか? ・・・少なくとも僕は生まれなかったと思います。 なぜなら、あれらの商品は彼の横暴さが技術者に死ぬほど無理を させたことによって、生み出されたものだからです。 彼が一切の妥協を許さない人間だったからこそ、あれらの商品は 生み出されたのです。 これが何を意味するのかというと、もしスティーブ・ジョブズが 凡人として生きていたら、あれらの商品は何1つ生み出されなかった だろう、ということです。 もし今のあなたの生活からiPhoneやiPad、iPod、iTunes、iMac、 そしてアップルコンピュータの商品がすべてなくなったとしたら、 あなたの生活はどう変わるでしょうか? 僕の場合は大して変わらないのですが、あなたは違うかもしれません。 アップルの商品をよく使うデザイナーやミュージシャンにとっては 死活問題になる可能性もあるでしょう。 それぐらい彼が脱凡人であったことには価値があるワケです。 しかしそれは同時に、彼が脱凡人でなければならなかったこと (義務)を意味します。 彼がもし凡人だったなら、今現在アップルの商品で生計を立てている デザイナーやミュージシャンの生活は成り立たなかったかもしれない からです。 彼の生み出したものによって生活を維持している人がいる以上、 彼の商品はデザイナーやミュージシャンの命同然です。 その命を生み出さずに人生を終えることは、救えるはずの人 (デザイナーやミュージシャン)を救わずに見捨てることに等しいの ではないでしょうか。 そしてそれが何百万・何千万・何億の単位だとすれば、それだけの人を 見捨てることは、もはや罪とも言えるのではないでしょうか。   これを自分に当てはめて考えてみて下さい。 「もしジョブズが凡人だったら」と考えるのと同じように、 「もし自分が凡人ではない、能力の高い人間だったら」と考えるのです。 そう考えたら、僕らは凡人として生きることによって、救えるはずの人を 救わずに見捨てていると考えられないでしょうか? ジョブズのように何百万は無理だとしても、何十人・何百人ぐらいなら 自分が凡人から脱することで救えるかもしれないと思わないでしょうか? 「そんな見たことも会ったこともない人のことなんてどうでもいい」 そう思うかもしれませんが、それこそが凡人の発想だということに 気付いて下さい。 凡人はそうやって自分のこと以外に何の責任も負おうとしないから、 可能性に目を向けないから、「諦める」なんてことができるのです。 ジョブズじゃなくても構いません。 例えば日本の大企業がいろんなことを諦めたら何が起こるか考えたことが あるでしょうか? トヨタが、ホンダが、三菱が、日立が、パナソニックが、楽天が、 シャープが、新しい商品の開発を諦めたり、企業努力を怠ったりしたら、 どれだけの負担が日本国民全員に降りかかってくるか。 そんなことを考えたことがありますか? その責任を考えたら彼らは自社利益云々以前に、諦めるなんて選択肢は 絶対に選べないはずなのです。 目には見えないかもしれませんが、僕らもその大企業と同じだけの責任を 背負っています。 あなたが諦めることによって、救えたはずの命が今この瞬間も救われずに 消えていっているのですから、その責任は重大です。 ここに気付かなければ、凡人から脱する道は始まりません。   凡人とは、自らの努力を怠ることによって、救えるはずの人を救わずに 見捨てている薄情者のことです。 誰だって目の前に倒れている人がいたら救急車を呼んで助けようとすると 思います。 怪我人を見たら放っておけないし、川で人が溺れていたら助けを呼ぼうと するはずです。 にもかかわらず、倒れている人が、溺れている人が、怪我している人が 見えないというたったそれだけの理由で、凡人は多くの人を見捨てて いるのです。 それは単に見えないのではありません。 「見ようとしない」から見えないのです。 凡人は、救える人を自分から見つけようとしないのです。   まずは自分が救える人を見つけること。 それが凡人から脱する第一歩です。 といっても、何もはじめから大きなことをする必要はありません。 自分の失敗談や経験をブログにまとめる。 最初はその程度でいいのです。 そうしておくだけで、それを見つけた誰かが救われることもあるかも しれませんし、実際あなたもそうやって救われたことがあると思います。 「新幹線の切符の買い方」とか「パスタのゆで方」とか、 そんなものでも分からない人にとっては救いの手なのです。 あなたの何でもない経験が、人を救うこともあるということ。 あなたが困ったことは、他の人も困ることがあるということ。 どんな人にも救える人がたくさんいるということ。 その意識をつねに持っていて下さい。 そこから凡人を脱する一歩がはじまるのです。 ありがとうございました。     ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
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