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アイスクリームのアフォーダンス
ども、杉野です。 ここ数日、関西はクソ暑い日々が続いています。 10代の頃に強烈な蒸し暑さに耐えるバイトをやっていたお陰で、比較的暑さには強い方なのですが、さすがに35度を超えてくるとへばります。 先日、それに耐えかねた僕は某大型量販店へアイスクリーム的なものを求めて、炎天下の中、はるばる出かけていきました。 店についたときには、案の定、汗だく。アイスを食べるにはベストな状態です。 しかし、そこでいざアイスを買おうとすると、不思議なことに、当初の目的だったはずのアイスをまったく買う気にならないのです。 それはそれらの商品が不味そうだったとか、好きなものがなかったとかそういうことではなく、一般に言われる「生理的に受けつけない」という感覚でした。 ご存知のように(?)僕は甘いものが好物です。当然、アイスクリームやソフトクリーム、かき氷なども好物です。 どれぐらい好きかというと、たとえば小学校3年生の夏休みに毎日アイスの類を1本以上食べて、その約1ヶ月で体重を7キロ増やしたぐらいには、その手のものが好きだという自信があります(お陰で中学で部活を始めるまではデブ人生でした)。 その僕が、汗だくになってまで買いに行ったそれらの商品を生理的に受けつけなかったワケです。 これがいかにショッキングであるかは、言うまでもないでしょう。正直、自分でも信じられませんでした。 脳では欲しているのに、体はなぜか拒んでいるのです。 今あなたが思ったように、「そんなバカなことがあるワケない」と思った僕はアイスクリームのコーナーを数分程うろうろしてみたのですが、一向に買いたくなる気配がありません。 そこで僕は考えました。 僕がアイスを買わないのではなく、アイスの方から僕が買わないように仕向けているのではないか、と。 これは実は大真面目な話で、今から話すことは、このアイスから僕に送られたメッセージについてなのです。   ■アフォーダンスについて アフォーダンスという言葉を知っているでしょうか。 これはジェームズ・ギブソンという学者が作った概念で、 物事の意味や価値は、その物事とそれを取り巻く周りの環境や状況によって決定される というような意味で使われます。 例えば、あなたがリンゴを持っていたとしましょう。あなたのお腹が空いていたとしたら、あなたはそのリンゴを食べようと思うかもしれません。 しかし、あなたがストーカーに追われていたなら、そのリンゴを武器として投げつけることもあるでしょう。 またあなたが芸術家だったとしたら、そのリンゴを削って彫刻作品に仕上げるかもしれない。 アフォーダンスの概念では、今挙げた「食べ物」「武器」「作品」という3つの価値は、すべてリンゴに内在していると考えます。 リンゴはわれわれの状況に応じて投げかける価値を変化させているということです。 この「リンゴがわれわれに価値を投げかけること」を、リンゴが価値をアフォードする、という言い方をします。 お腹が空いているときには、リンゴは「私を食べてもよい」という価値をわれわれにアフォードし、ストーカーに追われているときには「私を投げてもよい」という価値をアフォードする。 こういう感じです。 ですから、リンゴそのものは無限の価値を持っています。 上記の以外にも、状況に応じてキャッチボールのボールという価値をアフォードすることもあるかもしれないし、料理の隠し味としての価値をアフォードすることもあるかもしれないし、お手玉としての価値をアフォードすることもあるかもしれません。 われわれは通常、リンゴを食べ物としてしか認識していませんが、リンゴの価値はその限りではなく、状況次第で無限に広がるのです。 ただ、例えばストーカーに追われていたとしても、リンゴを投げるという発想を思いつくかどうかは、その人の機転次第です。 どれだけリンゴが「私を投げてもよい」とアフォードしていても、逃げるのに必死でそのアフォードを拾えなければ、それは価値にはなりません。 この「アフォードを拾う能力」のことを、ピックアップ能力と言います。 つまり、リンゴに無限の価値があったとしても、その価値を拾う人間のピックアップ能力が低ければ、リンゴの価値はごく一般的な「食べ物」としてしか発揮されないということなのです。   ■便利な社会は人間を退化させる われわれの日常は、われわれのピックアップ能力が衰退するように作られています。 