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自分を知る ~ハイデガー著『存在と時間』を手引きに~
ども、ペスです。 突然ですが、あなたは自分のことをどれだけ知っているでしょうか? 自分の趣味や特技、価値観、身長体重、性格、癖、顔、それぐらいのことは誰だって 知っていると思いますが、それが自分を知っていると言えるかどうかは別の話です。 多くの人は「自分を知っている」ということが何を意味するのかを知らずに自分を 知ろうとします。 何を知っていれば自分を知っていると言えるのか。 自分を知っていると言うためには、何を知っておかなければならないのか。 こんなことを知っている人は皆無なワケですが、これを知っておかなければ 何をもって自分を知ることになるのか判断できません。 それ以前に、そもそも自分を知ることは可能なのかという問題があります。 あまり話を長くしたくないので、自分とは何か、みたいな話はすっ飛ばして話を しますが、結論から言えば、われわれの従来的な思考回路では自分を知ることは 出来ません。 なぜそう言い切れるかというと、「知る」ということ自体を可能にしているのが 自分だからです。 自分を知るとは、知ることを可能にしている自分を知る、ということです。 自分が存在しなければ知ることは不可能ですし、その「知る」が何を意味するかは 自分を調べなければ分かりません。 自分は何がどうなることを「知る」だと思っているのか。 それを知っておく必要があるワケですが、自分を知るには、それを知ることすらも、 さらに知っておかなければならないのです。 これは、われわれが自分の目を見られないことを考えてもらえれば、なんとなく 分かると思います。 われわれが何かを見られるのは自分の目があるからですが、その自分の目を直接 見ることは誰にもできません。 それは何かを見ることができるという前提を自分の目が担っているからです。 つまり見ることを可能にしているものを見ることができないのと同様に、知ることを 可能にしているものを知ることもできないのです。 この思考回路のまま「自分とは何か」なんて問いかけてしまうと、よくある泥沼には まってしまうことになります。 「自分を知る」には「自分を知る」が何を意味するかを知らなければならず、 『「自分を知る」を知る』には『「自分を知る」を知る』が何が意味するかを 知らなければならなくなり、以下ずっとこれが続くワケです。 これでは永遠に自分にたどりつけないのも仕方ありません。 さてさて。 それではわれわれは自分を知るということに対して絶望するしかないのでしょうか。 ここでさっきの文章をよく読み直してほしいのですが、僕は最初に大きな条件を 提示した上でこのことを話しました。 そう「われわれの従来の思考回路では」という前提です。 これは、上の理屈が正しく見えてしまう、その思考回路のままでは自分を知ることは 出来ないよ、ということを意味します。 つまりその思考回路さえ乗り越えることができれば、希望の光が見えてきそうな 気がする、ということです。 しかしどうやって・・・? ものすごい乱暴な解釈ではありますが、その方法を細かく解明しようとしたのが ハイデガーの『存在と時間』なのです。 ハイデガーはこの著書の第一章第一節において、「存在」という概念に対する 従来的な定義の仕方そのものに疑問を突きつけています。 例えば人間を概念的に定義する場合、普通それは「理性的な動物」とされます。 これは人間という概念を一段上の抽象概念で言い換えているワケですが、「存在」は この定義の仕方では定義することができないし、「存在」は定義不可能であるという 結論にはもっと納得がいかないので、その定義の仕方自体を見直すべきではないかと ハイデガーは言うワケです。 そして、この第一節の最後で彼はこう言います。 存在への問いには答えが欠けているだけでなく、問いそのものさえ不透明で 無方向なものだ、ということである これは要するに「存在とは何か」といった問いは、まったく無方向で何を求めて 問うているかが分からない、ということです。 「そんな形而上学的な問いかけに何の意味があるのか」とまでは言っていませんが、 そういう雰囲気が行間からは伝わってきます。 だから答えを探すより先に、まずは問題設定を見直していきましょう、と。 ということで第二節では存在への問いの形式的構造、簡単に言えば、われわれが 何かを問うとはどういうことかを考えていくワケです。 この第二節の中で 存在とは、いつも、ある存在者の存在である という重要な言葉が出てくるのですが、これは存在は存在者から切り離すことは できないのだから「存在とは何か?」という問い方は変だ、ということです。 普通われわれは「自分を知る」というと「自分とは何か?」とか「私とは何か?」