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京都市立美術館「ダリ展」にて ~よい作品とは何なのか~
見てきました、ダリ展。 シュールレアリズムと言えばダリ、ダリと言えばシュールレアリズム。 ダリとはまさにそういう存在・・・だと勝手に思い込んでいたんですが、 行ってビックリ、その印象は完全にぶち壊されました。 個人的にはシュールレアリズムの作品よりも、ピカソに影響を受けて 描いたキュビズムもどきの絵画や、非常に抽象度の高いもやもやした 炎のような抽象画などの方が「いい!」と感じました。 いや、正確には、彼の作品はすべてが面白く、すべてが違った意味で 「よい作品」なのです。   シュールレアリズムの作品をじかに見て感じたのは、 とにかく魅力的である、ということです。 シュールなモチーフがイラスト的・デザイン的に表現されていて、 「これは家に飾りたいなー」と思わせるような作品になっています。 こういう表現が正しいかは分かりませんが、キャッチーなんですよ。 コピーライティングを絵画に応用するとあんな感じなるのかな、と。 見た瞬間に「素敵!」と思わせる何かがそこにはあります。 彼が超売れっ子だったことは有名ですが、この絵ならたしかに いくらでも売れるわ、と思いました。 その意味で、売れることを第一に考えるならば、彼のシュールな 作品は「よい作品」だと言えるでしょう。   抽象画は抽象画でまた「よい絵画」です。 先程も言いましたが、僕は個人的にはこっちの方が好きです。 というのは、こっちの方が魂が込められている(ように感じる) からです。 フランシス・ベーコンとは少し違った意味で実存的と言えば 多少は伝わるでしょうか。 何を根拠にそう感じるかを言葉で表現するのは難しいですが、 これは以前どこかで言った「動き」があるということだと 思ってください。 僕が見たかぎり、シュールレアリズムの作品にはまったく動きが ありません。 パッと見はすごく素敵なんだけど、ずっと見ていたい作品では なかった。 一方で抽象画の方は、パッと見は地味なんだけれども、 見れば見るほど動きが見え、味が出て、吸い込まれていきます。 この感覚、わかるでしょうか? 「静止画なのに動くワケないだろ!」とか突っ込んでしまう 脳みそだけで生きている人には絶対に分からないことですが、 動く絵はホントに動くんですよ。 それほど多くはなかったですが、ダリの作品の中にも 渦を巻くように動くものや鼓動を打つように動くものが ありました。 本当はどの作品がそう見えたか作品名をメモっておいて、 それを見て確認してもらうのがいいんでしょうけど、 それはあくまでも僕の見方であり楽しみ方ですから、 そういう検証でせっかくの鑑賞を台無しにしないでほしいので、 そこは伏せておくことにします(作品名を覚えてない だけだけど・笑)。   「上手い!」 これがダリの作品を僕なりに一言で言い表したものです(笑) 上手いことが絵画のすべてだとはまったく思いませんし、 何をもって上手いとするかも人それぞれだと思いますが、 やっぱり上手いに越したことはないよなー、とは思います。 彼のノウハウ本を読めばわかることですが、彼は絵画の技法に やたらと詳しいですし、いろいろ自分なりの実験をしています。 その本には適切な昼寝の仕方とかも書いてありますからね(笑) (ちなみに『私の50の秘伝』っていう本です) 一世を風靡し、アートの歴史に堂々と名を刻んだ彼とて、 やはり天才ではなかったのです。 ダリの作品が一度にたくさん見られる機会はそう多くはないと 思いますので、もしお時間に余裕があれば行ってみるといいと 思います。 彼の絵なら、絵画を好きになるキッカケになるかもしれませんしね。 それでは。 ...more»
京都市立美術館「京都市立芸術大学作品展」にて ~ギャップの作り方~
