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Tag archives for 二元論

近代(単語帳)
近代とは、啓蒙思想と主権国家体制により神の絶対性が失われた時代のことです。 年代で言えば17世紀頃から19世紀頃を指すことが多いですが、人によって意見が 異なるため厳密に何年から何年ということは断言できません。 近代の特徴としては、デカルトの大陸合理論に代表される合理主義や(物心)二元論、 そして合理主義から派生的に生まれた科学主義、要素還元主義、自由主義、人権思想、 民主主義、決定論、単純進歩史観などが挙げられます。 例えるなら近代建築あたりが分かり易いでしょうか。 直線的で左右対称で無機的、合理的で無駄がなく、機械的で再現性が高い。 こういうのが近代と名のつくものの特徴です。 例外的に「モダン焼き」みたいなものもありますが(笑)、あれは多分言葉の響きだけで 付けた名前だと思うので、あんまり深い意味はないんじゃないかな、と。 だったらいっそのこと「デカルト焼き」にして欲しい、と思うのは恐らく僕だけ でしょう(笑)   それでは、ここからはザックリと近代化の流れを見てみることにしましょう。   中世の世界では神が絶対的な根拠であり、どんなことが起ってもすべて「神の意志」で 片づけられていました。 リンゴが落ちるのは、神の意志が働いているから。 植物が育つのは、神がそうなるようにしたから。 人間が存在するのは、神が人間を創ったから。 こういう今から考えれば根も葉もない根拠の上に世界が成立していたワケですが、 それでも世界はなんとか無事に回っていました。 ところがある時、ガリレオ、ニュートン、コペルニクス、ケプラーという世界の運命を 揺るがす4人が現れます。 彼らはあまりに敬虔なクリスチャンだったため、彼らの信念は 「神が世界を創ったのなら、それは美しいに違いない」 という一般的なクリスチャンの信念から飛躍して 「世界が美しいなら、それは数式で表せるに違いない」 という信念にまでいたったのです。 その信念から彼らは世界を数式化し始めます。 それによって地動説やニュートン力学が生まれてくるワケですが、それをわれわれは 科学革命(Scientific Revolution)と呼ぶワケです。 ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で示したように、 熱烈な信仰というのは、それとは一見何の関係もないものの発展に寄与することが 案外多いようですね。   このあと彼らは、努力が報われるどころか、教会から危険人物のレッテルを貼られて しまうことになります。 この時代、さっき挙げた4人以外にも偉大な功績を残した敬虔なクリスチャンはたくさん いたと思われますが、そういった人たちは教会に消されてしまったのです。 ではなぜ教会は彼らに危険人物のレッテルを貼ったのでしょうか。 それは彼らの発見した数式が、のちのちに教会の(神の)地位を危うくすることが 分かっていたからです。 この頃はまだまだ神は絶対であり、だからこそガリレオやニュートンらはその神を 追い求めて多くの数式を発見したワケですが、その理性的な行為こそが100年・ 200年の時を経て、神を殺す要因となるのです。 もちろん当時の彼らがそんなことを知っているはずもありません。 けれども、教会は分かっていた。 だからこそ教会はその芽をいち早く摘もうとしたのです。   ところで、科学革命がじわじわと起っていた頃、人々の心にも変化が起っていました。 ホッブズ、ロック、ルソー、ディドロ、ダランベール、ヴォルテールといった 啓蒙思想家と呼ばれる人たちが現れ、周りの人々に対して啓蒙を促し始めたのです。 啓蒙とは、自らの理性の力で世界を切り拓く、ということ。 「存在するかしないかも分からないような神に頼ってないで、自分の理性を信じて何事も 自分の力で解決していこうじゃないか」 と言ったかどうかは知りませんが、彼らはそんなことを人々に説いてまわりました。 今のわれわれの感覚からは信じられないかもしれませんが、当時の人々は自分に自分の 人生を変える力があるとは誰も思っていませんでした。 貴族はずっと死ぬまで貴族、農民はずっと死ぬまで農民、それが普通だったのです。 