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素晴らしさの可能性
ども、ペスです。 僕は美術を「実存的に」鑑賞するためには、ある4つの問いを持っておくことが 不可欠だと考えています。 このことを意識しているのは極少数の人だけだと思いますが、この4つのうち 2つについては無意識的ではあれ、誰もが念頭に置いて作品を見ているはずです。 その2つというのは 1.何を見るのか 2.どう見るのか という問いです。 われわれが特定の展覧会を「選ぶ」のは、1の「何を見るのか」という問いが自分の 中にあるからです。 これは無意識的な問いですから、誰も自覚していないと思いますし、もちろん僕も 問うていること自体は自覚していません。 ただ、この問いがなければ「選ぶ」という行為が生まれ得ない以上、われわれの中に こういう前提的な問いがあることは間違いありません。 厳密に言えば、われわれが特定の展覧会を見たいと思うのは「何を見るのか」という 問いと「それを見るか(見たいか)否か」という問いの末に導かれる結論です。 美術の展覧会に興味のない人は「何を見るのか」という問いを持ち合わせておらず、 それ故に彼らには展覧会に足を運ぶということが有り得ないのです。   2の「どう見るのか」は展覧会を見ているときにわれわれが持っている問いです。 みんな自分なりの見方で作品を見ていると思いますが、その「自分なりの見方で見る」 という答えは「どう見るか」という問いから導かれたものです。 これも当然自覚はないと思います。 自覚していたら誰だって美術の正しい見方を心得ているでしょうからね。 多くの人が作品を見て「上手い」や「キレイ」という感想しか持てないのは、 この問いに対する答えがそれだけ単調で乏しいということなのです。   冒頭で言ったように、ここまでは誰もが持っている問いです。 あと2つの問いについてはこれから説明しますが、ここで分かっておいてほしいのは、 それを持っているという事実が重要なのではなく、持っていることを自覚しておくことが 重要だということです。 この問いを自覚することによって、われわれは自分の判断の危うさ、自分の大衆性 (凡人性)を知ることができます。 例えば「何を見るのか」という問いは、多くの人にとって「どれを見るのか」という 問いになっています。 展覧会や美術館の数が限られている以上、それはある意味では仕方のないことでも あるのですが、問題はそこではなく、彼らは勝手に自分でその選択肢をしぼっている ということです。 10個の展覧会があったとしら、その10個のうちから選ぶのではなく、大衆はそれを 「恣意的に」3つぐらいにしぼった上で選びます。 その3つというのは大体、有名だとか、車内広告で見たとか、そういう理由で しぼられていて、彼らはその中からしか答えを出そうとしないのです。 これは夢を諦める人間の思考とまったく同じです。 彼らはやってもいないことを勝手に出来ないと決めつけ、自分から人生の選択肢を しぼっています。 その夢が叶うかどうかはやってみなければ分からないのに、その展覧会が面白いか どうかは行ってみなければ分からないのに、勝手に「出来ない」「面白くない」と 決めつけるのです。 これによって彼らの可能性が著しく狭まっていることは、言うまでもありません。 しかし彼らはそれを自覚していないし、気付こうともしません。 権威主義的な(ミーハーな)展覧会に集まる人間とは、こういう人間なのです。   さて、寄り道はこれぐらいにして、話を前に進めましょう。 われわれが持つべき3つ目の問いは 3.なぜ見るのか です。 なぜ自分はその展覧会を見るのか。 なぜ自分はこの作品を見るのか。 これには明確な答えは必要なく、問うことそのものに意味があります。 というのは、ガダマーが言うように 問いの本質は、可能性を開き、開いたまま保持することにある からです。 可能性を開いたまま保持するということは、その展覧会と、またはその作品と、 常に関係を持ち続けるということです。 それは必ずしも意識的に関係を持ち続けなければならないという意味ではありません。 心に残る作品や展覧会とは、すべて、事ある度にわれわれに「なぜ見るのか」という 問いを生起させるものだからです。 つまり「なぜ見るのか」という問いは、自分から意識的に持つようなものではなく、 あちら側から投げかけてくるものなのです。 それを上手く受け取れるかどうかは、あなたの人間としての器にかかっています。 小さなグローブでは、真正面にきた素晴らしいストレートのボールでも取り損ねて しまうのです。   