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人生を変えたいなら24時間テレビを見ろ
    昨日、ある読者の方から一通のメールが届きました。 内容はザックリ言うと「どうすれば思い切れるのか、 どのタイミングで思い切ればいいのか分からない」 というものです。 恐らくこの方と同じようなことで悩んでいる方は大勢いると 思いますが、そういう人がまず分かっておくべきなのは、 思い切れないということは、その思い切ってやろうと思っている 当のものが自分の中で最優先になっていないということです。 こう言うと「いやいや、そんなことはないですよ」と 反論したくなるかもしれませんが、まあ聞いてください。 ある人がインターネットビジネスで独立したいと思っていたと しましょう。 今はサラリーマンだけど、早く独立して自分のビジネスで お金と自由な時間を手に入れたい。 そう考えていたとして、こういう人は普通、平日夜のわずかな 自由時間と休日にしかそのことを考えません。 仕事をしているときも家族といるときも今までと同じ思考、 同じ行動で、「後輩に任せられる仕事を増やして少しでも ビジネスのことを考えられる時間を作ろう」とか 「もっと効率的に家事をこなすことはできないか」とか 「昼飯の時間がもったいないから、片手でおにぎりを 食いながらノートにアイデアをまとめよう」とか、 そういうことを何も考えないということです。 こんなんじゃ絶対に結果は出ないし、思い切ることもできません。 だって全然自分のビジネスが最優先になってないですよね? 自分のビジネスを最優先にするとは、それを中心にして 生活全体を再構成する、ということです。 朝食よりも自分のビジネス、子供との時間よりも自分のビジネス、 ニュースよりも自分のビジネス、動画よりも自分のビジネス、 ビールよりも自分のビジネス、本業よりも自分のビジネス みたいな感じで、自分のビジネスと関係ないことはことごとく 省いていって、その時間すべてを自分のビジネスのための 思考と行動に充てる。 ここまで自分のビジネスで頭をいっぱいにすることができれば、 いつでも思い切ることができるはずです。 なぜなら、生活全体がもうその「仕様」になっているからです。 つまり多くの人が思い切れないのは、気持ちだけが先走っていて、 生活全体がその仕様に切り替えられていないからなのです。   思考と行動を変えるとは、生活を変えるということです。 生活を変えるとは、優先するものを変えるということです。 多くの人はいつもなんとなく欲望や気分に流されるまま 優先順位を決めていますが、そんなんではまず結果は 出せません。 英語を使えるようになりたいと思っている人が日本語表示で スマホを使っていたり、日本人とばかり話していたり、 日本語のニュースしか読まなかったり、日本の動画ばかり 見ていたり、英語圏の国に一度も行ったことがなかったり、 そんな生活を続けて英語を使えるようになると思いますか? 逆に考えてもいいでしょう。 今言ったことの逆をすべて実行すれば、結構なスピードで 英語を使えるようになると思いませんか? そういう単純なことなんですよ。 空いた時間や休日だけを使って人生を変えようというのは、 すごく凡人的な発想であり、普通のありふれた発想です。 そんなのは誰だって考えられるし、真面目に生きている人なら 大体それぐらいの努力はしています。 でもそれじゃ足りないということです。 足りないというか、そういう人は自分の人生を 過小評価しすぎだと思います。 そんな「空き時間」で変えられるほど、自分の人生は 安いものなのか。 そういう疑問を誰もが持つべきだと思うのです。   人生を変えるというのは一大プロジェクトです。 例えば読売テレビにとって『24時間テレビ』は 一大プロジェクトだと思いますが、彼らがそんな大事なものを 空き時間だけで考えていると思いますか? 「忙しかったら後回しでいいから、時間が空いたら考えといて」 みたいな軽いノリでやっていると思いますか? そんなことはないでしょ。 彼らはいつもの作業時間を削りに削り、なんとか時間を作って そのプロジェクトにつぎ込んでいるはずです。 でもほとんどの人は、24時間テレビなんかよりもっとデカイ プロジェクトである人生改革を、「時間が空いたらやろう」とか 「空いた時間でやろう」とか、そういう軽いノリでしか考えて いないワケです。 