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実存とは
  実存とは、「実際に在る」「現実に存在する」ということを広く表した概念です。 何をもって実存とするかは人それぞれの考え方があるので決定的なことはいえませんが、実存主義者と呼ばれるような人たちは僕が『メルマガ登録』の記事で言っているような“リアルな”現実を追い求めていたと言えます。 かつて、サルトルは「存在なんて気持ち悪い、吐き気がするぜ!」と言い、ハイデガーは「いやいや、存在というのは奇跡なんだよ!みんなもっと驚けよ!」と言い、ニーチェは「ありもしないお花畑ばかり見てないで、お前らもっと現実を直視しろ!」と言いました。 それぞれ現実に対する態度はかなり異なっていますが、彼らはみな実存を真摯に追い求め、実存的であることに人生を注いだワケです。   翻ってみると、このことは当時の人々が「現実をおろそかにしていた」、「非実存的だった」ということを意味します。 誰もが現実を見失い、ありもしない虚構ばかりを見て生きている。 そういう現実があったからこそ彼らは実存を追い求めたワケです。 ヨーロッパの産業革命が一通り終わりに近づき、近代化がいちじるしかったこの時代は、人々がモノ的になっていった時代でもありました。 資本主義の発展に伴うプロレタリアートとブルジョワジーの対立、帝国主義による世界の植民地化、2度にわたる世界戦争・・・これらの事実はすべてこの時代が人々をモノ的に扱っていたことを証明しています。 モノ的とは、その名の通り「モノのように」ということであり、資本主義や帝国主義や戦争は人々を「労働力」というモノに置き換え、まさに使い捨てるかのように命を消費していったワケです。 こういった経緯により彼らは徐々にお互いをモノ的にしか見られなくなり、何事に対しても使えるか使えないか、役に立つか立たないか、労働力ガあるかないか、お金を生むか生まないかでしか価値を見出せなくなっていきました。 また別の方面では資本主義が人々の個人主義を促進し、より自分本位で自己中心的な人間が量産されていたことも見逃せません。 彼らは自分のことだけしか考えない人間だったからこそ、他国の資源を奪ったり、相手を殺してまで自分の利益を優先したりということが出来たのです。 こうして「モノ的」で「自己中心的」な人間が世界を支配するようになったワケです。 しかしながら、現実は「モノ的」とか「自己中心的」といったものから遠く離れた概念であり、まったく性質の違うものです。 「モノ的」とは、もう少し具体的に言えば科学的価値観のことですが、そもそも科学は現実を部分的に切り取ったものにすぎず、数字になるものや言葉で言い表せるものは現実の一部分でしかありません。 その一部分でしかないものしか信じない、それがすべてであるという態度が「モノ的」な態度なワケです。 それはさすがに現実を見ているとは言えないですよね。 この世には科学で証明できないこと、数字や言葉にならないことがたくさんあるのに、そういったことを一切無視している。 ちょっと前にホメオパシーのレメディー(でしたっけ?)を用いた代替医療を猛烈に批判していたのは、科学を盲信した「モノ的」な人たちです。 彼らの言い分も間違いではないのですが、人間の理性では測り知れないことが実際には数多くあるワケですから、すべてを科学的価値観で測ろうとするあの態度はどうなのか、と。 それは果たして“リアルな”現実を見ていると言えるのか、と。 そう思うワケです。   「自己中心的」というのも、その考え方自体がそもそも現実的ではありません。 自己中心的に自社利益を最大化しようとした結果、自社が倒産する(ほされる)なんてことは往々にしてあるし、囚人のジレンマよろしく、ゲーム理論でも自己利益を追求することが自分にとって最も損な結果を生むと証明されている。 仮にこれらを知らなかったとしても、道徳的にそういうことをしたらマズイことが起こりそうだというのは感覚的に分かるのが普通だと思うのです。 にもかかわらず、それを平気をやってしまうあたりが、どれだけ現実が見えていないかを証明していると言えるでしょう。 われわれが非実存的になった要因は他にもあると思いますが、大雑把に言えばこういったプロセスを経て、いつしか「現実のようなもの」がわれわれにとっての現実になってしまったワケです。   この非実存的な状況は今も変わっていません。 いや、視点を変えてみれば、この当時よりも悲惨なことになっていると言えます。 