ども、ペスです。

実はここ10日間ほど京都の山奥で瞑想の修行をしていました。

といっても、別に僕は何かの宗教を信仰しているワケではなく、たまたま師匠の
紹介やら何やらで縁があっただけの話です。

瞑想の内容は思っていた以上に充実したもので、濃厚な10日間となりました。

そこで得たアイデアは数知れないのですが、残念ながらそこのルール上、
ペンとノートを使ってメモを取ることが許されていなかったため、ほとんどは
僕の記憶の彼方へ飛んでいってしまいました(苦笑)。

まさにこの世は無常なり。

あにっちゃー。


そんな瞑想を受けている最中に、あるジレンマが僕の頭に浮かびあがりました。

それは

本当に瞑想しなければならない人ほど、その場にはいない

というもの。

この話自体は瞑想に限ったことではないのですが、本当にそれを受けるべき人は
それに興味の無い人たちなのです。

まあ「なのです」と言ってしまうと押しつけがましいですが、少なくとも僕は
そう思っています。

例えばこういった瞑想に参加する方というのは、ある種の悩みを抱えていて、
それをある程度自覚した上で参加を決めます。

恋愛や仕事のいざこざを解決したい。

自分のコンプレックスを無くしたい。

自分の殻を破りたい、自分を見つけたい。

もっと自分の生活を向上させたい。

みんなそういったことに対する答えを求めてやってくるワケです。

実際、現場で話を聞いてもそうでした。

福島や栃木から来ている人もいて、彼らは原発の問題に対して自分との決着を
つけるためにここに来たと言っていました。

つまり、瞑想参加者のほとんどは問題意識そのものがかなり明確なのです。

もちろん漠然とした悩みを抱えながら参加していた人もいないワケではありません。

そういう人も中にはいます。

ただ、それが圧倒的少数であるという点をここでは取り上げたいのです。


僕は問題意識が明確である人は、瞑想に頼らずともその答えを自力で見つけることが
できると思っています。

それは問題が解けない生徒に先生がアドバイスするのに似ています。

「何が分からないかが分からない」

と言っている生徒には手のほどこしようがなくても

「ここが分からない」

と言っている生徒は考え方や何かのキッカケを与えてやるだけで、先生が答えを
教えるまでもなく自分で答えを導けるからです。

この例の場合はキッカケは先生が与えることになっていますが、そのキッカケは
必ずしも先生である必要はありません。

例えばテレビドラマでたまたま主人公が言っていたセリフがキッカケになるかも
しれないし、友達との会話がキッカケになるかもしれない。

何がキッカケになるかは分かりません。

分かりませんが、それが絶対に瞑想じゃないといけない理由というのはありません。

瞑想によって問題が解決することはもちろんあるでしょうし、それが瞑想のお陰だと
思い込むこともあるでしょう。

けれども、その問題は10日間もの瞑想に参加するほどの行動力と決断力があれば、
いずれ近いうちに解決していたのではないか、と考えるのが妥当だと思うのです。

たまたま解決するキッカケが瞑想だった。

たまたまとった行動が瞑想だった。

多分それだけです。

ですから、本当に問題なのは「瞑想に参加しよう」という気すら起こらないような
問題意識そのものが低い人たちなのです。

何が問題なのか分からない。

何が分からないのかが分からない。

問題なんて自分は何も抱えていない。

そういう人たちにこそ、問題を明確にする(自分と対話する)機会を与える、
という意味で瞑想が必要なのではないでしょうか。


この手のジレンマはあらゆるところで起っています。

哲学書を読まなければならない人に限って哲学に興味がなく、食に気を付けなければ
ならない人に限って食に興味がなく、勉強しなければならない人に限って勉強には
興味がない。