おかしな話ですよね。 この話だけでも、彼らがいかに現実を見れていないかが分かると 思います。 現実すらまともに見れていない人が現実の人生を変えよう なんてのは、どだい無理な話なのです。   独立したい、自分でビジネスをやりたい。 もし本気でそう思うならば、それを最優先にしてください。 その生活を2,3ヶ月も続ければかなり準備も整うはずだし、 それだけ続ければ「仕様」もほぼ切り替わっているはずなので 思い切ることはいつでもできるようになります。 やれば分かりますが、たった1週間でも相当変わります。 思い切るタイミングは待つのではなく、自分で作るのです。 まずは生活全体を見直しましょう。 そこにはきっと、あなたの「思い切り」を妨げるものが 溢れているはずです。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合はこちらをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 ...more»
「なんとなく」の精度
  先日、なんとなく植物園へ行ってきました。 気分転換ということ以外にこれといった目的はなかったのですが、 これが今まで行き慣れた美術館や動物園や本屋ではなく、 なんとなく(一度も行ったことのない)植物園でなければならない 気がしたというのが興味深いところです。 ただの気分転換であればどこへ行っても同じはずなのですが、 僕が特定の場所でなければならない気がするときは大抵 その場所に僕の求めていた答えがあります。 そこへ行ってみるまでは僕自身にも自分が何を求めていて、 何のためにそこへ行くのか、なぜそこでなければならないのかは 分かりません。 本当にただなんとなく出かけた方がいい気がして出かける。 それだけです。 けれども、行ってみるとそこにはちゃんと答えがあります。 今書いているこの記事こそが、まさに植物園へ行ったことの 答えです。 僕がそこへ行かなければこういう内容にはならなかったことを 考えると、ちょっと不思議な感じですよね。   僕は「なんとなく」には、大きく分けて2つの種類があると 思っています。 1つは「粗悪ななんとなく」、もう1つは「良質ななんとなく」 です。 使っている言葉からも分かるように、前者と後者は表面上は 同じものでも、その質が大きく異なります。 冒頭で、なんとなく植物園へ行った、という話をしましたが、 これが「粗悪ななんとなく」だったとしたら、僕はこの記事を 書けなかったと思います。 なぜなら「粗悪ななんとなく」は文字通り質が悪い、 言い換えると精度が低いからです。 何に対する精度かは時と場合によりますが、多くの場合は 「自分にとっての答えや正解を得る精度」だと考えておけば 間違いありません。 つまり、なんとなく行動していても物事が上手くいく場合は 「良質ななんとなく」、なんとなく行動すると痛い目にばかり 遭ってしまう場合は「粗悪ななんとなく」だということです。   この「なんとなく」の精度は人生の質のほとんどを 決めています。 例えばわれわれはなんとなく今日の献立を決めたり、 なんとなくいつもと同じ歯ブラシを買ったり、なんとなく ニュースサイトを見たりしながら生きているワケですが、 それはすなわち、その「なんとなく」の精度が低いほど 今日の献立が自分にとっての正解である確率が低くなる ということです。 献立に正解なんてあるの?と思うかもしれませんが、 その献立がその日の自分のパフォーマンに影響することを 考えれば、そこに正解・不正解があるのは当然でしょう。 その日の体調に合った献立をどれだけ的確に立てられるかが、 その日の健康や仕事の出来、しいては幸福にも関係してくる ワケです。 無論、ニュースサイトを見ることだってその日考えることや 周りとの会話などに影響を与えますから、どのニュースを どのように読んだのかということにも正解・不正解はあります。 こうした毎日のことが積み重なってできているのが人生だ ということを考えれば、誰もが「なんとなく」の精度を高めて おかなければならないことは容易に理解できるでしょう。   「なんとなく」の精度を高める第一歩は、日頃の「なんとなく」 という判断を減らすことです。 言い換えると、今日の献立を決める際に、なぜそれでないと いけないのかをイチイチ考えるということです。 