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「学び」を「稼ぎ」に変える
  いつからでしょうか。 特に意識していたワケではないのですが、ビジネスやお金の話を 自分がしなくなっていることに、つい最近になって気が付きました。 ここ1年ほどの記事を読み返してみても明らかなように、 そこには僕の教養主義というか人間性を第一に重んじる価値観が 前面に押し出されていて、まるで「お金なんてどうでもいい」と 言わんばかりの勢いです。 決してそんなことを言いたいワケではなかったのですが、 いかに僕がここで言い訳をしようとも、お金のことに一切触れない という僕のメルマガでの態度が、そのことを正直に語っています。 以前どこかで話したように、われわれは言葉では簡単にウソを つけますが、態度や行動でウソをつくのは凄く難しいです。 つまり僕は、自分の気付かないところで「お金なんてどうでもいい」 という最悪なメッセージをあなたに伝えてしまっていたのです。 悪気はなかったとは言え、今あなたが、あなたの人間性や教養、 器の大きさに見合うだけの収入を得られていないとすれば、 その責任の大半は僕にあります。 あなたは僕を信じてついてきた結果としてそうなってしまっている ということです。 人間性や理念、考え方などが大事なのは間違いないですが、 それらを大事にするためには、それらを維持・向上するのに 必要なだけのお金を稼げなければなりません。 お金を稼ぐこと自体が「主」になってはいけないけれども、 脱凡人を実現していくためには、やはりお金は不可欠なのです。 こんな当たり前のことをどうして忘れていたのか。 自分でも不思議でなりません。 そしてそれに気付いた今は、あなたに対して申し訳ない気持ちで いっぱいです。 本当に申し訳ありませんでした。   さすがに僕も謝っただけで済まされるとは思っていません。 むしろここで終わったら男がすたります。 ということで、これからしばらくの間は、これまで学んできたことを いかにして稼ぎに結びつけていくか、ということをテーマにして メルマガを配信していきたいと思います。 かといって巷によくある「とにかくお金を稼ぎましょう」系の メルマガにするつもりはありませんので、その辺はご心配なく。   記念すべき1回目は「価値を生み出す2つの力」です。 いきなり答えから言ってしまいますが、この2つの力というのは 「学ぶ力」と「教える(伝える)力」です。 これらはビジネスの用語で置き換えると、その意味がよく分かると 思います。 学ぶ力とは必要なことを知る力、つまりマーケティング力です。 ビジネスの基本はまずいかに市場から、いや、日常から人々の欲求を 汲み上げることができるかにかかっています。 どれだけ精巧に作られた素晴らしい商品も、それを欲しがる人が いなければ、ただのガラクタです。 そんなガラクタを作らないようにするには、日常から人々の欲求を 汲み上げ、それに合った商品を作らなければならないワケですが、 それは、日常から「見えないもの」を学ぶ、ということです。 誰も自分が欲しいものを教えてはくれないし、仮にアンケートで 答えてくれたとしても、それはウソ(人はそのものに出会うまで、 それが欲しいか否かが分からない)ですから、答えは自分で 見つけるしかありません。 そのために必要なのが学ぶ力であり、マーケティング力なのです。   学ぶ力はいくらでも細分化できますが、その1つの分け方として 以前話した「問う力」「根気」「論理的思考力」「関連づける力」が 挙げられます。 顧客の欲求を汲み上げる場合は特に「問う力」が不可欠です。 なぜあの人はタバコを吸うのをやめたのか、なぜあの人は 自転車から降りたのか、なぜあの人は目を閉じて座っているのか、 なぜ女性はおにぎりよりもサンドウィッチを好むのか、 なぜコンビニの前には若者が群がるのか、どういうときに人は 信号を待ち、どういうときに無視するのか・・・などなど、 こういった問いからしか彼らの欲求の断片を拾い集めることは できません。 