と 無意識に問いかけてしまうワケですが、それは「自分」という単なる抽象概念、 すなわち現実の自分とは切り離された抽象的な「自分」とは何かを問いかけているに 過ぎません。 本来「自分」と「それを問うこと」は切り離せないのですから、現実的な在り方で 自分を知りたいのであれば、この両方に対する答えを導く問いが必要なワケです。 では、どのような問い方が正しいのか。 それについては人によるので一概には言えないのですが、仮に僕が自分のことを 問うとしたら 「僕は僕自身であるか」 と問います。 僕は客観的で誰もが納得できるような答えは求めていませんから、自分とは何か、と 問う必要はないワケです。 僕が知りたいのは、僕はちゃんと僕自身と一体化しているか、僕は僕自身として 機能しているか、ということだけです。 ハイデガーの言葉を使うなら、イマココの自分が本来的であるか非本来的であるかを 了解しておきたい、という感じでしょうか。 僕を僕自身から切り離さずに問うと、こういう風になります。 この意味を理解するには、今のわれわれが持っている(存在的な)思考回路を ハイデガー的な(存在論的な)思考回路に切り替える必要があるワケですが、 これは非常に難しいことです。 われわれは従来的な思考に慣れてしまっていますから、いきなり問い方が間違っていると 言われても、ピンとこないのです。 われわれが学校で教わるのは、問いに対する答えが正解か不正解かということだけ。 そこでは、問いは絶対に間違わないことが暗黙の前提になっています。 だから日本の受験制度のようなものがまかり通るワケですが、答えても意味のない 問いならば、それは問いそのものが間違っているのです。 自分とは何か? この問いに苦しめられている人は今もたくさんいると思います。 これに対する答えを探すために、自分探しの旅に出てしまったり、自己診断テストの ようなものに大金を費やしてしまったりする人は今もあとを断ちません。 本人がそれで納得しているなら構わないのですが、少なくとも僕はそのことを あまりいいことだとは思いません。 自分はイマココに存在するのですから、探したり見つけたりするものでもなければ、 遠くにあるようなものでもないと思うのです。 ましてや1時間やそこらのテストで分かるほど薄っぺらいものではないはずです。 今一度、冷静に考えて下さい。 自分は何のために「自分とは何か」と問うのか、と。 その問いに答えてどうするつもりなのか、と。 そこから得られる答えはきっと、あなたの思考回路を静的なものから動的なものへ、 存在的なものから存在論てきなものへ、イデア的なものから現実的なものへ 変えてくれると思います。 ではでは。 ...more»
積読(つんどく)の意義
  随分とご無沙汰しております(苦笑) セミナーも無事に終わり、最近はアートに夢中に なりつつある今日この頃。 縁あって、今あるアーティストさんと一緒にビジネスを やっているのですが、この業界はなかなか興味深いです。 なんと言っても売れるモノと売れないモノとの違いが 恐ろしく分かり難い(笑) まあそこが面白くもあるんですけどね。 「なぜ人はアートを買うのか」 もし暇だったら考えてみて下さい。 では今日も張り切っていきましょう! 僕はよく本をまとめて衝動買いしてしまうことがあるのですが、 こういう人って僕に限らず結構いると思います。 今読んでる本があるにも関わらず、本屋で魅力的な本を 発見するとついつい買ってしまう。 で、買ったはいいものの、今読んでる本を読み終わった ときには、また別の欲しい本を見つけてしまい、それも ついつい買ってしまう。 そしてどんどん読まない(読めない)本が溜まっていく。 これを俗に積読(つんどく)というワケですが、 僕も例に漏れず積読主義者の一人です(苦笑) 今や恐らく10年あっても読みきれないであろう本が ずらずらと僕の本棚にはコレクションされています。 半ばオブジェ的に・・・。 さて、この積読。 世間一般には「できれば解消したいもの」と考えられており、 過激派の中には「読まない本なんて買っても無駄」という 意見を持った方々もいるとかいないとか。 確かに本は(一部を除いて)読まれるために生まれてきている ワケですから、出来る限り読むに越したことありません。 買った本は読んでナンボ。 それは間違いないでしょう。 ただ、だからと言って積読が無駄なことだとは 僕には思えないんですね。 「どうせ読まないなら、買っても買わなくても一緒」なんて 意見もあるかと思いますが、そもそも「どうせ読まない」 という前提が正しいのかどうかを考えてみて下さい。 未来のことなんて誰にも分かりません。 なのに「どうせ読まないだろう」みたいに自分の行動を 決め付けてしまうのは、いかがなものでしょう? そう決め付けるよりも、むしろ「いつか読むかもしれない」 という前提で考えた方が将来の可能性は広がるし、個人的には 楽しそうな気がします。 教習所で習いませんでした? 「だろう運転」はいつか事故る、って。 