僕がフォローしている人たちの影響もあると思いますが、
フェイスブックを見ているとかなりの割合で

・ブログのアクセスを増やす方法
・必勝コピーライティングテクニック
・フェイスブックで集客する方法
・メルマガで売上アップするノウハウ
・コンサルタントになって成功する方法

などの広告や投稿が流れてきます。

これらの情報がよいか悪いかは今は触れませんが、
それらはどれもが部分最適に特化したものです。

部分最適とは、ブログのアクセスを増やす方法で言うと、
ある人の人生から「ブログ」という部分を切り取って、
そのまた「アクセス」という部分を切り取った上で
それを最適化(最大化)する、という発想のことです。

その人がどんな人生を歩みたいのか、つまり全体のことを
考慮することなく、ブログのアクセスという部分だけを
伸ばしていく。

これを部分最適と言うワケですが、その結果、多くの人が
残念なことになっていくということに、教える側の人は
気付いていません。

相手(クライアント)はブログのアクセスを増やしたいと
思っていて、それを達成すれば幸福になれると思っている
ワケですから、その方法を教えてブログのアクセスが
増えれば、当然喜ばれます。

「ありがとうございました、お陰でブログのアクセス数が
2.5倍にアップしました!」

そうやって笑顔で言ってもらえることがほとんどでしょう。

しかし、われわれ人間は、自分が望むべきでないものを
望んで手に入れようとすることが、往々にしてあるのです。

 

「人民は放っておいても、常に幸福を欲する。
しかし放っておいても、常に幸福が分かるとは限らない」

ルソーは『社会契約論』の中でこんなことを言っています。

この本で言われている「人民」は厳密には個人のことでは
ないのですが、今は細かいことは置いておきましょう。

要はルソーは、ある人が欲するものを手に入れたとしても、
それがその人にとって幸福であるとはかぎらない、と
言っているワケです。

これは宝くじに当たった人なんかが、典型的じゃない
でしょうか。

彼らは大金を手に入れれば幸福になれると思っているからこそ、
それを手に入れるために宝くじを買うワケですが、
いざ手に入れてみたら、あぶく銭に飲み込まれてむしろ不幸に
なってしまった、みたいな話が世界には溢れているワケです。

宝くじの例はやや極端ですが、われわれも日々
こういう自虐的なことを無意識に行っています。

「ブログのアクセスを増やしたい」というのは、
その1つの例です。

ブログのアクセスを増やすために必死になってキーワードを
検索して、タイトルは派手な言葉を使って煽り気味にして、
記事もテンプレート通りに書いて、内容もノウハウに特化する。

確かにそれをやればブログのアクセスは上がるかもしれません。

でも、そんなしょーもないことに神経を削る人生って、
楽しいんですかね?

それがその人の望む人生なら何も言うことはないのですが、
どうせブログを書くならアクセスとかキーワードとか、
そんなのを気にせずに自分がとにかく書きたい・書くべきだと
思うことを思う存分書く方が、僕は楽しいと思うんですよね。

その楽しんでいることが自然と結果に繋がっていくことを、
われわれは「成功」と呼ぶんじゃないんでしょうか。

 

お分かりだと思いますが、こんなことを偉そうに言っている
僕も、一時期、この「部分最適の罠」にハマっていました。

やっと治りかけてきた傷口を自分でえぐるのはちょっと
勘弁してほしいので、あえて具体的なことは言いませんが、
全体を見失って部分最適に走ると、あんな感じになります。

一言で言うと、欲望を満たすために楽しさや自分らしさ、
生きがいなどを犠牲にしてしまう、ということです。

しかし、何かが犠牲になっている時点で、それはもう
理想の人生ではありません。

だって人生というのは、自分のすべてなんだから。

お金のためであれ、家族のためであれ、平和のためであれ、
何かが犠牲になっているなら、それは何かが間違っています。

アルマゲドンよろしく、1人の人間の犠牲の上に成り立つ
人類の存続は、実際には何も素晴らしいことではないのです。

 

何かを犠牲にして、何かを成し遂げる。

それはまさに合理主義の発想であり、民主主義の、
もっと言えば全体主義の発想です。

自分の人生を犠牲にして家族のために働く親たちは、
自分もその家族の一員だということを忘れています。

家族を幸せにしたいならば、自分を含めた家族「全員」を
幸せにしなければなりません。

子供という部分だけを最適化しようとして自分を排除するから、
家族という全体が歪むのです。

大事なのは全体の調和であり、構造主義的な視点です。

われわれは近代的な価値観に乗っかって生きているので、
家族や会社や国などの社会を「個人が集まってできたもの」と
考えがちですが、その発想がそもそも間違っています。

フランシス・フクヤマが言っているように、人類史上、
人間が「個人」で存在していた時代など一度もないのです。

一度もないのに、民主主義というのはその「個人」を
前提として成り立っているし、われわれは個人が集まって
関係を作ることで社会になると思い込まされている。

それが部分最適などという、いびつな発想が生まれてくる
根本原因なのです。

 

ブログのアクセスを増やすという部分は、人生という全体に
調和してこそ意義あるものになります。

逆に言えば、その全体が見えていないのに、いくらブログや
フェイスブックの使い方を学んでも明後日の方向に向いている
可能性があるし、コンサルタントとして成功しても人生は
失敗する、なんてことが普通にあり得るということです。

だからわれわれには黙ることが、「仏の親切」が
要求されるのです。

相手が理想とする全体なんてものは、簡単に分かるものでは
ありません。

それが分からないまま相手にあーだこーだアドバイスしても、
それは部分最適の罠にハメることになりかねないワケです。

これが理解できれば、相手のことを深く真剣に考えるほど、
具体的なことが何も言えなくなっていくことが分かるでしょう。

でもそれこそが、本当の優しさだと、僕は思います。

 

何も言えないけど、何も言わないワケにはいかない。

この矛盾にもがき苦しみながら、今日もがんばって
生きましょう(笑)

ありがとうございました。

 

※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。

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