最後の4つ目の問いは 4.見るとはどういうことか です。 これが「見るとは何か」という問いでないことに注意してください。 「見るとはどういうことか」という問いは、われわれにとって見るということが 何を意味するのか、ということを問うているのです。 難しい話になりますが、見るとは、われわれの存在の仕方の1つです。 われわれが何かを見ているとき、それはわれわれが見るという仕方で存在していると 言い表すことができます。 つまりこの問いは、哲学的に言えば それを了解しつつ見るという認識を可能にしているア・プリオリな諸条件とは何か ということであり、簡単に言えば 自分のことをもっと探求してね ということです(笑) 自分を探求することについて詳しく話し出すと立派な論文ぐらいの量になってしまうので 今は割愛させてもらいますが、1つだけヒントを出すと 常日頃から自分を自覚しておくこと を意識するといいと思います。 認知科学的な言い方をすれば、メタ認知(メタ思考)能力を鍛える、という感じになる でしょうか。 このことが「見るとはどういうことか」にどう繋がるのかは、やれば分かります。 気になったら、やってみてくださいな。   長くなったので最後にまとめておきましょう。 われわれが美術を「実存的に」鑑賞するために持つべき問いとは   1.何を見るのか 2.どう見るのか 3.なぜ見るのか 4.見るとはどういうことなのか   の4つです。 これらがすべて揃ったとき、われわれの前に「素晴らしさ」が現れます。 これは逆に言った方が実感しやすいかもしれません。 われわれが素晴らしさを感じているときには、無意識的にこういう問いを自分の中で 投げかけているのです。 それらの問いの総合的な答えが素晴らしさであり、実存です。 今はこれを理解できなくても構いません。 ただ、頭の片隅には置いておいてください。 ちゃんと努力を続けていれば、そのうち意味は「実感」できますから。   追伸1:所感など。 僕が『脱凡人のすすめ』という奇怪なタイトルのメルマガを出しているのは既に ご存知かと思いますが、そこでテーマにしてる「凡人から脱する」ことが美術を 「正しく」鑑賞することや美術を理解することに繋がっているということに 気付いている人は極わずかしかいません。 当たり前の話ですが、凡人に美術は理解できません。 だってそういう人間のことを、われわれは「凡人」って呼ぶんだから。 哲学も分かろうとしない、芸術も分かろうとしない、難しいことは何も分かろうと しない。 それが凡人です。 これは凡人をバカにしているのではなく、凡人の定義を述べているに過ぎません。 そうやって怠惰に生きることを何とも思わない人間のことを、われわれは凡人と 呼んでいるということです。 ちなみに、無知であることと凡人であることとは関係ありません。 誰だって初めてのことに関しては無知なのですから、そんなのは仕方のないことです。 そうではなく、自分が無知であることを知りながら、それを克服しようとしない人間が 凡人だと言っているのです。 「美術が分からない」と自覚していながら、その分からない状態をそのまま 放置しておく人間ってどうなのよ、と。 あんたそれでも人間として恥ずかしくないのかよ、と そんなんでよく自分の子供に、勉強しろ、なんて言えるな、と。 僕が言いたいのは、そういうことです。   ここまで言えば僕が普段から抱いている気持ちは分かって頂けたと思います。 僕もバカの類ですから、バカをバカにするような自虐行為はしません。 ただ、自分がバカだってことを知ってるなら、そのバカという短所は克服しようぜ、と 言っているのです。 「脱凡人」とは、人間としてまともに生きよう、ということです。 凡人のように怠惰に生きるのではなく、そこから脱して、人間らしく向上心を持って 生きよう。 そういう思いを込めています。 それはメルマガに限った話ではありません。 このブログも、もう1つのブログも、いつも気持ちは同じです。 僕がプロフィールに「教養主義」と書いているのは、こういうところに由来しています。 僕の教養主義は、自分がバカだと自覚しているからこその教養主義だということを、 分かってもらえると嬉しいです。 ありがとうございました。   追伸2:哲学。 この記事にはハイデガーとコリングウッドの哲学を織り込みました。 美術に負けず劣らず、哲学も楽しいですよ。     ...more»
自分を知る ~ハイデガー著『存在と時間』を手引きに~