多分「読まないだろう」も、どこかで事故るんじゃないかな。 自戒・・・。 読むか読まないかなんて分からない。 読めるか読めないかなんて分からない。 でも、買った本は「いつか読むかもしれない」ですよね? 逆にその時出会った本を買わなかったら「もう出会えない かもしれない」ですよね? だったら、読むか読まないかはともかく、買っておけば いいんじゃないの?積読しとけばいいんじゃないの?と 僕は思うワケです。 これはある意味、合コンの論理と同じ。 相手が自分のことをどう思ってるかは分からないけど、 取り敢えず携帯番号とアドレスぐらいは聞いておけば いいのです(笑) もしかしたら脈があるかもしれないんだから。 仮に脈がなかったとしても、それはそれ。 番号とアドレスすら聞いてなければ、脈があるなしに 関わらず、可能性は閉ざされてしまいます。 それはあまりにも、もったいないでしょ?と。 そーゆー話です(笑) 人との出会いと同じで、本との出会いも一期一会。 何億冊、何兆冊もある本の中から奇跡的に出会った本が あるのなら、その機会は受け入れるべきではないでしょうか? ましてやそれが世間の風評に流されて欲しくなったものでは ないのならば、尚更です。 自分の意思で、自分の直感で、自分の感性で感じて 欲しいと思った本は、役に立つ立たないに関わらず 買っておくべきだと僕は思います。 なぜなら、それこそアナタが本当に欲している本だから。 直感とか感性とか言っちゃうとスピリチュアルな世界の話に 聞こえてしまうのが難点なのですが、実は僕が言いたいのは そんなふわふわした話ではありません。 まずは少し前(?)に書いたアフォーダンスの話を思い出して 下さい。 ここで僕はコップの話をしています。 コップの取っ手は「ここを持て」ということを僕達に訴えて (アフォードして)いる、と。 忘れてたら今すぐにちゃんと読み返して欲しいんですが、 要するにコップはそこに在るだけで僕らに何かしらを アピールしているワケです。 しかーし。 よくよく考えると、コップは僕らに対してずっと 「取っ手を持て」とアフォードしているワケではないことに 気付くと思います。 コップが僕らに「取っ手を持て」とアフォードしてくるのは 僕らがコップを使おうとしているその時だけです。 喉が渇いて水を入れるのか、洗ったコップを乾かすのか、 その状況は色々あると思いますが、僕らとコップに何らかの 関係を築く必要が生じたときにコップは僕らに語りかけてきます。 だから当然、僕らがコップに対して何の用もないときは、 コップは基本的には黙っている。 要するに、「取っ手を持て」というアフォードは 僕らの【いま・ここ】を反映しているのです。 僕らが今ここで何をしたいのか。 今ここで何をすべきなのか。 それがコップのアフォードとなって返ってきているワケです。 このアフォーダンスと「いま・ここ」の論理を本との出会いに 置き換えると、本が「買ってくれ」とアフォードしてくるのは、 僕らの「いま・ここ」がその本に反映されているから、 ということになります。 つまり、僕らは心のどこかでその本を欲しているのです。 その本に用があるから僕らはそれを欲するのです。 普段こんなことはあまり考えないと思いますが、 実はこれは凄く大事なことなんだということに 気付いて下さい。 なぜ何万冊もある本棚の中から、その本だけが目に付き、 欲しくなってしまうのか。 本が分かり難かったら衝動買いの類を全部含めて考えても 構いません。 なぜそのバッグだけが、なぜその靴だけが、なぜその財布だけが 欲しくなってしまうのか。 大概は、デザインが好みだから、という理由で 欲しくなるのだと思いますが、じゃあなんでそのデザインが 好みなのか、というのも考えてみて下さい。 自分の心に思い描く「具体的な」デザインがあって、 そのデザインにピッタリ当てはまるものがあったから 欲しくなったのかと言われると恐らくほとんどの人は そうじゃないと思うんですね。 どっちかと言うと街中でたまたま見つけたバッグ、靴、財布が 自分の「抽象的な」イメージにピッタリ合って猛烈に 欲しくなってしまった、という感覚だと思います。 つまり出会った瞬間「いま・ここ」において自分は本当に 欲しているものに気付くのです。 そうそう、オレはこんな靴が欲しかったんだよ!って。 欲しいモノが現実として具体化されるのは「いま・ここ」の 瞬間においてだけなのです。 そしてブーバーやハイデガーの考えを加味するならば、 「いま・ここ」を全力で生きている時にしか神には出会えない ということになります。 これは言い換えると、 本当に欲しい本(モノ)に出会うには、本当の自分として 生きていなければならないし、本当の自分として生きるには、 自分の「いま・ここ」を完全燃焼しなければならない ということです。 そうすれば、それは自ずと衝動となって現れる。 その衝動こそが神との出会いなのです。 上記の話では積読そのものよりも積読になる過程の話を メインに書きましたが、この論理(?)は積読してからも 当てはまります。 自分の部屋に読んでない本がたくさん積まれている。 この本の中から自分の「いま・ここ」に応じて アフォードしてくる本が今読むべき本なのです。 なんとなく手に取った本のたまたま開いたページに 自分の欲しい答えが書いてあった、なんてことは比較的 よく聞く話ですが、その原理はこういうところにあります。 全力で生きていれば、いつでも神は降りてくるのです(笑) ではでは。 ありがとうございました! ...more»
