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哲学書を読む意味 ~ライフスタイルとしての教養~
  昨日お話ししたように、僕は今キルケゴールの『死にいたる病』に ハマっています。 少し前はアレントやブーバー、ハイデガー、ガダマーなんかに ハマっていた時期がありますが、これらの本の内容というのは はっきり言って何の役にも立ちません。 哲学書とは、当たり前のことをただ事細かに、ときに熱く(笑) 詳説してくれる、それだけのものだからです。 一方で、ビジネス書や自己啓発書、その他「実用書」と呼ばれる 種類の本たちは、何かの役に立つようなことが書かれています。 その内容はマーケティングやコピーライティング、営業、簿記、 ダイエット、整理整頓、料理の作り方などなど多岐にわたる ワケですが、どれも何か特定のことに役立つ(すぐに使える) という点で共通しています。 僕はここ1,2ヶ月ほどの間、この「役に立つ」という言葉に かなり苦しめられました。 なぜか分からないけど(いや、本当は分かってるんだけど)、 「自分も役に立つ何かをしなきゃいけない」という思いが ふつふつと湧いてきて、いくつかの「役に立つ」系の セミナーに参加してみたり、これまでほぼ無視してきた ビジネス書なんかも買ってみたりしました。 しかしその結果どうなったかというと、僕は僕ではなくなって しまいました(苦笑)。 そう、自分を見失ってしまったのです。 そこから散々な苦悩を経て、ようやく元に戻ることができた今、 改めて分かったことがあります。 「役に立つ」とは、損得勘定の視点で物事を見ることである、 ということです。   哲学書は何の役にも立たない。 この言葉は言い換えると、哲学書を読んで得することは何もない、 という意味になります。 自動配信されたバックナンバーでも話していると思いますが、 こういう損得勘定というのは、しょーもない人間の典型的な 考え方です。 「訴えられたら損 → だから法を犯すようなことはするな」 これと同じで哲学書も「読んでも得はない → だから読まない」 という判断になっています。 たしかに哲学書を読んで得することはないかもしれません。 その時間をビジネス書の読書に使えば、何かしら役に立つ知識が 得られることでしょう。 しかし僕にとって哲学書を読むことは、損か得かではなくて、 「哲学書を読んで1日を過ごすような素敵な自分であること」、 つまり哲学書を読むという無駄を許容できるぐらいの余裕があり、 損得勘定に縛られないという理想の自分を実現することなのです。   ほとんどの人が1ページすら読めない難しい本を、 時間を気にせず、損得も気にせず、楽しく読めること。 それが僕が理想とする自分であり、ライフスタイルです。 その内容が役に立つか立たないかは、どうでもいいんですよ。 苦悩を経た結果、やっとそのことに気付くことができました。 僕のメルマガやセミナーは、役に立つ何かを提供しているワケ ではありません。 そうではなくて、(直接的には)何の役にも立たないかも しれないけど、知的興奮を味わえたり、キッカケが得られたり、 心が晴れたりする、もっと言うと、そういったものに時間や お金を使えるぐらい余裕のある「ライフスタイル」を 提供しています。 教養も、教養それ自体が役に立つか立たないかはどうでもよくて、 「教養を身につけようとする自分であること」が大事なのであり、 それが素敵な自分であるということなのです。 哲学や芸術や宗教のことに詳しくなっても、多分直接的に何かの 役に立つことはありません。 でも、それらに魅力を感じる自分であることは、 何ものにも代えられない価値だと思います。 だって98%ぐらいの人は、損得勘定に縛られてそれに魅力を 感じることができないんだから。 教養は役に立つことが価値なんじゃなくて、 それに価値を感じられる自分であること、そして自分と 同じような人たちに共感できることが価値なのです。   哲学で飯は食えない。 それはそうかもしれません。 でも「哲学を愛する自分であること」を本気で発信できれば、 それで飯は食えます。 他でもない僕がそうだからです。 大事なのは哲学というコンテンツではなく、哲学を好きである自分、 哲学書を楽しく読める自分というコンテクストなのです。 これは哲学でなくても同じです。 どんなことであれ、それをコンテンツとして捉えているかぎりは、 直接的に役立つ何かでないと飯は食えません。 しかしそれを好きである自分、それを愛している自分がいるなら、 そのコンテクストに人は集まってきます。 コミュニティは勝手にできます。 僕の苦悩は、このコンテンツとコンテクストの間を行き来する、 まさに時代を跨ぐためのものだったのです。   僕がこれまで発信し、体現してきたことの1つは 「なんでも損得で考えるのはやめようぜ」ということです。 つまり「コンテンツで選ばずにコンテクストで選ぼうぜ」と。 僕はそんなことを語ってきたのだなぁ、と気付きました。 にもかかわらず、ここ数カ月の僕はそれとは真反対の、 コンテンツの側に重きを置こうとしてしまっていました。 愚かだったと思います。 