ども、ペスです。 突然ですが、あなたは自分のことをどれだけ知っているでしょうか? 自分の趣味や特技、価値観、身長体重、性格、癖、顔、それぐらいのことは誰だって 知っていると思いますが、それが自分を知っていると言えるかどうかは別の話です。 多くの人は「自分を知っている」ということが何を意味するのかを知らずに自分を 知ろうとします。 何を知っていれば自分を知っていると言えるのか。 自分を知っていると言うためには、何を知っておかなければならないのか。 こんなことを知っている人は皆無なワケですが、これを知っておかなければ 何をもって自分を知ることになるのか判断できません。 それ以前に、そもそも自分を知ることは可能なのかという問題があります。 あまり話を長くしたくないので、自分とは何か、みたいな話はすっ飛ばして話を しますが、結論から言えば、われわれの従来的な思考回路では自分を知ることは 出来ません。 なぜそう言い切れるかというと、「知る」ということ自体を可能にしているのが 自分だからです。 自分を知るとは、知ることを可能にしている自分を知る、ということです。 自分が存在しなければ知ることは不可能ですし、その「知る」が何を意味するかは 自分を調べなければ分かりません。 自分は何がどうなることを「知る」だと思っているのか。 それを知っておく必要があるワケですが、自分を知るには、それを知ることすらも、 さらに知っておかなければならないのです。 これは、われわれが自分の目を見られないことを考えてもらえれば、なんとなく 分かると思います。 われわれが何かを見られるのは自分の目があるからですが、その自分の目を直接 見ることは誰にもできません。 それは何かを見ることができるという前提を自分の目が担っているからです。 つまり見ることを可能にしているものを見ることができないのと同様に、知ることを 可能にしているものを知ることもできないのです。 この思考回路のまま「自分とは何か」なんて問いかけてしまうと、よくある泥沼には まってしまうことになります。 「自分を知る」には「自分を知る」が何を意味するかを知らなければならず、 『「自分を知る」を知る』には『「自分を知る」を知る』が何が意味するかを 知らなければならなくなり、以下ずっとこれが続くワケです。 これでは永遠に自分にたどりつけないのも仕方ありません。 さてさて。 それではわれわれは自分を知るということに対して絶望するしかないのでしょうか。 ここでさっきの文章をよく読み直してほしいのですが、僕は最初に大きな条件を 提示した上でこのことを話しました。 そう「われわれの従来の思考回路では」という前提です。 これは、上の理屈が正しく見えてしまう、その思考回路のままでは自分を知ることは 出来ないよ、ということを意味します。 つまりその思考回路さえ乗り越えることができれば、希望の光が見えてきそうな 気がする、ということです。 しかしどうやって・・・? ものすごい乱暴な解釈ではありますが、その方法を細かく解明しようとしたのが ハイデガーの『存在と時間』なのです。 ハイデガーはこの著書の第一章第一節において、「存在」という概念に対する 従来的な定義の仕方そのものに疑問を突きつけています。 例えば人間を概念的に定義する場合、普通それは「理性的な動物」とされます。 これは人間という概念を一段上の抽象概念で言い換えているワケですが、「存在」は この定義の仕方では定義することができないし、「存在」は定義不可能であるという 結論にはもっと納得がいかないので、その定義の仕方自体を見直すべきではないかと ハイデガーは言うワケです。 そして、この第一節の最後で彼はこう言います。 存在への問いには答えが欠けているだけでなく、問いそのものさえ不透明で 無方向なものだ、ということである これは要するに「存在とは何か」といった問いは、まったく無方向で何を求めて 問うているかが分からない、ということです。 「そんな形而上学的な問いかけに何の意味があるのか」とまでは言っていませんが、 そういう雰囲気が行間からは伝わってきます。 だから答えを探すより先に、まずは問題設定を見直していきましょう、と。 ということで第二節では存在への問いの形式的構造、簡単に言えば、われわれが 何かを問うとはどういうことかを考えていくワケです。 この第二節の中で 存在とは、いつも、ある存在者の存在である という重要な言葉が出てくるのですが、これは存在は存在者から切り離すことは できないのだから「存在とは何か?」という問い方は変だ、ということです。 普通われわれは「自分を知る」というと「自分とは何か?」とか「私とは何か?」と 無意識に問いかけてしまうワケですが、それは「自分」という単なる抽象概念、 すなわち現実の自分とは切り離された抽象的な「自分」とは何かを問いかけているに 過ぎません。 