これは頭が良い悪いの話をしているワケではありません。

問題意識があるというだけで、その人は人間的に突出しているということです。

哲学を、瞑想を学ばなければならない。

そう思うこと、それ自体がある程度明確な問題意識に他なりません。

何も問題を感じなければ、そんなものを学ぼうとすら思わないワケですから、
学ぶことを決めた時にそれはもうあらかた解決しているのです。

問題は認識された時点でそのほとんどが解決している。

誰かがこんなことを言っていたような気がしますが、自分が悩んでいることの答えは
自分の中にしかないワケですから、問題さえ見つけられればその答えは引っ張り出して
こられます。

問題なのは答えではなく、問いなのです。

いかに鋭く、緻密に、問題を分析していけるか。

そこが重要です。

例えば自分が貧乏で苦しい生活をしていたとしましょう。

毎月赤字で、このままいけば破産してしまう。

そんな状態で「生活を楽にするにはどうすればいいか?」という漠然とした問いを
投げかけても「もっとお金を稼げるようにする」というぐらいのテキトーな答えしか
出てきません。

この答え自体は問いに対しては正しい答えです。

もっとお金を稼げば生活が楽になることには違いありません。

けれども、それが「自分が求めていた答え」かと聞かれれば、やはり違うワケです。

もっと具体的に生活を楽にする方法を私は知りたいんだ。

普通ならそう思うでしょう。

だったら「苦しい生活」の何がどれぐらい苦しいのか、苦しい具体的な原因は何なのか、
というのを明確にしなくてはなりません。

家賃が高くて苦しいのかもしれないし、食費が高くて苦しいのかもしれないし、
給料が低くて苦しいのかもしれない。

ここまで明確化すれば、家賃を減らすにはどうすればいいか、食費を抑えるには
どうすればいいか、今の仕事のままバイトをするにはどうすればいいか、そういった
個別具体的で明確な問いが立ち、それを調べる方法も、それに対する答えも自ずと
見つかります。

問題を明確にするとは、こういうことです。


瞑想に参加する人は、こういった問いを(大体の場合は無意識的に)繰り返した上で、
瞑想に参加するという答えを導き出して参加してきます。

つまり、問題を解決するためには瞑想が必要である(ような気がする)、という答えに
導かれてやってくるのです。

それはまさしく問題意識ゆえに導かれた答えと言えるでしょう。

ですから何度も言うように、本当に瞑想が必要なのはここまで到達していないような
漠然とした不安を抱えた人たちだと思うのです。

こんな問題だらけの世の中に何の問題も感じないというのは、ある種の病気です。

どれだけ自分の生活が順風満帆であっても、自分や家族が突然交通事故で死んでしまう
可能性は消せないし、会社が潰れる可能性も、地震が起こる可能性も消せません。

自分はこのままでいいんだろうか。

そんなことを考えたことのある人はたくさんいると思いますが、そういった漠然とした
問題というのは明確化して行動に移さない限り、何歳になっても解決しません。

放っておいて解決したような気になっているかもしれませんが、われわれにはそういう
放置している漠然とした問題が山のようにあるのです。

それを考えることなく、のほほんと生きていること自体、大きな問題です。

瞑想の中でも「われわれは常に感覚を感じているはずなのに、それに気付いていない」
ということを教わりましたが、それはまさに病的なことなのです。

本来の(自然の)人間の感覚ではない。

だからこそ、それら感覚や問題に気付いていくために、瞑想というものがあるのでは
ないでしょうか。


瞑想のジレンマそのものを解決する方法は僕には分かりません。

囚人のジレンマよろしく、考えたところで結局は非合理な結果が生まれてしまうのは
目に見えています。

仮に僕が瞑想の宣伝をしまくったとしても、その表現次第では参加者が増えるどころか
行くはずだった人まで行く気がなくなる、みたいな現象が起こってしまうことでしょう。

世の中というのは、そういうものなのです。

良いものだからといって広めりゃいいってものではありません。

それは広めるというよりも勝手に「広まる」というのが理想です。

思わず話してしまう。

つい行動に出てしまう。

そういう体験者の感覚だけが、このジレンマを解決へと導いてくれるのかもしれません。