ども、ペスです。 誰も僕の誘いにのってくれなかったので、今回も一人で見に行ってきました。 たまには同じ趣味を持った人と話したいなー、と思ってたんですけどね。 どうやら僕は嫌われているようです(笑) まあそれはともかく。 この作品展は行ってよかったと思います。 学生の作品とは思えないようなレベルの高い作品もいくつかあったし、普段見慣れない プロダクトデザインなんかの作品が見れるのも、こういう展覧会のいいところです。 僕は去年、大阪成蹊大学芸術学部の卒業制作展を見に行ったのですが、そのときから この時期におこなわれる大学の作品展や卒業制作展のファンになりました。 この手の展覧会は、作品の良し悪し云々よりも、純粋に面白いのです。 京都市美術館では今後ゴッホやリヒテンシュタインのベタな展覧会が控えていますが、 面白さという点では確実にこっちの方が上です。 千円以上もお金を払って価値の分からない作品を見るよりも、タダで面白い展覧会を 見る方がよっぽど価値があると僕は思います。   世界的に権威のある素晴らしい作品を集めた展覧会が、必ずしも素晴らしい展覧会とは 限りません。 逆に、無名の作家や作品ばかりを集めた展覧会が、必ず下らない展覧会なのか というと、そうでもありません。 展覧会の面白さというのは普通のビジネスと同じで、ギャップから生まれます。 学生の作品展では、 「学生なのにこんな作品が作れるのか!」 というギャップが、面白さを生み出しているのです。 以前、僕が「もの派」の作品に衝撃を受けたという話をしましたが、あれも僕の中に 大きなギャップがあったからです。 「どうせ下らないんだろうな」と思って見に行った作品が、なぜか強烈に僕の心を ゆさぶったことによって、その常設展は僕にとって忘れられないものとなりました。 つまり、良い意味で期待を裏切ってくれる展覧会こそが、素晴らしい展覧会なのでは ないだろうか、ということです。   聞けば当たり前のことなのですが、この当たり前のことをやっている展覧会は驚くほど 少ないです。 ギャップというのは、人それぞれにポイントが異なるものですから、万人にとっての 素晴らしい展覧会を作ることは不可能だと思います。 ただ、来館者の半分、いや、3分の1ぐらいの人にギャップを感じさせるような 展覧会であれば、ある程度意図的に作ることができます。 ギャップの作り方はいたってシンプルです。 「ゴッホなのに・・・」 「ピカソなのに・・・」 「デュシャンなのに・・・」 そういうものを考えるということです。 ゴッホの展覧会でゴッホの作品をそのまま展示するなんてのは、普通過ぎて何の 面白みもありません。 だったら例えばゴッホのような歴史的価値の高い作品を横向きや逆さに展示して 違った作品に見えるようにしてみるとか、裏向きに展示して絵を裏から見せるとか、 あえて照明を暗くして作品を印象を変えるとか、手が届かないぐらい上に展示して 子供の視点を体験させるとか(これは実際やっている美術館があります) そういうことをやってみてほしいのです。 これは一部の関係者からは反感をかうでしょうが、僕なら絶対に見に行きます。 だって面白そうじゃないですか、単純に。 たったこれだけのことで、面白さは生み出せるのです。   しかし、たったこれだけがなんとも難しい。 美術館のような公共の持ち物を管理している人たちは、だいたい頭の固い人ですから、 そう容易には奇抜なことはさせてくれません。 というか、そういう人に限らず、凡人はみんな保守的でリスクばっかりを気にして いますから、なんやかんや理由をつけて、新しいことには反対するのです。 美術の権威が下がるとか、ファンから苦情が来るとか言って。 けれども、そんなのはやってみなけりゃ分かりません。 今のまま平凡な展覧会を繰り返しても、どうせ来館者は減っていくばかり なのですから、やるだけやってみればいいのです。 失敗するかもしれませんが、失敗すればそこからまた別のアイデアが浮かびます。 それは現状維持よりも、はるかに価値のあることです。 僕の知るかぎり、まだどこの美術館もこんな新しいことはやってませんから、 今からやればパイオニアになれます。 そんなチャンスは今しかないのです。 