本来「自分」と「それを問うこと」は切り離せないのですから、現実的な在り方で 自分を知りたいのであれば、この両方に対する答えを導く問いが必要なワケです。 では、どのような問い方が正しいのか。 それについては人によるので一概には言えないのですが、仮に僕が自分のことを 問うとしたら 「僕は僕自身であるか」 と問います。 僕は客観的で誰もが納得できるような答えは求めていませんから、自分とは何か、と 問う必要はないワケです。 僕が知りたいのは、僕はちゃんと僕自身と一体化しているか、僕は僕自身として 機能しているか、ということだけです。 ハイデガーの言葉を使うなら、イマココの自分が本来的であるか非本来的であるかを 了解しておきたい、という感じでしょうか。 僕を僕自身から切り離さずに問うと、こういう風になります。 この意味を理解するには、今のわれわれが持っている(存在的な)思考回路を ハイデガー的な(存在論的な)思考回路に切り替える必要があるワケですが、 これは非常に難しいことです。 われわれは従来的な思考に慣れてしまっていますから、いきなり問い方が間違っていると 言われても、ピンとこないのです。 われわれが学校で教わるのは、問いに対する答えが正解か不正解かということだけ。 そこでは、問いは絶対に間違わないことが暗黙の前提になっています。 だから日本の受験制度のようなものがまかり通るワケですが、答えても意味のない 問いならば、それは問いそのものが間違っているのです。 自分とは何か? この問いに苦しめられている人は今もたくさんいると思います。 これに対する答えを探すために、自分探しの旅に出てしまったり、自己診断テストの ようなものに大金を費やしてしまったりする人は今もあとを断ちません。 本人がそれで納得しているなら構わないのですが、少なくとも僕はそのことを あまりいいことだとは思いません。 自分はイマココに存在するのですから、探したり見つけたりするものでもなければ、 遠くにあるようなものでもないと思うのです。 ましてや1時間やそこらのテストで分かるほど薄っぺらいものではないはずです。 今一度、冷静に考えて下さい。 自分は何のために「自分とは何か」と問うのか、と。 その問いに答えてどうするつもりなのか、と。 そこから得られる答えはきっと、あなたの思考回路を静的なものから動的なものへ、 存在的なものから存在論てきなものへ、イデア的なものから現実的なものへ 変えてくれると思います。 ではでは。 ...more»
実存とは
  実存とは、「実際に在る」「現実に存在する」ということを広く表した概念です。 何をもって実存とするかは人それぞれの考え方があるので決定的なことはいえませんが、実存主義者と呼ばれるような人たちは僕が『メルマガ登録』の記事で言っているような“リアルな”現実を追い求めていたと言えます。 かつて、サルトルは「存在なんて気持ち悪い、吐き気がするぜ!」と言い、ハイデガーは「いやいや、存在というのは奇跡なんだよ!みんなもっと驚けよ!」と言い、ニーチェは「ありもしないお花畑ばかり見てないで、お前らもっと現実を直視しろ!」と言いました。 それぞれ現実に対する態度はかなり異なっていますが、彼らはみな実存を真摯に追い求め、実存的であることに人生を注いだワケです。   翻ってみると、このことは当時の人々が「現実をおろそかにしていた」、「非実存的だった」ということを意味します。 誰もが現実を見失い、ありもしない虚構ばかりを見て生きている。 そういう現実があったからこそ彼らは実存を追い求めたワケです。 ヨーロッパの産業革命が一通り終わりに近づき、近代化がいちじるしかったこの時代は、人々がモノ的になっていった時代でもありました。 資本主義の発展に伴うプロレタリアートとブルジョワジーの対立、帝国主義による世界の植民地化、2度にわたる世界戦争・・・これらの事実はすべてこの時代が人々をモノ的に扱っていたことを証明しています。 モノ的とは、その名の通り「モノのように」ということであり、資本主義や帝国主義や戦争は人々を「労働力」というモノに置き換え、まさに使い捨てるかのように命を消費していったワケです。 こういった経緯により彼らは徐々にお互いをモノ的にしか見られなくなり、何事に対しても使えるか使えないか、役に立つか立たないか、労働力ガあるかないか、お金を生むか生まないかでしか価値を見出せなくなっていきました。 また別の方面では資本主義が人々の個人主義を促進し、より自分本位で自己中心的な人間が量産されていたことも見逃せません。 彼らは自分のことだけしか考えない人間だったからこそ、他国の資源を奪ったり、相手を殺してまで自分の利益を優先したりということが出来たのです。 