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アイスクリームのアフォーダンス
ども、杉野です。 ここ数日、関西はクソ暑い日々が続いています。 10代の頃に強烈な蒸し暑さに耐えるバイトをやっていたお陰で、比較的暑さには強い方なのですが、さすがに35度を超えてくるとへばります。 先日、それに耐えかねた僕は某大型量販店へアイスクリーム的なものを求めて、炎天下の中、はるばる出かけていきました。 店についたときには、案の定、汗だく。アイスを食べるにはベストな状態です。 しかし、そこでいざアイスを買おうとすると、不思議なことに、当初の目的だったはずのアイスをまったく買う気にならないのです。 それはそれらの商品が不味そうだったとか、好きなものがなかったとかそういうことではなく、一般に言われる「生理的に受けつけない」という感覚でした。 ご存知のように(?)僕は甘いものが好物です。当然、アイスクリームやソフトクリーム、かき氷なども好物です。 どれぐらい好きかというと、たとえば小学校3年生の夏休みに毎日アイスの類を1本以上食べて、その約1ヶ月で体重を7キロ増やしたぐらいには、その手のものが好きだという自信があります(お陰で中学で部活を始めるまではデブ人生でした)。 その僕が、汗だくになってまで買いに行ったそれらの商品を生理的に受けつけなかったワケです。 これがいかにショッキングであるかは、言うまでもないでしょう。正直、自分でも信じられませんでした。 脳では欲しているのに、体はなぜか拒んでいるのです。 今あなたが思ったように、「そんなバカなことがあるワケない」と思った僕はアイスクリームのコーナーを数分程うろうろしてみたのですが、一向に買いたくなる気配がありません。 そこで僕は考えました。 僕がアイスを買わないのではなく、アイスの方から僕が買わないように仕向けているのではないか、と。 これは実は大真面目な話で、今から話すことは、このアイスから僕に送られたメッセージについてなのです。   ■アフォーダンスについて アフォーダンスという言葉を知っているでしょうか。 これはジェームズ・ギブソンという学者が作った概念で、 物事の意味や価値は、その物事とそれを取り巻く周りの環境や状況によって決定される というような意味で使われます。 例えば、あなたがリンゴを持っていたとしましょう。あなたのお腹が空いていたとしたら、あなたはそのリンゴを食べようと思うかもしれません。 しかし、あなたがストーカーに追われていたなら、そのリンゴを武器として投げつけることもあるでしょう。 またあなたが芸術家だったとしたら、そのリンゴを削って彫刻作品に仕上げるかもしれない。 アフォーダンスの概念では、今挙げた「食べ物」「武器」「作品」という3つの価値は、すべてリンゴに内在していると考えます。 リンゴはわれわれの状況に応じて投げかける価値を変化させているということです。 この「リンゴがわれわれに価値を投げかけること」を、リンゴが価値をアフォードする、という言い方をします。 お腹が空いているときには、リンゴは「私を食べてもよい」という価値をわれわれにアフォードし、ストーカーに追われているときには「私を投げてもよい」という価値をアフォードする。 こういう感じです。 ですから、リンゴそのものは無限の価値を持っています。 上記の以外にも、状況に応じてキャッチボールのボールという価値をアフォードすることもあるかもしれないし、料理の隠し味としての価値をアフォードすることもあるかもしれないし、お手玉としての価値をアフォードすることもあるかもしれません。 われわれは通常、リンゴを食べ物としてしか認識していませんが、リンゴの価値はその限りではなく、状況次第で無限に広がるのです。 ただ、例えばストーカーに追われていたとしても、リンゴを投げるという発想を思いつくかどうかは、その人の機転次第です。 どれだけリンゴが「私を投げてもよい」とアフォードしていても、逃げるのに必死でそのアフォードを拾えなければ、それは価値にはなりません。 この「アフォードを拾う能力」のことを、ピックアップ能力と言います。 つまり、リンゴに無限の価値があったとしても、その価値を拾う人間のピックアップ能力が低ければ、リンゴの価値はごく一般的な「食べ物」としてしか発揮されないということなのです。   ■便利な社会は人間を退化させる われわれの日常は、われわれのピックアップ能力が衰退するように作られています。 スマートフォン、冷蔵庫、電子レンジ、自転車、サプリメント、本、靴、ハサミ、マウスなど、われわれの身の回りにあるものはすべて、あらかじめ誰かによって用途が決められています。 スマートフォンとして売られている四角くて平らで薄い機体はスマートフォン以外の用途で使われることについてはまったく考えられていません。 冷蔵庫や自転車やサプリメントなど、そういった「物の名前」はその物の用途(使い方)とセットになっているワケです。 そのため、われわれは自分のピックアップ能力を使わなくても、その物の使い方を誰か(例えばメーカー)から教えてもらうことができます。 取扱説明書を読めば、そこには特定のアフォードを最大限に活かす方法が載っているワケです。 しかし、本来それをどう使うか、どう活かすかは、提供者ではなくわれわれが決めることです。 リンゴを食べるのか投げるのかは状況によって異なります。 ストーカーに追われていれば、投げることがリンゴの最大の価値になるかもしれません。 赤ちゃんにスマートフォンを持たせれば、投げたり叩いたりすると思います。 それがスマートフォンに本来備わっている無限の可能性です。 赤ちゃんがスマートフォンを投げたり叩いたりするのは、その子にスマートフォンが「私を投げてもよい」「私を叩いてもよい」とアフォードしていて、そのアフォードを赤ちゃんがピックアップしているからです。 それが適切な使い方であるかは別として、そういう可能性をわれわれは無視すべきではないのです。 しかし、世間の商品はその物の可能性をことごとく奪い、たった1つの価値に固定して販売しています。 スマートフォンはスマートフォンとして、自転車は自転車として使われることだけが推奨され、われわれはそれを無批判に受け入れ、盲目的に従っている。 それによって、われわれのピックアップ能力が衰えているということは言うまでもありません。 能力というのは、使わなければ自然と衰えます。 