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前回は相対主義におけるヒーローの必要性とわれわれが抱える
潜在的不安の関係について僕なりの見解を書いていったワケですが
不安についてはまだ話し足りない部分があるので、今回は
その【不安】についてもうちょっと掘り下げていこうと思います。

毎回話し足りないことばっかりで申し訳ないんですが、
物事の側面ってのはホントに1回で話し切れないぐらい
いっぱいあるんですね。

多くの人はその1面しか見ようとしないから
いろんな間違いを犯してしまうワケで、
表裏一体なんて言葉があるように、物事には
最低でも2つ以上の側面があります。

ある人達から善い人だと慕われている人が
別のある人達からは極悪人だと言われてしまうケースが
世の中には往々にしてあるワケですから、その両面を
見ないことには「本当のその人」は分からないのです。

同じように、今回話す【不安】にも「負の側面」と
「正の側面」があるんですね(もっとあるかも)。

ただ、【不安】と聞くと普通は嫌な面(負の側面)しか
思い浮かばないと思います。

「不安で眠れない」とか「不安に押しつぶされそう」とか
「不安が積もって欝になった」とか、そんな話ばっかりが
世間では出回ってますからね。

さらに成功哲学や自己啓発などの書籍では
どう言われているかというと

「不安なんてぶっ潰せ」

的なことが堂々と、さも正しいことかのように
語られているワケです。

これじゃあ【不安】を悪者扱いしてしまうのも
仕方ありません。

しかし。

これから僕がお話しするのは【不安】の正の側面です。

人が不安を抱くのにはちゃんとした理由があるのですが、
というか、人には不安を抱かなければならない理由があるのですが、
その辺が一般的には無視されてますよね。

それを考えずに成功哲学が言うことを鵜呑みにして、
不安を削除してしまうとどうなるのか。

今回の記事を読んでその辺の恐ろしさを実感してもらえれば
筆者冥利に尽きます。

えー、まずは【不安】についての2つの捉え方を
紹介しておきましょう。

これは僕がある本を読みながら不安について考えていた時に
気付いたものです。

「お、そう言えば不安って、見えたり見えなかったりするかも」

って。

僕は本を読んでいるときによくアイディアが浮かぶんですが、
実は今まで書いてきた記事の大半はそうやって
生み出されたものだったりします。

基本的に僕の読む本というのは無駄に小難しい本が多くて(苦笑)
頭を使わないと1ページも進まない、という本が少なくありません。

普通に読んだら「何言ってんのコイツ」的な本ばっかり。

それ故に、僕が読書するときというのは否が応でも
脳みそフル回転で読まないといけないんですね。
(それぐらい僕の頭が悪いという説もありますが・苦笑)

しかし、そのお陰で(?)僕が本を読んでいるときというのは
脳が変なことまで思い出したりします。

昔の思い出が急に蘇ったり、昨日の友人との会話を思い出したり、
本を読みながらそんなことがグルグル回ってると、ある時勝手に
「ガチャ」って変なアイディアが浮かぶワケです。

読んでる本とは全然関係ないアイディアが(笑)

で、今回の不安の2つの捉え方というのも例によって
そんな風に生み出されたワケなんですが、その2つの捉え方とは
読んで字の如し【顕在的不安】と【潜在的不安】。

【潜在的不安】は前回の記事で書いたのと同じ
「無自覚な不安」のことです。

本当は不安なのに、それに気付いていない。

つまり、自分には不安なんて無い、と思われている不安です。

気付かれていない不安と言い換えてもいいかもしれません。

で、もう1つは【顕在的不安】。

こっちは一般に言われる不安と意味は同じです。

要は、自分は不安である、と自覚している不安のこと。

これら2つは便宜上、さも新しい概念かのように書いてますが(笑)
全然そんなことはなくて、われわれが普段から感じていることを
改めて言葉にするとこんな感じになりました、という程度のものです。

例えば就職前になって将来に漠然とした不安を抱き始めた場合、
それは、今まで気付かなかった将来に対する潜在的不安が
顕在化(表面化)して顕在的不安になった、という感じ。

将来に対するの不安なんてものは本当は生まれたときから
誰もが抱いていますからね。

「将来は宇宙飛行士になりたい!」と子供が言ったときに
親が真面目に向き合ってやれば、それはリアルな不安となって
子供の胸に突き刺さるワケです。

「あぁ、今のままじゃ宇宙飛行士になれないんだ・・・」って。

それを世間の親は「夢が大きくていいねー」なんて言って
テキトーに受け流してしまうから、不安が消えて空虚な希望だけが
先走ってしまうのです。

つまり大事なのは、不安が見えてるか見えてないか
(見えるようにするかしないか)なんですよ。

不安が早くに見えた子は、島田紳助の子供たちのように
将来の可能性を広げようと自ら勉強に励むし、
不安が見えないほとんどの子供たちは普通の人間として
学生生活を終える直前になるまで将来を考えない。

島田紳助の子供たちのエピソードをご存知でしょうか?

彼はある日、部屋で勉強ばかりしている子供たちを見かねて、
こんなことを言いました。

「子供なんだから、そんなに勉強ばっかりしてないで、
もっと外に出て遊びなさい」

すると子供たちはそれを断ったと言います。

そこで彼が

「なんでお前たちはそんなに勉強するんだ?」

と聞いたところ、子供たちは

「だって今のうちに将来の選択肢を増やしておきたいから」

と言ったそうです。

「遊びも大事」とか言っているその辺の大学生と
一線を画しているのは、もはや言うまでもありません。

不安一つでそこまでの差が出るワケです。

もっと極端な例だと「明日死ぬかもしれない」という不安も
今までその不安が潜在的不安として自覚できなかっただけで
本当はずっと存在してるんですよ。

だって人間誰しも、いつ死ぬかなんて分からないんだから。

それを自覚した者がハイデガーの言う現存在(Dasein)と
呼ばれる人なワケですが、まあそんな言葉は今はどうでもいいや。

とにかく。

ここで大事なのは、

不安を自覚するか否かで人の思考は大きく変化する

ということです。

「明日死ぬかも」という不安を真摯に受け止めている人は
今日死んでも悔いの残らない人生を計画・実行するでしょうが、
「退職したら何しようかな」と60歳まで生きることを
当然のこととして考えてる人は「今日の晩飯は何食べよう」
といった下らないことしか考えない。

不安を自覚するか否かはそれぐらい思考に差を生むのです。

不安を自覚すると当然、人は「考える」ようになります。

「彼女の態度が最近おかしい・・・」と不安になれば
イヤでも彼女のことを考えざるを得ませんし、
「試験に落ちたらどうしよう・・・」と不安になれば
試験のことを考えない方が難しいでしょう。

