UA-32556480-1
top-image

Tag archives for ヒーロー

ヒーローとビジネスの関係
  えー、まず気付いていないことは有り得ないと思いますが、 一応書いときます。 先週辺りから【単語帳】なるものを作りました。 内容は見てもられば分かる通り、このブログに登場する 単語の説明および、それに付随した書籍などの説明が 書かれています。 今はまだ4つしかアップしてませんが、気が向いたら 適当に増やしていく予定なので、まあ何かの参考にでも してもらえたらな、と。 特に書籍の説明に関しては、書籍名で検索してもられば 分かりますが、巷ではあまりレビューされていないような 難解で(レアで)重要な本を紹介しているつもりなので、 できれば読み流さないで欲しいというのが個人的な願いです。 というか、むしろ「読めよ、この野郎!」みたいな(笑) 実際、その辺の下らないビジネス書100冊読むより ハンナ・アレントとかニーチェの著作1冊読む方が よっぽど役に立ちますからね。 読めるかどうかは保証しませんけど(笑) フォーカスリーディングで有名な寺田昌嗣さんはブログで 分厚い本、古典的名著を読むことに苦痛を感じるとしたら、 それはカナリヤバイ状態だと思って間違いありません。 どれくらいヤバイか? ちょっとした計算でも、電卓をたたかないと答えを出せない というぐらいヤバイ! つまり、頭が「複雑な思考力」や「文脈を読み解き、 整理する理解力」「場面、奥行き、展開を想像するイメージ力」が 衰えている可能性があるっていうことなんです。 これは、ヤバイ。 人の表面的な言葉や、誰もが知っている言葉にしか 反応できない体質になっていきつつある可能性がありますよ。 (http://www.sr20.jp/yomoyama/try-heavybooks.htmlより引用) なんてことを言ってます。 彼がどれぐらい信用に値する人なのかは僕には未知数ですが、 少なくとも僕が単独で叫ぶよりかは説得力あるかな、と(笑) そんなワケなので、たかが単語帳だからって邪険に扱うのではなく、 ちゃんと意味があって書いてるというのを分かってもらえれば 嬉しいです。 んじゃ本題へ入っていきましょう。 今回からそろそろビジネスの話に少しずつ触れていこうかと 思っています。 今までの小難しい相対主義の話がどうやってビジネスに 絡んでくるのか。 その禁断の謎がやっと紐解かれるワケです(笑) その第一回目として今回は 【ビジネスにおけるヒーローの意義】 みたいなのを話していければなー、と思ってます。 久々に出ましたねー、「ヒーロー」。 忘れてたらリンクをクリックして思い出して下さい(笑) 一応簡単に振り返っておくと、ヒーローというのは、一言で言えば、 迷える人を導いてくれるリーダー的存在のことでしたね。 相対主義では人々は不安を抱え、自分の歩く道さえ分からず 路頭に迷っている。 言い換えれば、自分で自分の目標を定めたり、目的を持って 行動したりすることが出来なくなっている。 だから人々は信用・信頼でき、自らを導いてくれる 理性的権威ある人、つまりヒーローを求めているのである。 今までのいろんな話を要約すると、こんな感じです。 じゃあこれをビジネスに当てはめるとどうなるのか。 ちょこちょこ話していますが、今の時代はビジネス的にも 混沌とした時代(時期)です。 有り得ないぐらいモノが売れない。 有り得ないぐらい生徒が来ない。 有り得ないぐらい新卒採用枠が少ない。 今まである程度「常識」と思われていたものが 通用しなくなってしまっている。 今までだったら「取り敢えず就職して・・・」みたいな 話が出来たワケですが、今はその「取り敢えず」という 前提さえ成り立たない。 要は、みんな「どうすればいいのか分からない」ワケです。 人は不安を不安のまま放っておくことが出来ません。 これは心理学的にも証明されていることで、 人は心が不安(不安定)だと、それをなんとか ニュートラルな状態に戻そうとするんですね。 生物学的にはホメオスタシス(恒常性)とか 呼ばれたりもします。 現実逃避っていうのも、その手段の1つです。 現実を見ないようにすることによって、 今持っている不安を一時的に忘れてしまう。 