一切のピックアップを慣習的に他者に委ねてしまっているわれわれは、自ら意識してピックアップ能力を使うことによってしか、この能力を鍛えることができなくなっているのです。   ■ピックアップ能力の重要性 ピックアップ能力の有無がわれわれの人生の質を左右することは明白です。 あなたがこここまでメルマガを読んでどれだけの価値を得たかは、あなたのピックアップ能力に依存しています。 僕の書く記事にかぎらず、あらゆる文章には無限の価値があり、状況に応じていろんな価値をわれわれにアフォードしています。 あなたが人間関係に悩んでいるならば、このアフォーダンスの話は人間関係を改善させる方法として読めるかもしれませんし、ビジネスアイデアを練っているならば、斬新なアイデアを生み出す方法としても読むことができるかもしれません。 それはあなたの状況とあなたのピックアップ能力に依存するのです。 ただ、このことはある意味、僕にとって絶望的なことでもあります。 というのは、僕がどれだけいい記事を書いても、あなたの能力が低ければ、それだけ低くしか評価してもらえないからです。 これがお互いにとって大きな損失だということは明らかです。 僕はどれだけ頑張っても報われず、あなたはどれだけいい文章読んでもわずかな価値しか得られない。 これほど最悪な関係はありません。 だから僕は、僕のためにも、あなたのためにも、あなたの能力を 高めることに力を向けなければならないし、向けるべきなのです。 これは僕だけの話ではなく、世界中の人が考えるべきことです。 当然あなたも例外ではありません。 あなたはあなた自身のためにも、あなたの周りの人のためにも、あなたのアフォードを最大限にピックアップしてくれる仲間を集め、彼らと一緒に成長することで、あなたの価値が最大化されるように努力すべきなのです。   ■アイスクリームと僕 僕の体がアイスを拒否したのは、アイスを食べることが僕にとってマイナスになる、つまりアイスからのマイナスの価値をピックアップしたからだと思います。 例えば「お腹を壊してもよい」もしくは「小さい頃からの食習慣に縛られてもよい」みたいなアフォードがあったのかもしれません。 「暑くなったらアイスを食べる」みたいな食習慣は確かに僕の中にありましたから、その世間一般にありがちな常識を避けるようにアフォーダンスが働いたということは、自分の能力もそれなりに鍛えられてきているのかな、と思っています。 まあ生理的なことなので細かいことは分からないですけどね。 しかし、冒頭のあんなしょーもないアイスの話が、これだけ重要な話になるんだから、ピックアップ能力の有無がどれだけの差になるかは想像に難くないでしょう。 アイスを買いに行って、なぜかアイスが買えなかった。 この何でもない事実から何をピックアップするかが、われわれの人生の質を決めるのです。 われわれの日常はあらゆる可能性で溢れています。日常はあらゆる価値をわれわれにアフォードしているのです。 その価値をいかにたくさんピックアップできるか。凡人と脱凡人との差は、ここで決まります。 どんなときも油断しないでくださいね。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック     ...more»
アフォーダンスとは
  アフォーダンスとは、知覚心理学者ジェームズ・ギブソンの作った造語で「自分と環境の関係がそのモノの価値を決める」といった内容の概念です。 うちのブログではお馴染みの概念ですが、一般的にはまだそこまでメジャーになっていないのが実際のところ。 デザインの現場では、もはやアフォーダンス無しには成り立たないレベルになってきているのですが、他の業界ではあまり聞いたことがありません。 便利な言葉だと思うんですけどね。   モノには無限の価値(や意味)があらかじめ含まれており、われわれはそのモノとの関係に応じて価値の1つを選び取っているにすぎない。 これがアフォーダンスの前提です。 たとえばよく例としてあげられるのはドアノブ。 ドアノブそのものはドアについた突起物でしかないにもかかわらず、われわれはそれをドアノブとして認識し、それを捻ったり引いたりすればドアが開くことを知っています。 それはドアについた突起物がわれわれに「ここを引けばドアが開くよ」「私はドアノブですよ」と語りかけているからだ、という風に解釈するのがアフォーダンスの考え方です。 このことをギブソン的な言い方で「ドアの突起物がわれわれに引くことをアフォードしている」と言います。 要はこちら側が主観でモノに価値を付加しているのではなく、価値はモノそのものにあってわれわれはそのモノがアフォードした価値を選び取っているだけだ、ということです。 これを主観主義的に「こちらがモノに対して価値を付加している」と考えると、われわれがそのモノのあり方や使い方を個人的に決めている、という解釈になってしまうのですが、それだと郵便ポストを郵便ポストだと知らない人は、そこに手紙を入れても手紙が届かないことになってしまいます。 当たり前ですが、郵便ポストはそれを知っている知らないにかかわらず、手紙を入れれば手紙は届けられるワケですから、「手紙を届ける」という価値はこちらが付加しているのではなく、あらかじめ郵便ポストに備わっているのです。 このことから、アフォーダンスは近代的な主観主義を乗り越える大きな一歩を切り開いたと言えます。   ちなみにドナルド・ノーマン的にアフォーダンスを表現すると、(突起物ではなく)ドアノブがわれわれに「ここを引けばドアが開くよ」と語りかけている、という言い回しになります。 ただ、この場合はあらかじめ意味が固定された「ドアノブ」という言葉が使われていることによって、ドアノブがドアノブの役割をわれわれに伝えている、というトートロジーをあらわしており、ギブソンの使った純粋な意味でのアフォーダンスとは異なることを注意しておいて下さい。   このアフォーダンスの考え方を応用すると、われわれ人間の価値を再評価することができます。 先ほど「モノにはあらかじめ無限の価値が含まれており、そのモノとわれわれの関係がその価値を決定している」と書きましたが、もしこのモノが人間にも当てはまるとするならば、自分と周りの関係を変えることによって自分の価値は変わる、と考えることができるワケです。 つまり、自分には無限の価値があるけれども、周りの人間がその中の「使えない価値」ばかりを選んでしまっているために、自分は使えない奴というレッテルを貼られてしまっているのだ、と。 自分をちゃんと評価できる人にさえ出会えば、自分の価値はまったく別物になるのではないか、と。 これだけを読むと他力本願に見えてしまいますが、実社会で評価されない人間がネット上で人気者だったりする現実を考えるならば、あながちこれが他人にばかり依存しているとも言えない気がします。 もちろん「自分には無限の価値がある」という前提に甘えていては、誰に出会っても何も起こらないと思いますけどね。 大事なのは、いかに自分の価値を周りにアフォードできるか。 その工夫次第であなたの人生は変わってくるかもしれません。   ...more»