その断片をどう組み合わせるかは根気や論理的思考力、 そして関連づける力の出番ですが、そういったことを 総合することで今まで見えなかった顧客の欲求が見えるように なっていきます。 これまでわれわれが学んできたことは、こういう風にビジネスに 活かすことができるワケです。   学ぶ力がマーケティングだとすれば、教える(伝える)力が何かは もうなんとなく想像がつくんじゃないでしょうか。 そう、教える力はブランディングおよびコピーライティング力です。 学ぶ力を通して学んだものをいかに価値ある形で表現できるか。 そこがお金を稼ぐための肝になります。 「価値を生み出す」というとこっちだけを想像する人が多いと 思いますが、価値というのは相手あっての価値ですから、 学ぶ力なくして価値は生まれてきません。 相手に適した教え方というのは、相手のことを学ぶことによってしか 分からないのです。 教える力を今までの僕の言葉で言い換えるなら、「解釈の幅」 「実力」「妄想力」「思いやり」「コミュニティ」「文脈ごと売る」 などになるでしょうか。 もちろん他にもいろんな言い方が可能ですが、そういったものを ひっくるめて、ここでは教える力と呼んでいます。 僕はこれまでそれらの力は凡人から脱するために必要であると 語ってきましたが、それはブランディングやコピーライティングにも 繋がる話だったワケです。   学ぶ力で知識や相手のことを学び、教える力でそれを相手にとって 価値ある形で表現する。 言うは易し、行うは難しです。 けれども、この2つの力があればいくらでも価値を、価値ある商品を 生み出すことができます。 そして僕は今まで何度も言葉を変えてその話をしてきているのです。 一度ビジネス的な視点で僕のメルマガを読み直してみてください。 意識次第では驚くほどたくさんの発見があるはずです。   「学び」を「稼ぎ」に変えてもらうこと。 それが今後の僕のテーマです。 禅僧のように托鉢や寄付で生き延びるのも1つの道かもしれませんが、 われわれはそういう生き方を目指しているワケではありません。 偉大なだけでは、賢いだけでは、自尊心だけでは飯は食えません。 それらは価値として誰かに提供することで、はじめてお金になります。 もうそろそろあなたは教える側の、お金を受け取る側の、 次なるステージの人間になるべきではないでしょうか? これまで学んできたことを、ぜひとも世界に役立ててください。 「学び」を「稼ぎ」に変えてください。 本当の脱凡人はそこから始まります。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合はこちらをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 ...more»
美術と人間性
ども、ペスです。 僕が本格的に美術館の展覧会に通い出して、かれこれ4年程が経ちます。 最初はデュシャンやリヒターやウォーホルの名前すら知らなかった僕が、 今ではこうして展覧会の記事なんかを書いたりしているのですから、 面白いもんです。 しかし、この約4年の間に僕は美術における、ある重大な問題を 目の当たりにしました。 それは、多くの人は美術を理解する気がないらしい、ということです。 美術館へ行くと、みんな分かったかのような顔をして美術作品を 鑑賞しているのですが、彼らが見ているのは作品の表面的な綺麗さや 上手さだけです。 「ここが細かい」とか「写真のようで凄い」とか「色使いが綺麗」とか そういうところにばかり目が向いていて、それ以外の部分は何も見えて いない、もしくは見ようとしていない。 それは彼らの美術館での会話や、話題の展覧会にしか見に行かない性質を 見ていれば誰でも分かります。 いつも言うように、僕はそういう鑑賞が悪いと言いたいのではありません。 お金を払っているのは本人ですから、好きなように見ればいいとは 思います。 ただ僕は 「それに何の意味があるの?」 と言いたいのです。   僕が見るかぎり、彼らは自分の虚栄心を満たすために美術を鑑賞している ような気がします。 