「今のままじゃ売り上げが落ちて社員の給料も 払えなくなってしまう。なんとかしなきゃ・・・」 「でもまだそれなりに商品も売れてるし、放っておいても 景気は回復するだろうから、まあ大丈夫だろう・・・」 みたいな。 そうやって現実の不安を直視しないことによって 人は「一時的に」心を安定させるワケです。 ただ当たり前ですが、現実逃避では現実を変えることは出来ません。 言い換えれば、もっている不安を無くすことは出来ない。 本当の意味で不安を解消するには、やはり辛くても 現実(不安)と向かい合うしかないのです。 でも今の時代を生きる人々は不安と向き合うことはできても、 その不安を乗り越える方法が分からないんですね。 「どうしたらいいんだろ・・・」 って、ひたすら苦悩し続けている状態。 だからこそ「こうやれば大丈夫ですよ」と言ってくれる存在 つまりビジネスにおいても【ヒーロー】がより重要になって きているのです。 少し前に週刊ダイヤモンドか何かの経済雑誌で 神田昌典さんが 「これからは【教える】ビジネスが流行る」 みたいな発言をしてましたが、それはやっぱり 流石というか、的を得ていると思うんですね。 混沌、混迷とした時代には、われわれは学ぶしかないんだから。 デカルトが西洋中の本を読み漁ったように、 明治時代の偉人(夏目漱石や福沢諭吉ら)が 驚くほど勤勉だったように、 不安というのは人々を勉強に掻き立てるワケです。 僕がこのブログの理念に挙げている 「みんなが勉強好きになれば世界は楽しくなる」 というのにも、そーゆー意味が込められています。 福沢諭吉も 【学びて富み、富みて学ぶ】 って言ってますからね。 まあ福沢諭吉の話は別にいいんですけど、 要は、学びたい人が増えている今は 教える人が儲かるんじゃない?ということです。 ただ、自分の知りたいことを教えてくれる人なら 人は誰にでも金を払うのか、と言えばそれは 間違いなくノーですよね。 学校の先生を思い出してみて下さい。 みんな数学や国語や古典や世界史や英語の授業で 何かしら教えてくれます。 でもだからと言って、学校の先生全員に対して 「是非勉強を教えて欲しい!」と思うかというと 多分そんなことはないと思うんですね。 むしろ、教え方の下手な先生、ムカツク先生、 気持ち悪い先生が圧倒的多数を占めている、 というのが本音だと思います(笑) じゃあそんな先生に対して教えを請いたいなんて 思うのか?ってことです。 ヒーローは理性的権威の塊である。 いつかこんなことを書いたような気がします。 理性的権威というのは、その人に対して「何かしてあげたい」 と思わせる権威(というか雰囲気みたいなもの)のことですが、 ヒーローはそれを備えた存在じゃないといけないワケですよね。 それプラスみんなを導いていくパワー、それは知識であったり 能力であったりセンスであったり色々あると思いますが、 そういったモノも持っていないとヒーローにはなれない。 ってことは、ビジネスにおいても「ただ教えるだけの人」は ヒーローにはなり得ないワケで、それはつまり「儲からない」 ってことを意味するワケです。 信用や信頼なしで儲けるなんてことは 悪いことをしない限り不可能ですから。 さてさて。 ホントは今回の話はもっと短くなる予定だったんですが、 思いのほか長くなってしまいました。 まあ長いのはいつものことですから もはや気にもならないことでしょう(笑) ってか意味は分かってもらえました? 要は、 【今の時代はヒーローになれば、それだけで儲かるよ】 みたいなことが言いたかったんです。 これだけ読まれてしまうと微妙にいやらしい奴に 見られてしまいそうですが、そーゆーことなんだから 仕方がない。 ヒーローになるのは簡単じゃない、いや、簡単じゃないどころか その道は茨の道です。 でもヒーローに向かう過程っていうのは、 自分の成長の過程ですから、本来は楽しいものだと 思うんですよね。 分からないことが分かるようなったり、 出来なかったことが出来るようなったり、 毎日がその積み重ねですから。 まあとにかく 「一緒にヒーロー目指してみません?」 みたいなことですよ(笑) 絶対楽しいと思うんだけどなー。 ではでは。 ...more»
ヒーローとは