「このとき、社会に不平等と貧困はあったが、精神の頽廃はなかった」 とトクヴィル(トゥクヴィル?)が言っているように、これが普通だったからこそ、 彼らは自ら理性の力で自分の人生を動かす必要はなかったし、動かそうという発想すら なかったのです。 しかし、啓蒙思想家の説教を聞いたことで、彼らは気付いてしまいます。 「生まれた家は確かに違うけど、みんな同じ人間じゃないか」 ということに。 ・・・みんな同じ人間。 この今では当然すぎる発想が生まれたのはこの頃です。 みんな同じ人間だから分かり合えるはず。 みんな同じ人間だから平等じゃなきゃだめ。 みんな同じ人間だから理性的能力も同じ。 こうした発想から自由主義や個人主義が生まれ、それが人権思想になり、市民革命 (フランス革命など)が起るにいたったワケです。   上記2つの革命の行き先を考えると、科学革命は科学的知識を急速に発展させ、 市民革命は個人主義や自由主義から資本主義の精神を育んだ、と言えます。 科学的知識の発展は様々な機械を生み、生活を合理化し、資本主義の精神は人間を より貪欲にした。 そしてこの2つが合わさって人類は産業革命という爆発的進歩を達成したのです。   これで科学革命・市民革命・産業革命の3つが出そろったワケですが、話はここで 終わりません。 上の3つの革命だけでは神の絶対性は揺らいでいないのです。 市民革命は神に対してそこそこ大きなダメージを与えている気はしますが、それでも 神を殺すまでには至っていない。 神にとどめを刺すには主権国家体制が必要なのです。 主権国家体制とは、国家に主権を認める(国のことは国が決めていい)ということです。 1648年に決まった30年戦争の講和条約であるウエストファリア条約というのが この主権国家体制というのを定めています。 これによって、それまでは宗教的に内政干渉されまくっていた国も、その国ごとに 宗教的自由を保障され、カトリックだろうがプロテスタントだろうが、はたまた イスラム教だろうが仏教だろうが無宗教だろうがいろんな宗教が入り混じってようが、 国が決めたことに従うだけでよくなったのです。 こうなると神は国ごとに存在したり、存在しなかったり、たくさんいたり、1人しか いなかったりして、絶対的とは呼びがたい存在となります。 ここにきてようやく神の絶対性が失われるワケです。 このことをニーチェは 「神は死んだ」 と表現したワケですが、彼が言ったのは「神は既に死んでいる」ということであって、 彼が神の死に直面したということではありません。 その点は少し注意しておいて下さい。   以上、簡単ではありますが近代化の流れをまとめてみました。 学者が読んだら目玉が飛び出るほど乱暴なまとめですが、学者が読むことはないと 思いますので、そのままにしておきます(笑) 詳しいことが気になったらウィキペディアや関連書籍などを参照しながら、自分なりに 知識を深めていって下さいね。 ではではー。 ...more»
原子力発電と正義
  今回は珍しくメルマガの転載ではなく、ブログオリジナルの 記事を書くことにしました。 メルマガではこの件について既に何度か記事を出しているので 必要な人だけ読んでくれればいいかな、と思いまして。 あまり推敲できていないので、読みやすい文章ではないかも しれませんが、何かの参考にして頂ければ幸いです。 では早速まいりましょう。   ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 原子力発電と正義 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 原子力発電を無くせ、日本に原発はいらない。 巷ではそういう意見が大半を占めているようですが、 実際にその人達がどこまでのことを調べてそんなことを 言っているのかというのが個人的には非常に気になります。 百歩ゆずって、事故が起こるまで何も知らなかった というのは大目に見るとしましょう。 しかし、「原発を無くせ」と言えるだけの根拠と論理を 今現在も持ち合わせていないなら、それは単なる理想論者と 言わざるを得ません。 原発は危ないからダメ、ではまったく話にならないワケです。 もしこの論理で話が済むのなら、車は危ないから廃止、 という論理にも従わないといけないし、農薬は危ないから廃止、 という論理にも従わなければならなくなります。 