イノベーションと自明性
  ここのところ色々なメディアでイノベーションという言葉を目にすることが増えてきました。 創造的破壊、コペルニクス的転回、パラダイムシフト、リフレーミングなどなど、呼ばれ方は業界によって異なりますが、どれも意味はほとんど同じ。 これらが意味しているのは われわれにとっての「当たり前」を当たり前でないようにする ということです。 一般にはこれを、常識を覆す、とか言ったりしますが、要はそれさえできればイノベーションは起こるワケです。 しかしそれが口で言うほど簡単ではないことは、イノベーションについて少しでも考えたことのある人なら誰でも実感していると思います。 必死になって頑張ってみても、どこかの会社のようにテレビと空気清浄機を合体させてみたり、より高精度の液晶を開発してみたり、そういう勘違いが大半なワケです。   僕が考えるに、イノベーションが起こらない主な原因は、自分たちの「当たり前」が何かを自覚できていない、という点にあります。 日本の大手家電メーカーがしょーもないのは、柔軟な発想ができないからというよりも、自分たちが何に凝り固まっているのかを自覚していないからなのです。 テレビに空気清浄機をくっつける。 確かにこれも従来のテレビとは違った新しいものだと思います。 けれども、これをイノベーションと呼ぶのにはどこか違和感がある。 その理由は、くっつける物は多少珍しくても“くっつけ方”が凡庸だからです。 もう少し突っ込んでいえば、テレビをテレビ、空気清浄機を空気清浄機としてしか見ていないからです。 以前アフォーダンスの話をしたことがあると思いますが、テレビとはあくまでも映像を映し出す装置、いや、電気を使って映像を映し出す機能を持った大きな四角い物体でしかありません。 本来なら、それを使って映像を見るかどうかは、われわれがその使い方を選ぶかどうかによって決まります。 自分がその物体を邪魔だと思えば、それはどれだけ高性能であってもゴミになる。 モノの定義とはその程度のものなのです。 ですから、テレビや空気清浄機というのはそのモノが持った1つの側面でしかなく、テレビが単なる大型不燃ゴミではなくテレビであるのは、まさしく売り手がその側面のみをアピールし、われわれに対してそういうものであると強引に定義づけているからなのです。 この「当たり前」をほとんどの企業は自覚していません。 電気を使って映像を映し出す機能を持った大きな四角い物体をテレビとして売り出すこと、それを当たり前だと無自覚に思い込んでいるからこそ、何の悪気もなく彼らは「これはテレビです」と言って販売することができるのです。 僕が手前で、イノベーションを起こせない主な原因は「当たり前」を自覚できていないからだ、と言ったのはこのことです。 今の話は分かりやすいように企業を例にしましたが、これは別に商品開発に限った話ではありません。 知識にも、人間にも、同じようなことが言えます。 しょーもない知識も、しょーもない人間も、すべての根本にはこのことが関係しているのです。   「当たり前」はその言葉の通り、われわれにとって当たり前のことですから、それ自体は面白くも何ともありません。 見たり聞いたりしても何の感動もしないもの、ごく身近のありふれたもの、それをわれわれは「当たり前」と呼ぶワケです。 息をすること、体を動かすこと、水道の蛇口から水が出てくること、スーパーに行けばいつでも食料品が手に入ること、毎日何事もなく生きていること・・・。 これらはすべてわれわれにとって「当たり前」ですが、こうやって言葉で説明されなければ、通常は意識すらしないと思います。 それが「当たり前」が当たり前である所以です。 そのため誰もが「当たり前」に対して無自覚的で無意識的であり、その「当たり前」が揺らがない限り、それについて深く考えるようなことはほぼありません。 つまり「当たり前」を自覚していないこと自体はわれわれにとって普通のことであり、何か問題があるワケではないのです(道徳的には多々問題があるのですが、その話はまたどこかで)。 けれどもビジネス的に、知的に、人間的に、イノベーションを起こしたいと考えている場合は別です。 冒頭で話したように、イノベーションとは常識を覆すことなのですから、その常識、つまり「当たり前」を自覚していないことには話になりません。 犯人を知らなければ犯人を捕まえることも、ましてや改心させることもできない。 それゆえ、イノベーションを起こすことを主題とした場合、最初に考えなければならないのは、そもそもわれわれは何を「当たり前」として生きているのか、「当たり前」はどんな役割を担っているのか、ということです。 もちろんこれが分かっただけでイノベーションが起こせるということではありませんが、このことがイノベーションの第一歩として非常に重要であることは、ここまでの話からして異論はないでしょう。 ただ改めて考えて欲しいのは、ビジネスだろうが、知識だろうが、それらはすべて人間に関することである、という点です。 われわれ人間の活動がなければ、知識やビジネスは成立しません。 というより、「当たり前」という土台の上で行っている思考や行動が反映されて、それは知識やビジネスになるのです。 だったら。 ビジネス的イノベーションとか知的イノベーションとか、そういったことをちまちま考えるのではなく、われわれ人間自身の「当たり前」を問い直せば、あらゆる意味でのイノベーションを起こしやすくできるのではないでしょうか。 そしてそれが良くも悪くも人生を変えること、人生を「逆転すること」に繋がるのではないかと思うのです。   ここで「それでは僕と一緒に人生を変えましょう」などと巷の成功哲学愛好会のような気持ちの悪いことを言うつもりはありません。 ましてや僕にはあなたの人生を変えられるほどの力はないし、その資格もない。 