  ヒーローとは 自分の所属する共同体において絶大な信用と信頼があり、尚且つ、 自らの善なる信念を持ってその共同体を導いていける存在 のこと。 読んで分かるように、このブログにおける【ヒーロー】とは、 一般に言う「正義のヒーロー」とはちょっと、いや、かなり違います。 自分の所属する共同体、というのはミクシィのコミュニティ みたいなものを思い浮かべてもらえば分かり易いかもしれません。 例えば「猫好き」のコミュニティ。 僕が言うまでもなくそこには猫好きが集まっているワケですが、 そのコミュニティで信用や信頼を得ている人というのは多分、 猫にめちゃ詳しい人だったり、アップする猫画像がいつも 可愛くて人気のある人だったり、猫ブリーダーだったり そんな感じだと思います。 そして尚且つ、善なる信念を持ってコミュニティを導く、 つまり猫に関する誤解や間違いを正し、猫と一緒に暮らすとは どういうことなのかを正しい知識を持って発信していける存在が 猫好きコミュニティにおける【ヒーロー】です。 「本物のプロ」と表現しても間違いではないでしょう。 僕のブログではもっと大きな共同体(相対主義の世界)を 対象とした【ヒーロー】を想定して話を進めていますが、 本質的には猫好きコミュニティのヒーローと意味は同じです。 物凄く乱暴に言ってしまえば、あるコミュニティの中で 【スゴイ人】 はそれだけで大よそヒーローの要素を持っています。 もちろん何がスゴイかにもよりますけど(笑) その他、詳しいことは参考ページを読んでみて下さいませ。 なぜヒーローなんて概念が必要なのか。 なぜ今の世の中にヒーローが必要なのか。 読めば分かります。   ...more»
「われわれ」は一体何者なのか
  前回の記事を改めて読み直してみたんですが、 ちょっと急展開し過ぎた感が否めないですね(苦笑) まあ今はピンッとこなくても、僕の記事を読み続けてもられば それなりに実感が湧くようになると思います。 僕がどんだけ丁寧に説明したとしても現時点では 「いやいやいや、ヒーローとか言われても やっぱり理想論にしか聞こえないし」 という状態だと思うんですね、多分。 でもそれは仕方ないことなんです。 だって今まで「善」とか「倫理」とか「徳」とか そーゆーものについて真剣に考えたことなんて ほとんどの人は無いはずですから。 そんな人がいきなりヒーローがどうの理性的権威がどうの って言われてすんなり受け入れられるはずもありません。 これは別に軽蔑しているワケではなくて、われわれは そーゆー風に教育されてきた、ってことなんです。 「善?あぁ、一日一善は実践した方がいいかもね」 「道徳?あぁ、小学校の授業でやった覚えがあるかも」 「倫理?高校で習ったけど意味わかんなかった」 この程度の認識ですよね、普通に生活してたら。 それぐらいわれわれの「倫理」や「道徳」に対する意識は低い。 多くの哲学者が「善や道徳は人が幸せになるための要素だ」 ということを言ってるのにも関わらず、学校や会社では そんなことは誰も教えてくれません。 いや、「誰も知らない」と言った方が正しいかな。 だから教えたくても教えることが出来ない。 もちろん知らなくてもどうってことはありません。 むしろ僕の言ってることは「普通」に生きていくには 全く必要のないことばかり。 一般には【ムダ】と呼ばれる部類に属します。 「相対主義とかどうでもいいからFXで儲かる方法を教えてくれよ」 というのが世間の本音でしょう、恐らく。 そう思うなら僕のブログなんか読まなくていいんですよ。 第一このブログはそーゆー人の役には立てないですから。 僕のブログが役に立てるのは本当の意味で【人生を善くしたい】と 思っている人だけです。 しかしながら、この一連の記事は「ビジネス」という テーマに終着する予定になっています。 つまり、広い意味での「金儲け」。 「言ってることが矛盾してるんじゃないの?」 と思うかもしれませんが、その真意は今後の記事を 読み続けてもらえれば分かると思います。 今はまだ構想中なので実際にどんな内容になるかは 未定ですが、まあ気長に待ってて下さいませ。 絶対損はさせませんから。 さて。 いつも通りムダに長い前置きが終わったところで(笑) 本日の本題に入っていきましょう。 