スマートフォン、冷蔵庫、電子レンジ、自転車、サプリメント、本、靴、ハサミ、マウスなど、われわれの身の回りにあるものはすべて、あらかじめ誰かによって用途が決められています。 スマートフォンとして売られている四角くて平らで薄い機体はスマートフォン以外の用途で使われることについてはまったく考えられていません。 冷蔵庫や自転車やサプリメントなど、そういった「物の名前」はその物の用途(使い方)とセットになっているワケです。 そのため、われわれは自分のピックアップ能力を使わなくても、その物の使い方を誰か(例えばメーカー)から教えてもらうことができます。 取扱説明書を読めば、そこには特定のアフォードを最大限に活かす方法が載っているワケです。 しかし、本来それをどう使うか、どう活かすかは、提供者ではなくわれわれが決めることです。 リンゴを食べるのか投げるのかは状況によって異なります。 ストーカーに追われていれば、投げることがリンゴの最大の価値になるかもしれません。 赤ちゃんにスマートフォンを持たせれば、投げたり叩いたりすると思います。 それがスマートフォンに本来備わっている無限の可能性です。 赤ちゃんがスマートフォンを投げたり叩いたりするのは、その子にスマートフォンが「私を投げてもよい」「私を叩いてもよい」とアフォードしていて、そのアフォードを赤ちゃんがピックアップしているからです。 それが適切な使い方であるかは別として、そういう可能性をわれわれは無視すべきではないのです。 しかし、世間の商品はその物の可能性をことごとく奪い、たった1つの価値に固定して販売しています。 スマートフォンはスマートフォンとして、自転車は自転車として使われることだけが推奨され、われわれはそれを無批判に受け入れ、盲目的に従っている。 それによって、われわれのピックアップ能力が衰えているということは言うまでもありません。 能力というのは、使わなければ自然と衰えます。 一切のピックアップを慣習的に他者に委ねてしまっているわれわれは、自ら意識してピックアップ能力を使うことによってしか、この能力を鍛えることができなくなっているのです。   ■ピックアップ能力の重要性 ピックアップ能力の有無がわれわれの人生の質を左右することは明白です。 あなたがこここまでメルマガを読んでどれだけの価値を得たかは、あなたのピックアップ能力に依存しています。 僕の書く記事にかぎらず、あらゆる文章には無限の価値があり、状況に応じていろんな価値をわれわれにアフォードしています。 あなたが人間関係に悩んでいるならば、このアフォーダンスの話は人間関係を改善させる方法として読めるかもしれませんし、ビジネスアイデアを練っているならば、斬新なアイデアを生み出す方法としても読むことができるかもしれません。 それはあなたの状況とあなたのピックアップ能力に依存するのです。 ただ、このことはある意味、僕にとって絶望的なことでもあります。 というのは、僕がどれだけいい記事を書いても、あなたの能力が低ければ、それだけ低くしか評価してもらえないからです。 これがお互いにとって大きな損失だということは明らかです。 僕はどれだけ頑張っても報われず、あなたはどれだけいい文章読んでもわずかな価値しか得られない。 これほど最悪な関係はありません。 だから僕は、僕のためにも、あなたのためにも、あなたの能力を 高めることに力を向けなければならないし、向けるべきなのです。 これは僕だけの話ではなく、世界中の人が考えるべきことです。 当然あなたも例外ではありません。 あなたはあなた自身のためにも、あなたの周りの人のためにも、あなたのアフォードを最大限にピックアップしてくれる仲間を集め、彼らと一緒に成長することで、あなたの価値が最大化されるように努力すべきなのです。   ■アイスクリームと僕 僕の体がアイスを拒否したのは、アイスを食べることが僕にとってマイナスになる、つまりアイスからのマイナスの価値をピックアップしたからだと思います。 例えば「お腹を壊してもよい」もしくは「小さい頃からの食習慣に縛られてもよい」みたいなアフォードがあったのかもしれません。 「暑くなったらアイスを食べる」みたいな食習慣は確かに僕の中にありましたから、その世間一般にありがちな常識を避けるようにアフォーダンスが働いたということは、自分の能力もそれなりに鍛えられてきているのかな、と思っています。 まあ生理的なことなので細かいことは分からないですけどね。 しかし、冒頭のあんなしょーもないアイスの話が、これだけ重要な話になるんだから、ピックアップ能力の有無がどれだけの差になるかは想像に難くないでしょう。 アイスを買いに行って、なぜかアイスが買えなかった。 この何でもない事実から何をピックアップするかが、われわれの人生の質を決めるのです。 われわれの日常はあらゆる可能性で溢れています。日常はあらゆる価値をわれわれにアフォードしているのです。 その価値をいかにたくさんピックアップできるか。凡人と脱凡人との差は、ここで決まります。 どんなときも油断しないでくださいね。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック     ...more»