ただ、勘違いしないで欲しいのは「あー、不安だなー」と
思うだけで自動的に考えるようになるワケではない、
ということ。

「明日死ぬかもなー」とか「今地震が起こったらヤバイなー」
と思うだけならサルでも出来ます。

そうじゃなくて。

その不安と真摯に向き合えるかどうかが問題なのです。

「今地震が起こったらヤバイなー」と思ったときに
「じゃあ今何をしておいたらいいだろ?」と考えるかどうか。

「明日死ぬかもなー」と思ったときに
「じゃあ今日やれることを精一杯やろう」と思えるかどうか。

そもそも不安を抱かなければ話にならないのは
言うまでもありませんが、僕の言う【自覚】とは、
こうやって不安と「向き合うこと」を意味します。

要するに

不安と真摯に向き合った時、人は初めて【思索】できるようになる

のです。

現在は100年に一度の不況と呼ばれ、超一流と呼ばれたリーマンや
GMでさえバタバタ潰れてしまう時代です。

日本の大企業も軒並み赤字。

その影響を受けて派遣切りに遭い、今日を生きるために
必死の人もたくさんいます。

しかし、少し考えてみて下さい。

どうしてこんな酷い状況になるまで誰も対策を立てなかったのかを。

世界にはわれわれの想像を絶する知能をもった経済学者や
研究者がいます。

にも関わらず、なんでそんな人達までもがバブル崩壊を
予知(予期)とは言わないまでも予見できなかったのか。

金融バブルが分かり難ければ、平成バブルのことを
思い出してみて下さい。

当時、どうして多くの人はどう考えても資産的価値のない
北海道の山なんかを買ってしまったのか。

どうして多くの会社は(一流会社までもが)中途採用よりも
能力の劣る新卒生を無批判に給料を吊り上げてまで採用しようと
したのか。

答えは簡単。

【考えてなかったから】です。

どうして考えてなかったのか。

【誰も不安を抱かなかったから】です。

そう、だれも「このバブルは弾けるかもしれない」と
不安に思わなかったのです。

※金融バブルの方はジョージ・ソロスなんかが警告を
発していましたが、ほとんどの人はそういった意見に
耳を傾けませんでした

つまり、近年の不況(バブル崩壊)は

近年のわれわれの思考(思索)が停止していた証拠
(不安とは無縁のユートピアだと浮かれていた証拠)

と解釈することが出来ます。

アメリカで起こった金融バブルについては
不動産リートやデリバティブ、サブプライムローンなど
様々な金融商品(金融工学)を業界の知識人までが妄信して
思考停止に陥った結果、今のような悲惨な不況になってしまった。

具体的には、年収300万円ぐらいのサブプライム層の人でも1億円近くの
ローンを組むことができ、銀行もその手形を証券会社に全て
引き取ってもらうことができ、証券会社は金融工学という魔法で
その手形をトリプルA保証の金融商品に変えることができ、
投資家は年利10%ぐらいで元本がほぼ保証されたような証券を
手に入れることが出来た。

こんな誰が見ても誰も損しないシステムになってしまったが故に
大きな大きな落とし穴にみんなハマってしまったのです。

普通の神経で考えたら、年収300万円の人が1億円の物件を買えるなんて、
どう考えても【異常】なんですよ。

でもそれがバブルの時期だと誰も【異常】だと思わない。

それがある意味バブルの構造とも言えるワケですが、
まあそれはともかく。

不安を自覚しないと最悪の場合どうなってしまうのか、
というのはなんとなく分かってもらえたんじゃないかと思います。

さて。

これで冒頭で書いた

「成功哲学の言うことを鵜呑みにするとどうなるのか」

の意味は分かりましたよね?

【不安を潰す】

それは

【思考停止】

を意味するのです。

だから僕は無理矢理【不安を潰す】なんて不用意なことは
するべきじゃないと思うんですね。

むしろ、ちゃんと向き合えよ、と。

不安に気付かないことだって往々にしてあるんだから
気付いたときぐらいはそれが成長のチャンスだと思って
真摯に向き合おうよ、と。

それが理性を持つわれわれ人間に課せられた当然の義務だと
僕は思うんですが、いかがでしょうか?

まあどう思うかは人の自由ですが、ふと不安になったときに
この記事のことを思い出してもらえたら幸いです。

んじゃ、また次回もよろしくです。

ではではー♪

posted by                filed under 社会, 自分探し

 

前回の記事を改めて読み直してみたんですが、
ちょっと急展開し過ぎた感が否めないですね(苦笑)

まあ今はピンッとこなくても、僕の記事を読み続けてもられば
それなりに実感が湧くようになると思います。

僕がどんだけ丁寧に説明したとしても現時点では

「いやいやいや、ヒーローとか言われても
やっぱり理想論にしか聞こえないし」

という状態だと思うんですね、多分。

でもそれは仕方ないことなんです。

だって今まで「善」とか「倫理」とか「徳」とか
そーゆーものについて真剣に考えたことなんて
ほとんどの人は無いはずですから。

そんな人がいきなりヒーローがどうの理性的権威がどうの
って言われてすんなり受け入れられるはずもありません。

これは別に軽蔑しているワケではなくて、われわれは
そーゆー風に教育されてきた、ってことなんです。

「善?あぁ、一日一善は実践した方がいいかもね」

「道徳?あぁ、小学校の授業でやった覚えがあるかも」

「倫理?高校で習ったけど意味わかんなかった」

この程度の認識ですよね、普通に生活してたら。

それぐらいわれわれの「倫理」や「道徳」に対する意識は低い。

多くの哲学者が「善や道徳は人が幸せになるための要素だ」
ということを言ってるのにも関わらず、学校や会社では
そんなことは誰も教えてくれません。

いや、「誰も知らない」と言った方が正しいかな。

だから教えたくても教えることが出来ない。

もちろん知らなくてもどうってことはありません。

むしろ僕の言ってることは「普通」に生きていくには
全く必要のないことばかり。

一般には【ムダ】と呼ばれる部類に属します。

「相対主義とかどうでもいいからFXで儲かる方法を教えてくれよ」
というのが世間の本音でしょう、恐らく。

そう思うなら僕のブログなんか読まなくていいんですよ。

第一このブログはそーゆー人の役には立てないですから。

僕のブログが役に立てるのは本当の意味で【人生を善くしたい】と
思っている人だけです。

しかしながら、この一連の記事は「ビジネス」という
テーマに終着する予定になっています。

つまり、広い意味での「金儲け」。

「言ってることが矛盾してるんじゃないの?」
と思うかもしれませんが、その真意は今後の記事を
読み続けてもらえれば分かると思います。

今はまだ構想中なので実際にどんな内容になるかは
未定ですが、まあ気長に待ってて下さいませ。

絶対損はさせませんから。

さて。

いつも通りムダに長い前置きが終わったところで(笑)
本日の本題に入っていきましょう。

前回からいきなり【ヒーロー】という概念を登場させましたが、
なぜヒーローが必要なのか、という部分の説明が全然足りて
いなかったので今回の記事で補足させて下さい。

前回僕は今の時代にヒーローが必要な理由を一言で

周りがヒーローの言うことを素直に
(自らの望むこととして)聞き入れるから

と書きました。

これは一見すると何も難しいことは語っていないように見えるのですが、
実はこの言葉はかなり奥が深いです。

特に「(自らの望むこととして)」という部分。

ここをサラッと読み流さないで欲しいんですね。

ヒーローが絶対的に尊敬されている存在だということは
前回も説明しましたから「素直に聞き入れる」という部分は
特に問題なく受け入れられる思います。

しかし、それがなんで「自らの望むこととして」なのかは
疑問に思って欲しいのです。

どうして一般人はイチローにボール拾いを頼まれたら
喜んで(自らの望むこととして)それに応じてしまうのか。

「イチローに理性的権威があるからでしょ」という答えは
端的には正しいですが、実はそれだけじゃ不十分なんですね。

理性的権威は1つのキッカケに過ぎません。

理性的権威が非常に重要な地位を占めていることには
違いありませんが、われわれがイチローの言葉を
すんなりと受け入れてしまう理由はもっと深いところに
起源があるのです。