僕のような人間がそんなことを口にするのは「おこがましい」というものでしょう。 神様でもあるまいし。 またそれ以前に、人生を変えること、人生を「逆転すること」、それ自体が良いこととは限りません。 イノベーションを起こすというと世間的には良い意味に捉えられることがほとんどですが、要は常識的でない思考を手に入れていくワケですから、必然的に常識的な人からは受け入れられなくなっていくことは十分に有り得ます。 場合によっては、今まで普通に付き合うことができた友人と話が通じなくなることもあるかもしれません。 「それでも変わりたい」 そう言い切れる者にのみ、自ら変わる資格が与えられるのではないでしょうか。   僕の言っていることは昔から何も変わっていませんが、僕は上記のような人と一緒に勉強したいし、仲間になりたいし、いろんなことに挑戦したいと思っています。 だからこそ、こんなマニアックな記事をずっと書き続けてきているワケですが、個人的な事情で来月以降からはよりパワフルに、よりアグレッシブに活動を本格化させていく予定にしています。 ブログの更新頻度も上がると思いますし、メルマガを出す頻度も上がるでしょう。 またイノベーションに関するセミナーや読書講座なども予定として考えています。 そしてあわよくば、仲間を巻き込んで海外進出なども出来ればな、と考えているところです(僕個人は1年ほど前から海外で物を売ったりしています)。 だからどうした、と言われればどうもしないんですが、ブログも新しくなったことだし、いい機会なので改めて仲間(便宜上はメルマガ読者)を募集しようかな、と。 要はそれだけです。 よかったら僕と一緒に(人生)勉強してみませんか? イノベーティブな生き方。 きっと楽しいと思いますよ。   ペスのメルマガに登録する   ちなみに今なら登録のおまけで『「当たり前」の構造』という18ページ程度のPDFレポートがついてきます。 この名前からも想像がつくように、内容はこの記事の続きです。 われわれの「当たり前」を具体的に紹介し、思考はいかにして可能か、会話はいかにして可能かなど、そんな感じのことを解説しました。 いつも通り難しい話はしてませんので、気楽に読んで下さい。 敢えて専門的に言うならば、メタ思考やメタ認知といったメタレベルの話、ないしオートポイエーシスの原理などにも関連したテーマです。 まあレポートの中にはこんな言葉は一言も出てこないんですけどね(笑) こういう言葉を出した方が理解しやすい場合もあるかと思ったので一応。 ではでは、今回も長くなりましたがこの辺で。 ありがとうございました。   ...more»
積読(つんどく)の意義
  随分とご無沙汰しております(苦笑) セミナーも無事に終わり、最近はアートに夢中に なりつつある今日この頃。 縁あって、今あるアーティストさんと一緒にビジネスを やっているのですが、この業界はなかなか興味深いです。 なんと言っても売れるモノと売れないモノとの違いが 恐ろしく分かり難い(笑) まあそこが面白くもあるんですけどね。 「なぜ人はアートを買うのか」 もし暇だったら考えてみて下さい。 では今日も張り切っていきましょう! 僕はよく本をまとめて衝動買いしてしまうことがあるのですが、 こういう人って僕に限らず結構いると思います。 今読んでる本があるにも関わらず、本屋で魅力的な本を 発見するとついつい買ってしまう。 で、買ったはいいものの、今読んでる本を読み終わった ときには、また別の欲しい本を見つけてしまい、それも ついつい買ってしまう。 そしてどんどん読まない(読めない)本が溜まっていく。 これを俗に積読(つんどく)というワケですが、 僕も例に漏れず積読主義者の一人です(苦笑) 今や恐らく10年あっても読みきれないであろう本が ずらずらと僕の本棚にはコレクションされています。 半ばオブジェ的に・・・。 さて、この積読。 世間一般には「できれば解消したいもの」と考えられており、 過激派の中には「読まない本なんて買っても無駄」という 意見を持った方々もいるとかいないとか。 確かに本は(一部を除いて)読まれるために生まれてきている ワケですから、出来る限り読むに越したことありません。 買った本は読んでナンボ。 それは間違いないでしょう。 ただ、だからと言って積読が無駄なことだとは 僕には思えないんですね。 「どうせ読まないなら、買っても買わなくても一緒」なんて 意見もあるかと思いますが、そもそも「どうせ読まない」 という前提が正しいのかどうかを考えてみて下さい。 未来のことなんて誰にも分かりません。 なのに「どうせ読まないだろう」みたいに自分の行動を 決め付けてしまうのは、いかがなものでしょう? そう決め付けるよりも、むしろ「いつか読むかもしれない」 という前提で考えた方が将来の可能性は広がるし、個人的には 楽しそうな気がします。 教習所で習いませんでした? 「だろう運転」はいつか事故る、って。 多分「読まないだろう」も、どこかで事故るんじゃないかな。 自戒・・・。 読むか読まないかなんて分からない。 読めるか読めないかなんて分からない。 でも、買った本は「いつか読むかもしれない」ですよね? 逆にその時出会った本を買わなかったら「もう出会えない かもしれない」ですよね? だったら、読むか読まないかはともかく、買っておけば いいんじゃないの?積読しとけばいいんじゃないの?と 僕は思うワケです。 これはある意味、合コンの論理と同じ。 相手が自分のことをどう思ってるかは分からないけど、 取り敢えず携帯番号とアドレスぐらいは聞いておけば いいのです(笑) もしかしたら脈があるかもしれないんだから。 仮に脈がなかったとしても、それはそれ。 番号とアドレスすら聞いてなければ、脈があるなしに 関わらず、可能性は閉ざされてしまいます。 それはあまりにも、もったいないでしょ?と。 そーゆー話です(笑) 人との出会いと同じで、本との出会いも一期一会。 何億冊、何兆冊もある本の中から奇跡的に出会った本が あるのなら、その機会は受け入れるべきではないでしょうか? ましてやそれが世間の風評に流されて欲しくなったものでは ないのならば、尚更です。 自分の意思で、自分の直感で、自分の感性で感じて 欲しいと思った本は、役に立つ立たないに関わらず 買っておくべきだと僕は思います。 なぜなら、それこそアナタが本当に欲している本だから。 