名前論(後編)
ども、ペスです。 いよいよ(?)名前論も最後の回となりました。 ダラダラと無駄に長い前置きを書いてやろうかと 思ったのですが、まったく面白い文章が思い浮かばないので、 さっさと本編に入っちゃいます。 えー、予告通り、今回は前回書いた素朴な疑問の前者を 考えていきます。 その疑問というのは 世の中には「ジョン」という名前の人間が複数いるにも関わらず、 僕らはどうやってそれらを使い分けているのでしょうか? 僕のハンドルネームは【ペス】ですが、リップスライムにも ペスという人がいるし、ネット上には僕以外にもハンドルネーム としてペスを名乗っている人はたくさんいます。 にも拘らず、このブログを読んでいるあなたは意識するまでもなく 【ペス】が僕を指すことを知っている。 これは一体なぜなんでしょう? というもの。 もはや当たり前過ぎて考える気にすらならないかもしれませんが、 こんな高度なことを当たり前に出来る凄さというのを今一度 確認してみて欲しいんです。 だってよく考えてみて下さい。 コンピュータにこれと同じことをさせようと思ったら、 どれだけプログラムが複雑になることか。 顔写真とか声とか指紋とか特定の情報があればコンピュータも 一瞬で個人を判別できますが、ある文章に書かれている「ペス」が どこの「ペス」なのかを判別するのは、僕らが思っている以上に 複雑な処理を必要とします。 例えば、「ジェフ」と呼ばれたら動く、ある賢いロボットが 複数台いたとします。 少し前に流行った(?)アイボとかがそーゆーやつですが、 この手のロボットは「ジェフ」という名前には反応できても その「ジェフ」が自分に言われているのか自分以外に 言われているのかが判断できません。 もしかしたら顔の向きで判断できる更に賢いロボットも いるのかもしれませんが、それでも後ろ向きで「ジェフ」と 呼ばれれば、自分のことかどうかは分からない。 つまり、そのロボット達は前後の会話の流れ等から 「ジェフ」という名前に対する文脈を読むことが 出来ないのです。 これが人間であれば、さっき発した「ジェフ」と 今発した「ジェフ」が違うということを当たり前のように 区別することが出来ます。 (もちろん人間も時には間違います) 要するに、そんな複雑な処理を僕らはどうやって当たり前に 行っているのか、ということをここでは考えていきたいワケです。 ではまず、一休さんの話を例に考えてみましょう。 「このはし、わたるべからず」 一休さんはこの張り紙を見て橋の真ん中を堂々と渡った、 という話は有名だと思いますが、ここに今回の疑問を 考える大切なヒントが隠されています。 ご存知のように、日本語で【はし】と言えば、 【橋】と【箸】と【端】の3つが代表的です。 しかしながら、この3つは発音では区別されません。 つまり、漢字で表されていなければ、文脈からしか 意味を捉えることが出来ない、ということです。 「【はし】でご飯を食べる」 と書かれていれば、文脈上この【はし】は【箸】 だということが分かりそうに思いますが、 果たしてそれは本当に【箸】なんでしょうか? 例えば教室の端でご飯を食べるのが好きな人がいて その人が【端】でご飯を食べている、なんてことも ありえない話ではないですよね? はたまた【橋】(の上)でご飯を食べている人も いないとは言い切れない。 むしろ「【箸】でご飯を食べる」なんていう 自明なことをわざわざ言葉に出す人が現実にいるのか、 という逆説的なことも考えられます。 ということは「【はし】でご飯を食べる」という文章だけでは その【はし】が何を示すのか文脈が十分に読み取れない、 ということです。 じゃあ、そもそも文脈とは何なのか。 それは、発言者(発信者)の【イマ・ココ】である、 と僕は考えています。 【イマ・ココ】とは、この言葉の通り「その時その場所」 という意味です。 これは別に難しいことを言っているワケではありません。 