前回からいきなり【ヒーロー】という概念を登場させましたが、 なぜヒーローが必要なのか、という部分の説明が全然足りて いなかったので今回の記事で補足させて下さい。 前回僕は今の時代にヒーローが必要な理由を一言で 周りがヒーローの言うことを素直に (自らの望むこととして)聞き入れるから と書きました。 これは一見すると何も難しいことは語っていないように見えるのですが、 実はこの言葉はかなり奥が深いです。 特に「(自らの望むこととして)」という部分。 ここをサラッと読み流さないで欲しいんですね。 ヒーローが絶対的に尊敬されている存在だということは 前回も説明しましたから「素直に聞き入れる」という部分は 特に問題なく受け入れられる思います。 しかし、それがなんで「自らの望むこととして」なのかは 疑問に思って欲しいのです。 どうして一般人はイチローにボール拾いを頼まれたら 喜んで(自らの望むこととして)それに応じてしまうのか。 「イチローに理性的権威があるからでしょ」という答えは 端的には正しいですが、実はそれだけじゃ不十分なんですね。 理性的権威は1つのキッカケに過ぎません。 理性的権威が非常に重要な地位を占めていることには 違いありませんが、われわれがイチローの言葉を すんなりと受け入れてしまう理由はもっと深いところに 起源があるのです。 そんなワケで今回は 「われわれ(現代人)は一体何者なのか」 「われわれはどんな性質を持った人間なのか」 「われわれはどこから来て、どこへ向かっているのか」 という部分に焦点を当てて、書き綴っていこうかと 思います。 われわれは一体何者なのか。 分かりそうで全く分からない悩ましい問いです。 人は自分のことほど分かっていない、なんてことを よく言いますが、まったくその通りだな、と個人的にも思います。 「自分のことが知りたい」 恐らく僕ぐらいの年齢の人なら誰しも1度ぐらいは 考えたことがあるでしょう。 自分に向いている仕事は何なのか、自分のやりたいことは何なのか、 僕の周りの友人も同じように悩んでいました。 そしてミクシィのコミュニティなんかを見れば分かるように 今も悩み続けている人が何十万という単位で存在します。 みんな自分のことが見えないのです。 「神」や「理性」が絶対的なものと信じられていた時代は こんな悩みは存在しませんでした。 神の時代は、神の言葉に対して忠実に生きることが 人々にとっての全て。 その時代の人にとって自分なんてものはどうでもよく、 最終的に神に選ばれるかどうかが全てだったのです。 つまり、その時代の人は(生きている)自分に興味が なかったワケです。 また理性の時代は「いかに(理性的に)優れているか」が 問われた時代。 乱暴に言えば、成績のいいヤツほど幸せになれると 思われていた時代です。 「自分の在り方」とか「どんな人生を生きるのか」とか そんなものを考えるよりも東大出て大手企業で出世すりゃ 幸せになれるんだから頑張って勉強しなさい、と。 「将来が約束されている」という言葉はこの時代に よく使われた言葉だと思いますが、時代の価値観を うまく表してますよね。 要するに、この時代の人は自分について考える必要が なかったのです。 (難しく言えば決定論的だった、ということになります) しかしそんな「文明開化」「富国強兵」「年功序列」な時代は もう終わってしまいました。 いくら賢くて強くて自由でお金があっても、それが幸せとは 限らない。 そういった時代(価値観)の下でわれわれは生活しています。 そして最も重要なのは、今やわれわれには「神」や「理性」 という万人に共通した絶対的な【目標にすべきもの】が 存在しないということです。 つまり、何を目標にすればいいのかが分からない。 (なんのために生きているのかが分からない) だから「生きていること自体が不安」なのです。 例えば、あなたがマラソン大会に出たとしましょう。 走っている途中、突然主催者から 「実はこのマラソンのゴールはまだ決まっていないんです」 「ただし、立ち止まったらコーラ2リットルを鼻から 一気飲みさせて市中引き回し刑の後、即射殺しますので 頑張って走り続けて下さいねー」 なんてことを宣告されたら、どう思うでしょう? 極端ではありますが、これが今のわれわれの心境です。 