そんなワケで今回は

「われわれ(現代人)は一体何者なのか」

「われわれはどんな性質を持った人間なのか」

「われわれはどこから来て、どこへ向かっているのか」

という部分に焦点を当てて、書き綴っていこうかと
思います。

われわれは一体何者なのか。

分かりそうで全く分からない悩ましい問いです。

人は自分のことほど分かっていない、なんてことを
よく言いますが、まったくその通りだな、と個人的にも思います。

「自分のことが知りたい」

恐らく僕ぐらいの年齢の人なら誰しも1度ぐらいは
考えたことがあるでしょう。

自分に向いている仕事は何なのか、自分のやりたいことは何なのか、
僕の周りの友人も同じように悩んでいました。

そしてミクシィのコミュニティなんかを見れば分かるように
今も悩み続けている人が何十万という単位で存在します。

みんな自分のことが見えないのです。

「神」や「理性」が絶対的なものと信じられていた時代は
こんな悩みは存在しませんでした。

神の時代は、神の言葉に対して忠実に生きることが
人々にとっての全て。

その時代の人にとって自分なんてものはどうでもよく、
最終的に神に選ばれるかどうかが全てだったのです。

つまり、その時代の人は(生きている)自分に興味が
なかったワケです。

また理性の時代は「いかに(理性的に)優れているか」が
問われた時代。

乱暴に言えば、成績のいいヤツほど幸せになれると
思われていた時代です。

「自分の在り方」とか「どんな人生を生きるのか」とか
そんなものを考えるよりも東大出て大手企業で出世すりゃ
幸せになれるんだから頑張って勉強しなさい、と。

「将来が約束されている」という言葉はこの時代に
よく使われた言葉だと思いますが、時代の価値観を
うまく表してますよね。

要するに、この時代の人は自分について考える必要が
なかったのです。

(難しく言えば決定論的だった、ということになります)

しかしそんな「文明開化」「富国強兵」「年功序列」な時代は
もう終わってしまいました。

いくら賢くて強くて自由でお金があっても、それが幸せとは
限らない。

そういった時代(価値観)の下でわれわれは生活しています。

そして最も重要なのは、今やわれわれには「神」や「理性」
という万人に共通した絶対的な【目標にすべきもの】が
存在しないということです。

つまり、何を目標にすればいいのかが分からない。
(なんのために生きているのかが分からない)

だから「生きていること自体が不安」なのです。

例えば、あなたがマラソン大会に出たとしましょう。

走っている途中、突然主催者から

「実はこのマラソンのゴールはまだ決まっていないんです」
「ただし、立ち止まったらコーラ2リットルを鼻から
一気飲みさせて市中引き回し刑の後、即射殺しますので
頑張って走り続けて下さいねー」

なんてことを宣告されたら、どう思うでしょう?

極端ではありますが、これが今のわれわれの心境です。

人生という名のマラソンは生まれた瞬間にスタートし、
われわれは「生きている限り」走り続けなくてはなりません。

しかし多くの人にはゴール(目標)が決まっていない。

ゴールがないということは、走る目的もない、ということです。

だから

「このまま走り続けることに意味があるんだろうか??」
「でも立ち止まると殺されるし・・・」

と不安になる。

【死にたくない、でも今のまま生きてるのはもっと苦痛】

これが現在、多くの人が「無自覚なまま」抱いている
大きな不安なのです。

そこで。

この不安を解決するヒントを得るために、偉大な哲学者の
興味深い発言に注目してみたいと思います。

まずはニーチェ。

「人間の意志には目標が必要だ。


しかし、その意志は、何も目標が与えられないなら、
むしろ虚無を欲する」

「自分に命令する力の無い者ほど、自分を命令する者を求める」

続いてスペインの哲学者オルテガ。

「待命中の生は死以上の自己否定である。


なぜならば、生きるということは何か特定のことをなさなければ
ならないということ(1つの任務を果たすこと)であり、
われわれがその生を何かに賭けることを避ける度合いに
比例して、われわれは自己の生を空虚にしていくのである。

全地球上から恐ろしい叫び声が湧き起こり、無数の犬の
ほえ声のように天空にまで響き渡り、命令を下してくれる者、
仕事や義務を与えてくれる者の存在を求める日もそう遠くは
ないであろう」

「創造的な生は、厳格な節制と、高い品格と、尊敬の意識を
鼓舞する絶えざる刺激が必要なのである。

創造的な生とは、エネルギッシュな生であり、それは
次のような2つの状況下においてのみ可能である。

すなわち、自らを支配するか、あるいは、われわれが
完全な支配権を認めた者が支配する世界に生きるか、
つまり、命令するか服従するかのいずれかである。

しかし服従するとは決して忍従することではなく、
(忍従は堕落である)その逆に、命ずる者を尊敬して
その命令に従い、命令者と一体化し、その旗の下に
情熱を持って集まることなのである」

(オルテガ著【大衆の反逆】より引用)

その他お馴染みの精神分析研究者エーリッヒ・フロムも
ニーチェやオルテガと同じようなことを言っています。

非常に興味深いですよね。

ここでニーチェが言っているのは

人間には目標が必要で、目標がなければ死にたくなるし、
自分で目標をたてられないヤツは代わりに命令してくれる人が
欲しくてたまらない

ってことです。

ちょっと前に「指示待ち人間」なんて言葉が流行りましたが
彼らは自らの目標を立てられない典型的なタイプに属します。

要は「考えてないだけ」なんですが、彼らには
何を考えればいいかさえ分からないから
何かしていないと不安なのです。

だから指示があると自分の任務が確認できてホッとする。

しかし、ずーーっと指示がないと自分が会社にいる意味が
感じられないし、周りからは「役立たず」という見られるし、
だからと言って何を考えればいいかも分からないしで
段々と辞めたくなっていって、いずれ辞めてしまう。

これは会社だから「辞める」で済みますが、
これが人生そのものなら「虚無(死)を欲する」、
つまり死にたくなって、いずれ死んで(自殺して)しまう。

だから人間には「目標」や「目標を与えてくれる人」が必要だ、
とニーチェは言っているのです。

んでもってオルテガが言ってるのは

命令を待っている(自ら目標を見出せない)状態で生きている
というのは死ぬ以上に自分を苦しめていることになる


なぜなら、生きるということは何かをなすことだから
われわれが生きる任務(目標)を持てないままでいると
それはどんどん自分の人生を虚しくしていくのと
同じことだからである