セミナー「“現実”の取扱説明書」
  この度、やっと重い腰を上げ、セミナーを行うことにしました。 その名も“現実”の取扱説明書、略してゲントリ。 我ながら自分のネーミングセンスの無さには ウンザリします(苦笑)。 それはさておき。 このセミナーは【現実】について最低限知っておくべきこと、 注意すべきことを僕が語ってしまおう、という何とも偉そうな 企画です。 「そんなこと知って何の役に立つの?」なんてことを言われて しまいそうですが、やりたくなっちゃったんだから仕方ない。 やっちゃいます。 今回このテーマを選んだのは、僕が今【現実】に夢中だから、 という理由に他なりません。 誰からリクエストがあったワケでもないし、こんなものが 本当に求められているのかどうかすら、僕には分からない。 でも僕はやりたいし、今こそやるべきだと思うのです。 ここ何ヶ月かの僕のブログ記事なりTwitterのツイートなりを 見てもらえれば分かるように、僕はあからさまなまでに 【現実】というものを強調してきました。 時には世界が云々、名前が云々、感覚が云々、科学が云々、 という一見抽象的なことも語ってきましたが、それらは全て 【現実】を多角的に捉えるための手段に過ぎません。 どんな抽象的な話をするときだって、僕は現実的な 具体例を欠かしたことはないと思います。 それはあなたの理解を促進するためでもありますが、 それ以上に 「現実にないことを語っても全く意味がない」 と思っているからなのです。 しかし誤解しないでもらいたいのは、僕は現実主義者では あっても、抽象的な話が無駄だと言っているワケではありません。 そうではなく 抽象的な話で終わってしまっていることが現実には多過ぎる ということを僕は言いたいのです。 事実に関する限り、理論は常に 仮説にしかすぎないこれはマックス・ホルクハイマーという哲学者の言葉です。 僕が言いたいのは、まさにコレ。 世間ではスピリチュアルや成功哲学やなんちゃら読書法、 なんてものが売れているようですが、あれらを現実に 当てはめたときに、結局どれだけの人が結果を出せているのか? という点に目を向けて欲しいのです。 「幸せを手に入れる5つの方法」みたいな本がベストセラーで 100万部売れていたとして、それを買った人のうち50万人でも 本当に幸せを手に入れることは出来たのか、と。 いや、たった0.01%でもいい。 100万人のうち100人でも本当に幸せを手に入れることは 出来たのか。 そこを僕は見て欲しいのです。 彼らとて、恐らく悪意でそのような本を出しているワケでは ないと思います。 むしろ良かれと思って自分の知識を他の人に広めようと 思っている人がほとんでしょう(だと信じたい)。 しかし、現実がすべてを物語っているということに 気付かなければならないと思うのです。 我々は理想(や理論)ではなく現実を生きているのだから。 現実に“気付く”力今回のセミナーでは 1.現実を見抜く訓練 2.現実を正しく捉えるための知識 を2本柱にして【現実に気付く力】を身につけて頂きます。 この力が身に付くと ・普通の人には見えない“本当の世界”が見えるようになる ・自分に必要な情報が手に取るように分かるようになる ・周りの人間とだんだん話が合わなくなってくる ・自分の周りに今まで縁の無かった人が集まってくる ・目に見えるものすべてを疑いたくなってくる などの現象が起きますので、それが嫌なら今回の受講は 見送った方がいいかもしれません。 では詳しい説明に入ります。 しんどい事は嫌いですか? 1.現実を見抜く訓練 これは僕が出す問題を参加者全員で考える、という非常に シンプルな訓練です。 名前の通り「訓練」ですから、実際に本人が頭を動かして ヘトヘトにならないことには訓練になりません。 頭は使ってナンボ、回してナンボです。 一度考えることが習慣になってしまえば、わざわざ僕が 問題を与えるまでもないのですが、最初のキッカケとして このような訓練は重要だと思っているので「テキトーに 話だけ聞いて帰ってやろう」という中途半端な態度で 参加するのはやめて下さいね。 ちなみに、出題する問題は決して難しい言葉を多用した ものではなく、「頭の体操」的なものだと思ってもらえれば 大丈夫です。 哲学的な知識がないと解けないとか、特定の宗教や歴史を 知ってないと解けないとか、そんなのではありません。 