人生という名のマラソンは生まれた瞬間にスタートし、 われわれは「生きている限り」走り続けなくてはなりません。 しかし多くの人にはゴール(目標)が決まっていない。 ゴールがないということは、走る目的もない、ということです。 だから 「このまま走り続けることに意味があるんだろうか??」 「でも立ち止まると殺されるし・・・」 と不安になる。 【死にたくない、でも今のまま生きてるのはもっと苦痛】 これが現在、多くの人が「無自覚なまま」抱いている 大きな不安なのです。 そこで。 この不安を解決するヒントを得るために、偉大な哲学者の 興味深い発言に注目してみたいと思います。 まずはニーチェ。 「人間の意志には目標が必要だ。 しかし、その意志は、何も目標が与えられないなら、 むしろ虚無を欲する」 「自分に命令する力の無い者ほど、自分を命令する者を求める」 続いてスペインの哲学者オルテガ。 「待命中の生は死以上の自己否定である。 なぜならば、生きるということは何か特定のことをなさなければ ならないということ(1つの任務を果たすこと)であり、 われわれがその生を何かに賭けることを避ける度合いに 比例して、われわれは自己の生を空虚にしていくのである。 全地球上から恐ろしい叫び声が湧き起こり、無数の犬の ほえ声のように天空にまで響き渡り、命令を下してくれる者、 仕事や義務を与えてくれる者の存在を求める日もそう遠くは ないであろう」 「創造的な生は、厳格な節制と、高い品格と、尊敬の意識を 鼓舞する絶えざる刺激が必要なのである。 創造的な生とは、エネルギッシュな生であり、それは 次のような2つの状況下においてのみ可能である。 すなわち、自らを支配するか、あるいは、われわれが 完全な支配権を認めた者が支配する世界に生きるか、 つまり、命令するか服従するかのいずれかである。 しかし服従するとは決して忍従することではなく、 (忍従は堕落である)その逆に、命ずる者を尊敬して その命令に従い、命令者と一体化し、その旗の下に 情熱を持って集まることなのである」 (オルテガ著【大衆の反逆】より引用) その他お馴染みの精神分析研究者エーリッヒ・フロムも ニーチェやオルテガと同じようなことを言っています。 非常に興味深いですよね。 ここでニーチェが言っているのは 人間には目標が必要で、目標がなければ死にたくなるし、 自分で目標をたてられないヤツは代わりに命令してくれる人が 欲しくてたまらない ってことです。 ちょっと前に「指示待ち人間」なんて言葉が流行りましたが 彼らは自らの目標を立てられない典型的なタイプに属します。 要は「考えてないだけ」なんですが、彼らには 何を考えればいいかさえ分からないから 何かしていないと不安なのです。 だから指示があると自分の任務が確認できてホッとする。 しかし、ずーーっと指示がないと自分が会社にいる意味が 感じられないし、周りからは「役立たず」という見られるし、 だからと言って何を考えればいいかも分からないしで 段々と辞めたくなっていって、いずれ辞めてしまう。 これは会社だから「辞める」で済みますが、 これが人生そのものなら「虚無(死)を欲する」、 つまり死にたくなって、いずれ死んで(自殺して)しまう。 だから人間には「目標」や「目標を与えてくれる人」が必要だ、 とニーチェは言っているのです。 んでもってオルテガが言ってるのは 命令を待っている(自ら目標を見出せない)状態で生きている というのは死ぬ以上に自分を苦しめていることになる なぜなら、生きるということは何かをなすことだから われわれが生きる任務(目標)を持てないままでいると それはどんどん自分の人生を虚しくしていくのと 同じことだからである 自殺したくなる人が増え、生きる目標を与えてくれる 救世主をわれわれが求め始める日もそう遠くはないだろう われわれが「善く生きる」には、誰かの命令に従うか、 自分で自分に命令するか、どちらかしかない しかし誰かに従うというのは、嫌々従うのではなく、 「この人になら命令されてもいい」と思うような人を選び、 自らの望むものとしてその人の命令(指示)に情熱を注ぎ、 一緒に実現していくことである ってこと。 