自殺したくなる人が増え、生きる目標を与えてくれる
救世主をわれわれが求め始める日もそう遠くはないだろう

われわれが「善く生きる」には、誰かの命令に従うか、
自分で自分に命令するか、どちらかしかない

しかし誰かに従うというのは、嫌々従うのではなく、
「この人になら命令されてもいい」と思うような人を選び、
自らの望むものとしてその人の命令(指示)に情熱を注ぎ、
一緒に実現していくことである

ってこと。

つまり僕が何を言いたかったのかはもうお分かりでしょう。

それは

われわれが人生の不安から抜け出すためには、
まず自分が不安であることを自覚し、自身がヒーローになる、
もしくは自らの認めるヒーローを見つけ、指示を仰がなければならない

ということです。

やっとまとまった(笑)

これだけ話せば伝わったかなー(苦笑)。

なんで僕が相対主義の話ばかり取り上げるのか。

なんで僕が理性的権威が相対主義の世界を
救うキーワードだと言ったのか。

なんで今の時代にはヒーローが必要なのか。

全てはこういった前提があってのことだったのです。

「自己分析」とか「心理テスト」とか「自分探し」とか
「血液型説明賞」とか「風水」とか「占い」とか
「スピリチュアル」とか、そーゆーものが日本で流行るのは
実は上で話したようなことが大きく関係しています。

表面上は「ただ楽しいから」だと思われていますが、
こうやってちゃんと勉強すれば、これらが

【無自覚な不安を解消するための行動】

として明確に理解できるワケです。

みんな不安だから自分のことを少しでも
「知った気になって」安心したいんですよ。

ホントはその前に自分が不安だということを
自覚しなくちゃ意味ないんですけどねー。

ま、何かの参考になれば。

ではではー♪

posted by                filed under 学校・教育, 社会

 

今日はいよいよ理性的権威についての話に入っていきます。

いよいよとか言いながら楽しみにされたなかったら
ちょっと悲しいけど(苦笑)

まあそれはともかく。

ここから話は急展開するので振り落とされないように
ご注意を(笑)

僕は前回の【民主主義国家の末路】で理性的権威が
相対主義の世界を救う(?)ためのキーワードだと言いました。

「救う」なんて言っちゃうとやや大袈裟な感がありますが、
それでも日本における人間関係や文化が徐々に
崩壊しつつあるのは恐らく誰もが感じているでしょうし、
自殺者や殺人鬼が増加の一途を辿っているのは
否定できない事実です。

それをなんとか出来ないか、と考えたら
やっぱり理性的権威溢れる世界を
作っていくことしかないよなー、と僕は思ったんですね。

もちろんこれはただの理想論ではありません。

以前のベーシックインカム関連の記事を読んで頂ければ
分かると思いますが、僕は基本的に理想論は嫌いです。

嫌いというか、避けている、と言った方が正しいかもしれません。

理想を語るのは楽しいですし、理想を目指すのは
大切なことだとは思うのですが、多くの場合は
理想を理想論のまま終わらしてしまう、という過ちを
犯しがちです。

これは言い換えれば、理想は机上の空論で終わっちゃうことが
往々にしてあるということを指します。

机上の空論で終わっちゃ意味ないんですよ、
少なくとも僕にとっては。

そして多くの哲学が勘違いされているのも
実はこの点なのです。

この点とは

「哲学の議論は現実と乖離していて実際には何の役にも立たない」

という偏見のこと。

つまり

「哲学って理想論をひたすら議論してるだけじゃないの?」

と。

これは大きな間違いです。

理想論と哲学は全然違います。

なぜなら理想論は理想を拡大させるだけの論なのに対して、
哲学は理想を現実に近付ける試みだからです。

だから「幸せとは何か」とか「自由とは何か」とか
一見無駄としか思えないことを一生懸命考えたりするワケです。

ただその一生懸命さゆえに、使っている用語や
話している内容が厳密になり過ぎ、現実世界と
乖離しているように見えてしまうのが哲学なのです。

そこを勘違いしている人があまりに多いような気がして
なりません。

哲学者が「人生とは?」と問うのは、
人生をより有意義に生きたいと思っているからです。

そして何より「全ての人の人生を有意義にしたい!」
そう思って彼らは無駄に見えるようなことを
毎日考えて続けているのです。

これだけは是非、覚えておいて欲しいと思います。

さあ、ここからがやっと本題です。

まずは話を戻しましょう。

僕が理性的権威をキーワードに置いたのは
それを駆使すれば相対主義の世界でも「ある意味で」
絶対的な【善】を定義できると思っているからです。

相対主義の世界では、みんながバラバラの価値観を持ち、
1つの絶対的な「善」や「悪」なるものは存在しません。

もちろんそれ以前の世界でも事実上絶対的な「善」というのは
存在しなかったのですが、理念の上では存在していました。

それが「神」であり「理性」であったワケです。

中世ルネッサンス期までは「神」は絶対に善であり、
神が意図することは全て善なのだ、という前提がありました。

また近代においては「理性」こそが絶対の善であり、
「理」つまり論理や科学を追及していくことが
人々の幸せに繋がる、すなわち「善」だと思われて
いたのです。

しかし文明が進歩するにつれて、神も理性も絶対ではない、
ということを人は知ってしまった。

存在するかどうかも分からない神。

自分さえも欺く理性。

どっちも信用できねーよ、と。

そして「結局信じれられるのは自分しかいないんじゃないの?」
という思いから相対主義が生まれたのです。

通常、相対主義における善は各々の道徳・倫理に依存します。

これは「自分が善だと思ったらそれが善」ということです。

極端な話、その人が善だと思っているなら、
人を殺しまくったとしても
それが善だということになります。

実際そーゆー事件がたくさん起こってますよね。

「ムカついたから殺した」みたいな。

普通の感覚を持つ人からしたら

「いやいや、ムカついたって何よ」

という話になるワケですが、そーゆー常識からも
ある意味解放されてしまったのが現代人なワケです。

これが相対主義の世界。

ここであなたが

「さすがにこのままはじゃマズいんじゃないの?」

という感覚を持ってくれたら僕の思惑通りです(笑)

じゃあどうやったらバラバラになっている危険な【善】を
まともな【善】に統一していけるでしょうか?

そこで登場するのが、理性的権威です。

やっと出ました。

前置きが長い!というツッコミはスルーしつつ話を進めます。

理性的権威の根源は尊敬や感謝だというのは
再三説明している通りです。

前回の記事ではイチローのボール拾いなら誰もが
喜んで引き受ける、という例を出しましたが、
もしイチロー的な人が身近に溢れていたとしたらどうでしょう?

例えがイチローだとちょっと分かり難いかな。

もうちょい抽象的に、自分の尊敬する人が身の周りに
溢れていたとしたら・・・というのを考えてみて下さい。

人によって尊敬出来る人はそれぞれだと思いますが、
尊敬している人に囲まれてイヤな人はまずいないと
思います。

むしろ自分の尊敬する人に囲まれるなんて、
なんかウキウキしません?