というか、僕もそんな知識はありません(苦笑) 解けるかどうかは保証しませんが、少なくとも問題の意味が 分からないといった非常事態は起こらないと思います (起こらないようにします)。 ぜひこの機会に知恵熱が出る快感を味わってみてください。 楽しさからしか“本当の学び”は得られない 2.現実を正しく捉えるための知識 こっちは普通のお勉強です。 とは言っても、1の訓練と絡めて話を進めようと思っているので、 僕が一方的に喋るというより、質疑応答的な感じでワイワイ 話し合いながら答えを導き出す、という感じになると思います。 ぜひぜひ、みんなで楽しくお勉強しましょう。 今のところ予定している勉強内容は例えば ・現実を見抜くことによって見えてくる本当に問いとは? (我々が普段目にする問いのほとんどは実は現実的に無意味な 問いなのです) ・多くの人が陥っている誤った問いの立て方とは? (もしあなたが「人生とは何か?」「哲学とは何か?」という 問いを真剣に考えているならば、一刻も早くやめるべきかも しれません) ・そもそも「問い」とは何なのか? (現実を正しく捉えるためには、ここから考える必要があります) ・「問い」と「可能性」の意外な関係とは? ・なぜ人を殺してはいけないのか? (この問い答えることが出来るなら、あなたはこのセミナーに 参加する必要はありません) ・「合理的に生きる」とは、どういうことか? (何が“本当の意味で”合理的なのかをお教えします) ・誰もが無意識に行っている、ある偏った思考とは? (いじめの問題から近代医学まで、我々の考えることは ほぼ全てこの思考が土台になっています) ・現実を知ることでしか見ることができない、 次のステージとは? (このステージが見えなければ、永遠に自分の足で 自分の人生を歩くことはできないでしょう) ・自分を変えたい・・・その願望を手っ取り早く叶える ある方法とは? (これ以上お手軽でシンプルな方法を僕は知りません) ・「お金持ちになること」と「お金持ちであること」 との違いとは? (同じように見えるかもしれませんが、両者の意味は 全く異なります) ・自分の可能性を広げる5つのステップ ・人間が抱える2種類の悩みとは? (これを知るだけでも、人生の80%以上の悩みは 消えて無くなります) などなど。 恐らくこんな感じのことをお話することになると思います。 ただ、直前に面白いことを思いついたら、そっちを優先的に 話すことになるかもしれません。 つまり予定は未定だということです(笑) もし上記の中にどうしても話して欲しい内容がある場合は その旨を募集フォームの備考欄に書いておいて下さい。 何かしらの参考にさせて頂きます。 そして、もう言うまでもないと思いますが、このセミナーの 主な対象は ・徹底的に脳みそを鍛えたい人 ・やりたいことだけをやって暮らしていきたい人 ・コミュニケーション能力に磨きをかけたい人 ・自分の足で自分の人生を歩きたい人 ・知的好奇心が溢れ出て止まらない人 など。 つまり、僕のブログやTwitterをそれなりに読んでいる人が 対象ということです。 「たまたまレターを見かけて、どうしても参加したくなった」 という奇跡的な事情がある場合は、取り敢えず冷静に僕の ブログやTwitterを読んでから、申し込むようにして下さい。 そうしないと、お互いに不利益を蒙ることになると 思いますので、くれぐれも慎重にお願いします。 現実の値段映画に1800円、遊園地に6000円、ライブに1万円、 お洒落なバーに2万円、高級ホテルに5万円。 人は幻想(理想)を見るためなら、いくらでもお金を 払います。 では、現実を見るためなら、どうでしょう? あなたは現実に対していくらまでならお金を払えますか? ・・・。 今回のセミナーは以前ブログでお約束した通り無料で 行います。 ただ勘違いしないでもらいたいのは、これは僕が現実に 価値がないと思って無料にしたのではない、ということです。 当たり前ですが、価値がないと思ってたら そもそもセミナーなんてやりません。 じゃあ何で無料にしたのか。 それは僕が「そうしたかったから」です。 僕の感覚が「無料にしとけよ」と言ったから無料にした。 それだけの話です。 もちろん参加費が無料だからと言って内容に手を抜くつもりは 一切ありませんので、ご安心を。 では日程などの連絡です。 セミナー開催日は7月8日(木)。 場所は大阪梅田某所。 13時頃から開始して15時か16時ぐらいに終了予定です。 具体的なセミナー会場については詳細が決まり次第、 参加者の方に直接メール致します。 参加可能人数は15人~20人ぐらいです。 こんな意味不明なテーマのセミナーで定員を超えることは まず有り得ないと思いますが、もしそんなことがあった場合は 僕の独断と偏見によって人を選ばせて頂きますので、 どうしても選ばれたい場合は、申し込みメールの備考欄に セミナーへの熱い思いを書き込んでおいて下さい。 