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最強の組織の作り方
今回は最強の組織(主に会社)を作る方法をお話しします。 まずは定義の確認から。 最強の組織とは、意志決定が素早く的確で、結果を出せる 組織のことです。 そういう組織を作るには 1.少数精鋭であること 2.優れたリーダーがいること の2つの条件を満たす必要があります(が、逆に言えば たったこれだけで最強の組織が作れてしまいます)。 まず少数精鋭であることの利点は、社内における情報格差が ほぼゼロになることと、個々の意見が部署の考え方などに 影響されずに言えることです。 人数が増えるとどうしても、Aさんは知ってるけど Bさんは知らない、といった情報格差が広がっていきますが、 3人から5人程度の会社であれば、各人の情報格差が 会社の命取りになるので、自然と情報共有は密になるし、 早急に共有されます。 3人しかいない会社で、Aさんしか知らないことが 山ほどあったりしたら、シャレにならないですからね。 また人数の多い会社では総務や営業などの部署があるのが 普通ですが、部署ができてしまうと個人の意見ではなく、 「総務部としての意見」や「営業としての意見」に意見が 偏ってしまいかちです。 自分は個人的にAをした方がいいとは思ってるんだけど、 総務部全体の利益を考えるとBと言っておいた方がいい、 みたいなことが起こるようになるワケです。 そうなると、社員の多くが自分にウソをつくことになり、 それが積もり積もって・・・。 さらに派閥なんかができちゃうと、派閥の意見にも 従いながら働かないといけなくなるので、多くの人は 会社のための意見を言うのではなく、保身のための意見を 言うようになっていきます。 そうやって組織は内部崩壊していくワケです。   実は今言ったことは200年以上前にルソーが指摘しています。 彼の言葉を『社会契約論』から引用してみましょう。 「人民が十分に情報をもって審議するとき、もし市民がお互いに 意志を少しも伝え合わないなら(徒党を組むことがなければ)、 わずかの相違がたくさん集まって、つねに一般意志が結果し、 その決議は良いものであるだろう」 ほら、 (1).人民が十分に情報をもっていること (2).徒党を組まないこと っていう条件がちゃんと出てきてるでしょ? 彼の場合は国という巨大組織(集団)の運営を考えていましたが、 大きかろうが小さかろうが必要なことは同じなのです。 ただ上で言ったように、大きな組織でこの2つの条件を 満たすというのは非現実的だと思います。 だって考えてみてください。 社員が千人いる会社で部署を作らないとか、情報共有を 完璧にするとか無理でしょ、どう考えても。 そんだけいれば派閥だってきっと自然に出来ちゃうでしょうし、 情報の格差も開いてしまうと思います。 彼の言っている条件を満たそうとすると、どうしても少人数に せざるを得ないのです。   ただ少人数にしたからと言って、そこで行われた意志決定が 必ずしも結果に結びつくとは限りません。 社員全員が「企画Aをやろう!」と一丸となったとしても、 企画Aが当たらなければその会社はヤバイことになります。 つまり、当たり前ですが、その決定が会社の実績に、 社員の幸福に繋がっているのかどうかをちゃんと判断できる 優れたリーダーが必要なのです。 優れたリーダーになるために何をどうすればいいのかは これまで散々語ってきているので割愛しますが、参考までに ルソーが何と言っているかを見ておきましょう。 ルソーはこんなことを言っています。 「諸々の国民に適する、社会についての最上の規則を 見つけるためには、優れた知性が必要である。その知性は、 人間のすべての情熱をよく知っていて、しかもそのいずれにも 動かされず、われわれの性質を知り抜いていながら、 それと何らつながりを持たず、みずからの幸福がわれわれから 独立したものでありながら、それにもかかわらず、われわれの 幸福のために喜んで心をくだき、最後の時代の進歩のかなたに 栄光を用意しながらも、ひとつの世紀において働き、 後の世紀において楽しむことができる、そういう知性で なければなるまい。人々に法を与えるには、神々が必要である」 まあ要するにリーダー(彼の場合は立法者ですが)は 神のように完璧じゃないといけない、ってことです(笑)   そんなワケで、もし最強の組織を作りたいなら 1.少数精鋭であること  (1).人民が十分に情報をもっていること  (2).徒党を組まないこと 2.優れたリーダーがいること の2つの条件を頑張って満たしましょう、ってことでした。 ちなみに大きめの会社に属している場合は、(1)と(2)の 視点で職場を眺めてみると面白いと思います。 会社が上手くいってないとすれば2以前に多分(1)(2)が 問題だと思いますので。 あ、2のリーダーがいないから(1)(2)に気付かないのか。 まあどっちでもいいや(笑) ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック ...more»