こうして「モノ的」で「自己中心的」な人間が世界を支配するようになったワケです。 しかしながら、現実は「モノ的」とか「自己中心的」といったものから遠く離れた概念であり、まったく性質の違うものです。 「モノ的」とは、もう少し具体的に言えば科学的価値観のことですが、そもそも科学は現実を部分的に切り取ったものにすぎず、数字になるものや言葉で言い表せるものは現実の一部分でしかありません。 その一部分でしかないものしか信じない、それがすべてであるという態度が「モノ的」な態度なワケです。 それはさすがに現実を見ているとは言えないですよね。 この世には科学で証明できないこと、数字や言葉にならないことがたくさんあるのに、そういったことを一切無視している。 ちょっと前にホメオパシーのレメディー(でしたっけ?)を用いた代替医療を猛烈に批判していたのは、科学を盲信した「モノ的」な人たちです。 彼らの言い分も間違いではないのですが、人間の理性では測り知れないことが実際には数多くあるワケですから、すべてを科学的価値観で測ろうとするあの態度はどうなのか、と。 それは果たして“リアルな”現実を見ていると言えるのか、と。 そう思うワケです。   「自己中心的」というのも、その考え方自体がそもそも現実的ではありません。 自己中心的に自社利益を最大化しようとした結果、自社が倒産する(ほされる)なんてことは往々にしてあるし、囚人のジレンマよろしく、ゲーム理論でも自己利益を追求することが自分にとって最も損な結果を生むと証明されている。 仮にこれらを知らなかったとしても、道徳的にそういうことをしたらマズイことが起こりそうだというのは感覚的に分かるのが普通だと思うのです。 にもかかわらず、それを平気をやってしまうあたりが、どれだけ現実が見えていないかを証明していると言えるでしょう。 われわれが非実存的になった要因は他にもあると思いますが、大雑把に言えばこういったプロセスを経て、いつしか「現実のようなもの」がわれわれにとっての現実になってしまったワケです。   この非実存的な状況は今も変わっていません。 いや、視点を変えてみれば、この当時よりも悲惨なことになっていると言えます。 今は他人に命を奪われるのではなく、自分で自分の命を絶つような生物学的に異常な人間が大量に現れ始めたのですから。 このような状況を少し難しい言葉で「実存の危機」と言います。 感覚的には「生きている実感がない」、「生きている意味を感じない」、「なんのために生きているのか分からない」、「今の私は本当の私ではないような気がする」、「なんとなく将来が不安」というような状態です。 この中身は症状の軽いものから重いものまでさまざまです。 今すぐ死んでしまいたくなってしまうようなものもあれば、居心地は悪いけど別に死のうとまでは思わないというものもあります。 ただ、誰もが何かしらモヤモヤした漠然とした不安を抱えている、というのが実存の危機たる状況なのです。 この居心地の悪さというのは先ほど上で話したようなものに加え、急速な時代の変化や常識の変化なども関係しています。 要するに「自分の思っている現実」と「実際の現実」が気付かないうちにどんどん乖離していっているから、なんとなく自分の日常に現実感がなくなり、気付いたときには茹でガエルのごとく手遅れになってしまうワケです。   この状況を打開するにはわれわれが実存を取り戻す必要があるワケですが、そのヒントとして、かつて歴史的な実存の危機を生きた哲学者の言葉が役に立ちます。 彼らはその時代において常に現実と向き合い、危機を乗り越えようともがいた稀有な人間です。 そして彼らは歴史に名を残すほどの鬼才でもある。 幸いにして、われわれはたった1000円程度のお金で彼らが一生をかけた臨んだ哲学に触れることができます。 それらは決して読みやすいものだとは言えませんが、人生をかけてでも読む価値のあるものばかりです。 別に今すぐに読めなくてもいいのです。 日々勉強をかさね、たまにペラペラとページをめくり、読む気にならなければまた本棚へしまっておく。 これを繰り返しているうちにどこかのタイミングで少しずつ読めるようになってきます。 なんとなく言わんとしていることが分かってきます。 そしてそうなったときには、あなたは既に実存の道を歩み始めているのです。   ...more»
積読(つんどく)の意義