今は他人に命を奪われるのではなく、自分で自分の命を絶つような生物学的に異常な人間が大量に現れ始めたのですから。 このような状況を少し難しい言葉で「実存の危機」と言います。 感覚的には「生きている実感がない」、「生きている意味を感じない」、「なんのために生きているのか分からない」、「今の私は本当の私ではないような気がする」、「なんとなく将来が不安」というような状態です。 この中身は症状の軽いものから重いものまでさまざまです。 今すぐ死んでしまいたくなってしまうようなものもあれば、居心地は悪いけど別に死のうとまでは思わないというものもあります。 ただ、誰もが何かしらモヤモヤした漠然とした不安を抱えている、というのが実存の危機たる状況なのです。 この居心地の悪さというのは先ほど上で話したようなものに加え、急速な時代の変化や常識の変化なども関係しています。 要するに「自分の思っている現実」と「実際の現実」が気付かないうちにどんどん乖離していっているから、なんとなく自分の日常に現実感がなくなり、気付いたときには茹でガエルのごとく手遅れになってしまうワケです。   この状況を打開するにはわれわれが実存を取り戻す必要があるワケですが、そのヒントとして、かつて歴史的な実存の危機を生きた哲学者の言葉が役に立ちます。 彼らはその時代において常に現実と向き合い、危機を乗り越えようともがいた稀有な人間です。 そして彼らは歴史に名を残すほどの鬼才でもある。 幸いにして、われわれはたった1000円程度のお金で彼らが一生をかけた臨んだ哲学に触れることができます。 それらは決して読みやすいものだとは言えませんが、人生をかけてでも読む価値のあるものばかりです。 別に今すぐに読めなくてもいいのです。 日々勉強をかさね、たまにペラペラとページをめくり、読む気にならなければまた本棚へしまっておく。 これを繰り返しているうちにどこかのタイミングで少しずつ読めるようになってきます。 なんとなく言わんとしていることが分かってきます。 そしてそうなったときには、あなたは既に実存の道を歩み始めているのです。   ...more»
「分かりやすさ」の罠(メルマガ記事転載)
ども、ペスです。 毎回言ってる気がしますが、久々のメルマガ記事の転載です。 多分、十何回目ぐらいのメルマガだと思います。 よかったら、どうぞ。 メルマガ登録はこちらからどうぞ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「分かりやすさ」の罠 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とはひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。 自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係する ということなのである。 この文章はデンマークの哲学者キルケゴールの書いた 『死にいたる病』という本から引用しました。 この文章、パッと見は何も難しい言葉はないように見えます。 「自己」とか「人間」とか「精神」とか「関係」などなど、 これらが日常語とまでは言いませんが、どれもそれなりに 使う場面の多い言葉です。 特に「関係」なんていうのは、比較的誰でもよく使う言葉 ではないでしょうか。 しかしながら、ほとんどの人はこの文章の意味が分からないと 思います。 だから俺の方が賢いんだ、とかそういうことを言いたいワケでは ありません。 というか、僕も読めません。 この文章はそもそも(普通には)読めない文章なのです。 実際、このわずか数行の言葉に対する訳注は7ページ以上にも 及んでいます。 たったこれだけの文章を説明するのに専門家が7ページ以上も 費やさなくてはならないほどの意味が込められているワケですから、 僕らみたいな背景知識もデンマーク語の教養もないような凡人が スラスラと読めるはずがないのです。 またその訳注にも「ハイデガーの言う本来的自己が云々」という ようなことが書かれており、まさに説明書に説明書がいるような 状態になっています。 こんなもんは読める方がおかしい。 と、今は開き直っておきましょう(笑) 次はこの文章を読んでみて下さい。 私は昨日、上司の指示で自分のやっている仕事とはまったく 関係のない仕事をやらされました。本当は嫌だったけど、 人間関係を壊さないために気合いで乗り切りました。 