もちろん自分は周りの人を尊敬しているワケですから
周りの人は何かしら自分に対して嬉しいことを
してくれる人であったり、自分のために注意や指導を
してくれる人だということです。

ちょっと恐いけど、何が壊れても
いつも余裕で修理しちゃう父。

自分の知らないことをたくさん教えてくれる祖父。

何を作っても美味しい祖母。

誰よりも深い愛を与えてくれる母。

誰もが尊敬でき、感謝の気持ちが絶えない状態。

これが理性的権威が溢れている状態です。

「誰もが尊敬でき、誰に何を言われても喜んで引き受ける状態」
と言ってもいいかもしれません。

ただ、

「そんなの理想の世界だよ」

と思いませんでした?

確かにこれだけならただの理想です。

「こうなればいいなー」で終わっちゃえば、の話ですが。

つまり終わらないってことなんですけどね。

そこでまず手始めに、理性的権威をどう使って
統一した【善】を作り出していくのかを説明していきます。

ホントは「統一」というとやや語弊があるんですが
まあそれは追々わかってくるかと。

僕の考えには、理性的権威を持つ者が行うことは
全てが【善】である、という前提があります。

厳密には、ある人が定義している【ヒーロー】という
概念があって、その【ヒーロー】の行うことが【善】
だという意味です。

ヒーローとは、一般に知られている正義のヒーロー
みたいなテキトーなものではなく、もっとリアルに

自分の所属するコミュニティ(共同体)の理解を得つつも、
自分自身の信じる善なるものを発信していける存在

という概念です。

コミュニティというのは、一昔前なら地域とか家族とか
そういった物理的なものだけを指したのですが、
昨今においては同じ趣味とか同じ職種とか同じ目標とか
そういったカテゴリー的なものの意味合いの方が強いです。

ミクシィのコミュニティなんかがいい例ですね。

言ってしまえば、ヒーローがいれば
そのコミュニティ内における【善】が確立できる、
と僕は思っているワケです。

なんでそう思うのかというと、一言で言えば

【周りがヒーローの言うことを素直に
(自らの望むこととして)聞き入れるから】

ちょっと考えてみましょう。

自分の尊敬する師匠が

「空き缶のポイ捨てなんてしてたら腕が鈍るぞ」

と言ったとしたら、弟子はどういう行動を取ると思います?

自分の尊敬する先生が

「勉強なんてしなくていい!」

って言ったら「あ、勉強なんてしなくてもいいだ」って
素直に思いません?

あの先生が言ってたんだから間違いない!って。

ってことは、ヒーロー的な人が

「生きる意味を考え続けることが【善】なんだ」

って言ったら、どうなるのかな?という話です。

ヒーローの概念で大事なのは
【コミュニティの理解を得つつ】という部分。

コミュニティの理解を得るとは、家族内や会社内
(つまりコミュニティ)での常識やマナーを守りつつ、
信頼や信用が積み上げられた状態を指します。

要するに、コミュニティの人から絶対的に尊敬されている状態が
ヒーローの大前提だということです。

そして尚且つ、自分の中に明確な【善】なるものを持っている。

これが一番分かり難いと思いますが、考え過ぎずに
「人を殺しちゃいけない」とか「人助けをしましょう」とか
そういった善なる心を備えている、ってことです。

まとめると

あるコミュニティに対して強力な理性的権威を持ち、
尚且つ自分自身の善なるものを明確に打ち出していける
存在がいれば、そのコミュニティにおける統一された【善】を
確立することは可能ではないか

と。

僕はそう考えています。

(「統一」という言葉に語弊があると言ったのはこーゆー意味です)

ということは、次はその善を指し示す存在であるヒーローを
どうやって作る(?)のか、という話になります。

なりますが。

これ以上長くなると記事をアップする時期が大幅に
遅れてしまいそうなので、一旦ここで区切って
投稿することにします。

続きはまた次回以降。

ではではー♪

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この頃の政局は荒れまくってますねー。

しかし、あの【麻生おろし】ってネーミングは
どうなんでしょ??

仮にも「自分たちが選んだ」日本の代表である総理大臣を
あんな風に言っちゃうってのは、ちょっと、ねぇ・・・。

僕はどっちかというとイケてない総理を選んだ方に
責任があるんじゃないかと思う一派なんですが、
どうやら政府の方々やメディアの自覚は薄いみたいです。

そういえば、政局は自民か民主か、みたいになってますけど、
この二元論的な【アレかコレか】という考え方自体が
誤りだということにそろそろわれわれは気付かないと
いけません。

もうそんな近代的な時代はとっくに終わったのですから。

今はむしろ【アレはアレ、コレはコレ】という時代。

つまり、決められた選択肢から選ぶのではなく、
自分で正しいと思う選択肢を作り出さなければ
ならない時代だということです。

今の日本の政治システムでは決められた選択肢(政党)から
選ぶしか方法はありませんが、それがそもそも既に時代遅れなのです。

また国が地方すべてを一元的に管理しようっていうのも
近代的な考え方ですから、これも時代遅れ。
(今は近代の次、ポストモダンの時代です)

橋本知事や東国原知事なんかはこの辺のことを
危惧しているっぽいですが(だから地方分権を
推し進めようとしているのでしょうが)
まだまだ日本の行く末は不安定ですねー。

さてさて、冒頭から珍しく政治ネタに触れたところで
今回は政治の本体である【国家】に関わる話を
していきたいと思います。

国家と言えばプラトンです。

プラトンの著作【国家】はあまりにも有名ですね。

読んだことはなくても、名前ぐらいは聞いたことが
あるんじゃないでしょうか??

内容はザックリ言えば

「正義って何なんだろう?」

「個人の正義を考えてたら長くなりそうだから
個人の集まりである国家の正義を最初に考えて
それを最終的に個人に当てはめよう」

という感じ。

そんな話が延々会話形式で進んでいきます。

その中でプラトンは民主制(民主主義)について
言及しているんですが、これがねー、なんというか
面白いことに今の日本の状況そのまんまなんですよ。

思わず

「すげーよ、プラトン」

と呟いてしまうほどに、そのまんま(笑)

プラトンは民主制について


民主制は、〈自由〉を善と規定する。


他方で民主制は、支配者に従順な者たちを、
自分から奴隷になるようなつまらぬやつらだと
辱しめるだろう。

個人的にも公共的にも賞賛され尊敬されるのは、
支配される人々に似たような支配者たち、
支配者に似たような被支配者たちだということになる。

このような国家においては、必然的に、自由の風潮はすみずみにまで
行きわたって、その極限に至らざるをえないのではないかね?