人々は見る覚悟のあるものだけしか 見ることが出来ないさて。 最後にエマソンの言葉を引用しました。 この言葉をどう捉えるかはあなた次第ですが、 ここまでのレターをちゃんと読んでくれたなら 意味は分かるはずです。 僕にはあなたの覚悟を変えることは出来ません。 覚悟を決めるのはあなた自身です。 しかし、今なんとなくでも、このセミナーに何かを感じて いるのなら、勇気を持って一歩を踏み出してみて下さい。 その選択はきっと正しいです。 保証します。 それでは、またセミナーでお会いしましょう。 ありがとうございました。 ペス お申込み希望の場合はこちらのリンクから飛んで フォームに必要事項を記入して下さい。 追伸1 今回の募集は五月末日で締め切ります。 「休みが取れるかどうか分からない」といった事情で 申し込みを迷っているのなら、取り敢えず申し込むだけ 申し込んでおいて、後で無理だったらキャンセルする、 という形でも構いません。 他にも何かしらの事情を抱えて迷っている場合は その旨を備考に書いておいて頂ければ、出来る限り 対応致します。 追伸2 人は油断すれば安きに流れるものです。 難しく苦しいことは避け、楽な方ばかり選ぶ。 もしこのセミナーを「私には難しいかも・・・」という 理由で諦めようとしているなら、それこそが妥協であり、 逃避であり、人間の弱さなのかもしれません。   お申込み希望の場合はこちらのリンクから飛んで フォームに必要事項を記入して下さい。   ...more»
現実を現実的に生きる
  世間では「現実的に考えろ」とか「現実と理想は違う」 という言葉をよく耳にします。 学生が社会人になって「現実を思い知らされた」なんてことは よくあることですし、企画や政策が現実的であることに重点が 置かれるのは、もはや常識です。 しかし、いざ【現実】や【現実的】とは何なのかをちゃんと 説明しようと思うと、モヤモヤしていて意外と説明出来ないことに 気付くと思います。 なんとなく「自分が感じ取れるもの」が【現実】で 「実現が可能そうなこと」が【現実的】、というぐらいの 答えは出てくると思いますが、実際、自分の中でその答えが シックリくるかというと、恐らくそうではない。 かと言って「現実とは何か」という問いに1時間も2時間も 費やす価値は無いような気がする。 恐らくこれが普通の感覚でしょう。 つまり、普通一般的には【現実】なんてものを考えよう という発想自体が皆無だし、仮にそれを考えろと言われたところで 考える価値すら感じない、ということです。 その理由はもう今まで散々言ってきているように、 現実というものが僕らにとって当たり前過ぎるからに 他なりません。 普通の人にとって「当たり前のこと」を一々考えるのは、 アリに聖書を読み聞かせるぐらい無益で無駄なことなのです。 にも拘らず、どうして僕はそんなことを一々ブログに 書こうとしているのか。 それは多分僕が変人だから、というのもありますが(苦笑) それ故に(?)【現実】や【現実的】を考えることに 意義があると思っているからです。 その理由の中にはもちろん「哲学的に意義深い」というものも 含まれます。 でも僕にとって重要なのは、 僕らは現実を生きている という事実に目を向けること。 わざわざ僕がこんなことを書くということは、普通の人はみんな 現実を直視せずに生きている、と僕は思っているということです。 もしかしたらそれは僕の大きな勘違いなのかもしれませんが、 僕が見る限り、僕の周りのほとんどの人は現実を現実的に 見ることが出来ていないように思います。 毎日着たくもないスーツを着、乗りたくもない満員電車に乗って、 やりたくもない仕事をやって・・・これらは僕から言わせれば 現実を現実的に生きているとは言えないのです。 それは何故なのか。 今から詳しく説明しましょう。 僕らは現実を生きています。 死んでしまったら僕らは現実を生きることは出来ません。 つまり僕らが生きていること、それ自体が現実なのです。 そして「生きている」ということは、常に死ぬ可能性を 併せ持っていることを意味します。 生きてなければ死ぬこともないし、生きているからこそ 僕らはいつか死んでしまう。 これは言い換えれば、僕らは毎日「死ぬ可能性」という 究極の不安を背負って暮らしている、ということなのです。 この「死ぬ可能性」をハイデガーは有限性と呼び、この有限性を 自覚して生きている者、すなわち【現存在】であることが 現実的に生きる(存在する)ことだと言ったワケですが、 僕が言いたいのもまさしくそれと同じです。 要するに 「現実を現実的に生きる」とは、毎日常に死の不安と 向き合いながら生きることであり、それはつまり、 いつ死んでも後悔しない生き方をいかなる瞬間においても 実行すること なのです。 先ほど書いた例をもう一度書きます。 