つまり僕が何を言いたかったのかはもうお分かりでしょう。 それは われわれが人生の不安から抜け出すためには、 まず自分が不安であることを自覚し、自身がヒーローになる、 もしくは自らの認めるヒーローを見つけ、指示を仰がなければならない ということです。 やっとまとまった(笑) これだけ話せば伝わったかなー(苦笑)。 なんで僕が相対主義の話ばかり取り上げるのか。 なんで僕が理性的権威が相対主義の世界を 救うキーワードだと言ったのか。 なんで今の時代にはヒーローが必要なのか。 全てはこういった前提があってのことだったのです。 「自己分析」とか「心理テスト」とか「自分探し」とか 「血液型説明賞」とか「風水」とか「占い」とか 「スピリチュアル」とか、そーゆーものが日本で流行るのは 実は上で話したようなことが大きく関係しています。 表面上は「ただ楽しいから」だと思われていますが、 こうやってちゃんと勉強すれば、これらが 【無自覚な不安を解消するための行動】 として明確に理解できるワケです。 みんな不安だから自分のことを少しでも 「知った気になって」安心したいんですよ。 ホントはその前に自分が不安だということを 自覚しなくちゃ意味ないんですけどねー。 ま、何かの参考になれば。 ではではー♪ ...more»
理性的権威とヒーロー
  今日はいよいよ理性的権威についての話に入っていきます。 いよいよとか言いながら楽しみにされたなかったら ちょっと悲しいけど(苦笑) まあそれはともかく。 ここから話は急展開するので振り落とされないように ご注意を(笑) 僕は前回の【民主主義国家の末路】で理性的権威が 相対主義の世界を救う(?)ためのキーワードだと言いました。 「救う」なんて言っちゃうとやや大袈裟な感がありますが、 それでも日本における人間関係や文化が徐々に 崩壊しつつあるのは恐らく誰もが感じているでしょうし、 自殺者や殺人鬼が増加の一途を辿っているのは 否定できない事実です。 それをなんとか出来ないか、と考えたら やっぱり理性的権威溢れる世界を 作っていくことしかないよなー、と僕は思ったんですね。 もちろんこれはただの理想論ではありません。 以前のベーシックインカム関連の記事を読んで頂ければ 分かると思いますが、僕は基本的に理想論は嫌いです。 嫌いというか、避けている、と言った方が正しいかもしれません。 理想を語るのは楽しいですし、理想を目指すのは 大切なことだとは思うのですが、多くの場合は 理想を理想論のまま終わらしてしまう、という過ちを 犯しがちです。 これは言い換えれば、理想は机上の空論で終わっちゃうことが 往々にしてあるということを指します。 机上の空論で終わっちゃ意味ないんですよ、 少なくとも僕にとっては。 そして多くの哲学が勘違いされているのも 実はこの点なのです。 この点とは 「哲学の議論は現実と乖離していて実際には何の役にも立たない」 という偏見のこと。 つまり 「哲学って理想論をひたすら議論してるだけじゃないの?」 と。 これは大きな間違いです。 理想論と哲学は全然違います。 なぜなら理想論は理想を拡大させるだけの論なのに対して、 哲学は理想を現実に近付ける試みだからです。 だから「幸せとは何か」とか「自由とは何か」とか 一見無駄としか思えないことを一生懸命考えたりするワケです。 ただその一生懸命さゆえに、使っている用語や 話している内容が厳密になり過ぎ、現実世界と 乖離しているように見えてしまうのが哲学なのです。 そこを勘違いしている人があまりに多いような気がして なりません。 哲学者が「人生とは?」と問うのは、 人生をより有意義に生きたいと思っているからです。 そして何より「全ての人の人生を有意義にしたい!」 そう思って彼らは無駄に見えるようなことを 毎日考えて続けているのです。 これだけは是非、覚えておいて欲しいと思います。 さあ、ここからがやっと本題です。 まずは話を戻しましょう。 僕が理性的権威をキーワードに置いたのは それを駆使すれば相対主義の世界でも「ある意味で」 絶対的な【善】を定義できると思っているからです。 相対主義の世界では、みんながバラバラの価値観を持ち、 1つの絶対的な「善」や「悪」なるものは存在しません。 