少し前にホリエモンが 「原発ではまだ人は死んでないんだから、車の方がよっぽど 危ないじゃないか」 ということを言っていました。 この意見に対してネット上では大きな非難の声が上がって いましたが、上の論理に従うならば、彼の言っていることは 正しいワケです。 車は何十万という人を殺しているのに対し、日本の原発に 関係する事故で死んだ人は多く見積もっても数百人程度。 だったら車の方が原発の100倍以上危ないでしょ、と。 つまり彼は「死者数の多さ」=「危険度」という論理で話を しているのです。 ただ、いくら彼の言うことが論理的に正しくても、 この意見に素直に賛成できる人は僕を含めそんなに 多くはないと思います。 なんとなく原発と車を比べるのは違う気がする。 そう思っている人は多いはずです。 その感覚は正しいと思うのですが、にもかかわらず 反論できなかったり他の論理を持ち出せなかったりする辺りが 問題だと僕は思うのです。 原発反対。 それは大いに結構だと思います。 だと思いますが、原発を無くしたら僕らの生活がどういう ことになるか、少しでも考えたでしょうか。 というか“今”原発を無くすと、どういうことになるか。 それぐらいは考えたでしょうか。 北アフリカや中東の情勢を少し気にかけただけでも、 今原発を無くすことが日本にとってどれだけ危険かが 分かると思うのですが、僕の見る限り、そんなことすら 考えずに暴言を吐いている人が多いように思います。 国際情勢に気を向けなくても、現在の日本の状況を踏まえて 考えれば、今すぐ原発を無くすことがどれだけハイリスクな ことか分かるはずです。 原子力発電の費用対効果は火力発電の約2倍。 ウラン価格も中国やインドの需要増加で上がってきてはいますが それでもまだ原子力発電の方が経済効率は高い。 それを一気に無くして火力発電に依存することになったとしたら 単純計算で電気代は約1.5倍になります。 これに加えて原子炉解体までの費用がすべて電気代に上乗せ されますから、それを考えると電気代が2~3倍ぐらいになっても おかしくはありません。 個人はそれで大丈夫だとしても、製鉄所などの電気代が 2~3倍になれば、当然他のものにも影響がでます。 それ以前に火力発電所自体が足りないかもしれない。 (参照:資源エネルギー庁「エネルギー白書」) また別の視点に立てば、原発を顧客としていたウラン濃縮の 工場などで働いている人たちはどうなるのか、ということも 新たな問題として考えられます。 電力会社がスポンサーになっている諸々の企業はどうなるのか。 その諸々の企業の下請けや孫請けの人たちはどうなるのか。 原発からの寄付金で成り立っている村や町はどうなるのか。 そこまで考えれば、今の時点で原発を停止させるということが どれだけ非現実的なことかが分かると思います。 「日本のために原発を止めろ」なんてのは耳当たりのいい 大義名分であって、そこから生まれる被害を考えていない 人間にしか言えない言葉です。 そんなもんは正義でも何でもありません。 もちろん原発を無くせば、人間の体には優しくなると 思いますが、個人的にはそれによって失われる命の方が 遥かに多いような気がします。 資本主義社会を生きる我々にとって、経済性を無視することは 有り得ないと同時に、そんなことは出来ないということを 今一度考えておく必要があると思います。 僕も個人的には原発には反対です。 ただ、それを意固地に叫んだところで現実はそう簡単に 変えられるものではありません。 それは僕の能力が足りなかったり、影響力が足りなかったり するからではなく、さっきから説明しているような事情が 現実には複雑に絡み合っているからです。 社会としての善を選べば、個人としての悪が選ばれる。 逆に個人としての善を選べば、社会としての悪が選ばれる。 現実とはそういうものなのです。 「悪いものは無くせばいい」 油断すると、僕らはこういう非常に危険なことを何の考えもなく 言ってしまったり、やってしまったりすることがあります。 しかし、どれだけ悪いものを消そうとも、そこから善が生まれる ことはないし、平和が生まれたりもしないのです。 今回の話とは関係ないですが、ヒーロー番組に出てくる なんちゃらレンジャーたちは、いつも悪者の怪獣を 「倒し」ます。 そうすると、悪者はまたやり返すために別の怪獣を 送り込んでくる。 