「私は美術鑑賞を趣味にしている素敵な人間です」 そういうことを周りに見せたいがために彼らは美術館に行くのではないか、 ということです。 これは特にミーハーな展覧会に来るお年寄りの鑑賞者から感じます。 というか、話題の展覧会ほど、テレビCMや車内広告をやっている 展覧会ほど、ホントにお年寄りが多い。 僕みたいにメジャーな展覧会からマイナーな展覧会まで色々通っていれば 分かりますが、展覧会の話題性によってまったく客層が異なります。 前に東京国立近代美術館でやっていた「岡本太郎展」なんかは、さすがに 若者が多かったですが、そういう若者に人気の作家でない限りは、話題の 展覧会はお年寄り比率が格段に高いです。 若者は若者で、岡本太郎や草間彌生のようにミーハーなんだけども、 それを見ることがファッションとしてカッコイイものに集まります。 だからエルミタージュ美術館展みたいな古典作品の展覧会にはあまり こなくて、リヒターやポロックやピカソのような比較的インパクトの 強い作家の展覧会に足を運ぶことが多いです。 どちらにも共通するのは、最初に言った虚栄心を満たすために美術を 見ているということ。 以上をまとめると、彼らは主に 1.話題のものを知っておきたい 2.ファッションとして美術を楽しみたい という2つの理由で美術館に来るのではないか、ということです。 これは僕の主観的なデータに基づくものなので、必ずしも正しいとは 言い切れませんが、そこまで大きく的をはずいていることもないと 思います。   さてさて。 上記で「虚栄心を満たす」という話が出ましたが、虚栄心というのは 文字通り「虚の栄える心」ですから、満たせば満たすほどにその人の心は 虚しくなっていきます。 本人はそれに気付かない振りをしていますが、実際には心のどこかで 気付いているはずです。 美術を分かった気になったって、自分は何も変わらない、って。 僕はこの虚しさを学生時代に体験しました。 当時の僕は周りから一目置かれるぐらいのファッション狂だったのですが、 それは自分の弱さを覆い隠すためにやっていたことです。 何もできない人間だからこそ、人はそれを隠すために、ごまかすために、 悟られないために、自分以外の何かに頼るのです。   本当にファッションを愛する人は、そのファッションに相応しい人間に なることを考えます。 下品な人間のファッションほど、ファッションをけがすものはないと 知っているからです。 美術もこれと同じで、本当に美術を愛する人は、その美術に相応しい 人間になることを考えます。 下品な人間の見る美術は、「下品な人が見ている」というただそれだけの 理由で軽蔑されることを知っているからです。 ファッションも美術も、最終的な作品の価値はそれを身につける人や 見る人のレベルで決まります。 素敵な人の着ている服はたとえ安物だったとしても素敵に見えるし、 素敵な人が持っている絵はたとえ無名の作家が作ったものだったとしても 素敵に見える。 僕はそういう当たり前のことを言っているだけです。   世の中に美術好きを豪語する人は多いですが、彼らは自分が美術の価値を 下げていることに気付いていません。 彼らは「美術を見ている自分が」好きなのであって、本当には美術のことなど 何も考えていないのです。 僕はいつも「自分を高めましょう」と言ってきたつもりです。 少し前の記事では「ホンモノになりましょう」とも言いました。 それはわれわれ自身のためでもありますが、美術の権威を正常に保つためでも あります。 どれだけ素晴らしい作品でも、その素晴らしさを理解できる人がいなくなれば、 その素晴らしさは失われてしまいます。 ヘーゲルの言うように、作品の素晴らしさとは、その作品を「素晴らしい」と 感じる人間の素晴らしさなのです。   われわれは美術をけがす人間になってはいけません。 われわれの仕事は、素晴らしい作品から、それ以上の素晴らしさを引き出せる 人間になることです。 そうならなければ、せっかく素晴らしい作品を残してくれた過去の偉人に 申し訳ないじゃないですか。 彼らはその作品に命を懸けたんです。 だったら、われわれもそれに相応しい態度で接しましょうよ。 僕はそういう当たり前のことを言っているだけなんですけどね。 どうして誰も気付いてくれないんだか。   ...more»