近代(単語帳)
近代とは、啓蒙思想と主権国家体制により神の絶対性が失われた時代のことです。 年代で言えば17世紀頃から19世紀頃を指すことが多いですが、人によって意見が 異なるため厳密に何年から何年ということは断言できません。 近代の特徴としては、デカルトの大陸合理論に代表される合理主義や(物心)二元論、 そして合理主義から派生的に生まれた科学主義、要素還元主義、自由主義、人権思想、 民主主義、決定論、単純進歩史観などが挙げられます。 例えるなら近代建築あたりが分かり易いでしょうか。 直線的で左右対称で無機的、合理的で無駄がなく、機械的で再現性が高い。 こういうのが近代と名のつくものの特徴です。 例外的に「モダン焼き」みたいなものもありますが(笑)、あれは多分言葉の響きだけで 付けた名前だと思うので、あんまり深い意味はないんじゃないかな、と。 だったらいっそのこと「デカルト焼き」にして欲しい、と思うのは恐らく僕だけ でしょう(笑)   それでは、ここからはザックリと近代化の流れを見てみることにしましょう。   中世の世界では神が絶対的な根拠であり、どんなことが起ってもすべて「神の意志」で 片づけられていました。 リンゴが落ちるのは、神の意志が働いているから。 植物が育つのは、神がそうなるようにしたから。 人間が存在するのは、神が人間を創ったから。 こういう今から考えれば根も葉もない根拠の上に世界が成立していたワケですが、 それでも世界はなんとか無事に回っていました。 ところがある時、ガリレオ、ニュートン、コペルニクス、ケプラーという世界の運命を 揺るがす4人が現れます。 彼らはあまりに敬虔なクリスチャンだったため、彼らの信念は 「神が世界を創ったのなら、それは美しいに違いない」 という一般的なクリスチャンの信念から飛躍して 「世界が美しいなら、それは数式で表せるに違いない」 という信念にまでいたったのです。 その信念から彼らは世界を数式化し始めます。 それによって地動説やニュートン力学が生まれてくるワケですが、それをわれわれは 科学革命(Scientific Revolution)と呼ぶワケです。 ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で示したように、 熱烈な信仰というのは、それとは一見何の関係もないものの発展に寄与することが 案外多いようですね。   このあと彼らは、努力が報われるどころか、教会から危険人物のレッテルを貼られて しまうことになります。 この時代、さっき挙げた4人以外にも偉大な功績を残した敬虔なクリスチャンはたくさん いたと思われますが、そういった人たちは教会に消されてしまったのです。 ではなぜ教会は彼らに危険人物のレッテルを貼ったのでしょうか。 それは彼らの発見した数式が、のちのちに教会の(神の)地位を危うくすることが 分かっていたからです。 この頃はまだまだ神は絶対であり、だからこそガリレオやニュートンらはその神を 追い求めて多くの数式を発見したワケですが、その理性的な行為こそが100年・ 200年の時を経て、神を殺す要因となるのです。 もちろん当時の彼らがそんなことを知っているはずもありません。 けれども、教会は分かっていた。 だからこそ教会はその芽をいち早く摘もうとしたのです。   ところで、科学革命がじわじわと起っていた頃、人々の心にも変化が起っていました。 ホッブズ、ロック、ルソー、ディドロ、ダランベール、ヴォルテールといった 啓蒙思想家と呼ばれる人たちが現れ、周りの人々に対して啓蒙を促し始めたのです。 啓蒙とは、自らの理性の力で世界を切り拓く、ということ。 「存在するかしないかも分からないような神に頼ってないで、自分の理性を信じて何事も 自分の力で解決していこうじゃないか」 と言ったかどうかは知りませんが、彼らはそんなことを人々に説いてまわりました。 