仏教には「六波羅密」というある種の成功哲学があります。

六波羅密が定める6つ(実際には5つ)の修行を実践していけば
般若へ至ることができる、というものです。

般若を分かりやすく言うと、現実をありのまま見ることができ、
それによって生活を改善したり世界に貢献することができる状態、
という感じになるでしょうか。

悟りとの違いは、実用的である点です。

悟りの目的は自分が悟ることにあるのですが、般若の目的は
生活をよくすること、世界をよくすることにあります。

われわれが目指している脱凡人とは、まさにこの般若の状態を
指すワケですが、仏教の教えによれば、たった5つの修行を
実践するだけで、その状態に至ることができるそうです。

その5つとは

1.布施
2.持戒
3.忍辱
4.精進
5.禅定

です。

本当は六波羅密の6つ目に「般若」が入るのですが、般若自体は
上の5つを実践することで到達できるので、ここでは修行には
含めていません。

通常この5つは非常にシンプルな説明がされるだけなのですが、
今回はそれを僕なりにもっと使いやすいカタチにアレンジして
話してみたいと思います。

 

1.布施

布施とは、与えることです。

物質的なものだけでなく、知識や知恵を与えること、思いやりなどの
気持ちを与えることもここに含まれます。

布施で大事なのは、与えることそのものではなく、どういう動機で、
どういう目的で与えるかです。

それが般若へ至るために与えているならば、実質的には何の意味も
ありません。

なぜなら、その不純な動機を正すための修行が布施だからです。

一切の見返りを求めず、ただただ「与えたい」という気持ちから
与えること。

この純真さを獲得して、はじめて布施ができるワケです。

その意味でこの修行は自分の中にある邪念との闘いと言えます。

これだけ与えたのだから、何か見返りがあって当然だ。

これだけ金を払ったのだから、特別なサービスがあって当然だ。

これだけブログを書いたのだから、コメントが付いて当然だ。

そういった器の小さい発想のままでは、いつまで経っても般若には
到達できません。

「あれだけ色々してあげたのに、どうして自分には何もして
くれないんだ」とか思っちゃいけない、ということです。

むしろ「自分がしたくてしただけだ」と思わないといけない。

はじめはそうやって自分を言い聞かせるところから始めて、
最終的には自然と「与えたい」という気持ちで与えられるように
なるのが理想です。

それができれば、般若に至る日も、そう遠くはないでしょう。

 

2.持戒

持戒とは、戒律や規律を守ることです。

この場合の戒律や規律というのは道徳的・倫理的規律を指します。

例えばダラダラしないこと、規則正しい生活をすること、
奇をてらったバカな行動を慎むこと、他者に迷惑をかけないこと、
他者を喜ばせること、マナーを守ること、適度な体形を
維持することなどなど。

一言で言えば「人として恥じない生き方をすること」です。

ただ注意しておくべきは、それを他者にまで求めてはいけない
ということです。

意識の高い人ほど同じレベルの意識を周りに求める傾向があります。

俺はこんなに頑張ってるのに、なんでアイツらは・・・。

そう思っているうちはまだまだ未熟なんだと思ってください。

同様に、マナーの悪い人を見てイライラしたり、体形のだらしない
人を見て蔑んだりするのも未熟な証拠です。

こう言うとすぐに「私は未熟だからダメなんだ・・・」と凹む人が
いるのですが、僕はそういうことを言っているのではありません。

未熟なのは仕方のないことです。

誰だって最初は未熟なのですから、それがダメだと考えること自体が
間違いです。

そうではなく、イライラしたり蔑んだりする度に「自分はまだまだ
未熟なんだ」と自覚しておきましょう、と言っているのです。

未熟がダメなのではなく、未熟であることを自覚せず、自分のことを
棚に上げて他者にばかり不満をぶつけることがダメなのです。

まずは自分が徹底的に持戒を実践しましょう。

周りのことをとやかく言うのは、それからでも遅くはありません。

 