八宝菜でも肉じゃがでもドリアでもなく、なぜシチューでないと いけないのか。 まずは答えが出なくてもいいので、とにかくそれを考える。 そうすることで日常の「なんとなく」が減っていきます。 なぜ?を頭(意識)で考えているワケですから、その時点でそれは 「なんとなく」ではないワケです。 これができたら次は頑張ってその問いの答えを見つけてください。 最初はある程度無理やりになると思いますが、続けているうちに いくつかのことに気がつくと思います。 それらが何かはやれば分かるので、というか、やってほしいので、 ここではあえて説明しません。 これで精度は上がっていきます。 あとは同じことを日常のあらゆる場面で繰り返すだけです。   「なんとなく」の精度が上がってくると冒頭で話したようなことが 普通に起こるようになります。 不思議に思うかもしれませんが、それは実は当たり前のことです。 というのは、答えはいつでも外ではなく内に、つまり自分の中に あるからです。 それを見つけられないのは、見つけるための目を鍛えていない からであって、そこに答えがないからではありません。 先程言った精度を上げるとは、自分の中にある答えを 見つけるための目を鍛えるということです。 これが以前話した(上級で鍛えている)「見えないもの」を 見る力だということは言うまでもないでしょう。 それさえしっかり鍛えられていれば、家にいようがどこに行こうが 必要なときに必要な答えは見つかります。 僕がなんとなく感じ取ったのは、植物園という場所を通せば 答えがよりクリアに見える、ということに過ぎません。 だって植物園を動物園や家に変えたところで、この記事の内容は 何も変わらないんだから。 変わるのは僕が答えに気付くか否かだけです。 答えに気付きやすい場所をなんとなく察知するのも1つの 答えだと考えると、この問題は延々と続くことになりますが、 それはともかく、こういう凡人にはできない恐ろしく地味な努力を 続けていかなければ、脱凡人であることはできないのです。   なぜAをしなければならないのか、なぜAでなければならないのか。 その問いの数だけ答えはあります。 なぜシチューを食べなければならないのか。 こんな問いでも人生を変えるキッカケになりうるのだということを 忘れないでください。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
なぜ人生は思い通りにいかないのか
ども、杉野です。 人生とは虚しいものです。 「このシチュエーションで告れば完璧!」と思ってした告白では見事に振られ、「これってもしかして大金持ちになれるんじゃね?」と思ってはじめたビジネスでは閑古鳥が鳴き、「こんだけ頑張ったんだから合格するでしょ」と思って受けた試験では不合格になり、「私の人生は私が決める!」と思っていた人生では、誰かの作ったレールに乗ってそのまま・・・。 「なぜなんだっ!」 そう心の中で叫んだ経験は誰しもあるでしょう。 しかし、この「なぜなんだ」を真剣に考えたことのある人がどれだけいるでしょうか。 もちろん個々で努力してきたことを反省することはあると思いますが、今ここで考えたいのは、そもそもなんで人生は思い通りにいかないようになっているのか、というある種の哲学的な問いなのです。 読んで分かるように、この問いは「人生は思い通りにはいかない」ということが前提になっています。 ごくわずかではありますが、思い通りの人生をおくっている人がいることも事実ですから、そういう人にはこの問いそのものが意味をなしません。 つまり、より厳密な言い方をすれば、ここでは 「人生が思い通りにいかない人は、なぜ思い通りにいかないのか」 を考えたいということです。 【関連記事】人生が思い通りにならない4つの理由とその解決策を教えよう   ■「思い通りにならない」とは何か さて、まずは言葉の定義から確認していきましょう。 そもそも「思い通り」とは何なのか。この場合の「思い」とは、期待、願望もしくは理想という意味です。 自分が期待していること、自分が望んでいること、自分が理想としていること。 それをわれわれは「思い」と言っています。そんでもって「通り」とは、現実になること、実際に起こることです。 だから「思い通り」とは 自分が期待していることが現実になること ということになります。 