だったら、もうやるしかないですよね。   ゴッホやピカソや印象派などのネームバリューで客を集められるのは今だけです。 みんなバカじゃないんだから、何回か行けば、そんな展覧会が面白くも なんともないことぐらいは分かります。 また、素晴らしい作品を展示するのは美術館であれば当たり前のことです。 そんなのは単なる前提であって、そこを満たしたからといって何ら自慢やウリには なりません。 だからこそ、そこから一歩進んだギャップが必要なのです。 「何を見せるか」ではなく「どう見せるか」。 「何を展示するか」ではなく「どう展示するか」。 それが今の時代に求められていることなのではないでしょうか。   ...more»
美術鑑賞のお誘い
ども、ペスです 突然ですが、僕と一緒に京都市立芸術大学の作品展を見に行きませんか? たまには誰かと見に行くのも面白いかなー、と思いまして。 作品展の日程は2月13日(水)から2月17日(日)まで。 見に行く日はそちらに合わせます。 気が向いたら info●philosophia-style.com (●は@へ変換) かブログ上部の問い合わせからメールを送ってくださいませ。 詳細はその後に決めましょう。 ちなみに、申し込みがなくても一人で行ってきます(笑) 今回はそんだけ。 日程が迫っているので、行く場合は早めにご連絡くださいませ。 ではではー。     ...more»
京都市立美術館「須田国太郎展」にて ~美術鑑賞の行動経済学~
ども、ペスです。 以前、京都市美術館で日展を見た際に「須田国太郎展」も一緒に見てきました。 本当はこっちがメインだったんですが、これといって話すことが思いつかなかったので、 今まで延び延びになっていた、という感じです。 たまにはそーゆーこともありますよ、人間だもの。 そういえば今年の春は京都市美術館でゴッホとリヒテンシュタインを同時開催する ようですね。 これについては色々言いたいことがあるんですが、それはともかく、定評のある作家の 作品を一気に見るには良い機会だと思います。 気になったら行ってみるといいかもしれません。   さて、須田国太郎展の話です。 失礼な話なのですが、僕は須田国太郎という人物をまったく知りません。 この展覧会を知るまで名前も聞いたことがなかったし、彼の絵を見たあとも特に何も 調べていません。 調べていないのは僕の単なる怠慢なのですが、そんな情報は無くても作品の 良し悪しは分かります。 以前から言っているように、作品の良し悪しを判断するには自分の感覚に頼るしか ありません。 作家の活動歴や人物像を知るのはもちろん大事ですが、その情報が作品に 反映されているということを“感じ取る”には、やはりそれを捉える感覚が 必要なのです。 こう言うと大体の人は 「感覚って言われても・・・」 みたいな感想を持つと思います。 言いたいことは分からないでもないけど、どうすりゃいいのよ、と。 これについては今までいろんな解説をしてきましたが、今回はこれまでと違った視点、 行動経済学という視点を導入して、 美術の良し悪しを判断することはいかにして可能か ということを出来る限り科学的に解説してみようと思います。 この時点では意味が分からないと思いますが、期待してもらって構いません。 あなたの美術鑑賞、いや、生き方は今日から変わりますよ。   まずは行動経済学の基本概念を学んでおきましょう。 今からお話する内容で最も重要な概念はシステム1とシステム2と呼ばれるものです。 システム1とは、直感や感情、衝動、感覚、価値判断といった自分では意識的に 制御できないものを指します。 例えば誰かを好きになった場合、その「好き」という感情はわれわれには絶対に 制御できません。 たまたま変な場面に遭遇してその人を嫌いになることはあっても、意識的に感情を コントロールして「好き」を「嫌い」に変えることは出来ないはずです。 もちろんその逆も然りですし、他にも「美しい」と思ったものを無理やり「醜い」と 感じるように感情を操作することは出来ません。 