直感とか感性とか言っちゃうとスピリチュアルな世界の話に 聞こえてしまうのが難点なのですが、実は僕が言いたいのは そんなふわふわした話ではありません。 まずは少し前(?)に書いたアフォーダンスの話を思い出して 下さい。 ここで僕はコップの話をしています。 コップの取っ手は「ここを持て」ということを僕達に訴えて (アフォードして)いる、と。 忘れてたら今すぐにちゃんと読み返して欲しいんですが、 要するにコップはそこに在るだけで僕らに何かしらを アピールしているワケです。 しかーし。 よくよく考えると、コップは僕らに対してずっと 「取っ手を持て」とアフォードしているワケではないことに 気付くと思います。 コップが僕らに「取っ手を持て」とアフォードしてくるのは 僕らがコップを使おうとしているその時だけです。 喉が渇いて水を入れるのか、洗ったコップを乾かすのか、 その状況は色々あると思いますが、僕らとコップに何らかの 関係を築く必要が生じたときにコップは僕らに語りかけてきます。 だから当然、僕らがコップに対して何の用もないときは、 コップは基本的には黙っている。 要するに、「取っ手を持て」というアフォードは 僕らの【いま・ここ】を反映しているのです。 僕らが今ここで何をしたいのか。 今ここで何をすべきなのか。 それがコップのアフォードとなって返ってきているワケです。 このアフォーダンスと「いま・ここ」の論理を本との出会いに 置き換えると、本が「買ってくれ」とアフォードしてくるのは、 僕らの「いま・ここ」がその本に反映されているから、 ということになります。 つまり、僕らは心のどこかでその本を欲しているのです。 その本に用があるから僕らはそれを欲するのです。 普段こんなことはあまり考えないと思いますが、 実はこれは凄く大事なことなんだということに 気付いて下さい。 なぜ何万冊もある本棚の中から、その本だけが目に付き、 欲しくなってしまうのか。 本が分かり難かったら衝動買いの類を全部含めて考えても 構いません。 なぜそのバッグだけが、なぜその靴だけが、なぜその財布だけが 欲しくなってしまうのか。 大概は、デザインが好みだから、という理由で 欲しくなるのだと思いますが、じゃあなんでそのデザインが 好みなのか、というのも考えてみて下さい。 自分の心に思い描く「具体的な」デザインがあって、 そのデザインにピッタリ当てはまるものがあったから 欲しくなったのかと言われると恐らくほとんどの人は そうじゃないと思うんですね。 どっちかと言うと街中でたまたま見つけたバッグ、靴、財布が 自分の「抽象的な」イメージにピッタリ合って猛烈に 欲しくなってしまった、という感覚だと思います。 つまり出会った瞬間「いま・ここ」において自分は本当に 欲しているものに気付くのです。 そうそう、オレはこんな靴が欲しかったんだよ!って。 欲しいモノが現実として具体化されるのは「いま・ここ」の 瞬間においてだけなのです。 そしてブーバーやハイデガーの考えを加味するならば、 「いま・ここ」を全力で生きている時にしか神には出会えない ということになります。 これは言い換えると、 本当に欲しい本(モノ)に出会うには、本当の自分として 生きていなければならないし、本当の自分として生きるには、 自分の「いま・ここ」を完全燃焼しなければならない ということです。 そうすれば、それは自ずと衝動となって現れる。 その衝動こそが神との出会いなのです。 上記の話では積読そのものよりも積読になる過程の話を メインに書きましたが、この論理(?)は積読してからも 当てはまります。 自分の部屋に読んでない本がたくさん積まれている。 この本の中から自分の「いま・ここ」に応じて アフォードしてくる本が今読むべき本なのです。 なんとなく手に取った本のたまたま開いたページに 自分の欲しい答えが書いてあった、なんてことは比較的 よく聞く話ですが、その原理はこういうところにあります。 全力で生きていれば、いつでも神は降りてくるのです(笑) ではでは。 ありがとうございました! ...more»
セミナー「“現実”の取扱説明書」
  この度、やっと重い腰を上げ、セミナーを行うことにしました。 その名も“現実”の取扱説明書、略してゲントリ。 我ながら自分のネーミングセンスの無さには ウンザリします(苦笑)。 それはさておき。 このセミナーは【現実】について最低限知っておくべきこと、 注意すべきことを僕が語ってしまおう、という何とも偉そうな 企画です。 「そんなこと知って何の役に立つの?」なんてことを言われて しまいそうですが、やりたくなっちゃったんだから仕方ない。 やっちゃいます。 今回このテーマを選んだのは、僕が今【現実】に夢中だから、 という理由に他なりません。 誰からリクエストがあったワケでもないし、こんなものが 本当に求められているのかどうかすら、僕には分からない。 でも僕はやりたいし、今こそやるべきだと思うのです。 ここ何ヶ月かの僕のブログ記事なりTwitterのツイートなりを 見てもらえれば分かるように、僕はあからさまなまでに 【現実】というものを強調してきました。 時には世界が云々、名前が云々、感覚が云々、科学が云々、 という一見抽象的なことも語ってきましたが、それらは全て 【現実】を多角的に捉えるための手段に過ぎません。 どんな抽象的な話をするときだって、僕は現実的な 具体例を欠かしたことはないと思います。 それはあなたの理解を促進するためでもありますが、 それ以上に 「現実にないことを語っても全く意味がない」 と思っているからなのです。 しかし誤解しないでもらいたいのは、僕は現実主義者では あっても、抽象的な話が無駄だと言っているワケではありません。 そうではなく 抽象的な話で終わってしまっていることが現実には多過ぎる ということを僕は言いたいのです。 事実に関する限り、理論は常に 仮説にしかすぎないこれはマックス・ホルクハイマーという哲学者の言葉です。 僕が言いたいのは、まさにコレ。 世間ではスピリチュアルや成功哲学やなんちゃら読書法、 なんてものが売れているようですが、あれらを現実に 当てはめたときに、結局どれだけの人が結果を出せているのか? という点に目を向けて欲しいのです。 「幸せを手に入れる5つの方法」みたいな本がベストセラーで 100万部売れていたとして、それを買った人のうち50万人でも 本当に幸せを手に入れることは出来たのか、と。 いや、たった0.01%でもいい。 100万人のうち100人でも本当に幸せを手に入れることは 出来たのか。 