毎日着たくもないスーツを着、乗りたくもない満員電車に乗って、 やりたくもない仕事をやって・・・ こんなことをやっている人間を果たして「現実を現実的に 生きている」人間だと言えるでしょうか? 死の不安を自覚している人間が、やりたくもない仕事を やろうなんて思うでしょうか? 僕らは今日、まさにこの瞬間に死ぬかもしれないのです。 にも拘らず、やりたくもないことをやってる時間なんて 本当にあるのでしょうか? それを今一度、見直してみて欲しいのです。 現代の日本においては、身近な人が亡くならない限り、 死を実感することは無くなってしまいましたし、 長寿高齢化によって80歳ぐらいまで生きることは 当たり前のように扱わるようになりました。 また医学の発達によって死ぬはずだった人も 生きることが出来るようになりました。 これらの影響で、僕らは死の不安から解放されたかのような 錯覚を抱いてしまっているワケですが、実際、死というものが 僕らから引き離されたかというと、そうではない。 それはあくまでも錯覚であって、死神は常に僕らの隣にいるのです。 世間では未だに「やりたいことをやりなさい」的な本が 散見されます。 しかし、現実を現実的に生きている人間(以下現存在)にとっては それこそが自明のことなのです。 僕の友人(だと思っている)に川田祐子さんという 現代画家の方がいます。 彼女は僕が現存在であると思う数少ない人間の一人なのですが、 彼女が先日Twitterでこんなことをつぶやいていました。 「たとえ最初の一筆でさえも、ここで自分の命が絶えて 2本目を引くことができなくても、作品として残すことができる」 という気持ちで描くのと、そうでないのとでは、作品の出来具合に 相当な開きが出て来ます。 現存在は、こんなことがサラッと言えてしまうのです。 本人に確認したワケではありませんが、恐らく彼女にとって この発言は当たり前のことでしかなく、誰かを驚かすための 発言でも、自分を誇示するため発言でもありません。 彼女はあくまでも事実を述べているだけだと思うのです。 この発言から学べることはいくらでもありますが、 1つ重要なものを挙げるとすれば、彼女自身と在り方と 彼女の貢献度(作品)が切り離せないものになっている、 ということです。 上記の発言の裏を読むと「有限性を意識せずに生まれた作品は 中途半端で腐ったものでしかない」と解釈できます。 つまり、現実を現実的に生きていない人間の生み出したものは 最良のものには成り得ない。 すなわち、やりたいことを(全力で)やっている人間だけが、 自分にとって世界にとって最良・最善のものを生み出せる、 ということなのです。 もうお気付きかと思いますが、これはビジネスの話とも 大きく関係してきます。 ずっと前に「いずれビジネスの話に繋がります」的なことを 書いたと思いますが、今、ようやくその入り口に差し掛かりました。 かと言って、ここからいきなり「ブランディングが・・・」とか 「なんちゃらマーケティングを駆使して・・・」みたいな そーゆーしょうもない話題に走ったりはしませんので ご安心下さい。 僕の捉えるビジネスとは、そういうものではありませんから。 ま、続きは次回以降をお楽しみに。 ではでは。 追伸 今回紹介した川田祐子さんのブログはこちら。 あと、彼女はセルフカバーアートというものをWebで 販売しています。 僕が誰かを紹介することは滅多にない、ということを 念頭に置きつつ、気が向いたらアクセスしてみて下さい。 ...more»
名前論(後編)
ども、ペスです。 いよいよ(?)名前論も最後の回となりました。 ダラダラと無駄に長い前置きを書いてやろうかと 思ったのですが、まったく面白い文章が思い浮かばないので、 さっさと本編に入っちゃいます。 えー、予告通り、今回は前回書いた素朴な疑問の前者を 考えていきます。 その疑問というのは 世の中には「ジョン」という名前の人間が複数いるにも関わらず、 僕らはどうやってそれらを使い分けているのでしょうか? 僕のハンドルネームは【ペス】ですが、リップスライムにも ペスという人がいるし、ネット上には僕以外にもハンドルネーム としてペスを名乗っている人はたくさんいます。 にも拘らず、このブログを読んでいるあなたは意識するまでもなく 【ペス】が僕を指すことを知っている。 これは一体なぜなんでしょう? というもの。 もはや当たり前過ぎて考える気にすらならないかもしれませんが、 こんな高度なことを当たり前に出来る凄さというのを今一度 確認してみて欲しいんです。 だってよく考えてみて下さい。 コンピュータにこれと同じことをさせようと思ったら、 どれだけプログラムが複雑になることか。 顔写真とか声とか指紋とか特定の情報があればコンピュータも 一瞬で個人を判別できますが、ある文章に書かれている「ペス」が どこの「ペス」なのかを判別するのは、僕らが思っている以上に 複雑な処理を必要とします。 