これは冒頭の例からも明らかです。自分が期待していることは、告白して付き合えること、ビジネスで成功すること、試験に合格すること、ですね。 それが現実になる、つまり、実際に起これば思い通りにいった、起こらなければ思い通りにいかなかった、ということになります。   ■期待したことは起こらない? ここで元の問いに戻りましょう。 「なぜ人生は思い通りにいかないのか」を今の定義で変換すると、「なぜ人生は期待していることが起こらないのか」という問いになるワケですが、こうすると何か見えてこないでしょうか? ・・・なにも見えてこない? あ、そう(笑) じゃあもうちょい頑張ります。 期待していることが起こらない。これって実は、われわれが普段あまり経験してないことなんですよ。 前に話したように、われわれは(無意識的にではありますが)日常に対して「何も起こらないこと」を期待しながら生きています。 歩いているときに自動車やバイクが突っ込んでこないこと、石につまづかないこと、突然雨が降ってこないことなどなど、そういう期待をしているからこそ、その期待が裏切られたとき、つまり何らかのトラブルがあったときに凹んだり嫌な気持ちになったりするワケです。 でも普段身の周りで、そんな頻繁にトラブルは起こらないでしょ? 「私はトラブルばっかりです」って人もたまにはいるのかもしれませんが、そういう人にしても、多くて1日の3分の1ぐらいがトラブルなだけで、他の3分の2は普通にご飯食べたり、お風呂に入ったり、電車に乗ったりしてると思うんです。 まさか寝てるときまで毎日自分の家だけ地震で揺れるとか、毎日上からゴキブリが降ってくるとか、そんな奇怪なことはないでしょ(笑) 要するに、どれだけ少なく見積もっても、われわれの人生の3分の2ぐらいは思い通りに、「何も起こらない」という期待が実現されている、ということです。 「なんでもないようがことが、幸せだったと思う」という歌詞の有名な歌がありますが、これも同じです。 「なんでもないようなこと」は、何も特別なことが起こらないことを意味しています。 あの歌は、それが幸せであることに気付いた、思い通りであること気付いたと歌っているワケです。   ■人生のほとんどは思い通り ということは、ですよ? 僕らの人生って、ほとんどが思い通りにいってるんじゃないんですかね? だって特別なことはなんて滅多に起こらないでしょ。 大体毎日なんでもないようなことばっかりですから、みんな何も起こらないという期待通りに生きています。 ・・・でも、おかしいですね。だったらなんで多くの人は、人生は思い通りにいかないなんて真逆のことを「感じている」のでしょうか? 現実はほとんど思い通りにいっているのに、どうしてその現実を「無視して」、思い通りにいかないと嘆くのでしょう? そう、これこそが、われわれが本当に向き合わなければならない、真の問題なのです。   ■なぜ多くの人は人生は思い通りにならないと思い込むのか なぜ人生は思い通りにいかないのか。 この問いは、問いそのものが間違っています。 その理由はここまで話してきたことからも明らかでしょう。 そんなものよりも、われわれが考えなければならないのは 「なぜ人生のほとんどは思い通りにいっているにもかかわらず、ごく一部の特別なことが思い通りにいかなかっただけで人は凹み、落胆し、挫折するのか」 ということです。 あっさり言ってしまいますが、この答えは、人は見たいものしか見ようとしない、もしくは見たいものしか見えていないからです。 そう、多くの人は、そのごく一部の特別なこと(告白やビジネスや試験)しか見えていないのです。 だからそれだけを「人生」だと思ってしまう。これこそが、すべての不幸を生み出す原因だと思います。 本当はみんな、人生のほとんどが思い通りにいっているのに、それに気付けなくなってしまっているワケです。 これほど不幸なことはないでしょう。 今こうして「無事に」僕のメルマガを読めることだって、本当は幸せなことのはずなのです。 それは僕のメルマガの質云々の話ではなく、「無事に読める」ということ自体が、思い通りの人生をおくれていることを意味しているからです。 凡人はこんなことを言っても、恐らく鼻で笑うだけでしょう。 「お前は綺麗事を言っているだけだ」と言う人もいるかもしれません。 しかし、これが現実であることは、誰も否定できない「事実」なのです。   ■見えない「思い通り」 われわれは凡人には見えないものを見なければなりません。 そして、それを伝えることによって、一人でも多くの人に自分が幸せであることを気付かせなければなりません。 この活動によってのみ、あなたは信頼し合える本当の仲間を得ることができるのです。 何も起こらないことが、いかに素晴らしいことであるか。無事であることが、どれほど有り難いことであるか。 この意味を実感できたとき、あなたは人をリードする立場に立っていることでしょう。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック     ...more»
「自分の人生」と「他人の人生」
  自分をつらぬくことは とても勇気がいるよ だれも一人ボッチには なりたくはないから でも 君はそれでいいの? 夢の続きはどうしたの? 僕を忘れてもいいけど 自分はもう はなさないで サヨナラから はじまることが たくさん あるんだよ 本当のことが 見えてるなら その思いを 捨てないで (スーパーバタードッグ【さよならCOLOR】より)   たまにはこういうのもいいかな、と思って載せてみました。 個人的には、僕らの背中を押してくれる、とてもいい歌詞だと 思います。 せっかくなので、もう一度読み返してみましょう。 自分をつらぬくことは とても勇気がいるよ だれも一人ボッチには なりたくないから 誰だって仲のいい友達や家族から見放されるのは 嫌なもんです。 いくら自分の進みたい道があったとしても、 友達を無くしてまで、家族に見捨てられてまで それを貫ぬくことができるかどうか。 その覚悟があるのかどうか。 そう聞かれれば、ほとんどの人はNOと答え、 みんなと寄り添い生きる道を選ぶと思います。 誰も一人ボッチにはなりたくないから。 誰も仲間外れにはなりたくないから。 でも 君はそれでいいの? 夢の続きはどうしたの? 僕を忘れてもいいけど 自分はもう はなさないで でも、本当にそれでいいんでしょうか? (僕を含め)誰もがそうやって自分にウソをつきます。 見たいものだけを見て暮らそうとします。 こんなことを言うのは余計なお世話なのかもしれませんが あなたが見ているのは本当に「自分の人生」なんでしょうか? サヨナラから はじまることが たくさん あるんだよ 本当のことが 見えてるなら その思いを 捨てないで サヨナラ(失うこと)から、はじまること(得られること)が 世の中にはたくさんあります。 本当にやりたいこと・やるべきことが分かってるなら 失うことを恐れず、それに向かって歩んで欲しい。 それこそが【あなたの人生】なのだから。 アメリカの哲学者エマーソンはこんなことを言っています。 恐れていることを為せば、その恐怖は消えてなくなる これは言葉通り、恐れていることそれ自体を経験すれば その恐れが実は大したことではなかったことに気付く、 という意味です。 仲のいい友達が自分から離れていくこと、それ自体は確かに 悲しく辛いことかもしれません。 夢を追うことが友達や家族から見放されることならば それは確かに恐怖だと言えるでしょう。 しかしその恐怖に飛び込むと同時に、あなたは「自分の人生」を 手に入れるのです。 そこで出会う人たちは昔の友達とは全然違うタイプかもしれません。 もしかしたら一緒に飲みにいったり、愚痴を言い合ったり、 そういうことは一切できなくなってしまうかもしれない。 でも。 その時あなたは、もはやそういったことを望む人間では なくなっていることに気付くでしょう。 飲みに行ったり、愚痴を言ったりするよりも 世の中にはもっと楽しいことが沢山あるじゃないか、と。 youtube見て、テレビ見て、mixi見て、下らない話題で ゲラゲラ笑っているよりも、もっと自分にはやるべきことが あるじゃないか、と。 そう思えた時、あなたは「自分の人生」を歩き始めたのです。 「自分の人生」を歩くことがあなたにとって 本当に幸せなのかどうかは僕には分かりません。 人によっては恐怖から逃げてでもいいから友達や家族と 仲良くやっていたい、という意見も当然あるでしょう。 それも1つの道です。 あなたが「他人の人生」を望むならそうすればいい。 ただ、もしそう思うなら覚悟を決めることです。 もう絶対に「自分の人生」なんて追いかけたりしない、と。 