表面的に「醜い」と言い張ることは可能ですが、それでも自分の心は「美しい」と 感じ続けています。 そういう無意識的に生まれてくる自分でも操作不可能な直感や感覚などのことを システム1と言うワケです。   われわれは日常生活のほとんどをシステム1に委ねています。 それは自分の行動を思い返してもらえれば分かるはずですが、 今あなたがこのブログを読んでいるのだって、恐らくシステム1の仕業です。 その証拠に、あなたはブログを見にきた理由を自分でも知らないはずです。 「更新されたから」とか「面白いから」とか、そういう理由はあるかもしれませんが、 その理由がそもそもシステム1ですよね? 更新されたから、なんとなく見にきた。 面白いから、なんとなく見にきた。 そこに明確な目的や意図、もしくは見なければならない理由などは無いと思います。 要は感覚的に、感情的に、衝動的に、なんとなく見たいから、あなたはこのブログを 見にきているワケです。 あなたのシステム1は間違いなく優秀です(笑) ちなみに今の話は良いとか悪いとかはまったく関係ありません。 こんな感じでわれわれは日常のほとんどをシステム1の判断(感覚)に任せて 生きているということを言いたかっただけですので、単なる事実として 捉えておいて下さい。   システム2とは、論理的思考や選択、行動などの自分で意識的にコントロールできる (と思っている)ものを指します。 この記事を読んだり読まなかったりすることは誰でも自由にできます。 また極端に難しいことでなければ、字を書いたり、計算したり、数を数えたり、 投票したり、買いたい商品を選んだり、一定の条件で商品を振り分けたり、 といったこともできるでしょう。 それらはすべてシステム2に属するものです。 このシステム2はシステム1を自覚し、それを自分が望む方向に矯正していくことが できます。 「好き」という感情を生み出すのはシステム1ですが、それが「好き」であると 自覚するのはシステム2の役割です。 システム2はシステム1の生んだ「好き」という感情を抑えつけるために、その相手と 顔を合わさないようにしたり、メールアドレスを変更したり、遠くに引っ越したりする ことができます。 システム2は「好き」を直接「嫌い」に書き換えることはできなくても、「好き」という 感情が減衰するような対応を取ることが出来るワケです。 しかしシステム2は基本的に怠け者で、それを働かせるためには努力(注意力)が 必要です。 普段多くの人が自分の感情や価値判断(システム1)に何の疑問も持たない (自覚していない)ことからも明らかなように、システム2は意識的に注意しなければ 働きません。 例えば「自分はなぜその商品が欲しくなったのか」なんてことは余程ビジネスに関心が ある場合にしか考えないはずです。 考えない理由は大体「面倒臭い」とか「考える意味がない」とか「考えるという発想すら 無かった」とか、そういうものだと思います。 そんな感じでシステム2というのは意識しておかないと楽なことばかりを選ぶのです。 まったく、誰に似たんだか。 システム2に関してはこんなところです。   なんとなくシステム1とシステム2については分かってもらえましたか? まあ分かってなくても進んじゃうんですけどね。   もうお気づきかと思いますが、美術鑑賞というのはシステム1の仕事です。 われわれが作品を見たときにわれわれのシステム1がそれを「美しい」と感じたり、 「この作品には価値がある」という価値判断を行ったりするワケです。 それは先に言った「感覚で捉える」という言葉からも明らかでしょう。 しかし重要なのはここからです。 だったら、どうして特定の人にだけ「この作品は素晴らしい」という感覚や 価値判断が引き起こされ、それ以外の人には起こらないのか、ということです。 これは考えればすぐに分かることなのですが、人それぞれシステム1の能力に差が あるからです。 システム1の能力は人によって違います。 