たとえば父親は子供に似た人間となるように、また息子たちを
恐れるように習慣づけられ、他方、息子は父親に似た人間となり、
両親の前に恥じる気持ちも恐れる気持ちもなくなる。

自由であるためにね。

そして居留民は市民と、市民は居留民と、平等化されて
同じような人間となり、外人もまた同様だということになる。

このような状況のなかでは、先生は生徒を恐れてご機嫌をとり、
生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育掛りの者に対しても同様の
態度をとる。

一般に、若者たちは年長者と対等に振る舞って、言葉においても
年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、
面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、
若者たちを真似て機智や冗談でいっぱいの人間となる

(プラトン著【国家】下巻より引用)

って言ってます。

つまり

「民主制は自分勝手で個性のないバカな人間を生み出す」

ということです。

まさに前回僕が解説した相対主義の世の中そのものですよね?

そしてもう分かったと思いますが、民主主義こそが
相対主義を生み出した原因だったということです。

われわれは通常、民主主義国家における自由や平等が
「良いもの」かのような教育を受けます。

社会主義のソ連は崩壊したし、更に社会主義が行き過ぎた
共産主義は中国みたいになってしまう。

だからアメリカやヨーロッパ諸国や日本のような自由と平等が
尊重される民主主義が最も優れた政策なんだ、と。

「最も優れた」とは言わないまでも、それに近いニュアンスで
教育を受けることには違いありません。

しかし、その「良いもの」を突き詰めた結果がコレです。

われわれは自由と平等を手に入れた代償として、
民主主義が堕落した個性のない傲慢で凶暴な野蛮人を生み出す
ということを身をもって証明してしまったのです。

かつて、ハイデガーの弟子であるハンナ・アレントは没個性こそが
悪を生むと言い、トクヴィルは多数者の専制(民主主義)と平等が
思いやりのないバカを生むと言いました。

そして、プラトンも何千年も前に現在の状況を予見していた。

民主主義の末路は、それほど自明だったワケです。

さてさて。

民主主義の真実を知ってしまった今、われわれは
何を信じて生きていけばいいのでしょう?

今のままでは日本はバカと自己中と野蛮人の温床と
化してしまう。

いや、もう既に温床だと言ってもいいでしょう。

われわれはこんな人間であふれた世界を
望んではいないはずです。

出来ることなら、賢くて思いやりのある人間で溢れた世界を
つくっていきたい。

少なくとも僕はそう思っていますし、ほとんどの人も
そう望んでいると僕は信じています。

じゃあ、そんな世界を作るにはどうすればいいのか。

あくまでも僕個人の考えですが、この問題を解決する
キーワードとなるのが、エーリッヒ・フロムが
「自由からの逃走」という著書の中で定義している

理性的権威

だと思っています。

理性的権威というのは、尊敬とか感謝とか
人々のそういった感情から生まれてくる権威のことです。

例えば、会社に尊敬出来る上司がいたとしましょう。

仕事は早いし、気遣いも細かい。

気前は良いし、部下にも大人気。

昼ご飯もいつもおごってくれる。

そんな神様のような上司が「この仕事、手伝ってくれない?」
と頼んできて断る人はまずいないでしょう。

これは上司だから断れないという感情もあるかもしれませんが、
それ以上に【この人の頼みなら喜んで!】という感情も
あると思うんですね。

そういう感情を起こさせる権威が理性的権威です。

イチローがボール拾いを頼んで断る一般人がいるか、
って話ですよ、要するに(笑)

みんな喜んでボール拾いするだろう、と。

この場合、一般人はイチローの理性的権威に服従した、
ということになります。

服従って言うとイメージ悪いですけど、現実には
「喜んで引き受けた」ってことです。

通常、権威とは圧力的でイヤなイメージがありますが、
理性的権威はむしろ喜んで受け入れたくなるような
そーゆー感情を引き起こすものです。

さて、この理性的権威が今の時代にどう役に立つのか。

その辺の話は乞うご期待(笑)

ではではー。

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前回の記事で相対主義の話に少し触れたので
その辺の話にもう少し踏み込んでいこうと思います。

よかったらお付き合い下さいな。

まずは、歴史的地平とは何か、という話から。

僕もこの用語について詳しいワケじゃないんですが、
僕の解釈でいう歴史的地平とは

世界観、人間観、歴史観の3つを合わせたモノ

という定義です。

【地平】という言葉はガダマーという解釈学の代名詞のような
人がいるんですが、その人が好んで使っている言葉で
「視点」とか「主観」とかそーゆー意味が込められています。

要するに、より分かり易い言葉に言い換えてやるなら
歴史的地平とは

世界に対する見方(接し方もしくは受け取り方)

のことだと思って下さい。

厳密には違いますが、そんな感じの理解で
問題ありません。

なんでそんなややこしいものをテーマにしたのかと言えば、
それは現代という時代を正確に読み取るために必要なのが
歴史的地平だからです。

なんで現代という時代を正確に読み取る必要があるのか、
というのはここから話します。

もちろんそんなことは知らなくても全然【普通】に
生きていけるんですけど、世界の仕組みって
知ってると結構面白いんで、まあ読んでみて下さいな(笑)

「最近の若者はコミュニケーションが下手過ぎる」

「最近の若者はすぐ折れる」

「最近の若者はすぐキレる」

などなど、大人はこんなことをよく口にしますが、
これの本当の原因(?)を分かっている人は
恐らく相当少ないと思います。

原因が分かってるならそんな自明なことは
わざわざ口に出して言わないはずですからね。

んじゃ何が原因なのか。

問題はそこです。

一言で答えを言ってしまえば、それは前回に書いたように

現代が相対主義の時代だから

ということになるんですが、これだけだと意味が
分からないと思うので説明を加えていきます。

前回の繰り返しになりますが、相対主義というのは

「あなたはあなた、俺は俺」

というように、相手の立場を認める(許す)代わりに
自分の立場を譲らない考え方のことを言います。

これは一見すると、相手の考え方を尊重して
相手にも権限を認める良い考え方のように
見えるのですが、それは相対主義の表の顔であって
それだけでは本質的な理解とは言えません。

じゃあ相対主義の裏の顔(負の側面)は何かというと、
相手を尊重しているかのように見せかけておいて
本当は相手に【無関心】なのです。

一般的な例で考えてみましょう。

「あなたは家で好きなことやって遊んでなさい、
お母さんは友達と出かけてくるから」

こんなことを子供に言って出かけてしまう親が
いたとします。

詳しい事情はともかくとして、この親が子供に
関心があるのかと言えばそれは恐らく「NO」では
ないでしょうか。

もし、ちゃんと関心があるなら、帰ってくる時間とか
家での注意とか色々言ってから出かけるはずだと
僕は思うんですね。

もちろんこのセリフ一言だけで判断するのは難しいですが、
「好きなことやって遊んでなさい」というのは
子供の権利を認めているのではないのは明らかです。

「好きなことやって遊んでなさい」の裏側は
「テキトーにやっといて」。

これが子供を車の中に放置して夫婦でパチンコやってるような
人間のことを指しているのは言うまでもないでしょう。

【無関心】(相対主義)の現状はこういったところに
現れているワケです。

妙にリアルでしょ?