もちろんそれ以前の世界でも事実上絶対的な「善」というのは 存在しなかったのですが、理念の上では存在していました。 それが「神」であり「理性」であったワケです。 中世ルネッサンス期までは「神」は絶対に善であり、 神が意図することは全て善なのだ、という前提がありました。 また近代においては「理性」こそが絶対の善であり、 「理」つまり論理や科学を追及していくことが 人々の幸せに繋がる、すなわち「善」だと思われて いたのです。 しかし文明が進歩するにつれて、神も理性も絶対ではない、 ということを人は知ってしまった。 存在するかどうかも分からない神。 自分さえも欺く理性。 どっちも信用できねーよ、と。 そして「結局信じれられるのは自分しかいないんじゃないの?」 という思いから相対主義が生まれたのです。 通常、相対主義における善は各々の道徳・倫理に依存します。 これは「自分が善だと思ったらそれが善」ということです。 極端な話、その人が善だと思っているなら、 人を殺しまくったとしても それが善だということになります。 実際そーゆー事件がたくさん起こってますよね。 「ムカついたから殺した」みたいな。 普通の感覚を持つ人からしたら 「いやいや、ムカついたって何よ」 という話になるワケですが、そーゆー常識からも ある意味解放されてしまったのが現代人なワケです。 これが相対主義の世界。 ここであなたが 「さすがにこのままはじゃマズいんじゃないの?」 という感覚を持ってくれたら僕の思惑通りです(笑) じゃあどうやったらバラバラになっている危険な【善】を まともな【善】に統一していけるでしょうか? そこで登場するのが、理性的権威です。 やっと出ました。 前置きが長い!というツッコミはスルーしつつ話を進めます。 理性的権威の根源は尊敬や感謝だというのは 再三説明している通りです。 前回の記事ではイチローのボール拾いなら誰もが 喜んで引き受ける、という例を出しましたが、 もしイチロー的な人が身近に溢れていたとしたらどうでしょう? 例えがイチローだとちょっと分かり難いかな。 もうちょい抽象的に、自分の尊敬する人が身の周りに 溢れていたとしたら・・・というのを考えてみて下さい。 人によって尊敬出来る人はそれぞれだと思いますが、 尊敬している人に囲まれてイヤな人はまずいないと 思います。 むしろ自分の尊敬する人に囲まれるなんて、 なんかウキウキしません? もちろん自分は周りの人を尊敬しているワケですから 周りの人は何かしら自分に対して嬉しいことを してくれる人であったり、自分のために注意や指導を してくれる人だということです。 ちょっと恐いけど、何が壊れても いつも余裕で修理しちゃう父。 自分の知らないことをたくさん教えてくれる祖父。 何を作っても美味しい祖母。 誰よりも深い愛を与えてくれる母。 誰もが尊敬でき、感謝の気持ちが絶えない状態。 これが理性的権威が溢れている状態です。 「誰もが尊敬でき、誰に何を言われても喜んで引き受ける状態」 と言ってもいいかもしれません。 ただ、 「そんなの理想の世界だよ」 と思いませんでした? 確かにこれだけならただの理想です。 「こうなればいいなー」で終わっちゃえば、の話ですが。 つまり終わらないってことなんですけどね。 そこでまず手始めに、理性的権威をどう使って 統一した【善】を作り出していくのかを説明していきます。 ホントは「統一」というとやや語弊があるんですが まあそれは追々わかってくるかと。 僕の考えには、理性的権威を持つ者が行うことは 全てが【善】である、という前提があります。 厳密には、ある人が定義している【ヒーロー】という 概念があって、その【ヒーロー】の行うことが【善】 だという意味です。 ヒーローとは、一般に知られている正義のヒーロー みたいなテキトーなものではなく、もっとリアルに 自分の所属するコミュニティ(共同体)の理解を得つつも、 自分自身の信じる善なるものを発信していける存在 という概念です。 コミュニティというのは、一昔前なら地域とか家族とか そういった物理的なものだけを指したのですが、 昨今においては同じ趣味とか同じ職種とか同じ目標とか そういったカテゴリー的なものの意味合いの方が強いです。 ミクシィのコミュニティなんかがいい例ですね。 