例えば、「ジェフ」と呼ばれたら動く、ある賢いロボットが 複数台いたとします。 少し前に流行った(?)アイボとかがそーゆーやつですが、 この手のロボットは「ジェフ」という名前には反応できても その「ジェフ」が自分に言われているのか自分以外に 言われているのかが判断できません。 もしかしたら顔の向きで判断できる更に賢いロボットも いるのかもしれませんが、それでも後ろ向きで「ジェフ」と 呼ばれれば、自分のことかどうかは分からない。 つまり、そのロボット達は前後の会話の流れ等から 「ジェフ」という名前に対する文脈を読むことが 出来ないのです。 これが人間であれば、さっき発した「ジェフ」と 今発した「ジェフ」が違うということを当たり前のように 区別することが出来ます。 (もちろん人間も時には間違います) 要するに、そんな複雑な処理を僕らはどうやって当たり前に 行っているのか、ということをここでは考えていきたいワケです。 ではまず、一休さんの話を例に考えてみましょう。 「このはし、わたるべからず」 一休さんはこの張り紙を見て橋の真ん中を堂々と渡った、 という話は有名だと思いますが、ここに今回の疑問を 考える大切なヒントが隠されています。 ご存知のように、日本語で【はし】と言えば、 【橋】と【箸】と【端】の3つが代表的です。 しかしながら、この3つは発音では区別されません。 つまり、漢字で表されていなければ、文脈からしか 意味を捉えることが出来ない、ということです。 「【はし】でご飯を食べる」 と書かれていれば、文脈上この【はし】は【箸】 だということが分かりそうに思いますが、 果たしてそれは本当に【箸】なんでしょうか? 例えば教室の端でご飯を食べるのが好きな人がいて その人が【端】でご飯を食べている、なんてことも ありえない話ではないですよね? はたまた【橋】(の上)でご飯を食べている人も いないとは言い切れない。 むしろ「【箸】でご飯を食べる」なんていう 自明なことをわざわざ言葉に出す人が現実にいるのか、 という逆説的なことも考えられます。 ということは「【はし】でご飯を食べる」という文章だけでは その【はし】が何を示すのか文脈が十分に読み取れない、 ということです。 じゃあ、そもそも文脈とは何なのか。 それは、発言者(発信者)の【イマ・ココ】である、 と僕は考えています。 【イマ・ココ】とは、この言葉の通り「その時その場所」 という意味です。 これは別に難しいことを言っているワケではありません。 僕が言っているのはめちゃくちゃ当たり前のことで 「【はし】でご飯を食べる」という文脈は 「【はし】でご飯を食べる」と言った本人が 置かれた状況、その時その場所によってしか判断出来ない、 ってことを言っているだけです。 本人は「いつ」「どこで」「何を考えて」それを言ったのか。 それによって【はし】は【端】にも【箸】にも【箸】にも 成り得るし、【ペス】は僕にも僕以外にも成り得ます。 ってことはですよ? 【はし】1つ判断するのにも、その発言者の【イマ・ココ】、 つまり心理や歴史(背景)、環境、時間、そういった目に見えない 数多くの情報を処理しないといけないワケです。 そこには時系列的な前後の関係性も関わってくるし、 その場にいる人との関係性、その人の自己内における関係性、 という複雑な情報も関わってきます。 これを俗に【察する】というワケですが、これがどれだけ 凄いことなのかは、最初に出した例を参考に考えてみて 下さいませ。 さて。 今頃は、なんだか分かったような分からないような 変な気持ちでいることと思います。 急に【イマ・ココ】なんていう変な言葉を持ち出されも ワケが分からないだろうし、そもそもこの記事自体が 何を言いたいのか分からない、という非常事態も 起こっていることでしょう(笑) まあそれも無理はありません。 存在論と関係性、正確にはハイデガーとソシュールと ベイトソンとギブソンの議論を絡めて話しているんだから そうなるのも当然のことです。 ご心配なさらずに(笑) ただ、1つだけちゃんと分かっておいて欲しいのは 僕らが当たり前に使っている名前1つ取っても、 背景はこれだけ複雑に入り組んでいるんだということです。 単純で自明に見えるものほど、実際は酷く疑わしく、 複雑で難解に見えるものほど、実際は一義的で なんでもないことだったりするのです。 「【当たり前】とは何か」 もし時間があれば、そんなことを考えてみるのも 面白いかもしれません。 長い文章にお付き合い頂き、ありがとうございました。 また次も読んでね。 ではでは。 追伸 書いてから気付きましたが、今回はほとんど 「名前」について触れてませんでしたね(苦笑) ま、たまにはそーゆーこともあります。 気にしない気にしない、一休み一休み。(おい・笑) ...more»
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