実は僕、裁判員制度で裁判員をやったことがあります。

あれは確か5年ぐらい前のことです。

まだ裁判員制度が始まって1年も経っていないときに
裁判所から封筒が届き、僕は大阪地裁に足を運びました。

裁判員になるかどうかは封筒が届いた時点では
まだ決まっておらず、封筒が届いた人の中から
さらに裁判所でくじ引き的なことを行い、
100人ぐらいいる中の10人ほどが裁判員になるのですが、
僕はその何十倍という倍率(?笑)を見事にくぐり抜け、
裁判員をやることになりました。

我ながら恐ろしいくじ運だと思います(笑)

なんとなく当たる気はしていたので、それほど驚きは
しなかったですが、いざ当たってみると緊張するものです。

そこから3日間、僕は朝9時から夕方5時頃まで裁判員として
大阪地裁に通い、裁判官3人の手引きに従いながら、
他の裁判員と一緒に議論を重ねました。

自分のことを棚に上げて言ってしまいますが、他の裁判員は
本当にどこにでもいるような普通の人たちで、彼らの意見は
いい意味では一般的な感覚に根ざしたものだった反面、
悪い意味では非常に偏った、明らかにメディアの影響を直で
受けてしまっている意見だったのが印象的です。

そんな中で、僕1人が素朴な意見や疑問を裁判官にぶつけ、
裁判官の人から「そんなこと考えもしなかった」的なことを
何度も言われました。

そして最終日。

なんとか裁判の判決が出て、帰る準備をしていると、
裁判官の1人が僕にこんなことを聞いてきました。

「Aさん(僕のこと)は普段何をされている方なんですか?」

「普通こういうことはあまり聞いてはいけないことに
なっているんですが、あまりにも意見が素晴らしかったので、
つい聞きたくなってしまって・・・もしよろしければ
教えていただけませんか?」

これが教養が役に立った僕の具体的な経験です。

 

当たり前ですが、僕は法的知識は皆無と言ってもいいぐらい
何も持ち合わせていません。

はっきり言ってド素人です。

にもかかわらず、そんなド素人の僕にプロである裁判官が
興味を持ち、最終的に話しかけざるを得なくなるところまで
惹きつけたというのは、なかなか面白い事例だと思いませんか?

僕が思うに、教養を身につけることの最大の利点は、
自分と同等に教養のある人と対等に話ができること、
言い換えると、自分の(一般常識やメディアに侵されていない)
意見が言えることだと思います。

自分の意見ぐらい誰だって言えるよ、と思うかもしれませんが、
当時の僕から見ても、他の裁判員の意見は酷くつまらない、
一般常識を絵に描いたようなものでした。

普通に生きてたら、それぐらい誰でも思いつくよね、と。

そういう意見ばかりだったということです。

もっと言うと、彼らは思想的には同じ顔をした無個性の
人間だとも言えます。

今ほど個性の重要性が叫ばれている時代もないと思いますが、
彼らが自分の意見だと思っているものは、誰かさんがこっそり
彼らに浸透させた価値観から発せられている借り物の
意見なのです。

 

教養について、池上彰氏の面白い対談記事があったので
ちょっと引用してみます。

池上:日本を代表して出席している政治家は、大概の場合、
端の方にぽつんと座っていて、各国の代表とまったく会話を
していないんですね。パーティのときもそうです。

上田:英語ができないから、じゃないんですか?

池上:その側面もあるかもしれませんが、本質的には語学の
問題じゃないですね。そもそも「会話」に加われないんです。
なぜかというと、各国を代表してやってきた政治家たちと
語るべき「コンテンツ」を持っていないから。言い換えれば
「教養」がないんですね。企業トップでも同じようなことが
起きるんです。自分の持ってきた仕事のプレゼン用
コンテンツ以外に、会話の中身がない、というわけです。

上田:それは今に始まったわけじゃないですね。

(日経ビジネスオンラインより引用)

どうでしょう?

これは裁判員裁判でも同じです。

裁判員の多くは、語るべき「コンテンツ」を持っていない。

だから意見が面白くないし、議論にもならないし、印象にも
残らないのです。

 

一定以上の人間と付き合おうと思ったら、かならずどこかで
教養が必要になります。

日本では政治や国際関係、宗教、思想などの議論を持ちだすと
嫌がられることが多いですし、実際僕も最近、某忘年会で
その手の話題を持ち出して場の空気を濁しました。

彼らならその話題に乗ってくれるかもしれないとどこかで
期待していただけに、結構悲しかったです。

でも、ある読者の人がメールを送ってくれましたが、
外国人と話をするなら、自分の意見が言えないとまったく
相手にされません。

その方は僕のメルマガを読んで自分の意見が言えるようになり、
外国人と話す自信も生まれたと言っていました。

これは外国人云々もそうですが、そういう外国人を相手にして
生きている教養ある日本人と話す場合も同じだと思います。

収入が引き寄せる人間の種類を決めるのも確かだと思いますが、
教養も引き寄せる人間の種類を決めているのではないでしょうか。

 

教養は何の役にも立ちませんが、すべての役に立ちます。

哲学は「そのままでは」何の役にも立ちません。

しかし哲学を教養として学べば、哲学を役に立てるものにする
何かが学べます。

教養とは、教養それ自身を役立つものにする何かなのです。

それは具体的な文脈に当てはめたときに、はじめて役に立ちます。

自分の理想に対して、いかに自分の教養を当てはめていけるか。

それが今年の僕の課題です。

まだまだ暗中模索ですが、やるっきゃないでしょ。

今年もよろしくです。

ありがとうございました。

 

追伸1:日経ビジネスの引用元。

『MITは「理系バカ」が役に立たないと知っている』

 

※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。

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