古事記の冒頭に、五柱の別天津神(ことあまつがみ)が
高天原(たかまのはら)に現れて姿を隠してしまう話があります。

別天津神のうち天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)、
そして天之常立神(あめのとこたちのかみ)についてはそれ以降
何の記述もなく、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)も
思金神(おもいかねのかみ)という娘が少し出てくるのみで、
唯一本人(本神?)について記述があるのは神産巣日神
(かむむすひのかみ)だけです。

しかし神産巣日神にしても植物の種を作った(?)というような
短い一文があるに過ぎません。

彼らが取るに足らないような、窓際族的な神様たちだったなら
記述が少ないのも分かるのですが、古事記の冒頭に登場する
ということは、彼らの位置づけは間違いなく創造神です。

そんな重要な神様の記述がここまで少ないのはなぜなのか。

重要な神様のことであれば、もっと詳しく書くべきではないのか。

職業柄なのか、どうもそういうことが気になるのです。

 

別天津神のことは日本書紀でも存在が明らかになっているのみで、
何の神なのか、何のために高天原に現れたのかなどは分かりません。

古事記や日本書紀の著者・編者が書きそびれたという可能性も
なくはないですが、そう解釈するのはあまりに失礼というか、
当時日本で指折りの賢者だった彼らを侮辱し過ぎだと思います。

あの時代に漢字が読み書きできるというのは、今で喩えるなら
恐らく20ヶ国語が自由に読み書きできるぐらいのレベルです。

なんせ日本人のほとんどは字が読めないどころか、日本語すら
まだ文字として存在していなかった時代ですからね。

そう考えると、論理的に妥当なのは、やはり著者・編者が
「意図的」に別天津神の詳細を記述しなかった、という解釈に
なるでしょう。

さて、ここでまた疑問が浮かびます。

仮に彼らが意図的に別天津神の詳細を記述しなかったとすれば、
それはなぜなのでしょうか。

敢えて書かなかったからには、当然そうするだけの理由が
あったはずです。

その理由とは何なのでしょう。

これには色々意見があるでしょうが、僕は裏方にまわること、
つまり神々が「見えないもの」として存在することの重要性を
彼らが理解していたからだと思います。

別天津神について何も書かれていないのは、書かれていない方が、
われわれの神々に対する畏怖や畏敬の念が湧いてくるからです。

もし神社にいる神様が「見えるもの」として目の前に現れたら、
なんだか有り難さも威厳も無くなってしまうと思いませんか?

ましてや貧乏神や福の神のように具体的に何をやっている神様か
分かってしまったら、「この神様は別に拝まなくてもいいや」とか
「この神様は拝んでおこう」という発想になってしまうと思うのです。

実際、学問の神様や恋愛の神様は、そういうある種の欲望の対象に
成り下がっています。

これでは神様の威厳も何も、あったものではありません。

つまり、偉大な神様であればあるほど、謎に包んでおいた方が
何かと都合がいいのです。

 

分からないことの良さ、見えないことの良さをわれわれはもっと
理解しなければなりません。

昔の人は現代人なんかより想像力に優れ、感性も鋭く、頭の回転も
早かったのだと思います。

なにより「見えないもの」を見えないままにしておくことで、
そこから無限の可能性が湧き出てくることをよく理解していました。

心の豊かさは「見えないもの」に宿ります。

見えないからこそ幽霊は怖いし、神様には逆らえないのです。

これを持たない人間は持つ人間と比べて倫理観が圧倒的に劣ります。

人の見ていないところなら何をやってもいい。

バレなければ大丈夫。

そう考えるようになります。

昨今の日本でモラルの崩壊が頻繁に起っているのは、
元々あった「見えないもの」、宗教学で言うところのアニミズムを
われわれが失ってきているからです。

お寺や神社を拝まなくなり、お地蔵さんも、家の神棚も、お墓も
拝まなくなったからです。

時代の流れからすれば、失われた本質は次に必ず求められます。

モラルがなくなればモラルが求められるようになるのは
当然の流れです。

温故知新。

こんな時代だからこそ、われわれはもっと昔の人たちを見習うべき
ではないでしょうか。

 

閑話休題。

 

前回の記事で僕は「見えないものの結果が見えるものだ」という
言葉を引用しました。

「見えないものの結果が見えるものだ」ということは、
われわれはいつも結果しか見ていない(見えていない)、
ということです。

結果とはプロセスの終わりを意味しますから、われわれが見ている
「見えるもの」とは、いつも「終わったあとのもの」です。

例えばニュース。

われわれは大体ニュースを見てから騒ぐことが多いワケですが、
それは既にすべてが終わったあと、換言すれば、その時点で
何もかも手遅れだということです。

尖閣諸島問題や原発問題など、あらゆる問題は顕在化した時点で、
もう結果は出てしまっています。

当たり前だと思うでしょうが、この「終わったあとのもの」を見て
騒ぐことの愚かさを多くの人は理解していません。

悪いのは顕在化するまでそのことに気付かなかった、
関心を持とうとしなかった自分たちなのに、それを棚に上げて
一方的に関係者を批判する。

これを愚かと言わず、なんと言うのでしょう。

TPP反対や原発反対と言っている人たちを観察してみてください。

彼らは揃いも揃って、TPPや原発を無くせばすべて解決する、
という幻想を抱いています。

でも問題はそこじゃないんですよ。

確かにTPPや原発は反対運動で無くせるかもしれませんが、
そういう無責任で無反省な人間が存在し続けるかぎり、何度でも、
いくらでも、危うい問題は起こり続けるのです。

 

本当に問題を解決したければ、問題が顕在化(問題化)する前に
警告や運動をしなければなりません。

それはまだ顕在化していないワケですから、現時点では当然
「見えないもの」です。

そのため世間からは寒い目で見られることが多いと思います。

実際、環境問題を研究している世界的な研究機関であっても、
温暖化や環境破壊の警告は各国から寒い目で見られています。

本腰を入れて環境問題に取り組む先進国はいまだに存在せず、
彼らの警告は警告としての意味を為していません。

僕がこれまで何度か言ってきたハイパーインフレなどについても、
それがまだ「見えないもの」である以上は、寒く感じられている
ことでしょう。

金融の実情を知れば、疑う余地はまったくないと言っても
いいぐらいなのですが、それもまた「見えないもの」であるため、
「見えないもの」が「見えないもの」をより見えなくしている、
というのが現状です。

世間の人たちに見えているのは精々、なんだか分からないけど
円安が進んだことぐらいだと思います。

あれは別にアメリカの景気が回復しているからではないし、
前にも言ったと思いますが、そもそもお金を刷り続けている国の
通貨価値が上がるというのは、まったく正常ではありません。

僕がこういうことを言っても伝わるのは極一部だということは
理解していますが、それでも諦めずに伝える努力を続けるのが、
われわれ脱凡人たろう者の仕事なのです。

 

思いがけず続編まで書いてしまった「見えるものと
見えないものの関係」は、現実のいたるところに存在します。

もうお気付きでしょうが、「見えるものと見えないものの関係」
それ自体もまた「見えないもの」です。

関係なんてものは誰の目にも見えません。

しかし、それは確かに存在します。

見えないのに、なぜか存在すると断言できてしまう。

これもまた人間の不思議なところです。

これをキッカケに存在の深淵へ落ちていくのも面白いかもしれません。

身の周りにある「見えるものと見えないものの関係」を探してみて
ください。

そこからはきっと、存在の奇跡が溢れ出ているはずです。

ありがとうございました。

 

※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。

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