言ってしまえば、ヒーローがいれば そのコミュニティ内における【善】が確立できる、 と僕は思っているワケです。 なんでそう思うのかというと、一言で言えば 【周りがヒーローの言うことを素直に (自らの望むこととして)聞き入れるから】 ちょっと考えてみましょう。 自分の尊敬する師匠が 「空き缶のポイ捨てなんてしてたら腕が鈍るぞ」 と言ったとしたら、弟子はどういう行動を取ると思います? 自分の尊敬する先生が 「勉強なんてしなくていい!」 って言ったら「あ、勉強なんてしなくてもいいだ」って 素直に思いません? あの先生が言ってたんだから間違いない!って。 ってことは、ヒーロー的な人が 「生きる意味を考え続けることが【善】なんだ」 って言ったら、どうなるのかな?という話です。 ヒーローの概念で大事なのは 【コミュニティの理解を得つつ】という部分。 コミュニティの理解を得るとは、家族内や会社内 (つまりコミュニティ)での常識やマナーを守りつつ、 信頼や信用が積み上げられた状態を指します。 要するに、コミュニティの人から絶対的に尊敬されている状態が ヒーローの大前提だということです。 そして尚且つ、自分の中に明確な【善】なるものを持っている。 これが一番分かり難いと思いますが、考え過ぎずに 「人を殺しちゃいけない」とか「人助けをしましょう」とか そういった善なる心を備えている、ってことです。 まとめると あるコミュニティに対して強力な理性的権威を持ち、 尚且つ自分自身の善なるものを明確に打ち出していける 存在がいれば、そのコミュニティにおける統一された【善】を 確立することは可能ではないか と。 僕はそう考えています。 (「統一」という言葉に語弊があると言ったのはこーゆー意味です) ということは、次はその善を指し示す存在であるヒーローを どうやって作る(?)のか、という話になります。 なりますが。 これ以上長くなると記事をアップする時期が大幅に 遅れてしまいそうなので、一旦ここで区切って 投稿することにします。 続きはまた次回以降。 ではではー♪ ...more»
bottom-img

Fatal error: Uncaught Error: Call to undefined function ereg_replace() in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code:1 Stack trace: #0 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1): eval() #1 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(688): require_once('/home/philosoph...') #2 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(647): load_template('/home/philosoph...', true) #3 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/general-template.php(76): locate_template(Array, true) #4 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/archive.php(151): get_footer() #5 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template-loader.php(74): include('/home/philosoph...') #6 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-blog-header.php(19): require_once('/home/ph in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code on line 1