アフォーダンスとは
  アフォーダンスとは、知覚心理学者ジェームズ・ギブソンの作った造語で「自分と環境の関係がそのモノの価値を決める」といった内容の概念です。 うちのブログではお馴染みの概念ですが、一般的にはまだそこまでメジャーになっていないのが実際のところ。 デザインの現場では、もはやアフォーダンス無しには成り立たないレベルになってきているのですが、他の業界ではあまり聞いたことがありません。 便利な言葉だと思うんですけどね。   モノには無限の価値(や意味)があらかじめ含まれており、われわれはそのモノとの関係に応じて価値の1つを選び取っているにすぎない。 これがアフォーダンスの前提です。 たとえばよく例としてあげられるのはドアノブ。 ドアノブそのものはドアについた突起物でしかないにもかかわらず、われわれはそれをドアノブとして認識し、それを捻ったり引いたりすればドアが開くことを知っています。 それはドアについた突起物がわれわれに「ここを引けばドアが開くよ」「私はドアノブですよ」と語りかけているからだ、という風に解釈するのがアフォーダンスの考え方です。 このことをギブソン的な言い方で「ドアの突起物がわれわれに引くことをアフォードしている」と言います。 要はこちら側が主観でモノに価値を付加しているのではなく、価値はモノそのものにあってわれわれはそのモノがアフォードした価値を選び取っているだけだ、ということです。 これを主観主義的に「こちらがモノに対して価値を付加している」と考えると、われわれがそのモノのあり方や使い方を個人的に決めている、という解釈になってしまうのですが、それだと郵便ポストを郵便ポストだと知らない人は、そこに手紙を入れても手紙が届かないことになってしまいます。 当たり前ですが、郵便ポストはそれを知っている知らないにかかわらず、手紙を入れれば手紙は届けられるワケですから、「手紙を届ける」という価値はこちらが付加しているのではなく、あらかじめ郵便ポストに備わっているのです。 このことから、アフォーダンスは近代的な主観主義を乗り越える大きな一歩を切り開いたと言えます。   ちなみにドナルド・ノーマン的にアフォーダンスを表現すると、(突起物ではなく)ドアノブがわれわれに「ここを引けばドアが開くよ」と語りかけている、という言い回しになります。 ただ、この場合はあらかじめ意味が固定された「ドアノブ」という言葉が使われていることによって、ドアノブがドアノブの役割をわれわれに伝えている、というトートロジーをあらわしており、ギブソンの使った純粋な意味でのアフォーダンスとは異なることを注意しておいて下さい。   このアフォーダンスの考え方を応用すると、われわれ人間の価値を再評価することができます。 先ほど「モノにはあらかじめ無限の価値が含まれており、そのモノとわれわれの関係がその価値を決定している」と書きましたが、もしこのモノが人間にも当てはまるとするならば、自分と周りの関係を変えることによって自分の価値は変わる、と考えることができるワケです。 つまり、自分には無限の価値があるけれども、周りの人間がその中の「使えない価値」ばかりを選んでしまっているために、自分は使えない奴というレッテルを貼られてしまっているのだ、と。 自分をちゃんと評価できる人にさえ出会えば、自分の価値はまったく別物になるのではないか、と。 これだけを読むと他力本願に見えてしまいますが、実社会で評価されない人間がネット上で人気者だったりする現実を考えるならば、あながちこれが他人にばかり依存しているとも言えない気がします。 もちろん「自分には無限の価値がある」という前提に甘えていては、誰に出会っても何も起こらないと思いますけどね。 大事なのは、いかに自分の価値を周りにアフォードできるか。 その工夫次第であなたの人生は変わってくるかもしれません。   ...more»
お金と価値の関係