優れたシステム1を持っている人は、体操選手のように考えなくても感覚でくるくる 回れたり、ボクシング選手のように条件反射的にパンチをかわせたり、サカナくんの ように「ぎょぎょっ!」とか言いながらお魚と話しができたり、そういうことができます。 ホントなら凄いよね、サカナくん。 ぎょぎょっ。 それらはすべて、最初はシステム2で意識的に繰り返されていたことです。 例えばあなたも最初からパソコンのキーボードをすらすら打てたワケではないと 思います。 最初はシステム2で基本ポジションみたいなものを習って、キーボードの文字の位置を 確認して、1つずつ文字を意識しながら打っていたはずです。 それが何ヶ月か続けているうちに体に染み込み、システム1として特に意識することなく できるようになった。 システム1とシステム2にはこういう関係があるワケです。   しかし、それは今紹介したような技能や特技に限った話ではありません。 われわれが日々の生活の中でなんとなく繰り返していることは、知らない間にすべて システム1に組み込まれて、それを強化していきます。 ここが今回の最重要ポイントです。 自分の日常を振り返ってみれば分かると思いますが、何か明確な意図や目的をもって 意識的に行動することはかなり稀なはずです。 なんとなくフェイスブックを見て、なんとなくニュースサイトを見て、なんとなく テレビを見て、なんとなく安い物を買って、なんとなくお菓子を食べて、なんとなく ゴミを捨てて、なんとなく働いて、なんとなく食器を洗う。 ほとんどの人はこういう生活をしていると思います。 この何の意図も目的もない「なんとなく」というしょーもない生活の繰り返しが、 しょーもないシステム1の“しょーもなさ”を強化しているのです。   システム1が美術鑑賞の質を左右するのならば、多くの人に美術の良し悪しが 判断できないのは、しょーもないシステム1しか持っていないからです。 残念ですが、しょーもない人間のしょーもないシステム1には作品は何も応えて くれません。 そういう人はシステム2で「きれい・汚い」や「上手い・下手」といったこと捉えるのが 精一杯でしょう。 確かにそれも必要なことですが、それは感覚で捉えることとは別の話。 作品を感覚で捉えられるようになるには、その作品を見るに相応しい“生活”をする 必要があるのです。 それは「大豪邸に住まなければならない」とか「お金持ちでなければならない」という 一般人が考えるような下品な意味ではまったくありません。 むしろそんなのは邪魔です。 大事なのは毎日を“丁寧に生きる”こと。 それだけです。 たったそれだけで歴史に残る美術から誰よりも多くのことを得られるようになるの ですから、安いもんですよね。 お金も一切かかりません。 そうだと分かれば、あとはやることをやるのみ。 今年の抱負は「丁寧に生きる」にしましょう。 結果は僕が保証します。   追伸1: あ、そうそう。 「丁寧に生きる」の意味が分からなくても僕に聞かないで下さいね。 そうやって人に聞けばいいと思って甘ったれてるから、ダメなんですよ。 今のままでは仮に僕が答えを教えたとしても、あなたには丁寧に生きることなんて できません。 断言できます、絶対に無理です。 「丁寧に生きる」とは何なのか。 まずはそれを考えることからやって下さい。 それが丁寧に生きることの第一歩です、いや、マジでね。 ヒントは記事の中にありますから、それこそ“丁寧に”読めば分かります。 もし答えを知りたいなら、自分なりに答えを考えてから 「私は・・・だと思うんですが、どうでしょうか?」 という感じでコメントするか、僕に直接メールを出して下さい。 別に出し惜しみしているワケではないので、やることさえやってくれれば、いくらでも お教えします。 あとはご勝手にどうぞ。   追伸2: 「須田国太郎と何も関係ないじゃないか!」というツッコミは受け付けません。 いつものことじゃないですか(笑) 気にしない、気にしない。 ひとやすみ、ひとやすみ。   追伸3: 今回のような行動経済学の話に興味があれば ダニエル・カーネマン著『ファスト&スロー』(早川書房) という本を読んでください。 ご存知のように、僕は普段あまりオススメの書籍を紹介したりはしないのですが (それには明確な理由があるのですが今は割愛)、この著書と『大衆の反逆』に限り、 万人に必読だという理由でオススメします。 上下巻合わせても、たかだか4千円程度です。 新年会を1回削って買う価値は十分にあります。 ぜひ買って読んで下さい。 人によっては、人生が変わるほどのものが得られると思いますよ。     ...more»