これは僕が思いつきで書いた文章です。 特に深い意味はありませんし、難しいところもないと思います。 これなら恐らく小学生でも意味は分かるでしょう。 ではどうしてこの文章は小学生にも分かるのでしょうか? 前者も後者も使っている言葉の難しさという点では それほど差が無いように見えます。 にもかかわらず、前者はほとんど誰も読めず、後者は小学生でも 読むことができる。 この違いはどこから来るのか。 僕が考えるに、その理由は2つほどあります。 1つは前者に比べて後者が日常的な内容だから。 会社に行って、がんばって仕事して、時には少し我慢して、 無難に生活していくのがいいよねー、みたいな。 それがいいか悪いかはともかく、小学生でも大人とは そういうものだということぐらいは知っている子も 多いでしょう。 こういうのはドラマでもよくあるシーンだし、親とか先生とか 身近なところでそういうことが実際に起こっている可能性も 十分にあります。 もう1つは前者に比べて後者の内容が具体的だから。 後者にはいつ誰がどこで何をしてどうなったのかがすべて 具体的に書かれています。 「どこで」というのは厳密には示されていませんが、恐らく職場 であろうというぐらいは文脈から想像がつきます。 それに対して前者は非常に抽象的で「いつ」とか「誰」とか 「どこ」とか「何」とかがまったく示されていません。 いや、「誰」は人間なんだけれども、人間というのもまた 曖昧で分かり難いですよね。 誰なの?って聞いて「人間」って答えられても・・・ねぇ。 それは質問に答えてないのと一緒だろ、と(苦笑) つまり前者は非日常的かつ抽象的、後者は日常的かつ具体的、 という意味において分かり難かったり分かりやすかったり するのです。 ではもっと突っ込んで「日常的」「非日常的」「具体的」 「抽象的」とは何かを考えてみましょう。 「日常的」「非日常的」とは何か。 日常的というのは、僕らが日常だと感じていることですから、 それは経験(や疑似体験)とほぼイコールに考えていいと思います。 また経験とは個人に依存するものですから、それは主観的とも 言えそうです。 自分が経験したことはあくまでも自分の経験でしかないし、 客観的な経験というのは想像すらできません。 「宇宙人がやってきた」みたいな文章を宇宙人を見たことのない 僕らが何の違和感もなく読めるのは、宇宙人という言葉、というか 概念が日常でよく使われているからです。 ここでいう経験とは、実際にそれを直接見たり聞いたりする ことだけではなく「そういう話を聞いた」とか「映画で観た」 という間接的なものも含まれます。 さらに言えば「今までどんなことを考えたか」というのも 経験の一部です。 要は自分がそれを日常的だと思えば、それは日常的なのです。 ということは、同じように非日常的というのもその人が 日常的でないと思ったら、それは非日常的です。 ここの境界線は非常に個人的なものなので、はっきりした線を 引くことができません。 ただここで重要なのは、さっき言った「何を考えたのか」すら 経験の一部であり、それが日常的か非日常的かを決めている ということです。 つまり僕らは想像や妄想や思考によって経験値を増やすことが出来、 尚且つそれによって僕らが接する文章や言葉の難易度を変化させる ことが出来るのです。 もちろんこれには次に説明する具体的・抽象的というのも 大きく関係してくるんですが、こういう側面があるというのは 結構面白いと思いませんか? では「具体的」「抽象的」とは何なのか。 実はこれも日常的・非日常的と同じような部分があって、 その人がそれを具体的だと思えば具体的だし、抽象的だと思えば 抽象的だというのが1つの結論です。 具体的というのは抽象的に比べて意味の幅が小さいものを 言います。 例えば「関係」と「人間関係」の場合、「人間関係」という 言葉の方が意味の幅が狭いですから「関係」よりも具体的だ ということになります。 他にも「生物」と「動物」であれば、「動物」の方が意味の 幅が狭いですよね。 だから「生物」に比べて「動物」の方が具体的です。 要はそれが具体的か抽象的かは相対的な問題なのです。 そしてその対象を何と比べるかは個人の問題なので、 最終的に具体的か抽象的かは個人の判断になるのです。 ここで面白いことが分かります。 その対象を何と比べるかが自由だということは、 ある対象を常にそれより抽象的なものと比べることによって どれだけ抽象的だと思われるようなものも具体的だと 判断することができるということです。 