でも、その苦い経験があったからこそ、こうして今までより 一層自分にとって大事なものが明確にくっきりと見えるように なりました。 もうこんな経験はこりごりですが、多分またどこかで 経験することになるんでしょうね(苦笑)   大事なことなのでもう一度言っておきます。 学んだ内容云々ではなく、何かを学んでいる姿勢そのものが われわれにとっての価値です。 政治でも哲学でも宗教でもなんでも、それが役に立つかどうか ではなく、それを学んでいる自分であること、そこに楽しさを 見出せる自分であることが価値なのです。 僕のメルマガを読んでいる時点で、あなたはその一歩を 踏み出しています。 自分にウソをつかず、嫌なもんは嫌だと、したくないことは 絶対にしたくないと、正直に言いましょう。 その強烈な価値観に、個性に、人は惹きつけられるのです。 大丈夫、僕がついてますから。 一緒に理想のライフスタイルを、理想の自分を実現しましょうね。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
素材化するコンテンツ
ども、ペスです。 以前ボーカロイドについて話した記事で、ボーカロイドは楽曲ではなく声という素材を 提供するものとして登場した、という話をしたと思うのですが、昨今の動画投稿サイトの 現状を見ていると、それはボーカロイドに限った話ではないような気がしてきました。 例えばMADと呼ばれる編集映像(MA?)が1つあげられます。 これは言葉で説明するより、実際に動画投稿サイトで「MAD」と検索してもらった方が 早いと思うのですが、要は個人が勝手に音楽に合わせて映像を編集したものです。 種類は多種多様で、ものによってはプロモーションビデオとして使えるぐらい恐ろしく クオリティーの高いものもあります。 著作権的にはほぼ全てがアウトだと思いますが、このようにコンテンツを素材として 利用した動画がサイトに大量にアップされている現実は見逃せません。 またMADとは少し違いますが、映像と音声の両方を編集して、編集映像に サンプリング曲を付け足したような動画も存在します。 ここまでいくと、元となったコンテンツの原型はなく、全くの別作品です。 他にもゲーム実況動画というのは、ゲームを素材として使っています。 コンテンツとして自らゲームを楽しむと共に、そのゲームを1つの素材として使い、 新たな動画を作り上げる。 こういう新しいコンテンツのあり方が生まれてきているワケです。 これらの例からも分かるように、今や、データ形式におけるコンテンツは世に出た 次の瞬間には素材と化しています。 コンテンツをコンテンツとして使うか素材として使うかは利用者側に委ねられている。 つまり現代人の需要を満たすためには、コンテンツとしてのクオリティーの高さと、 素材としての使いやすさや魅力が必要となってきているのです。 例えば、比較的よく見かける動画に松岡修造の映像や音声を使ったものがあります。 なぜ松岡修造があんなに“素材として”人気なのかは分からないですが、彼の場合は コンテンツとしてよりも、素材としての方が断然人気が高いワケです。 ということはですよ? 松岡修造の音声をまとめて「松岡修造音声集」なんてのを作ったら、ボーカロイド的に 結構売れるような気がしませんか? いや、せっかくなら松岡修造のボーカロイドを作ればいいのです(笑) 映像が必要なら松岡修造をモデルにしたモーションキャプチャーなんかを作って 売り出してもいいかもしれません。 もう少し真面目な話としては、人気アニメのセリフを素材集として売り出せば、 個人でもラジオドラマやアニメを作れるようになり、ボーカロイドみたくみんなの 創作意欲が爆発するのではないかと思います。 どうせコンテンツが素材として使われることが分かっているなら、最初から有料で 使いやすいカタチにして売り出しておけばいいのです。 これなら利用者も編集の手間が省けるし、販売者も著作権収入がある程度確保できる ようになります。 そして何より、新しくて面白いものがたくさん生まれてきやすくなる。 これがコンテンツを予め素材としても売り出す最も大きな意義です。 現代人の欲求は「受け取ること」よりも「与えること」にシフトしてきています。 人間は元々与える欲求の方が大きいはずなのですが、今まではインフラが整って いなかったため、ほとんどの人は受け取るだけで満足せざるをえなかったのです。 けれどもインターネットが登場し、ブログが登場し、動画投稿サイトが登場したことで 誰もが容易に与える側に立つことができるようになりました。 そして動画投稿サイトで他人の作った下らない動画が何万回も再生されている現実を 見ることによって、 「こんなんでいいなら、俺でも作れる!」 という勇気をわれわれは得たのです。 今や、与えることを邪魔する要因は(旧式の)著作権だけとなりました。 今後の課題はこの著作権をいかにして乗り越えていくか、です。 また機会があれば、この著作権についても考えてみることにしましょう。 それでは。 ...more»
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