今ある不平不満をすべて受け入れて生きていく、と。 「自分の人生」を生きるにも「他人の人生」を生きるにも 必ず決断が必要です。 この決断の恐怖にすら勝てない本当の意味での弱者は キルケゴールが言った 【死にながら生きる人生】 を歩むことになります。 それは、死にたくても死ぬ恐怖にさえ打ち勝てず、 「死」よりも辛い「生」を生き続けることになる、 ということです。 実際、現実を見ればそんな人で溢れてますよね? 彼ら自身は自分が死にながら生きていることにさえ 気付いていません。 「毎日それなりに楽しいし、これでいいんじゃないの」 こうやって自分を騙して続けているのです。 心のどこかでは絶対に「このままじゃいけない」って 思ってるのに。 現実と向き合うには勇気がいります。 しかし、その現実を作り出しているのは自分自身だということを 忘れてはならないと僕は思うのです。 恋人ができない、お金がない、何も取り柄がない・・・ これらはすべて自分が作り出した現実です。 上司の小言がうるさい、周りの友達が信用できない、 何もかもが嫌になって鬱になった・・・ これらもすべて自分が作り出した現実です。 自分が見ているもの、触っているもの、聞いているもの 感じているものは全部自分が作り出したものなのです。 だったら。 それが恐怖だとしても、イヤなものだとしても、 それと向き合うのは当たり前のことだと思いませんか? だって、それをなんとか出来るのは、作り出した本人である あなただけなんだから。 自分で作り出したものを、なぜ恐がるのか。 なぜ自分で作り出したものに向き合うのに勇気が 必要なのか。 それは 現実が自分の強さと弱さ、両方を表しているから です。 コンプレックスを隠そうとする心理と同じように、 人は誰だって自分の弱い(醜い)部分は見たくないし 見られたくないものです。 だから隠そうとする。 でもそれはあくまでも「隠した」だけであって、 「変わった」ワケではありません。 いくらオシャレしたって、お化粧でシミやシワを隠したって、 素顔はボロボロのままなのです。 合コンで彼氏(彼女)を捕まえるぐらいなら それでもいいかもしれません。 やすい男(や女)であれば、その程度でもホイホイ ついていくでしょう。 しかし所詮はそこまでです。 いつか必ず化けの皮は剥がれます。 大人になればなるほど、隠したものを隠し通すことが 出来なくなっていくのです。 そう、数年前の僕のように。 合コンとは全く関係ありませんが、僕は恐らく誰よりも 自分を騙して生きてきた人間だと思います。 何かがあれば全部他人のせいにし、楽な道ばっかり歩いて、 そうやって生きてきました。 それでも学生時代はなんとなかなってたんです。 誰も自分を問い詰める人が周りにいなかったから ごまかしごまかし生きていくことが出来ていました。 しかし社会人になって僕の化けの皮は剥がされます。 当然ですが、社会では何も他人のせいにすることなど できません。 自分がミスをすれば、自分の責任。 当たり前のことです。 当たり前のことなんですが、そこから逃げてばかりいた 当時の僕にとって、それは当たり前ではありませんでした。 何かが起これば言い訳ばっかりして、自分の責任を 認めようとしませんでした。 しかも性質の悪いことに、僕はそれのどこが悪いのかすら 気付いていなかったのです。 そういう状態でしたから、何度怒られても同じことの 繰り返し。 毎日毎日、なぜだか分からないけど怒られ続ける 地獄のような日々が続きました。 ただ僕にとって幸運だったのは、そうやって何度も何度も 怒り(叱り?)続けてくれる上司がいた、ということでしょう。 そんな状態が2年ほど続いたある日。 僕にも転機が訪れます。 具体的な話はワケあって出来ないのですが、要は 「自分の人生なんだから自分でなんとかしなきゃいけない」 という当たり前のことを自覚する瞬間がきました。 その瞬間から僕は「死にながら生きる人生」ではなく 「自分の人生」を歩き始めたのです。 自分で言うのも何ですが、そこからの成長の加速は 著しいものがあります。 僕は専門学校しか出てないし、その専門も音楽という 勉強からは程遠い世界を歩んできた人間ですが、 この程度でいいなら「自分の人生」歩くだけで 自動的になれます。 自分で勝手に色々やって勝手に成長するようになるんで。 ただ、自分の成長に伴って「普通の」友達は減りました。 