ここまで説明すれば先に書いたキレる子供や
コミュニケーションの取れない子供が増えている
理由は分かると思います。

キレる子供が増えているのは、親や先生が子供たちにとって
【他人化】してきているからです。

他人からプライベートなことに口を出されて
ムカッとするのと一緒で、今の子供たちにとっては
親や先生でさえ他人と同じだということになります。

逆に、一昔前は隣のおじさんが叱ってくれることを有難いと
受けとめていましたよね?

直接関係のない人なのに、わざわざうちの子を
(関心を持って)叱ってくれた、と。

つまり昔は隣のおじさんは他人じゃなかったんですよ。

そこには【コミュニティー】という概念が
あったワケです。

地域の人は家族と一緒だ、みたいなね。

それが現代では(無関心)の影響によって
失われてしまった(見た目上、消えた)。

だから他人が叱ってくれることを「有難い」と
受け止められなくなるどころか、むしろ「鬱陶しい」と
思うようになってしまったワケです。

(家出少女が増えてるのもこういったことが原因)

コミュニケーションが取れないのも似たような理由。

自分以外に関心がないから人と接しようとしない人間が増え、
人と接する機会が減ったからコミュニケーション能力も
低下してきた、というだけの話です。

(もちろん厳密にはそんな簡単な話じゃありませんが)

つまり、現在ニュースなんかで騒がれている問題は
大よそ相対主義というキーワードだけで
読み解けるということです。

そして。

そのキーワードを見つける視点こそが【歴史的地平】なのです。

今回書いたことも現代が相対主義の時代だという前提があって
はじめて出来る話です。

この前提がなければ、こんな話は出来ない。

ということは、歴史的地平を持って現代という時代を
正確に読み取らないとこーゆー視点で話が出来ない、
ということになります。

じゃあ出来ないより出来る方がいいよね?って話です(笑)

どうやって歴史的地平を身につけるかは追々書いていこうと
思いますが、今はとにかく歴史的地平を身につければ
色々なことが見えてくるんだ、というのを分かっておいて
下さいませ。

これが分かるようになるとニュースを読むのも
別の意味で楽しくなりますよ。

ではではー♪

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つい先日、いつだったか忘れましたが
ライブドアニュースで

【男子高校生が援助交際している】

というものを見かけました。

女子高生の書き間違いだろうと思って読み返してみたら
やっぱり男子高校生についての記事がつらつらと書かれていて
なんと最近は男子高校生が女子高生や女子中学生を
買春するんだそうな・・・。

あー、世も末だねー・・・とか月並なことを思いつつ、
いよいよネイティブデジタリアンの時代が近づいてきたか、
と、個人的に確信を得ました。

ネイティブデジタリアンとは、2000年前後に
生まれた人間のこと(1995年生まれ、2001年生まれ等)。

彼らは一言で【実体験不要】と言い表されます。

実体験不要ってのは、大きく言っちゃえば
バーチャル(デジタル)で全てが完結しちゃう世代
ということです。

バーチャルリアリティなんて言葉もあるぐらいですから
バーチャルでリアルな(擬似)体験が出来てしまう人間が
登場してきてもおかしくない今日この頃。

そういう特徴を持ったのが彼らネイティブデジタリアン
だと思って下さい。

そんなネイティブデジタリアンですが、
彼らには実体験不要という特徴の裏側に
もう1つの特徴が隠れている、と僕は踏んでいます。

それは実体験への欲求です。

今回のニュースと絡めて言えば、人肌に対する欲求。

つまり、バーチャルを求め過ぎた反動によって
リアリティーを求める動きが強まってくるだろう、と。

なんでそう思うのか、というのはまた時代の反動の話を
思い出して欲しいのですが、人の歴史は常に反動によって
動かされている、というのが一応の答えになります。

ファッション業界でも、ダボダボのパンツが売れた次は
ピチピチのパンツが売れて、次にまたダボダボが売れて・・・
というように、1つの概念に偏った価値観が
もう1つの対立する概念へと反動で動いてますよね?

そーゆー感じ。

確かにバーチャルは何でも手っ取り早く手に入り、
すぐに効果を確かめたりするには便利です。

便利ですが、それはどれだけ追求したところで
質感を伴わないバーチャル(虚像)に過ぎません。

下品な話で恐縮ですが、彼らは生まれたときから
インターネットという環境があって、物心ついたときには
アダルト情報にもアクセスし放題だったワケです。

これが何を意味するのかと言えば、思春期初期の段階で
バーチャル的な性体験はお腹一杯になってしまっている、
ということです。

その反動が援交(リアル)として現れた。

僕はそう思っています。

そして、相対主義の影響によって
性体験の低年齢化が顕著になった、と。

あ、相対主義というのは、簡単に言っちゃえば

【ナンバーワンよりオンリーワン】

的な発想のことです。

「お前に口出ししない代わりに俺にも口出しするな」

逆に言えば

「あなたはあなたの好きにしなさい、私も私で好きにするから」

という相手を尊重しているようで実は非常に
エゴイスティックな考え方を相対主義と呼びます。

さっき書いた「性体験の低年齢化に相対主義が影響している」
というのは、つまり親と子供が互いに相対化してきている
ということです。

親も子供も自分のことにしか興味がないから子供は親に
邪魔されることなく、ネットで変な知識ばっかり蓄えて
理性の低さゆえに享楽への道をひた走る、と。

子供にはもちろん罪はありませんが。

しかしホント最近の親は子供に興味ないですからねー。

電車に乗ってても子供をほったらかして
子供が騒いでても何も注意しない親ばっかだし。

ま、よくも悪くも【相対主義】は現代のキーワードなんで、
是非覚えといて下さいませー。

さて。

相対主義の話はともかく、今は、時代が大きく動こうとしている、
ということが分かってもらえたら嬉しいです。

それと、自分達の感覚で若者を捉えていては
これからの時代に取り残されるということを
しっかり自覚しておいて下さいませ。

老いては子に従え

とは昔の人は上手く言ったもんで、もちろん全てに
従う必要はないと思いますが、時代を作っているのは
いつも若者だということは忘れないようにしたいですね。

とか言いつつ、僕もまだ結構若いんですけど(笑)

ではではー。

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今回は久々にベーシックインカムの話を離れて
僕が嫌っている【成功哲学】をテーマに記事を
書いてみようと思います。

なんでわざわざ嫌っていることをテーマにするのかと言えば、
タイトルを読んでもらえれば分かる通り、

「そんなもん信じててもしょうがないよ」

ということが言いたいから。

好きで信じている人を否定するつもりはないんですが、
本質的な矛盾に気付いている人は恐らく少ないと思うので、
念のため書いておいてみようかな、と。

完全なお節介です(笑)

知らない方が幸せかもしれませんので
見たくない場合はここで閉じて下さいませ(笑)

では早速本題へ。

本田健、斉藤一人、ナポレオン・ヒルよろしく、
いろんな人が声高に叫び続けている成功哲学。

「こうやれば成功出来ます」「ああやれば成功出来ます」
と言い続けている割には成功している人があまりに
少な過ぎる気がしてなりません。

その理由を聞けば恐らくほとんどの人は

「本の内容を実行しない人がほとんどだからだ」

というような一見して反論の余地のなさそうな
回答をすると思います。

でもそれって本当なんでしょうか?

