ども、ペスです。

京都市立美術館で12月15日から始まった日展を見てきました。

日展を見たのは今回が初めてでしたが、ぶっちゃけ、もう行かないと思います(苦笑)

同じ団体展でも先日見た「行動展」とは違い、感じることは何もありませんでした。

俗に言う「キレイな作品」や「上手い作品」はたくさんあったし、技術的にはどれも
優れていると思います。

普通に見れば、何の問題もない作品ばかりに見えるでしょう。

しかし、それは問題もない代わりに突出したものもない、ということを意味しています。

保守的で、無難で、殻に閉じこもったものばかり。

それが僕の目から見た日展の作品群なのです。

工芸部門の作品からは多少新しいものも感じましたが、絵や彫刻はガチガチに枠に
はまっており、ほとんどそこから抜け出せていません。

だから日展の会場には年配の方ばかりが集まるのでしょうね。

演歌や落語と同じ理屈です。

歳をとるほど見慣れたものや聞慣れたものにしか近寄らなくなる、つまり保守的に
なっていくのです。

 

美術にはいろんな作品があっていいと思います。

定番のものもあれば、斬新なものもある。

それは大事なことです。

ただ、古いか新しいかにかかわらず、作品を作る以上その態度は
積極的であるべきです。

もう少し分かりやすく言えば、

「この作品を作らずにはいられない!」

「なにがなんでも作りたい!」

という気持ちがなければならない、ということです。

その気持ちがあって、初めて「キレイな作品」でも「上手い作品」でもない

「伝わる作品」

が生まれます。

脳みそが何年も冬眠し続けている人には分からないでしょうが、伝わる作品と
伝わらない作品というのは、見る人が見れば分かるのです。

参考までに、見分けるコツを紹介しておきましょう。

作品を見る際に、すべての思考を停止して、極力見ることにだけ集中すること。

絵を見ているという感覚にだけ意識を向けること。

これをやってみて下さい。

どのレベルで出来るかにもよりますが、少なくとも下手な解釈をするよりかはよほど
素直に作品を見ることができるはずです。

よく「感覚を研ぎ澄ます」なんて言葉が使われたりしますが、それに近いものだと思って
もらえればいいと思います。

例えばどこでもいいので目を閉じて歩いてみて下さい。

今まで感じなかった微細な感覚を足の裏に感じませんか?

理屈としてはそれと同じです。

感覚とは、特定の感覚を鍛えることによって伸ばすのではなく、他の不必要な部分を
閉じることによって浮き出てくるものなのです。

 

以上のことから、「伝わる作品」とは、われわれの余計な感覚を刺激しないような
作品である、ということが分かります。

作品の方からわれわれを見ることに集中させるように仕向けてくる。

つまり、われわれが見ることに集中せざるを得ない作品こそが「伝わる作品」なのです。

その意味では、今回の日展で展示されているような伝わらない作品には、雑念が多く
含まれていると言えます。

作品はキレイでも、表現されているものが雑なのです。

気持ちがぼやけていると言えば、なんとなくでも伝わるでしょうか。

なぜか見ていても気がそれてしまう。

これは文章も同じで、読んでいて気持ちが他に気移りしてしまうようなものは、
「伝わる文章」ではありません。

先を読みたくて仕方がない。

この作品から目が話せない。

そういう鑑賞者や読者を魅了する物語性が「伝わるもの」には含まれています。

だからこそ、そこに込められた気持ちは伝わらざるを得ないのです。

 

「伝わるもの」は見る側と見られる側の良好な関係があってはじめて生まれてきます。

見る側の受け取りたいという気持ち。

見られる側の伝えたいという気持ち。

この両方が揃わなければ「伝わるもの」は生まれないのです。

両者の関係は可能な限り対等でなければなりません。

良好な関係というのは、どちらかに偏ったり依存したりしないものだからです。

お互いに同じぐらい尊敬し合っている。

お互いに同じぐらい愛し合っている。

お互いに同じぐらい思い合っている。

それが僕の思う良好な関係です。

この関係があって、はじめてお互いに気持ちが通じ合います。

作品と鑑賞者の関係もこれと同じ。

伝えたい気持ちと受け取りたい気持ちが均衡する場所にだけ、「伝わる作品」は
現れるのです。

 

ところで、気持ちって何なんでしょうね(笑)