京都市立美術館「第44回日展」にて ~伝わる作品とは何か~
ども、ペスです。 京都市立美術館で12月15日から始まった日展を見てきました。 日展を見たのは今回が初めてでしたが、ぶっちゃけ、もう行かないと思います(苦笑) 同じ団体展でも先日見た「行動展」とは違い、感じることは何もありませんでした。 俗に言う「キレイな作品」や「上手い作品」はたくさんあったし、技術的にはどれも 優れていると思います。 普通に見れば、何の問題もない作品ばかりに見えるでしょう。 しかし、それは問題もない代わりに突出したものもない、ということを意味しています。 保守的で、無難で、殻に閉じこもったものばかり。 それが僕の目から見た日展の作品群なのです。 工芸部門の作品からは多少新しいものも感じましたが、絵や彫刻はガチガチに枠に はまっており、ほとんどそこから抜け出せていません。 だから日展の会場には年配の方ばかりが集まるのでしょうね。 演歌や落語と同じ理屈です。 歳をとるほど見慣れたものや聞慣れたものにしか近寄らなくなる、つまり保守的に なっていくのです。   美術にはいろんな作品があっていいと思います。 定番のものもあれば、斬新なものもある。 それは大事なことです。 ただ、古いか新しいかにかかわらず、作品を作る以上その態度は 積極的であるべきです。 もう少し分かりやすく言えば、 「この作品を作らずにはいられない!」 「なにがなんでも作りたい!」 という気持ちがなければならない、ということです。 その気持ちがあって、初めて「キレイな作品」でも「上手い作品」でもない 「伝わる作品」 が生まれます。 脳みそが何年も冬眠し続けている人には分からないでしょうが、伝わる作品と 伝わらない作品というのは、見る人が見れば分かるのです。 参考までに、見分けるコツを紹介しておきましょう。 作品を見る際に、すべての思考を停止して、極力見ることにだけ集中すること。 絵を見ているという感覚にだけ意識を向けること。 これをやってみて下さい。 どのレベルで出来るかにもよりますが、少なくとも下手な解釈をするよりかはよほど 素直に作品を見ることができるはずです。 よく「感覚を研ぎ澄ます」なんて言葉が使われたりしますが、それに近いものだと思って もらえればいいと思います。 例えばどこでもいいので目を閉じて歩いてみて下さい。 今まで感じなかった微細な感覚を足の裏に感じませんか? 理屈としてはそれと同じです。 感覚とは、特定の感覚を鍛えることによって伸ばすのではなく、他の不必要な部分を 閉じることによって浮き出てくるものなのです。   以上のことから、「伝わる作品」とは、われわれの余計な感覚を刺激しないような 作品である、ということが分かります。 作品の方からわれわれを見ることに集中させるように仕向けてくる。 つまり、われわれが見ることに集中せざるを得ない作品こそが「伝わる作品」なのです。 その意味では、今回の日展で展示されているような伝わらない作品には、雑念が多く 含まれていると言えます。 作品はキレイでも、表現されているものが雑なのです。 気持ちがぼやけていると言えば、なんとなくでも伝わるでしょうか。 なぜか見ていても気がそれてしまう。 これは文章も同じで、読んでいて気持ちが他に気移りしてしまうようなものは、 「伝わる文章」ではありません。 先を読みたくて仕方がない。 この作品から目が話せない。 そういう鑑賞者や読者を魅了する物語性が「伝わるもの」には含まれています。 