というのも、成功哲学系の書籍というのは、基本的に
【誰にでも出来るようなこと】しか書かれていない印象が
僕にはあるからです。

「毎日靴を磨きなさい」とか「感謝の気持ちを忘れるな」とか
「ツイテルって1日100回言いなさい」とか「寄付しろ」とか
大よそこんな誰でも出来る感じのことが書かれているのに
実行しない方が僕には信じられません。

だってそんな誰でも出来ることをやるだけで
成功出来るって書かれているんですよ?

しかも実際、それで成功した人が書いてるんですよ?

言葉は悪いですが、やらない方がバカじゃない?と
思われても仕方ないと思うんです。

「じゃあ、お前もやってみろよ」

と思うかもしれませんが、その批判は受け付けません。

今回のテーマとそれは何も関係ないので。

じゃあ何でみんな実行しないのか、って話になるワケです。

どうしてみんな読むだけ読んでやらないのか。

また、仮にやっていたとしても成功出来る人が
どうしてわずかしかいないのか。

僕が考えるに、その理由は大きく分けて2つあります。

1つは、根本的なところでみんな本に書かれている内容を
信じていないから。

この話については詳しくはカルヴィニズムについての
予備知識がないと分からないと思いますが、
要は、われわれは1つのものを信じ続けられるような
文化では育っていない、ということです。

日本は多神教の国(文化)なのに対して、
成功哲学とは西洋から輸入されたもの、
つまり一神教の国で生まれたものになります。

一神教と多神教の違いを一言で言ってしまえば、
それは、1つのことを無根拠に信じることが
出来るか否かの違いです。

日本には八百万の神がいると信じられている反面、
西洋にはキリスト教の神一人。

要するに、西洋では成功哲学という1つの体系を無根拠に
信用出来るのに対して日本では「他にも方法があるんじゃないの?」
という疑念を抱きやすい、ということです。

キリスト教の人は「他にも神様がいるんじゃないの?」とは
絶対に思いませんから。

疑念を抱くっていうことは、どこかで信じていない証拠。

100%信用する、というのは日本人には難しいのです。

仮に100%成功哲学を信用出来たとしたら
その人は成功すると思います。

かつてカルヴァンの予定説を信じていた多くの人が
経済的成功を収めた歴史を調べれば、なんとなく分かる
かもしれません。

詳しくはエーリッヒ・フロムが書いた
自由からの逃走 新版という本を参考にして
色々考えてみて下さい。

・・・とか言って終わろうと思ったんですが、せっかくなんで
もうちょっと説明を足しておきましょう。

カルヴァンの提唱した予定説というのは、

「天国に行ける人は生まれた瞬間に決まっている」
「だから生れてから頑張っても仕方がない」

というもの。

われわれの感覚だと、これだけ読んでしまったら、

「何をやっても天国に行けるヤツは行けるし
行けないヤツは行けないんだったら、生きてるうちに
悪いことやりまくってもいいんじゃないの?」

なんてことを思ってしまうかもしれませんが、
それは現代的・日本的な観点からものを見すぎです。

中世ヨーロッパの人々にとって、神は絶対であって
神に選ばれることが彼らの全てだった、ということを
分かっていないとそーゆー発想に陥ります。

じゃあ予定説を信じている人はどう考えていたかというと、

「私が神に選ばれないワケがない」
「私が地獄に落ちるはずがない」

と考えていた(無根拠に確信していた)ワケです。

そして肝心なのはここから。

カルヴァン曰く、天国に行ける人は既に決まっているから
今更何をあがいてもその予定は変えられない。

しかし、よーく考えてみると、その選ばれた者は
他の人よりも運がいい。

運が良いということは、その人は現世で
成功している確率も高いのではないか。

職業は神から与えられた使命なのだから
その職業で成功するならば、その人は
神から選ばれた可能性が高い。

つまり。

お金をたくさん持っている人は天国に行ける確率が
高いということカルヴァンは言ったワケです。

ちょっと僕らの感覚からするとオカシイですけどね。

その頃の発想がそうだったんだから仕方がない。

まとめておきましょうか。

中世ヨーロッパ(16世紀頃)では人々は予定説を信じ、
「私が神に選ばれないワケがない」と確信していたため、
自らの職業で成功を収め、たくさんのお金を貯める人が増えた。

そんな感じです。

ついでに言っておくと、神に選ばれた者が悪行など
行うはずがないですから、善なる行為を行うことによって
「自分は神に選ばれた者なんだ」とアピールするような
ことも起こったそうな。

この辺がキリスト教の面白いところですよねー。

もう分かったと思いますが、これが成功哲学の
根っこの部分になります。

読んで分かる通り、われわれ日本人にはちょっと
理解し難いですよね?

頭では分かっても心では分からない、みたいな。

ただ1つ言えるのは

他人に親切にしたり、寄付をしたり、靴を磨いたりするのは
【そうやったら成功出来るから】という卑しい発想ではなく、
成功に値する人間はそれぐらいのことは当然のこととして
行うはずだ、という信念に基づいて行わなければ意味がない

ということです。

1つ目が随分長くなっちゃいましたが、成功する人が少ない
もう1つの理由は、成功哲学というモデルでは
ネガティブとポジティブの概念が矛盾しているから。

「ポジティブ思考で毎日を生きよう」

という感じの言葉が成功哲学系書籍にはよく見られますが、
この思考自体がネガティブなことにお気付きでしょうか?

もう少し分かり易く言うと、

「ポジティブにならなきゃ成功出来ないんだ」

と思うことはネガティブな思考じゃにゃいにょ?と。

本当にポジティブに考えるなら

「ネガティブな(今の)ままでも大丈夫!」

という発想になるはずなんです。

つまり、本質的に成功哲学的なネガティブとポジティブは
矛盾しているのです。

これも上の予定説の話と関係しているんですが、
ネガティブとかポジティブとか考えている時点で
それが既にネガティブなんですよ。

もっと言えば、成功哲学系の書籍を読んでいる時点で
その行動がもうネガティブですよね?

成功したい、つまり今の自分じゃ成功出来ないと思うから
本を読むワケであって、自分が成功に値する人だと思っていれば
そんな本を読むより、もっとすることがあるはずですから。

最初の話よりこっちの方が分かり易いと思うんですが、
どうでしょ?

そんなワケでありまして、結局のところ成功哲学というのは

【成功哲学を100%信じていること】
(自分は成功するんだと確信していること)

【ネガポジの矛盾に気付くこと】

この2つがキーになっているんじゃないかと
思っています。

ただ、これはあくまで僕個人の考えに過ぎませんので
参考程度に思っておいて下さいね。

ではではー。

追伸

毎度コメントを下さるkyunkyunさん。

コメントしてもらえるのは非常に有難いのですが、
ちょっと僕の発言と論点が噛み合っていないようなので
一旦ベーシックインカムの話は保留にしますね。

また何かあればいつでもコメントして下さいませ。

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