3.忍辱

忍辱とは、耐え忍ぶことです。

これだけを読むと「我慢」と同じような意味に捉えてしまうと
思いますが、忍辱はそれとは次元が違います。

厳密に言うと、忍辱とは、ありのままの現実を見ることで、
苦痛を苦痛と思わないようにすることです。

例えば「痛い」という感覚は普通われわれにとって苦痛ですが、
痛いことそれ自体は単なる感覚であって善でも悪でもありません。

痛みがあるお陰で症状を自覚でき、いち早く処置ができるワケ
ですから、考え方によっては有り難くも思えてきます。

こういう見方をするための修行が忍辱です。

同様にして、自分の(善意の)行為が無視されても、
逆境に陥っても、それは悪いことではなく単にそういう現実が
そこにあるだけだ、という見方をすることも忍辱になります。

つまり忍辱とは字ばかりで、実際にやっていることは坐禅や瞑想と
同じなのです。

僕の言葉で言えば、これは「解釈の幅を広げること」もしくは
「ピックアップ能力を高めること」などに当たります。

苦痛という側面だけを見たり、苦痛という価値だけを拾うのではなく、
もっと他の側面や価値にも目を向けましょう、ということです。

それが難しいというのは重々承知ですが・・・がんばって(笑)

 

4.精進

精進とは、精一杯努力すること、全力でやることです。

これについては特に説明することはないと言いたいところなのですが、
一点だけ注意しておきたいことがあります。

それは今から3年以上も前に、僕がメルマガ第1号(創刊号)で
言ったことです。

「われわれは全力を出そうと思っても、意識的に全力を出すことは
できない」

これを理解しておいてもらいたいと思います。

「全力でがんばります」と言って、本当に全力を出せる人はいません。

なぜなら、全力とは「出すもの」ではなく「出さざるを得ないもの」、
「出てしまうもの」だからです。

寝る間も惜しんで何かに打ち込んだ経験があれば分かると思いますが、
あんなことはやろうと思ってできることではありません。

全力とはそういう性質のものを言います。

狂ったかのように1つのことに集中し、他のことが一切見えなくなる。

文字通り「全」力ですから、それ以外のことには意識を向ける力すら
残っていないワケです。

つまり精進とは、極限まで集中力を高めて1つのことに打ち込む
ということなのです。

もちろんこの状態を「常に」維持しなければならないワケではなく、
「出来る限り」維持することが修行なんですけどね。

ご参考まで。

 

5.禅定

禅定とは、いかなる状況においても冷静であることです。

これは忍辱とも被ります。

いかなる状況でも、ありのままの現実を見ることによって、
心は平静に保たれる、ということです。

これだけで説明を終えるのもアレなので、もう1ついいことを
お教えしましょう。

心を平静に保つには、ありのままの現実を見ることに加えて、
長期的に物事を考える、という方法があります。

長期的というと普通は10年や20年ぐらいを考えると思いますが、
僕の言っている「長期的」は100億年とか200億年とか、
そういう天文学的レベルの長さです。

その長さで考えれば、われわれの身に振りかかるどんなことも、
ちっぽけなことに思えてこないでしょうか。

そもそも人間が生まれたのは宇宙の歴史からすれば0.01秒前
ぐらいの出来事であり、そんな人間が今日明日どうなろうが
宇宙にとっては石ころが1つ転がった程度の影響しかないワケです。

この形而上学的な視点を持つことで、自分の置かれている状況や
自分のことがどうでもよく思えてきます。

どうでもいいことに対して心を乱されたりはしませんよね?

そうやって心を平静に保つことができるということです。

何かパニックになったときには、宇宙的視点から自分を見るように
してください。

それだけで随分と気が楽になると思います。

 

以上の5つ

1.布施
2.持戒
3.忍辱
4.精進
5.禅定

が般若へ、つまり脱凡人へ至るための道です。

改めて言いますが、脱凡人とは何か特別な人間を指すのではなく、
こういう当たり前のことを当たり前にやっている人間を指します。

われわれにとって毎日の生活は常に修行なのです。

その修行に気付かず、ときにはそれから目をそらし、
逃げてばかりいるのが凡人であって、脱凡人はそれを真正面から
受け入れているに過ぎません。

嫌なことがあっても、辛いことがあっても、その目の前の現実を
ありのまま受け入れ、自分や世界と向き合っていく。

われわれのやるべきことは、それだけです。

それだけでわれわれは理想を手に入れることができるのです。

これは僕が言っているのではなく、僕なんか比べ物にならないぐらい
修行を重ねた昔の偉い人が言っているのですから間違いありません。

とにかく気を抜かずに生きることを意識してください。

それが般若への第一歩です。

ありがとうございました。

 

※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。

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