今のわれわれの感覚からは信じられないかもしれませんが、当時の人々は自分に自分の 人生を変える力があるとは誰も思っていませんでした。 貴族はずっと死ぬまで貴族、農民はずっと死ぬまで農民、それが普通だったのです。 「このとき、社会に不平等と貧困はあったが、精神の頽廃はなかった」 とトクヴィル(トゥクヴィル?)が言っているように、これが普通だったからこそ、 彼らは自ら理性の力で自分の人生を動かす必要はなかったし、動かそうという発想すら なかったのです。 しかし、啓蒙思想家の説教を聞いたことで、彼らは気付いてしまいます。 「生まれた家は確かに違うけど、みんな同じ人間じゃないか」 ということに。 ・・・みんな同じ人間。 この今では当然すぎる発想が生まれたのはこの頃です。 みんな同じ人間だから分かり合えるはず。 みんな同じ人間だから平等じゃなきゃだめ。 みんな同じ人間だから理性的能力も同じ。 こうした発想から自由主義や個人主義が生まれ、それが人権思想になり、市民革命 (フランス革命など)が起るにいたったワケです。   上記2つの革命の行き先を考えると、科学革命は科学的知識を急速に発展させ、 市民革命は個人主義や自由主義から資本主義の精神を育んだ、と言えます。 科学的知識の発展は様々な機械を生み、生活を合理化し、資本主義の精神は人間を より貪欲にした。 そしてこの2つが合わさって人類は産業革命という爆発的進歩を達成したのです。   これで科学革命・市民革命・産業革命の3つが出そろったワケですが、話はここで 終わりません。 上の3つの革命だけでは神の絶対性は揺らいでいないのです。 市民革命は神に対してそこそこ大きなダメージを与えている気はしますが、それでも 神を殺すまでには至っていない。 神にとどめを刺すには主権国家体制が必要なのです。 主権国家体制とは、国家に主権を認める(国のことは国が決めていい)ということです。 1648年に決まった30年戦争の講和条約であるウエストファリア条約というのが この主権国家体制というのを定めています。 これによって、それまでは宗教的に内政干渉されまくっていた国も、その国ごとに 宗教的自由を保障され、カトリックだろうがプロテスタントだろうが、はたまた イスラム教だろうが仏教だろうが無宗教だろうがいろんな宗教が入り混じってようが、 国が決めたことに従うだけでよくなったのです。 こうなると神は国ごとに存在したり、存在しなかったり、たくさんいたり、1人しか いなかったりして、絶対的とは呼びがたい存在となります。 ここにきてようやく神の絶対性が失われるワケです。 このことをニーチェは 「神は死んだ」 と表現したワケですが、彼が言ったのは「神は既に死んでいる」ということであって、 彼が神の死に直面したということではありません。 その点は少し注意しておいて下さい。   以上、簡単ではありますが近代化の流れをまとめてみました。 学者が読んだら目玉が飛び出るほど乱暴なまとめですが、学者が読むことはないと 思いますので、そのままにしておきます(笑) 詳しいことが気になったらウィキペディアや関連書籍などを参照しながら、自分なりに 知識を深めていって下さいね。 ではではー。 ...more»
ベーシックインカムと道徳
  前回のベーシックインカム関連記事について コメントがありましたので最初はそれに答える形で 記事を書いていこうと思います。 前にもどこかに書いたような気がしますが、 僕はベーシックインカムについては反対派です。 それは前回の最後にも書いたように、 平等を突き詰めると、不平等が起こるから という理由から。 じゃあ平等とは何なのか、という議論はまたの機会に するとして、とにかく、一般的な意味での平等というのは 不平等に成らざるを得ない要素を含んでいると僕は考えています。 そういった意味で前回は社会的倫理観、つまり、 「働かない」・「働けない」という側面から ベーシックインカムについて切り込んだワケですが、 今回は 【どうやったらベーシックインカム的な制度が 上手く回るのか】 というのをメインに僕の意見を書いてみようと思います。 よかったらお付き合い下さい。 まずは、せっかくコメントを頂いたので その辺のことについて書いてみます。 ベーシックインカムは【福祉】ではなく元々は 【配当】と考えられていた、という内容については 僕は不勉強なので何とも言えません。 