  何気に続編です(笑) 前回の価値とは何なのかでは 価値の判断基準となるものについて書いていきましたが、 今回は世間一般の判断基準とされる、お金と価値の関係に ついて書いていこうと思います。 まず、お金には価値があるのか。 「いやいやいや、あるに決まってんじゃん」 と思うかもしれませんが、本当にそうでしょうか? お金の成り立ちを考えると、お金ってのはそもそも モノとモノを仲介する役目として生まれてきました。 大昔はそれが貝であったり石であったりしたワケですが、 その貝や石は他のモノと交換できるからこそ、価値がありました。 逆に言えば 他のモノと交換出来る【交換価値】というモノがなければ 貝や石には何も価値がないと言い換えることも出来ます。 では現在はどうしょうか? 現在は完全にお金第一な社会です。 資本主義自体がお金そのものに価値が置かれる体制そのものですから 当たり前といえば当たり前。 つまり モノよりお金の方が価値が高い、ってことになります。 これはある意味では正しいですが、 本来の在り方からすると本末転倒ですよね? お金というのはモノに交換してこそ初めて価値を 見出せるもののはずです。 なのに交換する前から価値の高いモノになってしまった。 なぜこんなことが起きてしまっているのでしょうか。 これは僕が考えるに、需要と供給の関係が大きく 関係していると思われます。 語弊があるかもしれませんが、めちゃくちゃ簡単に言うと モノが欲しい人よりお金が欲しい人が増え過ぎた、 ということです。 もっと言えば、世の中の全ての価値が お金に依存してしまったためだとも言えます。 これが「高いモノは価値も高い」という見方そのもの。 例えば、【高級】という言葉がありますが、 【高級】なモノがなぜ【高級】なのかと言えば、 お金がたくさんかかっているからです。 高級キーボードは3万円もするから【高級】なのです。 高級車は何千万円もするから【高級】なのです。 逆に言うと、いくら質が高くて自分には価値のあるものだと 思っていても、値段が安ければ【高級】にはなれない、ということ。 つまり 資本主義における価値とは値段(お金) となります。 しかし、これは一般的な指標に他なりません。 爆笑問題の太田さんも言っていましたが、 最終的に価値というのは、自分にとって 価値のあるモノなのです。 極端に言えば、お金に価値を置くのは、お金が大好きな人だけ。 誰もがお金を欲しがる理由は、お金に価値があるからではなく、 お金を使ったその先に価値があるからです。 ビジネスで言うところのベネフィットです。 掃除機は掃除機そのものに価値があるんじゃなくて、 部屋を綺麗に楽に静かに掃除出来ることに価値がある、 ってこと。 そんな感じですかね。 途中若干筋の通ってないところがあるような気もしますが、 まぁその辺はあまり気になさらぬよう。 ではでは。   ...more»
価値とは何なのか
  先週の【爆笑問題のニッポンの教養】、ご覧になりました? 僕は基本的にTVを見ない人間なんですが、 この番組だけは出来る限り欠かさずに見ていて、 中でも今回のはかなり面白かった。 やっぱテレビはあぁでないと。 お金の話から始まり、最後の方に 【価値とは何なのか】 という経済学の究極命題が飛び出しました。 あなたは【価値】って何だと思います? 高級志向とエコでも書きましたが、我々の心理は基本的に 「値段の高いモノほど価値が高い」と思うように出来ています。 もちろん例外も存在しますが、市場経済の世界に生きていて、 ましてや資本主義の日本に住んでいるんだから こうなってしまうのはある意味、仕方のないことです。 しかし、実際に値段の高いモノほど価値が高いのかと言えば、 それは違いますよね? 例えば、ピカソの絵。 ピカソの絵は一般に数億円という単位で取引されますが、 ピカソの絵に何の価値も見出せない人はその絵に 数億円を出そうなんて思わないワケです。 でも我々はピカソの絵の価値は高いと認識している。 その理由は、そこに数億円払う大富豪やコレクターが いるからであって、絵そのものに価値を見出している ワケではないということです。 