どこまでを友達と呼ぶのかは微妙なラインですが、 僕にとっての「普通の」友達は今や片手で数えられる程度しか 残っていません。 まあ寂しくないと言えばウソになりますが、 寂しさ以上に今は楽しさの方が大きいです。 「普通の」友達が減った代わりに「変な」友達は増えましたから。 その辺は詳しく話し出すと長くなるので割愛しますが、 「自分の人生」を歩くっていうはそういうもんだと 思って下さい。 「自分の人生」か「他人の人生」か、はたまた「それ以外」か。 どれを選ぶかはあなたの自由です。 ちゃんと自分と向き合って、決めて下さいませ。 汝、自身であれ エマーソンの言葉です。 敢えて意味は説明しませんが、覚えておいた方が いいと思います。 ではでは。 ...more»
勉強とは何か
  ここ数週間にアップされた記事は、こちらの諸事情により 削除させて頂きました。 勝手でごめんなさい。 あれらの記事は気が向いたらレポートにして配布しようと 思っているので(もちろん無料で)、必要な場合は、 それまで待っていてもらえればと思います。 さてさて。 今回はこのブログのある意味「肝」とも言える 【勉強】についての記事を書いておこうと思います。 勉強って言っても別に「もっと勉強しやがれ、この野郎!」 みたいなことが書きたいワケではなく、僕にとって 勉強とはこういうものですよ、というのを書くだけです。 このブログを読む以上は、一応知っておいて欲しいので。 読みながら徒然と考えてもらえればと思います。 みんなの大嫌いなお勉強。 周りを見ても僕ぐらい異常なテンションで(笑) 「勉強が好き」と言ってるヤツはまずいません。 というのは、多分「勉強」の意味がみんなと僕とでは 違うからだと思うんですね。 学生なら宿題やったり、学校の授業を受けたり、テストのために 復習したりすることが勉強だと思っているでしょうし、 社会人なら資格試験の問題集を解いたり、C言語を覚えたり、 ビジネス書を読んだり、セミナーに出たりすることが 勉強だと思っている。 だから勉強が嫌いになるんだと思うんです。 これだと「やること」にフォーカスしちゃってますから。 でも、僕が【勉強】と言うときはもっと広い意味で この言葉を捉えているんですね。 というか、僕の言う【勉強】は行動ではなくて、 態度とか姿勢とか意志とか、そっちの意味の方が近い。 つまり僕が「勉強好き」というとき、それは 「何かを学ぼうという姿勢が好き」ということ なんです。 もっと言えば「そんな自分(や人)が好き」なんです(笑) 例えば、僕にとって【勉強】とはセミナーに出ること ではなくて、どちらかと言えば、セミナーに出て何かを 学ぼうとするその姿勢そのもののことを指します。 学校で言えば、授業に出ることが勉強ではなく、 その授業からちゃんと何かを学ぼうとすることが 【勉強】だということです。 この違い、分かるでしょうか? 世間では「勉強しなさい」と子供を叱る親が多いようですが、 この違いが分かれば「勉強しなさい」と叱ることがいかに 矛盾した行為なのかが分かってもらえると思います。 (もちろん僕の言う意味での【勉強】において、ですが) そもそも【勉強】とは、誰かに「させられるもの」ではなく 自分で「するもの」なんですから。 人生は死ぬまで勉強である 結構こーゆーこと言ってる人って多いですよね。 ググッただけでもいろんなブログでこの手の言葉が 目につきます。 ただ、それって本気で思ってんの?って思うんです。 一時的に「そう思った」だけなんじゃないの?って。 まあ誹謗中傷以外であれば誰がどんな発言をしようが ほぼ自由だと思いますが、ここは敢えて書かせて下さい。 「安易にその手の発言はしない方がいい」 いや、別にいいんです。 別にいいんですけど、ブログで「人生死ぬまで勉強だ」とか 言ってる人に限って何も勉強せずに生きているような気が するんですよね。 生きていることそのものが勉強なんだ、みたいな発想で。 あくまでもこれは僕の考えですが、僕は 人生は生きてるだけなら無駄である と思ってます。 あ、もちろんこれは「勉強」という意味において無駄だ、 ってことね。 人間の尊厳を無視した発言ではないので勘違いなきよう。 話を戻します。 なぜ人生は生きているだけなら無駄なのか。 それは、授業に出て何もしないのと同じだからです。 