だからこそ、そこに込められた気持ちは伝わらざるを得ないのです。   「伝わるもの」は見る側と見られる側の良好な関係があってはじめて生まれてきます。 見る側の受け取りたいという気持ち。 見られる側の伝えたいという気持ち。 この両方が揃わなければ「伝わるもの」は生まれないのです。 両者の関係は可能な限り対等でなければなりません。 良好な関係というのは、どちらかに偏ったり依存したりしないものだからです。 お互いに同じぐらい尊敬し合っている。 お互いに同じぐらい愛し合っている。 お互いに同じぐらい思い合っている。 それが僕の思う良好な関係です。 この関係があって、はじめてお互いに気持ちが通じ合います。 作品と鑑賞者の関係もこれと同じ。 伝えたい気持ちと受け取りたい気持ちが均衡する場所にだけ、「伝わる作品」は 現れるのです。   ところで、気持ちって何なんでしょうね(笑)   ...more»
京都市立美術館「行動展67th」にて ~普通という罪~
ども、ペスです。 相変わらず(?)結構な数を集めている大エルミタージュ美術館展を横目に、 2階の展示室で行われている「行動展」なるものを見てきました。 美術館でこういう団体展を見るのは初めてだったんですが、エルミタージュよりも よっぽどこっちの方が見ていて面白いと思います。 正直なところ、この手の団体展も「もの派」のときと同様、いや、それ以上に なめていた部分があったんですが、それはまったくの偏見だったと認めなければ なりません。 実際は素晴らしい作品ばかりで、むしろ今まで見た展覧会の中でも 上位に入るぐらいの勢いです。 あれだけの作品を、あれだけの人が作れるということ。 そこに日本の美術の底力を感じました。   しかしながら、底力というのは、何かが起こらないとその力が発揮されない という意味で虚しい力でもあります。 団体に属し、群れて活動しなければ、発表の場も見に来てくれる人も確保できない。 あれだけ素晴らしいものを作っているのに、その良さを知っている人はほとんどいない。 この状態を底力が発揮されていると解釈するのは、かなり無理があります。 彼らのハードルはあまりに低いため、彼らは底力を「使うまでもなく」、 自らを追い込むことなく、満足できてしまうのです。 それが必ずしも悪いワケではありませんが、そのことが底力を底力のまま 終わらせてしまっている1つの原因だとしたら、日本の美術にとっては 大きな痛手になっていると言わざるを得ません。 底力とは、自らを追い込まなければ発揮されない力であり、発揮されなければ その力は無いのと同じなのです。   繰り返しになりますが、彼らの作品はどれも素晴らしいです。 僕に褒められて嬉しいかどうかはともかく、少なくとも美的センスは 抜群だと思います。 しかし、彼らはその実力を世に活かしていないという意味で非常に虚しい。 宝の持ち腐れとは、まさにこのことです。 それも1つの人生だと言ってしまえばそれまでですが、 そのことで世界が見えない損失を被っているとすれば事態は深刻です。 例えば手塚治が鉄腕アトムという作品しか生み出さなかったなら、 われわれの損失がどれぐらいになるかは計りしれません。 手塚治のような実力のあるマンガ家が火の鳥やブラックジャック、 ジャングル大帝、その他いろいろな作品を生み出してくれたからこそ、 われわれはそこから多くの利益を得ることができているワケです。 実力のある人が実力を発揮せずに人生を終えることは、 われわれが得られたはずの利益を得られない、 つまりそれは実質的には損失なのです。 だからこそ、われわれはこのことを深く自覚しておく必要があります。 自分が普通の人として(為せるはずのことを為さずに)生きることは、 世界にとって大きな損失なのだ、と。 ここにリスク回避の意識が働いたとき、はじめて世界のリスクは 回避されるのです。   底力が発揮されていないとは言っても、僕は彼らが作品に対して手を抜いているとは 思いません。 見れば分かりますが、あれらは手を抜いて作れるような作品ではありません。 