言ってしまえば 「高そうなモノは凄そうだぞ」と。 「金を出すヤツがいるんだから価値も高いはずだ」と。 そーゆーワケ。 で、こういう我々の価値判断は世間的信用や権威のある 他者に依存することが多く、「あの人が言ったんだから」 みたいな意味不明な価値が存在します。 なんでも鑑定団という番組を思い出してみて下さい。 この番組では名のある鑑定士の方が、 「これは・・・時代の・・・という作者が書いた・・・です」 という判断を下し、それが結果、値段として表示されます。 そして、ほとんどの出品者はその値段の優劣によって 自分の持っている作品の価値を判断する。 これってどこかオカシイと思いませんか? ホントは出品者は【価値】を知らないのではなく、 その品の【歴史的背景】や【古物商の評価】を 知らないだけだと思うです。 だってその品を大事にしているという時点で 出品者自体はその品に価値を見出しているんですから。 なのに、値段として1万円ぐらいの価値しかないと 他者に判定されただけで、その価値は一気に下がってしまう。 つまり 価値はそれを持つ者、見る者の意識によって左右される ということです。 「お前にはこれの価値は分からないだろうな」 という言葉が世の中には溢れていますが、 これは正確には価値が分からないのではなく、 価値がない、もしくは価値を見出せない状態 と言えます。 分かる人にしか分からないモノとは、すなわち、 分かる人にしか価値のないモノと同義語なのです。 話し出すと止まらないので、今回はこのぐらいに しておきましょう。 それでは。 ...more»
高級志向とエコ
  前読んでた雑誌で敏腕プロデューサーで有名な 【おちまさと】さんがこんなことを言ってました。 「高いモノを買うっていうのは考え方次第では 今流行のエコロジーなんですよ」 高級品を買うと、その品を大切に使おうという心が生まれる。 すると、大切に使うから壊れない、壊れないから余計なモノは 買わない、買わないから無駄なモノが出ない。 面白いと思いません? 例えば、高級腕時計を買ったとしましょう。 あなたはこの時計をどう扱うでしょうか? 恐らくなるべく傷のつかないように扱い、メンテナンスや 磁気の除去などもマメに行なうのではないでしょうか。 そーゆーことです。 これをもうちょっと煮詰めると面白いことがわかってきました。 まずこの高級志向とエコの関係は、我々庶民にしか 当てはまらないということ。 ちょっと考えれば分かることなんですが、 大富豪にとって【高級なモノ】ってなんですか?という話です。 大富豪が何をどう考えて生きているかまでは知りませんが、 お金持ちにとって【高級】という概念はもはや破壊されて いるワケですから、この言葉は大した意味を持ちません。 お金持ちにとって高級なものとは、もはや金額での 価値ではないのです。 そしてもう一つ面白い発見があって、我々庶民には 「高級」だから「勿体無い」 という式が成り立つことです。 我々は、高ければ高いほど、そのモノに対して 大きな価値を置き、それを失うことに対しては 勿体無いと強く感じるのです。 もちろん安いモノでも「勿体無い」という感情は生まれますが それが高級になればなるほど、より強くあらわれる、というワケ。 詳しく説明すると長くなるのでやめますが、これには自己説得が 働いていると思われます。 「値段が高いモノは価値も高い」みたいな。 既成概念みたいなのもあると思いますけどね、多分。 水道水が1リットル1000円だったら、確実に節水しますよね? 1個1000円のトマトなんて食卓に並んだ日には 種の一粒まで残さず食べますよね?(笑) まぁ上の例は極端ですけど、1000円のシャツを買うより 5万円のシャツを買った方が10年単位ぐらいで見ると 結果的に安くつく可能性があります。 さすがに5万円のシャツは捨てんでしょ(笑) というワケで、これからは出来る限りで 高級志向でいきましょう!!(違う?) ...more»
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