ども、ペスです。

突然ですが、あなたは自分のことをどれだけ知っているでしょうか?

自分の趣味や特技、価値観、身長体重、性格、癖、顔、それぐらいのことは誰だって
知っていると思いますが、それが自分を知っていると言えるかどうかは別の話です。

多くの人は「自分を知っている」ということが何を意味するのかを知らずに自分を
知ろうとします。

何を知っていれば自分を知っていると言えるのか。

自分を知っていると言うためには、何を知っておかなければならないのか。

こんなことを知っている人は皆無なワケですが、これを知っておかなければ
何をもって自分を知ることになるのか判断できません。

それ以前に、そもそも自分を知ることは可能なのかという問題があります。

あまり話を長くしたくないので、自分とは何か、みたいな話はすっ飛ばして話を
しますが、結論から言えば、われわれの従来的な思考回路では自分を知ることは
出来ません。

なぜそう言い切れるかというと、「知る」ということ自体を可能にしているのが
自分だからです。

自分を知るとは、知ることを可能にしている自分を知る、ということです。

自分が存在しなければ知ることは不可能ですし、その「知る」が何を意味するかは
自分を調べなければ分かりません。

自分は何がどうなることを「知る」だと思っているのか。

それを知っておく必要があるワケですが、自分を知るには、それを知ることすらも、
さらに知っておかなければならないのです。

これは、われわれが自分の目を見られないことを考えてもらえれば、なんとなく
分かると思います。

われわれが何かを見られるのは自分の目があるからですが、その自分の目を直接
見ることは誰にもできません。

それは何かを見ることができるという前提を自分の目が担っているからです。

つまり見ることを可能にしているものを見ることができないのと同様に、知ることを
可能にしているものを知ることもできないのです。

この思考回路のまま「自分とは何か」なんて問いかけてしまうと、よくある泥沼には
まってしまうことになります。

「自分を知る」には「自分を知る」が何を意味するかを知らなければならず、
『「自分を知る」を知る』には『「自分を知る」を知る』が何が意味するかを
知らなければならなくなり、以下ずっとこれが続くワケです。

これでは永遠に自分にたどりつけないのも仕方ありません。


さてさて。

それではわれわれは自分を知るということに対して絶望するしかないのでしょうか。

ここでさっきの文章をよく読み直してほしいのですが、僕は最初に大きな条件を
提示した上でこのことを話しました。

そう「われわれの従来の思考回路では」という前提です。

これは、上の理屈が正しく見えてしまう、その思考回路のままでは自分を知ることは
出来ないよ、ということを意味します。

つまりその思考回路さえ乗り越えることができれば、希望の光が見えてきそうな
気がする、ということです。

しかしどうやって・・・?


ものすごい乱暴な解釈ではありますが、その方法を細かく解明しようとしたのが
ハイデガーの『存在と時間』なのです。

ハイデガーはこの著書の第一章第一節において、「存在」という概念に対する
従来的な定義の仕方そのものに疑問を突きつけています。

例えば人間を概念的に定義する場合、普通それは「理性的な動物」とされます。

これは人間という概念を一段上の抽象概念で言い換えているワケですが、「存在」は
この定義の仕方では定義することができないし、「存在」は定義不可能であるという
結論にはもっと納得がいかないので、その定義の仕方自体を見直すべきではないかと
ハイデガーは言うワケです。

そして、この第一節の最後で彼はこう言います。

存在への問いには答えが欠けているだけでなく、問いそのものさえ不透明で
無方向なものだ、ということである

これは要するに「存在とは何か」といった問いは、まったく無方向で何を求めて
問うているかが分からない、ということです。

「そんな形而上学的な問いかけに何の意味があるのか」とまでは言っていませんが、
そういう雰囲気が行間からは伝わってきます。

だから答えを探すより先に、まずは問題設定を見直していきましょう、と。

ということで第二節では存在への問いの形式的構造、簡単に言えば、われわれが
何かを問うとはどういうことかを考えていくワケです。


この第二節の中で

存在とは、いつも、ある存在者の存在である

という重要な言葉が出てくるのですが、これは存在は存在者から切り離すことは
できないのだから「存在とは何か?」という問い方は変だ、ということです。

普通われわれは「自分を知る」というと「自分とは何か?」とか「私とは何か?」と
無意識に問いかけてしまうワケですが、それは「自分」という単なる抽象概念、
すなわち現実の自分とは切り離された抽象的な「自分」とは何かを問いかけているに
過ぎません。

本来「自分」と「それを問うこと」は切り離せないのですから、現実的な在り方で
自分を知りたいのであれば、この両方に対する答えを導く問いが必要なワケです。

では、どのような問い方が正しいのか。

それについては人によるので一概には言えないのですが、仮に僕が自分のことを
問うとしたら

「僕は僕自身であるか」

と問います。

僕は客観的で誰もが納得できるような答えは求めていませんから、自分とは何か、と
問う必要はないワケです。

僕が知りたいのは、僕はちゃんと僕自身と一体化しているか、僕は僕自身として
機能しているか、ということだけです。

ハイデガーの言葉を使うなら、イマココの自分が本来的であるか非本来的であるかを
了解しておきたい、という感じでしょうか。

僕を僕自身から切り離さずに問うと、こういう風になります。

この意味を理解するには、今のわれわれが持っている(存在的な)思考回路を
ハイデガー的な(存在論的な)思考回路に切り替える必要があるワケですが、
これは非常に難しいことです。

われわれは従来的な思考に慣れてしまっていますから、いきなり問い方が間違っていると
言われても、ピンとこないのです。

われわれが学校で教わるのは、問いに対する答えが正解か不正解かということだけ。

そこでは、問いは絶対に間違わないことが暗黙の前提になっています。

だから日本の受験制度のようなものがまかり通るワケですが、答えても意味のない
問いならば、それは問いそのものが間違っているのです。


自分とは何か?

この問いに苦しめられている人は今もたくさんいると思います。

これに対する答えを探すために、自分探しの旅に出てしまったり、自己診断テストの
ようなものに大金を費やしてしまったりする人は今もあとを断ちません。

本人がそれで納得しているなら構わないのですが、少なくとも僕はそのことを
あまりいいことだとは思いません。

自分はイマココに存在するのですから、探したり見つけたりするものでもなければ、
遠くにあるようなものでもないと思うのです。

ましてや1時間やそこらのテストで分かるほど薄っぺらいものではないはずです。

今一度、冷静に考えて下さい。

自分は何のために「自分とは何か」と問うのか、と。

その問いに答えてどうするつもりなのか、と。

そこから得られる答えはきっと、あなたの思考回路を静的なものから動的なものへ、
存在的なものから存在論てきなものへ、イデア的なものから現実的なものへ
変えてくれると思います。


ではでは。