僕が言っているのはめちゃくちゃ当たり前のことで 「【はし】でご飯を食べる」という文脈は 「【はし】でご飯を食べる」と言った本人が 置かれた状況、その時その場所によってしか判断出来ない、 ってことを言っているだけです。 本人は「いつ」「どこで」「何を考えて」それを言ったのか。 それによって【はし】は【端】にも【箸】にも【箸】にも 成り得るし、【ペス】は僕にも僕以外にも成り得ます。 ってことはですよ? 【はし】1つ判断するのにも、その発言者の【イマ・ココ】、 つまり心理や歴史(背景)、環境、時間、そういった目に見えない 数多くの情報を処理しないといけないワケです。 そこには時系列的な前後の関係性も関わってくるし、 その場にいる人との関係性、その人の自己内における関係性、 という複雑な情報も関わってきます。 これを俗に【察する】というワケですが、これがどれだけ 凄いことなのかは、最初に出した例を参考に考えてみて 下さいませ。 さて。 今頃は、なんだか分かったような分からないような 変な気持ちでいることと思います。 急に【イマ・ココ】なんていう変な言葉を持ち出されも ワケが分からないだろうし、そもそもこの記事自体が 何を言いたいのか分からない、という非常事態も 起こっていることでしょう(笑) まあそれも無理はありません。 存在論と関係性、正確にはハイデガーとソシュールと ベイトソンとギブソンの議論を絡めて話しているんだから そうなるのも当然のことです。 ご心配なさらずに(笑) ただ、1つだけちゃんと分かっておいて欲しいのは 僕らが当たり前に使っている名前1つ取っても、 背景はこれだけ複雑に入り組んでいるんだということです。 単純で自明に見えるものほど、実際は酷く疑わしく、 複雑で難解に見えるものほど、実際は一義的で なんでもないことだったりするのです。 「【当たり前】とは何か」 もし時間があれば、そんなことを考えてみるのも 面白いかもしれません。 長い文章にお付き合い頂き、ありがとうございました。 また次も読んでね。 ではでは。 追伸 書いてから気付きましたが、今回はほとんど 「名前」について触れてませんでしたね(苦笑) ま、たまにはそーゆーこともあります。 気にしない気にしない、一休み一休み。(おい・笑) ...more»
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Fatal error: Uncaught Error: Call to undefined function ereg_replace() in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code:1 Stack trace: #0 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1): eval() #1 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(688): require_once('/home/philosoph...') #2 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(647): load_template('/home/philosoph...', true) #3 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/general-template.php(76): locate_template(Array, true) #4 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/archive.php(151): get_footer() #5 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template-loader.php(74): include('/home/philosoph...') #6 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-blog-header.php(19): require_once('/home/ph in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code on line 1