そこを僕は見て欲しいのです。 彼らとて、恐らく悪意でそのような本を出しているワケでは ないと思います。 むしろ良かれと思って自分の知識を他の人に広めようと 思っている人がほとんでしょう(だと信じたい)。 しかし、現実がすべてを物語っているということに 気付かなければならないと思うのです。 我々は理想(や理論)ではなく現実を生きているのだから。 現実に“気付く”力今回のセミナーでは 1.現実を見抜く訓練 2.現実を正しく捉えるための知識 を2本柱にして【現実に気付く力】を身につけて頂きます。 この力が身に付くと ・普通の人には見えない“本当の世界”が見えるようになる ・自分に必要な情報が手に取るように分かるようになる ・周りの人間とだんだん話が合わなくなってくる ・自分の周りに今まで縁の無かった人が集まってくる ・目に見えるものすべてを疑いたくなってくる などの現象が起きますので、それが嫌なら今回の受講は 見送った方がいいかもしれません。 では詳しい説明に入ります。 しんどい事は嫌いですか? 1.現実を見抜く訓練 これは僕が出す問題を参加者全員で考える、という非常に シンプルな訓練です。 名前の通り「訓練」ですから、実際に本人が頭を動かして ヘトヘトにならないことには訓練になりません。 頭は使ってナンボ、回してナンボです。 一度考えることが習慣になってしまえば、わざわざ僕が 問題を与えるまでもないのですが、最初のキッカケとして このような訓練は重要だと思っているので「テキトーに 話だけ聞いて帰ってやろう」という中途半端な態度で 参加するのはやめて下さいね。 ちなみに、出題する問題は決して難しい言葉を多用した ものではなく、「頭の体操」的なものだと思ってもらえれば 大丈夫です。 哲学的な知識がないと解けないとか、特定の宗教や歴史を 知ってないと解けないとか、そんなのではありません。 というか、僕もそんな知識はありません(苦笑) 解けるかどうかは保証しませんが、少なくとも問題の意味が 分からないといった非常事態は起こらないと思います (起こらないようにします)。 ぜひこの機会に知恵熱が出る快感を味わってみてください。 楽しさからしか“本当の学び”は得られない 2.現実を正しく捉えるための知識 こっちは普通のお勉強です。 とは言っても、1の訓練と絡めて話を進めようと思っているので、 僕が一方的に喋るというより、質疑応答的な感じでワイワイ 話し合いながら答えを導き出す、という感じになると思います。 ぜひぜひ、みんなで楽しくお勉強しましょう。 今のところ予定している勉強内容は例えば ・現実を見抜くことによって見えてくる本当に問いとは? (我々が普段目にする問いのほとんどは実は現実的に無意味な 問いなのです) ・多くの人が陥っている誤った問いの立て方とは? (もしあなたが「人生とは何か?」「哲学とは何か?」という 問いを真剣に考えているならば、一刻も早くやめるべきかも しれません) ・そもそも「問い」とは何なのか? (現実を正しく捉えるためには、ここから考える必要があります) ・「問い」と「可能性」の意外な関係とは? ・なぜ人を殺してはいけないのか? (この問い答えることが出来るなら、あなたはこのセミナーに 参加する必要はありません) ・「合理的に生きる」とは、どういうことか? (何が“本当の意味で”合理的なのかをお教えします) ・誰もが無意識に行っている、ある偏った思考とは? (いじめの問題から近代医学まで、我々の考えることは ほぼ全てこの思考が土台になっています) ・現実を知ることでしか見ることができない、 次のステージとは? (このステージが見えなければ、永遠に自分の足で 自分の人生を歩くことはできないでしょう) ・自分を変えたい・・・その願望を手っ取り早く叶える ある方法とは? (これ以上お手軽でシンプルな方法を僕は知りません) ・「お金持ちになること」と「お金持ちであること」 との違いとは? (同じように見えるかもしれませんが、両者の意味は 全く異なります) ・自分の可能性を広げる5つのステップ ・人間が抱える2種類の悩みとは? (これを知るだけでも、人生の80%以上の悩みは 消えて無くなります) などなど。 恐らくこんな感じのことをお話することになると思います。 ただ、直前に面白いことを思いついたら、そっちを優先的に 話すことになるかもしれません。 つまり予定は未定だということです(笑) もし上記の中にどうしても話して欲しい内容がある場合は その旨を募集フォームの備考欄に書いておいて下さい。 何かしらの参考にさせて頂きます。 そして、もう言うまでもないと思いますが、このセミナーの 主な対象は ・徹底的に脳みそを鍛えたい人 ・やりたいことだけをやって暮らしていきたい人 ・コミュニケーション能力に磨きをかけたい人 ・自分の足で自分の人生を歩きたい人 ・知的好奇心が溢れ出て止まらない人 など。 つまり、僕のブログやTwitterをそれなりに読んでいる人が 対象ということです。 「たまたまレターを見かけて、どうしても参加したくなった」 という奇跡的な事情がある場合は、取り敢えず冷静に僕の ブログやTwitterを読んでから、申し込むようにして下さい。 そうしないと、お互いに不利益を蒙ることになると 思いますので、くれぐれも慎重にお願いします。 現実の値段映画に1800円、遊園地に6000円、ライブに1万円、 お洒落なバーに2万円、高級ホテルに5万円。 人は幻想(理想)を見るためなら、いくらでもお金を 払います。 では、現実を見るためなら、どうでしょう? あなたは現実に対していくらまでならお金を払えますか? ・・・。 今回のセミナーは以前ブログでお約束した通り無料で 行います。 ただ勘違いしないでもらいたいのは、これは僕が現実に 価値がないと思って無料にしたのではない、ということです。 当たり前ですが、価値がないと思ってたら そもそもセミナーなんてやりません。 じゃあ何で無料にしたのか。 それは僕が「そうしたかったから」です。 僕の感覚が「無料にしとけよ」と言ったから無料にした。 それだけの話です。 もちろん参加費が無料だからと言って内容に手を抜くつもりは 一切ありませんので、ご安心を。 では日程などの連絡です。 セミナー開催日は7月8日(木)。 場所は大阪梅田某所。 13時頃から開始して15時か16時ぐらいに終了予定です。 具体的なセミナー会場については詳細が決まり次第、 参加者の方に直接メール致します。 