ども、ペスです。

美術館視察(?)第2弾ということで、今回は滋賀県の瀬田というところにある
滋賀県立近代美術館に行ってきました。

今そこで行われているのが「自然学」「常設展」です。

「自然学」のパンフレットを見ると、「自然学」は芸術において自然を語ることを
テーマとしているらしいのですが、展示を見た限りではその意味はよく分かりません。

作品を見ればテーマが自然と関係あるということはなんとなく分かります。

ただ、それが何を伝えようとしているのかは、それだけでは分からない。

そこでパンフレットの別紙を見たところ、この企画のプロジェクトリーダーである
岡田修二氏が解説を載せてくれていました。

その中の一部を抜粋して載せておきましょう。

 

今日私たちは、当然のように意識の支配下に置き、材料として対象化し、
利用しています。

はたしてこれはあるべき姿でしょうか?

自然を、征服すべき対象としてきた近代は、本質的な価値(=美)を見失っていたと
言わざるを得ません。

人間の奢りが文明の危機を招いたとすれば、それらの問題を乗り越えるための
1つの戦略は、自然美の再認識、つまり「自然美学」の構築にあるのでは
ないでしょうか。

(中略)

自然を考えることは、生命と環境の関係について考えることでもあります。

それはすなわち芸術を、生命と環境の問題として読み替える試みであり、
それらを生成・循環・共生・多様性などの視点から考察することを意味します。

従ってここでの芸術行為は、自然に聴く姿勢から制作が始められ、
フィールドワークが重要な方法となるでしょう。

生物的秩序と人間的秩序の媒介の理論が必要となります。

それは、芸術の、広い意味での生態学(Ecology)的領域への接近であり、
価値基準の転換です。

 

前半の話はそこまで難しい話ではないので、なんとなく分かると思います。

われわれ(近代的個人)は自然を支配することで財を構築し、生活してきました。

畑からは野菜を得、川や湖からは水を得、山からは木を得、それを利用することが
われわれと自然の主な関係だったワケです。

その生活の中では自然の美は考慮されず、使える使えないという使用価値だけが
その自然の価値を決めます。

そうして自然の本質的価値、つまり美を美たらしめている合目的性や
調和というものがわれわれには見えなくなってしまったのです。

このことが現在のような事態を招いているとしたら、その「美」をわれわれが再度
認識し直すことが、問題を解決する1つの方法として有効なのではないでしょうか。

前半を言い直すと、こんな感じです。

後半は分かりそうで、よく分からない。

多分、芸術を生態学的に表現することで生物的秩序と人間的秩序を媒介させ、
そこから「人間」対「自然」ではなく、自然としての人間、すなわち美という調和を
生み出していければいいなー、みたいなことを言ってるんだと思います。

まとめると、「自然学」とはわれわれ近代的個人の自然における美的価値観の復活を
目的とした芸術の生態学的表現だということです。

まとめてしまうと逆に難しくなってしまうのが難点ですが、もっと簡単に言えば、

人間も自然の一部なんだから、自然を壊すことは人間を壊すことにも繋がるよね?
という疑問を多くの人が当然のこととして持てるような感覚を「自然学」を通して
磨いて欲しい

という感じでしょうか。

 

上記を読んでも分かるように、この企画展は美術館がやるにしてはアカデミック寄りで、
この企画展を一般に公開する意味はあるのか、と思うほどです。

僕が入る時に出てきた男女ペアは「イマイチだったね」と言って去っていきましたが、
この企画展を楽しめるのは学芸員や美大生、美術学者のような人だけでしょう。

そもそも企画展を分かりやすくするための解説が論文みたいになってますからね。

それに、解説の意味が分かったからといって展示の意味が分かるとは限りません。

少なくとも僕は分からなかったし、今もやっぱり分からない。

そこで、あらためてパンフレットを読み返してみると「自然学」の対象としている人が
見えてきました。

この企画展は、今書いたように恐らく一般人向けではありません。

というのは、パンフレットに

「調和と共存のための感性の獲得を目指して、鑑賞者・アーティスト・学者・学生が
語り合っていける活性化された場を形成したいと考えます」

と、ちゃんと書いてあるからです。

ここで言う鑑賞者とは、単なる一般の鑑賞者ではなく、意識の高さを持った鑑賞者を
意味します。

意識の高い鑑賞者でなければ、活性化された場を形成することなど出来ないですし、
「調和と共存のための感性の獲得を目指して」いるワケですから、参加者にそれ相応の
意識が求められるのは当然のことです。

「活性化」が何を意味するのかは、はっきりとは分かりませんが、この文脈からは
「互いの意見を活発に交換し合う様子」を指しているように思います。

つまり、それが出来るような鑑賞者を「自然学」は対象としているワケです。

まあホームページを見ただけでも、見るからに小難しそうな企画展であることは
分かると思うので、その辺で判断してくれ、ということでしょう。

その意味で「イマイチだったね」と言っていた男女ペアは、美術館の意図を汲み取れ
なかった、もしくは汲み取ろうとしなかった人たちだと言えます。

もしこのことを分かっていたら、彼らの感想は「イマイチだったね」ではなく、
「分からなかったね」だったはずですから。

 

なんでもかんでも良い悪いと評価することがすべてではありません。

分からないものは素直に分からないと思っておけばいいのです。

特に「自然学」のような難しいテーマのものは、その内容からして誰にでも
分かるようなものではないのですから、レクチャーなしには分からないのが当然です。

われわれは長年の学校教育で「分からないことは悪いことだ」という教え方を
されてきた経験があるため、分からないものに対してどうしても悪いことだと
判断してしまう傾向にあります。

学校のテストでは問題が解けなければ点数は入りません。

その問題が解けない(分からない)ことは0点と同じです。

世間では0点というと「勉強をサボった」「悪いことだ」と判断されるのが
普通だと思います。

すなわち、分からない作品や展示を見せられると、われわれはどうしても
それに対して嫌な感じがしてしまうワケです。

別にテストでも何でもないはずなのに、作品や展示の意味が分からないことを、
無意識に自分が劣っていることだと思い込んでしまう。

その嫌悪の感情を彼らは作品や展示のせいにして「イマイチだ」という言葉で
表現したのではないかと個人的には思います。

 

この企画展はそういう人間の近代性を芸術的自然美の再構築において
いかに克服するか、というのがテーマになっているワケですが、
そのテーマの上に問題が自らやってくるという生々しい現実を見ることができれば
あなたは相当な上級者です(笑)

「常設展」については次回の記事に持ち越すことにします。

ではでは。

 

追伸:

作品については毎度追伸に書いていますが、今回は個人的に岡田修二氏の
スーパーリアリズムの≪水辺≫シリーズが印象的です。

これは分かり易いという意味でも印象的だったし、作品のパワーも
他のものと比べて圧倒的でした。

その他にも最近流行の空間を使った作品や黄緑色に塗られた鉄のオブジェ作品、
4つの液晶画面に奇妙な光が映し出された不思議な作品などもあったのですが、
作品について僕から語れるのはこれぐらいです。

あとは気になったら自分の目で確かめて下さい。