  随分とご無沙汰しております(苦笑) セミナーも無事に終わり、最近はアートに夢中に なりつつある今日この頃。 縁あって、今あるアーティストさんと一緒にビジネスを やっているのですが、この業界はなかなか興味深いです。 なんと言っても売れるモノと売れないモノとの違いが 恐ろしく分かり難い(笑) まあそこが面白くもあるんですけどね。 「なぜ人はアートを買うのか」 もし暇だったら考えてみて下さい。 では今日も張り切っていきましょう! 僕はよく本をまとめて衝動買いしてしまうことがあるのですが、 こういう人って僕に限らず結構いると思います。 今読んでる本があるにも関わらず、本屋で魅力的な本を 発見するとついつい買ってしまう。 で、買ったはいいものの、今読んでる本を読み終わった ときには、また別の欲しい本を見つけてしまい、それも ついつい買ってしまう。 そしてどんどん読まない(読めない)本が溜まっていく。 これを俗に積読(つんどく)というワケですが、 僕も例に漏れず積読主義者の一人です(苦笑) 今や恐らく10年あっても読みきれないであろう本が ずらずらと僕の本棚にはコレクションされています。 半ばオブジェ的に・・・。 さて、この積読。 世間一般には「できれば解消したいもの」と考えられており、 過激派の中には「読まない本なんて買っても無駄」という 意見を持った方々もいるとかいないとか。 確かに本は(一部を除いて)読まれるために生まれてきている ワケですから、出来る限り読むに越したことありません。 買った本は読んでナンボ。 それは間違いないでしょう。 ただ、だからと言って積読が無駄なことだとは 僕には思えないんですね。 「どうせ読まないなら、買っても買わなくても一緒」なんて 意見もあるかと思いますが、そもそも「どうせ読まない」 という前提が正しいのかどうかを考えてみて下さい。 未来のことなんて誰にも分かりません。 なのに「どうせ読まないだろう」みたいに自分の行動を 決め付けてしまうのは、いかがなものでしょう? そう決め付けるよりも、むしろ「いつか読むかもしれない」 という前提で考えた方が将来の可能性は広がるし、個人的には 楽しそうな気がします。 教習所で習いませんでした? 「だろう運転」はいつか事故る、って。 多分「読まないだろう」も、どこかで事故るんじゃないかな。 自戒・・・。 読むか読まないかなんて分からない。 読めるか読めないかなんて分からない。 でも、買った本は「いつか読むかもしれない」ですよね? 逆にその時出会った本を買わなかったら「もう出会えない かもしれない」ですよね? だったら、読むか読まないかはともかく、買っておけば いいんじゃないの?積読しとけばいいんじゃないの?と 僕は思うワケです。 これはある意味、合コンの論理と同じ。 相手が自分のことをどう思ってるかは分からないけど、 取り敢えず携帯番号とアドレスぐらいは聞いておけば いいのです(笑) もしかしたら脈があるかもしれないんだから。 仮に脈がなかったとしても、それはそれ。 番号とアドレスすら聞いてなければ、脈があるなしに 関わらず、可能性は閉ざされてしまいます。 それはあまりにも、もったいないでしょ?と。 そーゆー話です(笑) 人との出会いと同じで、本との出会いも一期一会。 何億冊、何兆冊もある本の中から奇跡的に出会った本が あるのなら、その機会は受け入れるべきではないでしょうか? ましてやそれが世間の風評に流されて欲しくなったものでは ないのならば、尚更です。 自分の意思で、自分の直感で、自分の感性で感じて 欲しいと思った本は、役に立つ立たないに関わらず 買っておくべきだと僕は思います。 なぜなら、それこそアナタが本当に欲している本だから。 直感とか感性とか言っちゃうとスピリチュアルな世界の話に 聞こえてしまうのが難点なのですが、実は僕が言いたいのは そんなふわふわした話ではありません。 まずは少し前(?)に書いたアフォーダンスの話を思い出して 下さい。 ここで僕はコップの話をしています。 コップの取っ手は「ここを持て」ということを僕達に訴えて (アフォードして)いる、と。 忘れてたら今すぐにちゃんと読み返して欲しいんですが、 要するにコップはそこに在るだけで僕らに何かしらを アピールしているワケです。 しかーし。 よくよく考えると、コップは僕らに対してずっと 「取っ手を持て」とアフォードしているワケではないことに 気付くと思います。 コップが僕らに「取っ手を持て」とアフォードしてくるのは 僕らがコップを使おうとしているその時だけです。 喉が渇いて水を入れるのか、洗ったコップを乾かすのか、 その状況は色々あると思いますが、僕らとコップに何らかの 関係を築く必要が生じたときにコップは僕らに語りかけてきます。 だから当然、僕らがコップに対して何の用もないときは、 コップは基本的には黙っている。 