参加可能人数は15人~20人ぐらいです。 こんな意味不明なテーマのセミナーで定員を超えることは まず有り得ないと思いますが、もしそんなことがあった場合は 僕の独断と偏見によって人を選ばせて頂きますので、 どうしても選ばれたい場合は、申し込みメールの備考欄に セミナーへの熱い思いを書き込んでおいて下さい。 人々は見る覚悟のあるものだけしか 見ることが出来ないさて。 最後にエマソンの言葉を引用しました。 この言葉をどう捉えるかはあなた次第ですが、 ここまでのレターをちゃんと読んでくれたなら 意味は分かるはずです。 僕にはあなたの覚悟を変えることは出来ません。 覚悟を決めるのはあなた自身です。 しかし、今なんとなくでも、このセミナーに何かを感じて いるのなら、勇気を持って一歩を踏み出してみて下さい。 その選択はきっと正しいです。 保証します。 それでは、またセミナーでお会いしましょう。 ありがとうございました。 ペス お申込み希望の場合はこちらのリンクから飛んで フォームに必要事項を記入して下さい。 追伸1 今回の募集は五月末日で締め切ります。 「休みが取れるかどうか分からない」といった事情で 申し込みを迷っているのなら、取り敢えず申し込むだけ 申し込んでおいて、後で無理だったらキャンセルする、 という形でも構いません。 他にも何かしらの事情を抱えて迷っている場合は その旨を備考に書いておいて頂ければ、出来る限り 対応致します。 追伸2 人は油断すれば安きに流れるものです。 難しく苦しいことは避け、楽な方ばかり選ぶ。 もしこのセミナーを「私には難しいかも・・・」という 理由で諦めようとしているなら、それこそが妥協であり、 逃避であり、人間の弱さなのかもしれません。   お申込み希望の場合はこちらのリンクから飛んで フォームに必要事項を記入して下さい。   ...more»
名前論(中編)
  お待たせの続きでございます。 この時期はどこも同じように色々とバタバタするもんで 僕も例に漏れずバタバタしていました(苦笑) ひょっとしたら4月が終わるまではまた更新が遅れることも あるかもしれませんが、その時はなるべくお知らせを入れる ようにします、ごめんなさい。 前回はパンを例にしつつ、主に物の名前について 考察を深めていきましたが、今回は人の名前を例に、 より詳細な内容に迫っていきます。 詳細になるってことは、複雑になるってことなので できれば前回以上に注意深く読むようにして下さいませ。 じゃあ早速本編に入っていきましょう。 物と同じように、人にも名前があります。 たけし、ひろし、あけみ、あやの、みか、えり、だいすけ、 マイケル、ジョン、トム、エミリー・・・まあ一々例を 出すまでも無く、これらは自明のこと。 「おい、たけし、遊ぼうぜ」、「エミリー、何してるの?」、 普段は僕らは名前をこんな風に使います。 そして物凄い当たり前の話ですが、「おい、ジョン!」と呼べば、 「ジョン」という名前の人間がこちらに反応する。 さて。 ここで素朴な疑問です。 世の中には「ジョン」という名前の人間が複数いるにも関わらず、 僕らはどうやってそれらを使い分けているのでしょうか? 僕のハンドルネームは【ペス】ですが、リップスライムにも ペスという人がいるし、ネット上には僕以外にもハンドルネーム としてペスを名乗っている人はたくさんいます。 にも拘らず、このブログを読んでいるあなたは意識するまでもなく 【ペス】が僕を指すことを知っている。 これは一体なぜなんでしょう? そしてもう1つ。 あなたを含め、僕と他者との関係はそれぞれバラバラのはずなのに みんな僕のことを一様に【ペス】と呼びます。 これは前回の名前の定義からは外れますよね? 僕は「小麦粉をこねて発酵させ、オーブンで焼き上げたもの」と 自分との関係(価値)の1つが「パン」だと言いました。 つまり本来なら、関係が違えば名前は変わるはずなのです。 だったら、どうしてみんな僕のことを同じように 【ペス】と呼ぶのか。 また、どうしてそれでも各々の関係が成り立つのか。 この2つが名前論でのメイン議題です。 前者の方が議論が複雑になると思うので、今回は取り敢えず 後者を先に考えていき、余裕があれば前者も考えることに したいと思います。 後者の疑問はザックリ言えば、膨大な数の関係をたった1つの 名前で表せるのはなぜなのか?ということです。 これは実は「パン」についても同じで、詳細に見れば僕とあなたの 「小麦粉をこねて発酵させ、オーブンで焼き上げたもの」との 関係はそれぞれ違うはずなのに、同じ「パン」という名前で 表せるのはなぜなのか?という話にもなります。 その辺は前回少しだけ話しましたよね。 そんなワケで、この話をシンプルに考えるために、 ここでは色の問題に置き換えて考えてみましょう。 よく哲学の入門書には、こんな問いが書かれています。 「あなたの見ている赤と僕が見ている赤は、同じ赤なのだろうか?」 これは要するに、僕に見えているものとあなたに見えているものが 同じであることは人間がそれぞれバラバラの存在である以上 どうやっても証明出来ない、ということを言いたいワケですが、 じゃあどうして僕もあなたも「赤」という言葉を聞いて同じ色を 指差すことができるのか。 それは人それぞれ関係(見え方)は違っても、対象とするもの (見ているもの)は同じだから、です。 赤いポストを見て、僕やあなたが「赤い」と判断するとき、 僕の中では「僕的な赤」という価値が拾い上げられ、 あなたの中では「あなた的な赤」が拾い上げられます。 でも赤いポストという(客観的な)対象自体は同じだから 赤いポストと言われれば、同じものを指差せるのです。 ここで混同してはいけないのは、同じ見え方をしていることと 同じ対象が見えていることとは別問題だということ。 これは散々アフォーダンスの解説で言っていることですが、 見え方は「個別的」だけど、見えている対象それ自体は 「客観的」で1つの(共通の)ものなのです。 そしてここでもう1つ重要なのは「赤」という名前の 捉え方です。 先ほども書いたように、僕が「赤」と言うとき、 それは「僕的な赤」を意味し、あなたが「赤」と言うとき、 それは「あなた的な赤」を意味します。 つまり、僕が「パン」や「ジョン」と言う時も、本質的には 「僕的なパン」「僕的なジョン」と言っているのと同じだ というです。 