その繰り返しで最終的に正義のヒーローは勝つワケですが、 人間的に考えれば、悪者には悪者なりの理屈があり、 怪獣にだって家族がいるかもしれないのです。 なのにどうして「和解しよう」「妥協案を探そう」という 発想がヒーローから生まれないのかが、今になって不思議に 思います。 正義とか悪とか言って戦ってないで、仲良くすりゃ 済む話じゃないか、と。 それが本当の善であり平和であり正義じゃないのか、と。 そう思うのです。 アホらしい話に見えるかもしれませんが、世の中こんなこと ばっかりなんですよ、実際。 人類最大の非合理と言える戦争なんてものがまさにそうで、 相手を全滅させて生まれるのは、新たな戦争の種なのです。 つまり原発も「無くす」という発想より、「上手く付き合う」 という発想に転換した方がより現実的かつ建設的なんじゃないか と僕は思うワケです。 50基は多過ぎだと思いますが、ゼロは多分無くし過ぎです。 だから間を取って25基という単純な話ではありませんが、 我々が上手く付き合える程度であれば、残しておいても いいと僕は思います。 何をもって上手くなのか、というのはまた話がややこしくなるので 今は割愛しますが、そういうバランス感覚が大事だということです。 極右でも極左でもなく、その間で悩み続ける。 そこから僕らの未来は開かれていく。 そんな気がします。 ペス 追伸: 個人的に、高速増殖炉は人類が手を出すには早過ぎると 思います。 ...more»
民主主義国家の末路
  この頃の政局は荒れまくってますねー。 しかし、あの【麻生おろし】ってネーミングは どうなんでしょ?? 仮にも「自分たちが選んだ」日本の代表である総理大臣を あんな風に言っちゃうってのは、ちょっと、ねぇ・・・。 僕はどっちかというとイケてない総理を選んだ方に 責任があるんじゃないかと思う一派なんですが、 どうやら政府の方々やメディアの自覚は薄いみたいです。 そういえば、政局は自民か民主か、みたいになってますけど、 この二元論的な【アレかコレか】という考え方自体が 誤りだということにそろそろわれわれは気付かないと いけません。 もうそんな近代的な時代はとっくに終わったのですから。 今はむしろ【アレはアレ、コレはコレ】という時代。 つまり、決められた選択肢から選ぶのではなく、 自分で正しいと思う選択肢を作り出さなければ ならない時代だということです。 今の日本の政治システムでは決められた選択肢(政党)から 選ぶしか方法はありませんが、それがそもそも既に時代遅れなのです。 また国が地方すべてを一元的に管理しようっていうのも 近代的な考え方ですから、これも時代遅れ。 (今は近代の次、ポストモダンの時代です) 橋本知事や東国原知事なんかはこの辺のことを 危惧しているっぽいですが(だから地方分権を 推し進めようとしているのでしょうが) まだまだ日本の行く末は不安定ですねー。 さてさて、冒頭から珍しく政治ネタに触れたところで 今回は政治の本体である【国家】に関わる話を していきたいと思います。 国家と言えばプラトンです。 プラトンの著作【国家】はあまりにも有名ですね。 読んだことはなくても、名前ぐらいは聞いたことが あるんじゃないでしょうか?? 内容はザックリ言えば 「正義って何なんだろう?」 「個人の正義を考えてたら長くなりそうだから 個人の集まりである国家の正義を最初に考えて それを最終的に個人に当てはめよう」 という感じ。 そんな話が延々会話形式で進んでいきます。 その中でプラトンは民主制(民主主義)について 言及しているんですが、これがねー、なんというか 面白いことに今の日本の状況そのまんまなんですよ。 思わず 「すげーよ、プラトン」 と呟いてしまうほどに、そのまんま(笑) プラトンは民主制について 民主制は、〈自由〉を善と規定する。 他方で民主制は、支配者に従順な者たちを、 自分から奴隷になるようなつまらぬやつらだと 辱しめるだろう。 個人的にも公共的にも賞賛され尊敬されるのは、 支配される人々に似たような支配者たち、 支配者に似たような被支配者たちだということになる。 このような国家においては、必然的に、自由の風潮はすみずみにまで 行きわたって、その極限に至らざるをえないのではないかね? たとえば父親は子供に似た人間となるように、また息子たちを 恐れるように習慣づけられ、他方、息子は父親に似た人間となり、 両親の前に恥じる気持ちも恐れる気持ちもなくなる。 