けれども、彼らは作品制作以外の部分でいろんな妥協をしているのです。 例えば好きなときに好きなだけ作品を作ることだったり、 自分の個展を開くことだったり、作品を売って生きていくことだったり、 美術館に自分の作品が収蔵されることだったり、そういう部分を諦めている。 だから実力に結果が伴っていないのです。 僕が見る限り、彼らには第一線で活躍できるだけの実力があります。 今回の展覧会でも、お世辞抜きで、美術館に収蔵されていてもおかしくない作品は たくさんありました。 しかし、それだけ実力があるにもかかわらず、彼らには自信がありません。 だから彼らはその実力を使って生きようとしない(生きようとしてこなかった) ワケですが、これがホンモノとそうでない人を分かつ大きな違いです。 彼らが一流の実力を持っているにもかかわらず一流になれないのは、 彼ら自身が自分を一流だと信じることができていないからなのです。 もし自分が一流だと本当に思っているのなら、その実力を使えば生きていける (それこそが一流だ)と思うはずだし、本当に心からそう思っているのなら 実際にそうやって生きているはずです。 けれども、現実はそうなっていない。 つまり彼らにはそうするだけの自信がないのです。   どんな人間も最初は自分を疑っています。 「本当に自分はこれで食べていけるんだろうか」 「作品は売れるんだろうか」 そういう不安が襲ってくるのは真剣に取り組んでいるのなら当然のことです。 しかしホンモノは、その恐怖に立ち向かっていきます。 何度も襲ってくる周りの忠告や自分への疑いを振り払い、必死に作品を作り、 そうやって生きることで彼は彼を一流たらしめているのです。 自分を信じるとは、自分への疑いを断ち切ることです。 個展を開いてファンを獲得することで「誰も見てくれないかもしれない」という 疑いを断ち切り、作品が売れることで「売れないかもしれない」という疑いを 断ち切る。 この連続でしか自信は得られません。 つまりホンモノは自信があるから始めるのではなく、始めているから 自信があるのです。   最初に言ったように、彼らのハードルは低いため、彼らはホンモノとして 活動することなんて考えていないと思います。 その意味では、ここで僕の言ったことというのは彼らにとって大きなお世話でしょう。 しかし、実力のある人がその実力を発揮しないまま人生を終えることは、 それだけである種の罪だということを分かって欲しいのです。 イチローが社会人草野球のエースで一生を終えたり、 石川遼が社会人ゴルフコンペ優勝で満足したり、マイケル・ジャクソンが 巷の人気ダンサーで満足したりしていたとすれば、それはわれわれにとって 大きな損失です。 もっと極端な例を出しましょう。 アリストテレスが、ニュートンが、アインシュタインが、デカルトが、 エジソンが、ジョブズが、自らの実力を過小評価して、普通の人として一生を終え、 あれらの発明や発見をしなければ、われわれはどうなっていたでしょう? それはもはや単なる罪では済まされないのではないでしょうか?   僕が言っていることは「実力を活かさないのはもったいない」というレベルの 話ではありません。 僕は 「実力を活かさないことは罪だ」 もっと言えば 「普通に生きることは罪だ」 と言っているのです。 もし今われわれが過去に戻れたとして、エジソンやジョブズを連れ去って 普通の人間に育てたとしたら、それは大きな罪になるはずです。 そんなSFみたいなことは有り得ないと思っているかもしれませんが、 今この瞬間にわれわれはそれと同じ罪を犯しているのです。 われわれが生み出せるはずの何かを、自ら諦めることによって。 このことを少しでも多くの人が自覚すれば、美術も世界ももっと良くなって いくはずです。 途方もない話だと思うかもしれませんが、頭の片隅には置いておいて下さい。 いつかきっと役に立ちますから。   ...more»
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