人生が全て勉強だとするならば、生きている間は ずっと授業中だ、ってことですよね? ってことは、僕の定義で言えば、生きている間は常に 何かを学び取ろうとする姿勢でないといけないワケです。 そうじゃないと人生という名の授業が無駄になっちゃうから。 だから、生きていることそのものが勉強だ、 なんていうのは幻想だと僕は思っているのです。 自転車に乗ってるとき、昼ご飯を食べてるとき、 ギター弾いてるとき、ゲームやってるとき、 カラオケで歌ってるとき、飲み会やってるとき、 どんな時でもそのときを無駄にせずに学べていますか? これが「人生死ぬまで勉強」ということです。 いつどんなときでも何かを学んでいる。 こんなことを実際に実践できている人が この世に何人いる?って話ですよ。 僕だってまだまだこんな域には到達していません。 気が付けばボーっとしてるし、学ぶ姿勢を 忘れているときだって当然あります。 人間だもの(笑) でも、だからこそ、勉強を大事にしてるんですね。 本を読んだり、セミナーに出たりするのも大事ですが、 僕にとってそれ以上に大事なのは、 常に勉強できているかどうか なんです。 何をしていようが関係ありません。 何をしてても学べているかどうかが問題なのです。 歩いてるときでも、テレビを見ているときでも マンガを読んでるときでも、映画を見ているときでも、 トイレに行っているときでさえも、何かを考え、 何かを学び取れているか。 道端に落ちているゴミを見て 「なぜあんなところにゴミが落ちているのか」 「なぜ道端にゴミを捨てる人と捨てない人がいるのか」 「道端にゴミを捨ててしまう人を心理学的に説明できないか」 「大勢の人が見ている前でも人は道端にゴミを捨てられるのか」 「そもそもゴミとは何なのか」 「客観的なゴミというものは存在するのか」 と深く考えられているか。 人生は死ぬまで勉強である っていうのは、こういうことだと思うんです。 読書に励むのもいいですが、たまには何も無いところから 何かを学ぶ訓練、なんてのもやってみてはいかがでしょうか? そこに「勉強が好きになるキッカケ」が隠れているような 気がします。 ではでは。   ...more»
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Fatal error: Uncaught Error: Call to undefined function ereg_replace() in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code:1 Stack trace: #0 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1): eval() #1 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(688): require_once('/home/philosoph...') #2 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(647): load_template('/home/philosoph...', true) #3 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/general-template.php(76): locate_template(Array, true) #4 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/archive.php(151): get_footer() #5 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template-loader.php(74): include('/home/philosoph...') #6 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-blog-header.php(19): require_once('/home/ph in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code on line 1