積読(つんどく)の意義
  随分とご無沙汰しております(苦笑) セミナーも無事に終わり、最近はアートに夢中に なりつつある今日この頃。 縁あって、今あるアーティストさんと一緒にビジネスを やっているのですが、この業界はなかなか興味深いです。 なんと言っても売れるモノと売れないモノとの違いが 恐ろしく分かり難い(笑) まあそこが面白くもあるんですけどね。 「なぜ人はアートを買うのか」 もし暇だったら考えてみて下さい。 では今日も張り切っていきましょう! 僕はよく本をまとめて衝動買いしてしまうことがあるのですが、 こういう人って僕に限らず結構いると思います。 今読んでる本があるにも関わらず、本屋で魅力的な本を 発見するとついつい買ってしまう。 で、買ったはいいものの、今読んでる本を読み終わった ときには、また別の欲しい本を見つけてしまい、それも ついつい買ってしまう。 そしてどんどん読まない(読めない)本が溜まっていく。 これを俗に積読(つんどく)というワケですが、 僕も例に漏れず積読主義者の一人です(苦笑) 今や恐らく10年あっても読みきれないであろう本が ずらずらと僕の本棚にはコレクションされています。 半ばオブジェ的に・・・。 さて、この積読。 世間一般には「できれば解消したいもの」と考えられており、 過激派の中には「読まない本なんて買っても無駄」という 意見を持った方々もいるとかいないとか。 確かに本は(一部を除いて)読まれるために生まれてきている ワケですから、出来る限り読むに越したことありません。 買った本は読んでナンボ。 それは間違いないでしょう。 ただ、だからと言って積読が無駄なことだとは 僕には思えないんですね。 「どうせ読まないなら、買っても買わなくても一緒」なんて 意見もあるかと思いますが、そもそも「どうせ読まない」 という前提が正しいのかどうかを考えてみて下さい。 未来のことなんて誰にも分かりません。 なのに「どうせ読まないだろう」みたいに自分の行動を 決め付けてしまうのは、いかがなものでしょう? そう決め付けるよりも、むしろ「いつか読むかもしれない」 という前提で考えた方が将来の可能性は広がるし、個人的には 楽しそうな気がします。 教習所で習いませんでした? 「だろう運転」はいつか事故る、って。 多分「読まないだろう」も、どこかで事故るんじゃないかな。 自戒・・・。 読むか読まないかなんて分からない。 読めるか読めないかなんて分からない。 でも、買った本は「いつか読むかもしれない」ですよね? 逆にその時出会った本を買わなかったら「もう出会えない かもしれない」ですよね? だったら、読むか読まないかはともかく、買っておけば いいんじゃないの?積読しとけばいいんじゃないの?と 僕は思うワケです。 これはある意味、合コンの論理と同じ。 相手が自分のことをどう思ってるかは分からないけど、 取り敢えず携帯番号とアドレスぐらいは聞いておけば いいのです(笑) もしかしたら脈があるかもしれないんだから。 仮に脈がなかったとしても、それはそれ。 番号とアドレスすら聞いてなければ、脈があるなしに 関わらず、可能性は閉ざされてしまいます。 それはあまりにも、もったいないでしょ?と。 そーゆー話です(笑) 人との出会いと同じで、本との出会いも一期一会。 何億冊、何兆冊もある本の中から奇跡的に出会った本が あるのなら、その機会は受け入れるべきではないでしょうか? ましてやそれが世間の風評に流されて欲しくなったものでは ないのならば、尚更です。 自分の意思で、自分の直感で、自分の感性で感じて 欲しいと思った本は、役に立つ立たないに関わらず 買っておくべきだと僕は思います。 なぜなら、それこそアナタが本当に欲している本だから。 直感とか感性とか言っちゃうとスピリチュアルな世界の話に 聞こえてしまうのが難点なのですが、実は僕が言いたいのは そんなふわふわした話ではありません。 まずは少し前(?)に書いたアフォーダンスの話を思い出して 下さい。 ここで僕はコップの話をしています。 コップの取っ手は「ここを持て」ということを僕達に訴えて (アフォードして)いる、と。 忘れてたら今すぐにちゃんと読み返して欲しいんですが、 要するにコップはそこに在るだけで僕らに何かしらを アピールしているワケです。 しかーし。 よくよく考えると、コップは僕らに対してずっと 「取っ手を持て」とアフォードしているワケではないことに 気付くと思います。 コップが僕らに「取っ手を持て」とアフォードしてくるのは 僕らがコップを使おうとしているその時だけです。 喉が渇いて水を入れるのか、洗ったコップを乾かすのか、 その状況は色々あると思いますが、僕らとコップに何らかの 関係を築く必要が生じたときにコップは僕らに語りかけてきます。 だから当然、僕らがコップに対して何の用もないときは、 コップは基本的には黙っている。 要するに、「取っ手を持て」というアフォードは 僕らの【いま・ここ】を反映しているのです。 僕らが今ここで何をしたいのか。 今ここで何をすべきなのか。 それがコップのアフォードとなって返ってきているワケです。 このアフォーダンスと「いま・ここ」の論理を本との出会いに 置き換えると、本が「買ってくれ」とアフォードしてくるのは、 僕らの「いま・ここ」がその本に反映されているから、 ということになります。 つまり、僕らは心のどこかでその本を欲しているのです。 その本に用があるから僕らはそれを欲するのです。 普段こんなことはあまり考えないと思いますが、 実はこれは凄く大事なことなんだということに 気付いて下さい。 なぜ何万冊もある本棚の中から、その本だけが目に付き、 欲しくなってしまうのか。 本が分かり難かったら衝動買いの類を全部含めて考えても 構いません。 なぜそのバッグだけが、なぜその靴だけが、なぜその財布だけが 欲しくなってしまうのか。 大概は、デザインが好みだから、という理由で 欲しくなるのだと思いますが、じゃあなんでそのデザインが 好みなのか、というのも考えてみて下さい。 自分の心に思い描く「具体的な」デザインがあって、 そのデザインにピッタリ当てはまるものがあったから 欲しくなったのかと言われると恐らくほとんどの人は そうじゃないと思うんですね。 どっちかと言うと街中でたまたま見つけたバッグ、靴、財布が 自分の「抽象的な」イメージにピッタリ合って猛烈に 欲しくなってしまった、という感覚だと思います。 つまり出会った瞬間「いま・ここ」において自分は本当に 欲しているものに気付くのです。 そうそう、オレはこんな靴が欲しかったんだよ!って。 欲しいモノが現実として具体化されるのは「いま・ここ」の 瞬間においてだけなのです。 そしてブーバーやハイデガーの考えを加味するならば、 「いま・ここ」を全力で生きている時にしか神には出会えない ということになります。 これは言い換えると、 本当に欲しい本(モノ)に出会うには、本当の自分として 生きていなければならないし、本当の自分として生きるには、 自分の「いま・ここ」を完全燃焼しなければならない ということです。 そうすれば、それは自ずと衝動となって現れる。 その衝動こそが神との出会いなのです。 上記の話では積読そのものよりも積読になる過程の話を メインに書きましたが、この論理(?)は積読してからも 当てはまります。 自分の部屋に読んでない本がたくさん積まれている。 この本の中から自分の「いま・ここ」に応じて アフォードしてくる本が今読むべき本なのです。 なんとなく手に取った本のたまたま開いたページに 自分の欲しい答えが書いてあった、なんてことは比較的 よく聞く話ですが、その原理はこういうところにあります。 全力で生きていれば、いつでも神は降りてくるのです(笑) ではでは。 ありがとうございました! ...more»