要するに、「取っ手を持て」というアフォードは 僕らの【いま・ここ】を反映しているのです。 僕らが今ここで何をしたいのか。 今ここで何をすべきなのか。 それがコップのアフォードとなって返ってきているワケです。 このアフォーダンスと「いま・ここ」の論理を本との出会いに 置き換えると、本が「買ってくれ」とアフォードしてくるのは、 僕らの「いま・ここ」がその本に反映されているから、 ということになります。 つまり、僕らは心のどこかでその本を欲しているのです。 その本に用があるから僕らはそれを欲するのです。 普段こんなことはあまり考えないと思いますが、 実はこれは凄く大事なことなんだということに 気付いて下さい。 なぜ何万冊もある本棚の中から、その本だけが目に付き、 欲しくなってしまうのか。 本が分かり難かったら衝動買いの類を全部含めて考えても 構いません。 なぜそのバッグだけが、なぜその靴だけが、なぜその財布だけが 欲しくなってしまうのか。 大概は、デザインが好みだから、という理由で 欲しくなるのだと思いますが、じゃあなんでそのデザインが 好みなのか、というのも考えてみて下さい。 自分の心に思い描く「具体的な」デザインがあって、 そのデザインにピッタリ当てはまるものがあったから 欲しくなったのかと言われると恐らくほとんどの人は そうじゃないと思うんですね。 どっちかと言うと街中でたまたま見つけたバッグ、靴、財布が 自分の「抽象的な」イメージにピッタリ合って猛烈に 欲しくなってしまった、という感覚だと思います。 つまり出会った瞬間「いま・ここ」において自分は本当に 欲しているものに気付くのです。 そうそう、オレはこんな靴が欲しかったんだよ!って。 欲しいモノが現実として具体化されるのは「いま・ここ」の 瞬間においてだけなのです。 そしてブーバーやハイデガーの考えを加味するならば、 「いま・ここ」を全力で生きている時にしか神には出会えない ということになります。 これは言い換えると、 本当に欲しい本(モノ)に出会うには、本当の自分として 生きていなければならないし、本当の自分として生きるには、 自分の「いま・ここ」を完全燃焼しなければならない ということです。 そうすれば、それは自ずと衝動となって現れる。 その衝動こそが神との出会いなのです。 上記の話では積読そのものよりも積読になる過程の話を メインに書きましたが、この論理(?)は積読してからも 当てはまります。 自分の部屋に読んでない本がたくさん積まれている。 この本の中から自分の「いま・ここ」に応じて アフォードしてくる本が今読むべき本なのです。 なんとなく手に取った本のたまたま開いたページに 自分の欲しい答えが書いてあった、なんてことは比較的 よく聞く話ですが、その原理はこういうところにあります。 全力で生きていれば、いつでも神は降りてくるのです(笑) ではでは。 ありがとうございました! ...more»
名前論(後編)
ども、ペスです。 いよいよ(?)名前論も最後の回となりました。 ダラダラと無駄に長い前置きを書いてやろうかと 思ったのですが、まったく面白い文章が思い浮かばないので、 さっさと本編に入っちゃいます。 えー、予告通り、今回は前回書いた素朴な疑問の前者を 考えていきます。 その疑問というのは 世の中には「ジョン」という名前の人間が複数いるにも関わらず、 僕らはどうやってそれらを使い分けているのでしょうか? 僕のハンドルネームは【ペス】ですが、リップスライムにも ペスという人がいるし、ネット上には僕以外にもハンドルネーム としてペスを名乗っている人はたくさんいます。 にも拘らず、このブログを読んでいるあなたは意識するまでもなく 【ペス】が僕を指すことを知っている。 これは一体なぜなんでしょう? というもの。 もはや当たり前過ぎて考える気にすらならないかもしれませんが、 こんな高度なことを当たり前に出来る凄さというのを今一度 確認してみて欲しいんです。 だってよく考えてみて下さい。 コンピュータにこれと同じことをさせようと思ったら、 どれだけプログラムが複雑になることか。 顔写真とか声とか指紋とか特定の情報があればコンピュータも 一瞬で個人を判別できますが、ある文章に書かれている「ペス」が どこの「ペス」なのかを判別するのは、僕らが思っている以上に 複雑な処理を必要とします。 例えば、「ジェフ」と呼ばれたら動く、ある賢いロボットが 複数台いたとします。 少し前に流行った(?)アイボとかがそーゆーやつですが、 この手のロボットは「ジェフ」という名前には反応できても その「ジェフ」が自分に言われているのか自分以外に 言われているのかが判断できません。 