ただ、福祉とは何なのか、配当とは何なのか、 と定義を明確にしようとすると、僕が調べた限りでは 福祉は、国民であれば無条件に得られる公的権利 配当は、国民であっても国に何らかのメリットを もたらす者だけしか得られない私的権利 になるのではないかと思います。 つまり、ベーシックインカムが配当であるならば 国への貢献度によって個人個人に配当される額が異なる、 といことです。 ってことは、これを平等と呼ぶのかどうかが 重要な論点になります。 僕自身はこれは平等だと思いますが、人によっては 誰もが均等の額を受け取ることを平等と呼ぶ場合も あるでしょう。 ルイ・エバンという人はカトリック信者の視点、 つまり【神】対【人間】という捉え方で人間を見ているので あーゆー発想(平等)になるんだと思いますが、 結局のところ、実際に実現可能なのかどうかが 僕は最も重要だと思うんですね。 だって、そうじゃないと話が前に進みませんから。 理想とか理念とか理論を語るのはある程度の知識や思考力が あれば誰でも出来ます。 でも、計算上は上手くいくはず、ということが 現実には上手くいかないことが往々にしてあるのです。 その理論に間違いがないかどうかはその理論内では証明出来ない、 って20世紀の知の巨人ゲーデルも言ってますしね。 というワケで、ここからは現実的な話に入っていきましょう。 やっと本題。 今までの話は何だったんだ・・・(笑) どうやったらベーシックインカム的な制度は 上手くいくのか。 これが本題でした。 忘れてたら思い出して下さい。 ただ、こんなこと言いながら僕はベーシックインカムには 反対だと言っている。 一体どっちなんだと思われるかもしれませんが、 どっちも、です。 敢えてベーシックインカム【的な】とか 意味深な言葉を付けていたのはそのため。 ベーシックインカムは無理かもしれないけども、 ベーシックインカム的なことは出来るかもねー、と。 それが僕の立場だと思って下さいませ。 じゃあベーシックインカム的なものとは何なのか というと、僕は【道徳】だと思っています。 前にも書いた通り、僕はベーシックインカムの 考え方は好きです。 経済的余裕を手に入れれば、人はしたいことだけをすることが出来て、 それによって生産性も上がるのではないか、という考えは、 現実的ではありませんが、実現すれば素晴らしいことだと思います。 思いますが、やっぱり現実にそんな理想のユートピアは 作れないと思うんですよ。 100万年に一度しかエラーが出ないはずだったアメリカの 金融デリバティブでさえ、サブプライムよろしく5年で 破綻しちゃったんだから。 ってことは、結局、決め事(理論)ではどう頑張っても 上手くいかないということが近年分かってきたワケです。 (昔から見て見ぬふりをしてたらしいけど・・・) そこで登場するのが、道徳。 分かり易く言えば、人の善なる心、です。 こう言っちゃうと何か宗教っぽくなってしまいますが、 全くそんな意味は込めていません。 単に場面場面における個人の気遣いみたいなもののことです。 電車で席をゆずったり、道に迷ってる人を案内してあげたり、 そーゆーやつ。 その【心】を育てることで、ベーシックインカム的な 社会が成り立つんじゃないかと僕は思っています。 「それこそ理想論じゃないの?」 という声が聞こえてきてもおかしくない発言ですが、 僕の中でこれは理想論(ロマン主義)ではありません。 もちろん、完璧にこれを成功させることは出来ないと 思います。 ですが、8割・9割ぐらいのレベルであれば 実現可能なんじゃないか、と。 なんで実現可能だと思うのか、という話は 恐ろしく長くなってしまうので今は割愛しますが、 僕はルソー的な考え方がすごい好きなんですね。 ルソーは人間不平等起原論 という著書の中で 人間は生まれながらにして不平等である。 しかし、それ故に弱い者は強い者を見習い修練し、 強い者は弱い者を助けてやらねばならぬ。 という主旨のことを言っています。 この考え方が僕の心から離れないのです。 そして、これこそがベーシックインカム的な社会を 実現するための一つのキーだと思っています。 【能力の均衡】 【切磋琢磨】 こういった思想が最大の生産性を生み、育て、 一般的な平等という概念を凌駕するために 必要なものではないでしょうか。 弱い者は強い者を見習い、強い者は弱い者を助ける。 大事な言葉だと思うんだけどなー。 ではでは。 ...more»
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