なぜなら、僕の見ている「赤」は、その対象と僕との 関係でしか有り得ないし、あなたの見ている「赤」も その対象とあなたとの関係でしか有り得ないから。 何度も言うように名前というのは、その対象と「私の関係」 ですから、その「赤」も「私の赤」でしかないのです。 でも日常の会話で一々「僕的なジョン、遊ぼうぜ」とか 「僕的なパンが食べたい」なんて言ったら、ちょっと 変な意味に誤解されそうでしょ(笑) というか、僕らはそういった複雑なことを無意識に 処理しているから、わざわざ公言する必要がない。 だから「・・・的な」という言葉を付けなくても 同じ名前で意味が通じるのです。 学術的に言えば、同一の名前に対してメタコミュニケーションが 成り立っている、という感じでしょうか。 まあ難しい話はともかく。 今回分かっておいて欲しいのは、見た目上(形式上)、 同じ名前であっても高次の認識としては人それぞれ 別々(個別)のものを指している、ということです。 ちなみに、この話は数ヶ月前に書いたコミュニケーションの 3つの論理とも大きく関係しています。 もしお忘れなら参考までに読み返しておいて下さいな。 えー、案の定、前者の疑問を考える余裕がなかったので、 今回を「中編」として続きは「後編」に持ち越します。 ではでは。 ...more»
名前論(前編)
  今回は、前回の記事で登場した「名前」の考え方について 考察を深めていってみようと思います。 というか、もう僕の中では理論が出来上がっているので それをただ記事にするだけなんですけど。 一言で言えば【名前とは何か?】という話です。 まあ興味があればどうぞ。 名前。 物(対象)には名前が付き物です。 僕らは「小麦粉をこねて発酵させ、オーブンで焼き上げたもの」を 「パン」と呼び、「牛の乳から出てきた液体」を「牛乳」と呼び、 また「言語化された意味ある言葉の集合」を「情報」と呼び、 「人間の考える様」を「思考」と呼びます。 何のことはない、当たり前のことです。 しかしながら「パン」とか「情報」といった名前それ自体が 何なのかを知る人は恐らくほとんどいない。 それは名前という概念が空気の存在と同じぐらい僕らとって 当たり前過ぎるからでしょう。 一々空気を吸うことを考えなくても生きていけるように、 名前が何かを考えなくても僕らの生活には何ら支障は ありません。 でも、だからここでは敢えて考えるワケです。 当たり前のことを当たり前としか認識できないような 大衆にならないためにね。 名前とは何なのか? これは前回を読み返してもらえれば分かると思います。 名前とは、ある対象と私の関係 のことです。 「パン」とは「小麦粉をこねて発酵させ、オーブンで 焼き上げたもの」と僕の関係であって、それ以外では ありえません。 その「パン」を「枕」と呼ぶとき、その対象と僕の関係は 「枕」であり、もはやその対象は僕にとって「パン」では ないのです。 この辺は前回書いた通りですが、ここで重要なのは その対象が「僕にとって」パンではないという部分。 ここでは客観的な(普遍的な)パンを語っているのではない、 ということに注意して下さい。 客観的な「パン」的なものは確かに存在します。 しかしそれは「小麦粉をこねて発酵させ、オーブンで 焼き上げたもの」であって「パン」ではないのです。 僕と「小麦粉をこねて発酵させ、オーブンで焼き上げたもの」との 関係が食べ物である場合は、その名前は「パン」となり、 僕と「小麦粉をこねて発酵させ、オーブンで焼き上げたもの」との 関係が文房具である場合は、その名前は「消しゴム」となります。 つまり、当事者がその対象をどう捉えるのかによって 本質的な次元で名前が変化するのです。 この話は前回紹介したアフォーダンスの概念とも 非常に深く関係しています。 アフォーダンスの概念をこの「パン」の話を例に 考えるならば 「小麦粉をこねて発酵させ、オーブンで焼き上げたもの」という 客観世界に対して、僕が「パン」という個別の価値を拾い上げている という感じでしょうか。 僕が言いたいのは、その拾い上げた価値との関係が 【名前】だということです。 先ほど僕が 名前とは、ある対象と私の関係である と書いたことからも分かるように、【名前】そのものは 客観的に誰にでも当てはまるものではありません。 あくまでも【名前】は個別的な 「私の関係」 なのです。 通常の僕らの感覚では【名前】は対象そのものに 付けられた客観的なものだと認識しがちで、 「パン」と言えば、誰にとっても「パン」だと 思ってしまうところですが、実はそれは違うんです。 「小麦粉をこねて発酵させ、オーブンで焼き上げたもの」と 「パン」はイコールではありません。 なぜなら「小麦粉をこねて発酵させ、オーブンで焼き上げたもの」は すべての人に共通でも、それをどう用いるかは、その対象を 「パン」として認識しているか、他のものとして認識しているか によって違ってくるからです。 もっと細かく言えば、僕の認識している「パン」と あなたの認識している「パン」も別物なんですが、 その辺は話が難しくなるので、次回、人間の名前と 併せて詳しく解説します。 ともかく今回の記事で分かって欲しいのは 「小麦粉をこねて発酵させ、オーブンで焼き上げたもの」の 中にある1つの価値が「パン」であって、「小麦粉をこねて 発酵させ、オーブンで焼き上げたもの」自体には「パン」や 「消しゴム」以外にも無限の価値が含まれている ということなのです。 そしてその無限の価値から拾い上げた1つの価値との関係を 僕らは【名前】と呼んでいる、と。 あとは次回に続きます。 乞うご期待。 ではでは。 追伸 最近よく出てくる【関係】という言葉は今後このブログを 理解する上で重要なキーワードになります。 なんで重要なのかはブログを読みつつ自分で考えて下さい。 これは別にケチって答えを教えないワケではなく、 僕には僕の答えがあるように、あなたにはあなたなりの 答えが必ずあるから、こうやって言っているワケです。 前回書きましたよね? 僕の世界とブラジル人の世界は違う、と。 それはつまり、僕の世界とあなたの世界も違う、 っていうことなんです。 国が違うだけでも答えが違うことがあるんだから、 いわんや世界においてをや・・・。 その辺は想像に難くないと思います。 まあ記事を重ねるごとに色々分かってくると思うので 気長に読んでやって下さいませ。 ...more»
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