自由であるためにね。 そして居留民は市民と、市民は居留民と、平等化されて 同じような人間となり、外人もまた同様だということになる。 このような状況のなかでは、先生は生徒を恐れてご機嫌をとり、 生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育掛りの者に対しても同様の 態度をとる。 一般に、若者たちは年長者と対等に振る舞って、言葉においても 年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、 面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、 若者たちを真似て機智や冗談でいっぱいの人間となる (プラトン著【国家】下巻より引用) って言ってます。 つまり 「民主制は自分勝手で個性のないバカな人間を生み出す」 ということです。 まさに前回僕が解説した相対主義の世の中そのものですよね? そしてもう分かったと思いますが、民主主義こそが 相対主義を生み出した原因だったということです。 われわれは通常、民主主義国家における自由や平等が 「良いもの」かのような教育を受けます。 社会主義のソ連は崩壊したし、更に社会主義が行き過ぎた 共産主義は中国みたいになってしまう。 だからアメリカやヨーロッパ諸国や日本のような自由と平等が 尊重される民主主義が最も優れた政策なんだ、と。 「最も優れた」とは言わないまでも、それに近いニュアンスで 教育を受けることには違いありません。 しかし、その「良いもの」を突き詰めた結果がコレです。 われわれは自由と平等を手に入れた代償として、 民主主義が堕落した個性のない傲慢で凶暴な野蛮人を生み出す ということを身をもって証明してしまったのです。 かつて、ハイデガーの弟子であるハンナ・アレントは没個性こそが 悪を生むと言い、トクヴィルは多数者の専制(民主主義)と平等が 思いやりのないバカを生むと言いました。 そして、プラトンも何千年も前に現在の状況を予見していた。 民主主義の末路は、それほど自明だったワケです。 さてさて。 民主主義の真実を知ってしまった今、われわれは 何を信じて生きていけばいいのでしょう? 今のままでは日本はバカと自己中と野蛮人の温床と 化してしまう。 いや、もう既に温床だと言ってもいいでしょう。 われわれはこんな人間であふれた世界を 望んではいないはずです。 出来ることなら、賢くて思いやりのある人間で溢れた世界を つくっていきたい。 少なくとも僕はそう思っていますし、ほとんどの人も そう望んでいると僕は信じています。 じゃあ、そんな世界を作るにはどうすればいいのか。 あくまでも僕個人の考えですが、この問題を解決する キーワードとなるのが、エーリッヒ・フロムが 「自由からの逃走」という著書の中で定義している 理性的権威 だと思っています。 理性的権威というのは、尊敬とか感謝とか 人々のそういった感情から生まれてくる権威のことです。 例えば、会社に尊敬出来る上司がいたとしましょう。 仕事は早いし、気遣いも細かい。 気前は良いし、部下にも大人気。 昼ご飯もいつもおごってくれる。 そんな神様のような上司が「この仕事、手伝ってくれない?」 と頼んできて断る人はまずいないでしょう。 これは上司だから断れないという感情もあるかもしれませんが、 それ以上に【この人の頼みなら喜んで!】という感情も あると思うんですね。 そういう感情を起こさせる権威が理性的権威です。 イチローがボール拾いを頼んで断る一般人がいるか、 って話ですよ、要するに(笑) みんな喜んでボール拾いするだろう、と。 この場合、一般人はイチローの理性的権威に服従した、 ということになります。 服従って言うとイメージ悪いですけど、現実には 「喜んで引き受けた」ってことです。 通常、権威とは圧力的でイヤなイメージがありますが、 理性的権威はむしろ喜んで受け入れたくなるような そーゆー感情を引き起こすものです。 さて、この理性的権威が今の時代にどう役に立つのか。 その辺の話は乞うご期待(笑) ではではー。 ...more»
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