もしかしたら顔の向きで判断できる更に賢いロボットも いるのかもしれませんが、それでも後ろ向きで「ジェフ」と 呼ばれれば、自分のことかどうかは分からない。 つまり、そのロボット達は前後の会話の流れ等から 「ジェフ」という名前に対する文脈を読むことが 出来ないのです。 これが人間であれば、さっき発した「ジェフ」と 今発した「ジェフ」が違うということを当たり前のように 区別することが出来ます。 (もちろん人間も時には間違います) 要するに、そんな複雑な処理を僕らはどうやって当たり前に 行っているのか、ということをここでは考えていきたいワケです。 ではまず、一休さんの話を例に考えてみましょう。 「このはし、わたるべからず」 一休さんはこの張り紙を見て橋の真ん中を堂々と渡った、 という話は有名だと思いますが、ここに今回の疑問を 考える大切なヒントが隠されています。 ご存知のように、日本語で【はし】と言えば、 【橋】と【箸】と【端】の3つが代表的です。 しかしながら、この3つは発音では区別されません。 つまり、漢字で表されていなければ、文脈からしか 意味を捉えることが出来ない、ということです。 「【はし】でご飯を食べる」 と書かれていれば、文脈上この【はし】は【箸】 だということが分かりそうに思いますが、 果たしてそれは本当に【箸】なんでしょうか? 例えば教室の端でご飯を食べるのが好きな人がいて その人が【端】でご飯を食べている、なんてことも ありえない話ではないですよね? はたまた【橋】(の上)でご飯を食べている人も いないとは言い切れない。 むしろ「【箸】でご飯を食べる」なんていう 自明なことをわざわざ言葉に出す人が現実にいるのか、 という逆説的なことも考えられます。 ということは「【はし】でご飯を食べる」という文章だけでは その【はし】が何を示すのか文脈が十分に読み取れない、 ということです。 じゃあ、そもそも文脈とは何なのか。 それは、発言者(発信者)の【イマ・ココ】である、 と僕は考えています。 【イマ・ココ】とは、この言葉の通り「その時その場所」 という意味です。 これは別に難しいことを言っているワケではありません。 僕が言っているのはめちゃくちゃ当たり前のことで 「【はし】でご飯を食べる」という文脈は 「【はし】でご飯を食べる」と言った本人が 置かれた状況、その時その場所によってしか判断出来ない、 ってことを言っているだけです。 本人は「いつ」「どこで」「何を考えて」それを言ったのか。 それによって【はし】は【端】にも【箸】にも【箸】にも 成り得るし、【ペス】は僕にも僕以外にも成り得ます。 ってことはですよ? 【はし】1つ判断するのにも、その発言者の【イマ・ココ】、 つまり心理や歴史(背景)、環境、時間、そういった目に見えない 数多くの情報を処理しないといけないワケです。 そこには時系列的な前後の関係性も関わってくるし、 その場にいる人との関係性、その人の自己内における関係性、 という複雑な情報も関わってきます。 これを俗に【察する】というワケですが、これがどれだけ 凄いことなのかは、最初に出した例を参考に考えてみて 下さいませ。 さて。 今頃は、なんだか分かったような分からないような 変な気持ちでいることと思います。 急に【イマ・ココ】なんていう変な言葉を持ち出されも ワケが分からないだろうし、そもそもこの記事自体が 何を言いたいのか分からない、という非常事態も 起こっていることでしょう(笑) まあそれも無理はありません。 存在論と関係性、正確にはハイデガーとソシュールと ベイトソンとギブソンの議論を絡めて話しているんだから そうなるのも当然のことです。 ご心配なさらずに(笑) ただ、1つだけちゃんと分かっておいて欲しいのは 僕らが当たり前に使っている名前1つ取っても、 背景はこれだけ複雑に入り組んでいるんだということです。 単純で自明に見えるものほど、実際は酷く疑わしく、 複雑で難解に見えるものほど、実際は一義的で なんでもないことだったりするのです。 「【当たり前】とは何か」 もし時間があれば、そんなことを考えてみるのも 面白いかもしれません。 長い文章にお付き合い頂き、ありがとうございました。 また次も読んでね。 ではでは。 追伸 書いてから気付きましたが、今回はほとんど 「名前」について触れてませんでしたね(苦笑) ま、たまにはそーゆーこともあります。 気にしない気にしない、一休み一休み。(おい・笑) ...more»
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