例えば「動物」は「哺乳類」に比べれば抽象的ですが、 「生物」に比べれば具体的です。 ということは、「動物」という言葉が出てきた時は 「生物」という視点からそれを読めばいいワケです。 同様に「日本人」は「聡くん」に比べて抽象的ですが、 「人間」と比べれば具体的です。 だったらこれも「日本人」という言葉が出てきたときは 「人間」という視点からそれを読む。 つまり一段上の抽象的な視点を持つことによって、今まで 抽象的だと思っていたことが具体的なことになっていく、 すなわち「分かり難い」と思っていたことが「分かりやすく」 なっていくのです。 ちなみに、先ほども言ったように具体的な言葉や文章というのは より意味の幅が狭いものを言いますから、それが具体的になるほど 分かりやすい、つまり学びの少ないものになります。 また意味の幅が狭いということは、それだけ応用範囲も狭く 普遍性が低いということです。 僕らは「分かりやすい」ものにはすぐに飛びついてしまいがちですが、 「分かりやすさ」にもこういう負の側面があることを参考までに 知っておいて下さい。 ここまでをまとめると以下のようになります。 その文章が分かりやすいか分かり難いかは、 それが日常的か非日常的か、具体的か抽象的かによる。 日常的か非日常的かは自分の経験で決まり、自分が想像したり 考えたりしたことすらも経験に含まれる。 また、それが具体的か抽象的かという問題も主観的なものであり、 自分が経験した事柄の抽象度によって、その文章が具体的か 抽象的かが変わってくる。 すなわち、自分の経験がその文章の難易度を決めている。 こんな感じです。 ということは、ですよ? キルケゴールの文章を僕らが読めなかったのは単純な経験不足だ ということです。 逆に言えば、僕らが簡単に読めたり分かったりするようなこと というのは実は既に経験済み(思考済み)だと言えます。 つまりそれは基本的に「読む必要(分かる必要)の無いこと」 なのです。 逆説的ですが “読めるものは読まなくていい” “読めないものは読まなくてはいけない” というのが僕らに求められる厳しい態度です。 「何を以って読めているのか」というのは、ややこしい問題なので ここでは置いておきますが、とにかく、自分がギリギリ読めるような 難しめの文章を出来る範囲で読む。 そして疲れたらマンガや雑誌を読んで休憩する。 これぐらいの配分で日常を過ごしてみて下さい。 3カ月も続ければ驚くほど読む力や考える力がつきます。 それと同時に、日常に溢れる文章がいかに「簡単」か、 つまりいかに「乱暴」で「人をバカにした」文章であるかが よく分かるようになると思います。 極端に聞こえるかもしれませんが、テレビ番組や新聞、雑誌、 広告というのはそういう「簡単な」文章や言葉を使うことによって 気付かれないように僕らをバカにしているのです。 すべての人がそうだとは言いませんが、「簡単に説明すると」 という言葉の手前には 「(バカには理解できないだろうから)簡単に説明すると」 という言葉が隠れています。 特になんとか評論家やなんとかアナリストと呼ばれるような 人たちは大よそみんな視聴者をバカにしてると思って間違い ありません。 それは見る人が見ればすぐに分かります。 彼らは(それらしく聞こえる言葉で)テキトーなことばっかり 言ってますからね。 でもそれに気付かないってことは、聞く方もそれぐらい テキトーにしか人の話を聞いてないってことですから 僕らは僕らで同じぐらい悪いのです。 騙される奴が減れば、騙す奴も減る。 バカが減れば、バカにする奴も減る。 こういう単純な論理を今一度確認しておきましょう。 人はよく「読みやすいように文章を短くしました」と言います。 なるべく文章を区切り、なるべくページ数も少なく、 3時間程度で読み切れるぐらいにしました、と。 しかし、それは本当に親切なのでしょうか? 「文章を短くする」とは、本当に相手のためを思って 行っている作業なのでしょうか? だとしたら必死こいて汗水流して長い文章を書いている人は みんな不親切なのでしょうか? こういう素朴な感覚を忘れないで下さい。 「分かりやすさ」には罠がある・・・かもしれませんから。 ありがとうございました。   追伸: メルマガ登録はこちらからどうぞ     ...more»
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